巫行086 黒縄
夕間暮れより続く子供達の燥ぎ声。
“贈りの流派”、地蜘蛛衆の村では、巫覡の扱いが余所の土地とは違う。穢れ事に携わる者として、普段は蟲として忌み嫌われ、村民達と距離を置いている。
それは、本来の役目を隠す為の偽装だ。民も誹る側に加わるのは、無実の民が余所との関わりを拒絶されぬ様にするのが目的だった。
それでも、儀式の晩には何が起こるかは分からぬ為、術師達が村民達を追い立てて出歩かぬ様にせねば為らなかった。
長きに渡って続いて来たそれは、やや変化を遂げ、新月の日は夕暮れから日没迄の間を、大人達が鬼や悪霊の真似をして子供を家へと追い返し、それ以降は一切出歩かないという習わしが定着していた。
儀式は悪いものを術師達が祓う為に行われる、という体で村民達には伝えられている。その穢れが術師にも伝染すると噂を流布し、蟲扱いを作った。
だが、その実は、神々の住まう地である筈の高天國から穢れの塊である鬼を呼び寄せ、それを滅するどころか、貢物として黄泉に贈っている……とは誰も想像しまい。
子供達の嬌声が止んだ。月を頂かぬ静寂の村は、完全に闇へと溶ける。
唯一件だけ火が灯されるのは、村から離れた位置にある小山の頂に建てられた神殿。
この神殿は飾りであり、天からの目印に過ぎない。実際はその本殿の前に拓かれた広場にて神楽が行われ、“贈り物”が降ろされる。
今宵の儀式に臨むのは、地蜘蛛衆の頭オクリと、神楽笛の吹き手である男覡のテキに、和琴の弾き手の巫女であるコト。
加えて、部外の巫女二名。そして宙に浮く翡翠の守護神。
「では、始めます。準備は宜しいですか」
『いつでも構わぬ』
ゲキの回答と共に、オクリの気配が変わる。
白黒混合の気。ミサキと同じく彼も夜黒ノ気を操る巫覡らしい。
二色の気が互いに絡み蜷局を巻き、光り輝きながら月の無い空へと伸びてゆく。
天に二色の気が呑み込まれて消える。
続いてオクリは、何もない広場の中央に向かって一礼をした。それから二度手を打ち鳴らすと、祝詞を奏上し始めた。
「國津覡より、天津|父へと御伝え申す。母は御調を望み宣われました。父が犯けむ雑々の罪事詫び鎮めるを希う為らば、災集めし荒魂に依りて、捧げの脛巾を授け給う!」
地の母依り、天の父への要求。
オクリは奏上を終えると二度の礼をした。
天より光。何処ともなく現れた雲の渦から下りるは、オクリの発したものと同様の二色の柱。
だが、それはより太く、より長く、小山全てを包む程に巨大なものであった。
「ゲキ様、これは……」
ミクマリは不安気に祖霊を見上げる。
「オクリさん、嘘ついてはらへんやろ!?」
アズサが声を上げた。
「儀式は普段通り行った筈だ。だが、何だこれは……一体何が降りて来るというのだ」
天に向かって喘ぐ黒衣の巫覡頭。楽器を携えた二人も仰ぎ見る。
“贈り物”。それは穢れであり、邪気であり、鬼である。
鬼であるならば、発する光は夜黒一色でなければ辻褄が合わぬ。
天より降り注ぐは陰陽二色の光。
邪気の極み、鬼が纏うは夜黒ノ気であらば。霊気の極み、神気纏うは神である。
「……吾を穢き地へ堕とすのは誰ぞ?」
現れたのは白く光り輝く人形。その身の丈は山をも越える。
瞳青く大きく、唇赤く小く、顔には縄の様な黒き紋様が渦を巻き、額からは二本の小さな角。
羽衣を肩に纏うものの用を為さず、その丘の如き乳房の頂と、脚の狭間の黒き森を晒していた。
