巫行082 処罰
――精霊様、見送ってさし上げんとなー。神様に成る前でも、ちゃんと高天に上がれるんかいなー?
光が薄らぎ、小さき巫女は瞼を開いた。
しかし、眼前に現れたのは翡翠の霊魂であった。
『何とか間に合った様だな』
守護霊がほっと息を吐く。
「ゲキ様。なっとしたんですか?」
目を見開くアズサ。ゲキの後ろでは結界に封じ込められた黒い魚が藻掻いている。どうやら守護霊が結界を張って、アズサの祓の気を遮断した様だ。
『苦渋の決断であったのだろうが、何でも独りで熟そうとするのは良くないな。これも姉譲りか?』
「そやけど、呪術の元を断たないと精霊様は戻らないんやにー」
アズサは猿巫女の方を見やった。
猿巫女は自身の失寵に気付かずに呪いを行った様で、川原の丸石の上で身をくねらせて何事か呟いている。
「んほおおお!! 男莖の森じゃあああ!! 松茸狩りに興じようぞおおおっ!!」
妄想相手に何やら張り切っている。
『あれが呪術師か。何処かで見た様な顔だが……気のせいか?』
「サルがああなってしもたら、もう木彫りの鱒は見付けられへんわー。呪具をみじゃかんかったら精霊様は元には戻らへんし……」
『木彫りの鱒。矢張りあれか』
「なとなー!? ゲキ様、木彫りの鱒を見たんけ!?」
アズサは声を上げた。
『うむ。先程まで、マスの鍛錬を兼ねて辺りを探査しておったのだ。マスは土術の才がやや優れる為、地中の探りをやらせておった。すると、強い邪気を見付けてな、掘り返して検めたのだ。すると呪力の籠った木彫りの鱒が出た』
「それ、どないしたんけ? マスは何処け!?」
早く行って清めねば。結界に封じ込められた精霊は見る間に弱っていっている。
『案ずるな。邪悪なる呪具だと一目で分かった故、あやつには清める様に言っておる。直ぐとはいかぬ様だが……。おっ、思ったよりも早かったな!』
師の霊声が弾んだ。
『むう……我は何をしておったのだ?』
宙に漂う魚から黒い霧が立ち去って行くのが見えた。
『正気を取り戻したか、精霊よ』
『神気か? 御主は何者か』
『お前の為に必死に走り回った巫女の師であり、守護神だ』
『……成程。最後に覚えておるのは、呪う女の不快な臭いだ』
「精霊様、だんないけ? 身体、にかにかせん?」
『ぼろぼろだ。力も半分以上は失ってしまった。神からも遠ざかってしまった様だ。不覚……』
慙愧に堪えない霊声。巨大な鱒は空中に佇むのを止め、川の流れに身を浸した。
「すまんなー。うちが力不足で」
項垂れるアズサ。
『まさか! お前が居らぬかったら、我は今頃どうなっておったか。死していればまだ良い方で、この地に害為す悪神に成り果てていたやも知れぬのだぞ』
『その魚の言う通りだ。アズサ、お前の働きは実に見事であった。遠くからお前の霊気を感じていたが、俺の想像を一回りも二回りも上を行く実力を身に着けていた様だな』
ゲキは愉し気に揺らめいた。
「ほんま? 照れるわー……」
童女は頬染め頭を掻いた。
『処でアズサよ。ここへ何か妙な神が降りて居らんかったか? 恐ろしく強い神気だったが、何と言うか……可笑しかった』
「はい、いらっしゃりました。その事は後程、姉様も交えてお話したいと思います」
『そうか、では後程に聴こう』
姉が女神に目を付けられていた事、自身もまた彼女に気に入られてしまった事は話さねばなるまい。
それと女神が言っていた“コヤネ”。彼が言葉の神の事であるならば、ミクマリの失血の原因を作ったのは彼だ。ゲキは疑いはしていたが、確信を持っていない。
アズサは、これに就いては伏せる事にした。言葉の神の方に非を与えれば、ゲキはミクマリへの謝罪を渋るかも知れない。
具体的に師がどんな試練を姉に科していたのかは知らなかったが、神が苦言を呈する程ならば、筋は確りと通すべきだろう。
「守護神のおっちゃーん!」
朗らかな声が響いた。マスだ。彼の振る手には何かが握られている。
『誰がおっちゃんだ。俺は若いと何度言えば……』
「見て見て。祓えたで!」
マスが差し出したのは焼け焦げた木片。焼け残った部分で辛うじてそれが魚を模した物だと分かる。
「マスが祓ってくれたんやなー。おおきんなー」
アズサは男覡見習いへと満面の笑みを送った。頬染め鼻を擦る童男。
「結ノ炎も役に立って良かったわ。呪いがきつくて、祓うの大変やって難儀したんやけど、燃やしたら一発やったわ!」
マスは人差し指を立てて小さな焔を披露する。
『良し。土に火と来たら、次は水術の鍛錬だな』
ゲキが言った。
「何や? 何か恰好ええ術教えてくれるんか?」
『おい、精霊よ。お前の身体を貸せ。治療術の験しに使う』
『験し……まあ、良い。神へは遠ざかったが、若き男覡と共に力を蓄えるとするか』
それから、治療術の指南が行われ、傷付いた川の主の身体が多少癒された。
現在のマスの力では傷を全て癒す事は叶わなかった。だが、彼等は毎日特訓を兼ねて治療を行う約束を取り交わした。
無事とは言い難いものの、精霊も命を落とす事は免れた。どの道、祠を建てる為に森を拓くのには時間が掛かる。
この地は見習い男覡と神の卵と共に、少しずつゆっくりと育つ事と為った。三つの村が強く結ばれる日もそう遠くは無いだろう。
その後、村から男手が呼ばれて、調伏されし悪巫女は捕縛された。
彼女は自身の術に依る幻覚が解けておらず、満面の笑みであった。何やら「百人切り達成じゃ」と喚く老婆。彼女はこれからの己の不幸を知る由もない。
幾ら女神が呪術を封じ、精霊の件が落着したとて、彼女が犯した罪が消える訳ではない。
二つの村を股に掛けた猿巫女は、巫女の裁判である盟神探湯に掛けられる事と為った。
審判の場には二村の長を始め、両村の大人達はほぼ全員が集った。
裁きの音頭を取るのは、この一連の事件の解決を担った巫女であるアズサだ。
大人達と罪人は童女の耳には入れるべきでない案件について喧々囂々とやりあった。
あれはやっただの、あれはあっちが誘っただの、満更でも無かった癖にだのの醜い応酬。
男の下心や女の嫉妬が生む邪気が渦巻き、呪術を奪われたにも拘らず老婆はけたたましく笑った。
次第に痴話は過熱し、猿巫女の罪の範疇を超えた喧嘩までもが勃発する始末。
だが、それ等を纏めて解決したのは矢張り、盟神探湯を取り仕切るアズサであった。
彼女は大人達の話の意味を半分も理解出来なかったが、またも新たな音術の才を花開かせ、“人々の声音に嘘があるかどうかを見分ける力”を披露した。
「彼の話は本当です」「彼女の言葉は嘘です」「その謝罪には誠意が籠ってます」「その男の方は本当は男性が好きです」
ずばりずばりと審判を下す音の巫女。百発百中、疑獄を残らず解決せしめ、村民達は平に伏した。
何もかもが明るみに為り、男が数人、頬に紅葉やひっかき傷を作ったが、結果として村人達の間に潜んでいた負の感情も払い落とせた様だ。
絆を深め合った村人達からは、猿巫女への判決を待たずして、いちゃ付きながら退場する男女の姿もあった。
そして、大本命。件の猿巫女へ罰を決める段となる。
彼女は村民への悪事は元より、精霊を害しようとした上に、森の獣を無為に傷付けた事も暴露され、生剥の刑が妥当だと村民達から声が上がった。
だが、アズサは猿巫女が二度と他人を呪えず、蟲を蠱る力も失ったと説明し、また刑罰とはいえ、人が人を殺める事の虚しさ哀しさを慈愛の巫女の言葉を借りて語った。
熱き語りは村民達の心を打ち、猿巫女は二度と男と通じれない様にと番登を縫い合わして焼き、縛って目隠しをし、森へ棄てる事に決まった。
呪術師への最後の審判は、その術に依り害された森の獣達に委ねられる形となる。
恐らく死の結末は変わらぬだろうが、見世物として生き皮を剥ぐよりは、獣の糧へと森へ捧げる方が幾分かましであろう。
アズサもこの結末であれば、姉に恥じずに報告出来るだろうと溜飲を下げた。
斯うして、精霊と猿巫女の事件は、幼き巫女の手に依り、見事な幕引きを迎えたのである。
「はー、しんど。やっと放して貰えたわー」
深夜、アズサは未だ興奮冷めやらぬ宴の場から立ち去る。