覗き見える白き肌には、顔と同じく夜黒で描かれたの無数の縛り模様が乱れており、そして同じく、頭から腰へと豊かに乱れ咲くは夜黒の髪。
『悪くない』
祖霊が呟いた。
「ゲキ様。何を暢気に! オクリさん。話が違います。降りてくるのは、鬼ではなかったのですか!?」
ミクマリが声を上げる。降りて来たものは確かに夜黒ノ気を纏っているが、同時に神気を纏っている。
「わ、私も分かりません。いつも為らば人の身と変わらぬ姿に角を持つだけの者が現れるのですが」
たじろぐオクリ。
『向こうで既に犠牲者が出たというだけの事だろう。鬼に染められし憐れな神よ。俺が清めて送り返してやろう』
ゲキは素の霊気を膨れ上がらせる。手加減無しか、霊気の起した風圧が童女を吹き飛ばした。
「きゃあ、姉様!」
ミクマリは慌ててアズサの手を繋ぎ留め、霊気を込めた水筒の水で壁を作る。
「……吾が、憎き異境の神と同じ者であると?」
見下ろす光の女が睨む。地より黒き縄が生え、翡翠の霊魂の気を掻い潜り、その身を縛った。
『俺の霊気を抜けるとは。加減出来る相手ではない様だ』
さらに眩しく練り上げられる気。縄が撓み解ける。気の圧が小山の木々を吹き飛ばし、遥か彼方へと運んだ。
「……穢き神よ。お前では吾を打ち破る事は出来ぬ」
光の女が右腕を翳すと、黒縄が再び霊魂を縛り始めた。次々と現れる黒縄。
ゲキは呻きながらその姿を縄の塊に呑み込まれて行った。
「ゲキ様!」
声を上げるミクマリ。手出しするべきか否か。そもそも、男覡の気で何故あれが祓えないのか。
あの妙な神から感じられる気の強さは確かに強烈だが、夜黒の縄に限ればアズサやオクリ達でも祓えそうな程度に感ぜられる。
ゲキを包んだ黒き球体が宙へと持ち上がる。
光の女は青き瞳を細めると、赤い唇を開いた。その艶やかな亀裂は、頬を越え耳へと裂けた。
「……お前も喰ってやろう」
覗く歯列は黒。
女は光り輝く指を伸ばし、縄の団子を抓んだ。
「御免なさい!」
ミクマリは祓の霊気を練り上げると、女の腕に向かって光球を撃ち込んだ。
短時間で練ったものであるが、直撃すればこれ迄に出逢ったどの夜黒黄泉の徒も、只では済まない。
「……穢れ無き者よ。吾に弓引くと申すか」
腕の紋様が身体から離れ、ミクマリの撃った球を捕らえた。
すると、鎖に触れたミクマリの気弾が黒く変じた。
「塗り替えられた!?」
「これは拙いですな。おい、コト、テキ。直ぐに演奏を始めよ」
頭に命じられ、二人の黒衣は神楽の演奏を始める。
「……不快な音だ」
光の素足が持ち上げられる。足の裏にも黒き縄。奏者達へと迫る足裏。
ミクマリは水壁を畳むと二人の前へと駆け、彼等を護る為に再展開した。その水の結界は一旦は巨大な踏み付けを弾いたものの、黒き靄を纏い始めた。
「水が穢された!?」
重くなった水を繰り、直ちに祓を行うミクマリ。だが、清めは為されず、寧ろ靄が色濃くなった様に見えた。
再度の蹴撃。湖丸ごとを操るかの如く重い水を繰り、ミクマリは奏者を護る。
流れる笛の音。弾ける琴の音。
だがしかし、水は一層重く為り、ミクマリは水筒一本分の水を操る為に両手を翳し、腰へ力を入れねばならなく為っていた。
女が再び手を翳すと、水の壁は水術師の制御下を離れて小さき赤い亀裂へと吸い込まれて行った。女は喉を鳴らして穢れた水を飲み下す。
「水が奪われた……」
「力ある者よ。その身の力も吾が貰い受けよう」