今宵は余計な音が多い。幾つかの小屋からは、音術も無しに聞き取れる程の獣の様な声や、女の啼く声が漏れていた。
良くは分からぬが、邪気はない。自身の仕事はこれにて終い。アズサは煩わしい音は全て遮断し、代わりに自身の塒へと意識を這わす。
「アズサ、まだ戻って来ないのかしら」
妹を待ち焦がれる姉の声。
『すっかり村の英雄だからな。持て成されておるのだろう。お前もアズサの姉として知られておるのだから、夕餉位は集りに行けば良かったろうに』
「何だか、村中が……その、騒がしくって、外に出たくないのです」
『確かにな。俺もこの有様には辟易する。猿巫女が居らぬ様に為っても、所詮人間も獣も大差は無いという事だな』
「うう、何だか不潔です」
『不潔という事は無かろう。同意に基づく夫婦の営みだろうに。夜の花咲き乱れると言った処か。神が産まれる頃には赤子も沢山産まれるのではないか? お前も赤子は好きだろう』
「赤ちゃんや子供は好きですけど……。そういう話じゃありません! 言い方を変えても一緒! もうこの話はお終い!」
――姉様怒っとるなー。
アズサは溜め息を吐いた。宴会に捕らわれていて二人の傍を長く離れていたが、ちゃんと謝罪はしたのだろうか。
『俺も子供が好きに為ってきた気がするな』
「お終いって言ったのに!」
『そうでなくてな。アズサやマスを見て思うのだ。俺は子を成す前にくたばった故に、人を育てる愉しみを知らなかった』
「えーっ!? 私もゲキ様の弟子なんですけど!」
『お前は子供とは違うだろうに』
「アズサやここの子には優しく教えてた様ですけど、私と扱いが違い過ぎませんか?」
姉の声はかなりの不満色だ。
『お前の言う通りだ。お前の育成は使命に依るものであった故……』
ゲキの声の調子が落ちる。
「……」
ミクマリも黙り込んだ。
『先に、お前に言葉の神が降りた時、神に非難をされた』
短い沈黙の後、ゲキが言った。
「何か、そんな事言ってましたね」
『お前へ厳しくし過ぎだと、本来娘が受けるべき幸せを全て奪ったと』
「神様の仰る通りです」
『御神胎ノ術に就いても、お前へ十分な説明もせずに施術をしてしまった。里の大事であったし、巫女へは神が何をしても赦されると信じておったからな』
「……」
『神に諫言される前から、いつか折を見て謝罪をせねばと考えてはおった。故に、神に言われたからではなく、俺の本心としてこれまでのお前への仕打ちを全て俺の非として謝りたい』
祖霊の言葉に嘘はない。アズサには手に取るように分かる。
「謝っても、何も取り返しは付きません」
『そうだな。受け取りたくなければ、この謝罪は捨ててくれて構わぬ』
「そうですね、水に流す事は絶対に出来ません」
『施した御印を消す術は俺も持ち合わせては居らぬ。故に、今更身体を人の女のものへと戻してやる事も叶わぬ』
「……」
『その上で、勝手な頼みがある』
「何ですか」
ミクマリの声は酷く堅い。
『もう、神和の力を使うのは無しだ。幾ら御神胎ノ術が巫覡の身体を神の器へと変えるものだとしても、元は一個の人間の物。繋がりの薄い神、特に莫大な力を持つ天津神を降ろし続ければ、心身霊の何れにも負荷が大きい。此度の吐血も、言葉の神が何かを仕掛けた可能性は残るが、単に器としての限界が来ている可能性もある。言葉の神が言うには、お前は人の持ち得る力を超えて、既に神の領域へと足を踏み入れているという。神に近付けば、神代に近付いた時とは違う変調が起こる』
「……その変調とは?」
アズサは身震いした。姉の怒りが小屋から漏れ出て自身の肌を刺し、膝や掌の擦り傷が再び熱を帯び始めた。
『天津神に気質が近く為るというものらしい』
「命が無くなるという訳ではないのでしょう? 言葉通り、これまでゲキ様は鬼の如く私へ試練を科してきました。今更性根の一つや二つ曲がっても、大した話ではないでしょうに」
――あれ? 姉様、嘘吐いとるなー。
『俺はそうは思わぬ。お前が気丈にそう言ってくれるのは頼もしいが、お前が、本当のお前からより遠くへと離れて行ってしまうという事なのだぞ』
「それは私個人の問題です。ゲキ様は里の神なのですから、目的を果たせればそれで良いでしょうに。捨て置けば良いでしょう」
『厭だ。そうは行かぬ。お前でなくなったお前と共に里の者の無念を晴らしても、何の意味も無い。里を興しても、何の価値も無い』
弱々しい声。だがその言葉に嘘はない。
「……そうですか」
『上手く説明付けてやる事は出来ぬ。唯、厭だ。これは鬼に変ずるのよりも不快だ。憎しみや哀しみは己の中から出るものである故、鬼と成ってもそれでも本人には違いない。だが、神の意思に依り心が塗り替えられてしまえば最早、別人だ。俺は“お前”で無ければ為らないのだ。今更、こんな事を言うのは、勝手という言葉でも足りぬのは分かっておる。だが、今後は動的な神和は一切禁ずる。俺の我がままを許してくれ……』
「許しません」
ミクマリはきっぱりと言った。アズサは首を傾げた。
『そうか……相分かった』
哀し気な霊声。
「今更、神様の力抜きにやって行く事は不可能です。今後も多くの難事にぶつかるでしょう。最終的には、心身危うく為ろうとも神和に頼る事にもなるかも知れません」
『そうだな……』
霊声の嘆息が響く。
「……なので、そう為る前にゲキ様が責任を取って下さい」
そういう彼女の声は僅かに明るい。
『責任……』
「私をこんな身体にした責任です。他所の神様を降ろすのが負担に為るのなら、一番繋がりの強い守護神を降ろす他に無いでしょう?」
『そうだが、守護神として出来る事は天津の神よりも遥かに狭い。それに俺は鬼神でもあり、肉を持てば惨忍な質が表面化する故……』
「我慢して下さい」
――あ、姉様。ちいとわろうとるなー。
『我慢して出来るものかどうか、自信が無い……』
「一緒に我慢して上げますから。最近は神和をしても意識が無くなってませんし」
『そ、そうか? ならば何とか為るのか?』
「何とかしましょう!」
――明るい姉様の声。
『そうだな……ん? お前若しや、言葉の神の時も意識が』
「知ーらないっ!」
ミクマリはそう言うと声を立てて笑い始めた。
『こいつめ! 聞こえておったのなら身体の事も説明せんで良かったのか!』
「でも、謝罪はちゃんと本人の意思でして貰わないといけませんし。私が聞いてたのを知ってたら、余計言い出し辛かったでしょう?」
『それはそうだが。少々意地が悪くないか?』
「誰かさんに似たんですよ。私、ゲキ様に謝って頂くのずぅーーーーっと待ってたんですからね」
『ずーっとって、いつからだ』
「そりゃ、竹林の村を出てから今日までですよ! あの時に喧嘩別れしてからずっとです!」
自分が居なかった頃の話だ。あの優しい姉様が根に持つ位だ。相当な事があったのだろう。
『お、おお。そうだな。あの時も似た様な件で文句を言われたが、まだその時は使命感の方が勝っておってだな……』
「“方が”って何ですか? 詰まり、もう一方があると?」
意地悪い声が響く。
『そ、そうなるな……』
「何ですか? そのもう一方って?」
『そ、それはだな……』
守護霊の声が僅かに遠ざかる。壁際に逃げたらしい。
「仰って下さい。前みたいに誤魔化さないで下さいよ。隠さないで、嘘も吐かないで!」
巫女の声も僅かに遠ざかる。
『わ、分かった。それは……』
「それは?」
『――――』
アズサは偸み聞きを打ち切った。
事件は解決を見た為、晴れて姉の懐に潜り込もうと愉しみにしていたが、今晩は二人の間に割って入らない方が良さそうだ。
踵を返し、恐らく未だ続いているであろう宴会へと戻る。今夜は自分も多少は羽目を外しても良いだろう。
――成程なー。大人に成るって、こういう事を言うんやろなー。
幼きその唇に渇きを覚え、自身の唾で潤わす。
舌先に感じる毒とも薬とも付かぬ僅かな辛酸に苦笑を浮かべ、愉し気な笑い声が響く小屋を後にするアズサであった。
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