地下に気配。ゲキを捕らえたものと同じ縄が生える。
「ミクマリ様!」
オクリから邪気。夜黒孕む風が絡み付こうとする縄を吹き飛ばした。
「これは夜黒ノ気?」
「そうです。四方津ノ風の術……!」
オクリは続いて両の掌に黒き炎を生み出した。
「世燃ス焔の術。夜黒ノ気は霊気程は上手く扱えないがっ……!」
撃たれる夜黒の火球。それは黒き縄を焼き、滅した。
「縄が消えた!」
「奴は、神気や霊気を塗り替えてしまう力を持つ様です。ですが、夜黒為らばそうはいかぬ訳です!」
大地に命ずるは招命ノ霊性。風巻き起こすは探求ノ霊性。
地面から土が飛び出し、風が土砂を巻き込み危険な旋風を成す。
「これは序でだ!」
そこへ黒き炎が加わり、邪悪な竜巻が出来上がった。暗黒の炎蛇は地面を抉りながら光の足へと駆けてゆく。
「……」
女を縛る縄の模様が燃え上がった。飛び上がり、竜巻を踏みつける。揺れる大地。消える竜巻。
「あかんやん!」
アズサが尻を地面に接吻させながら喚いた。
「夜黒同士の衝突でも、強い方が勝つのは当然。私の力ではあれには勝てぬという事か……」
奥歯噛み鳴らすオクリ。それを糧に再び邪気を練ろうとする。
巨大な女はこちらを一瞥すると、視線を宙に浮いたままの縄の塊へと向け、再度赤き裂け目から黒い歯列を覗かせた。
『成程な。そう言う事か』
弾け飛ぶ黒縄。生還する深緑の霊魂。
「ゲキ様!」
『どうやら、こいつは霊気も神気も塗り替えて己の物とする力がある様だ。為らば話は早い』
「……お前が欲しい。喰ってやる。卑しき女の捧げ等に成るものか」
伸ばされる腕。光の掌がゲキを包み込もうとする。だが、黒き結界がそれを阻み、腕を大きく弾いた。
『ふむ。滅するにはもっと強くせねば為らぬか』
霊魂の色が黄昏色へと変じた。
女は舞う様に両腕を交互に振り、縄の束を放出した。
「いけない! ゲキ様避けて!」
巫女の警告。守護神は迎え撃たずに回避に転じる。横を疾駆する黒き縄の中に、祓の神聖なる力を持った縄が紛れている。
『ややこしい奴め!』
各々勝手に乱れ飛び掛かる縄達。白は避け、黒は弾き滅する霊魂。
『だが、神気を操る力はもう一つの様だな。矢張り地の力では無いのだろう。鬼女よ、見の程を知るが良い!』
「……吾を鬼と呼ぶ者は異邦の者。異邦の神が吾を捕え集め、己の妻への供物にすると宣った。吾の地では神の身であったのに……。この恥、晴らさで置くべきか!!」
光の巨人が脚開き両手を振り上げた。巻き起こる突風。はためき丘晒す衣。女の全身から伸びる無数の白と黒の縄。
「……滅せよ鬼神!」
その比率は五分と五分。全方位。回避不可。末路は祓か穢れか。
『抜かった!』
色更に黄泉へ近付け、赤黒く変容した霊魂。
闇よりも濃き靄を上げるが、それは無数の光に呑まれて消えた。
縄同士がぶつかり、烈しい光と共に爆発を起こす。
「ゲキ様!」
光に目を傷めるのも厭わずに、ミクマリは祖霊の魂を案ずる。
輝きの刃は娘の眼を焼き傷付けた。痛み堪えて瞬かず玉響の間に癒される瞳。
愛しき者を追う努力は、時に残酷なる現実を手繰り寄せる。
その瞳は確かに、祖霊が消え失せる瞬間を捉えたのであった。
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御調……貢物、税金的な意味合いが強い。
脛巾……脛に身に着ける布製の服装品。旅行や作業等の動き易さを必要とする際に使う。