巫行081 魚舞
猿巫女は歳の割に元気な足腰をしている様で、慌てて追い掛けたアズサは、距離を縮められそうもないと感じた。
「止まりー!」
霊気を込めた音声を撃ち込み、老婆の転倒を狙う。
だが、妙な事に術は届かず、老婆は騒がしい音を立てながら森を駆け続けた。
「効かへん、何でや?」
追い掛けるアズサは霊視を試みる。
どうやら、呪術師の愛用している土鈴を始めとした装身具の音が問題らしい。
日誘ノ音と同質のものかは分からないが、あの呪力の籠った音が弱い音術を弾いてしまうらしい。
音矢ノ術であればあの程度の呪力を突破するのは容易いが、互いに枝根乱れる森の中を駆けている以上、老婆を死なせずに上手く止める自信はない。
何処を目指しているのかは知らぬが、方角的には川へ近付いている。兎にも角にも追うしかない。
「はあ、はあ……あかん、しんどい」
童女は息を切らせ始めた。昔ならばいざ知らず、姉の歩調に合わせようと背伸びし続けて、山々を踏破し続けて来た今の自分が足腰で負けているなんて。
一体、あの年寄りの呪術師は、どの様な鍛錬法で足腰を鍛えているというのか。さては何か呪いの類か。
声を一番の武器にするアズサにとって、息切れは致命的だ。彼女は打つ手無く、滔々猿巫女が視界から消えるのを許してしまった。
仕方無しに探知で逃走の跡を辿る手に切り替え、暫くはゆっくり移動して息を整える。
思った以上に距離を走っていたらしく、川はもうかなり近い。老婆は川辺で停止している様だが、その傍には強力な夜黒ノ気があった。
――せっかく、皆でお祀りしよーおもたのに……。
目頭熱くなり、鼻の奥がつんとする。
アズサは再び駆け出した。精霊の持つ全ての霊気や神気が夜黒に染まらぬ内は望みはある。
それに若しかしたら、精霊ではなく、別の何かの気配かも知れない。
森を抜けると川の潺と穏やかな風、それから薄雲に隠された冬の優しい日光が出迎える。
次に視界に飛び込むのは、長閑な景色に不釣り合いなもの。
薄汚い猿の様な風貌の呪術師と、その背後に浮かぶ巨大な黒い魚。
「ひひひ、やっと来おったか。そんなに息を切らせて、可哀想になあ」
老婆の嘲笑を無視し、夜黒に塗り替えられた神の卵を霊視する。意識の制御は奪われている様だが、白七に黒三と言った処か。
アズサは一縷の希望を見出すや否や、有りっ丈の祓の霊気を込めた大声ノ術を編んだ。
――――!!!
空気の震えが木々を揺らし、川の水撥ねさせ、老婆を引っ繰り返し、黒き魚の靄を全て打ち払う。
「ひいっ、何て喧しい童じゃ!」
老婆は引っ繰り返った弾みで陰部を丸出しにしながら唸った。
「……やっぱあかんわー」
消し飛ばした筈の夜黒ノ気が甦り始める。呪いの根本が在る限りは、精霊は黄泉の手招きから逃げる事が出来ない。
夜黒は本来持っている気を塗り替える性質がある為、祓えば祓う程に精霊の霊気が弱くなってしまう。
このまま続ければ、実質的に自身が精霊を祓い殺してしまう事になるだろう。
「ひひひ。大した巫力を持っている様じゃが、所詮は子供よの」
猿巫女は起き上がると、懐を弄り始めた。
「この魚が再び黒を纏えば、お前に襲い掛かるのは分かっておるな? 今や忠実なる儂の僕じゃからなあ」
再び夜黒に染め上げられてゆく精霊。精霊は鱒獲り衆を狙った時の様にぐるりと宙を泳ぐと、小さな巫女へと邪気を向けた。
飛び掛かる魚、寸での処で躱すアズサ。川原の丸石が吹き飛んで黒く湿った土を露出する。
「いつまで堪えられるかのう?」
老婆は愉し気に言った。再び飛び掛かる川の精霊。
幾度となく繰り返される突撃。アズサは辛くも逃げ続けるが、転び膝打ち、掌を擦り剥いてしまう。
一方で攻撃を繰り返す精霊も、その身体は巨大な川の主のものであり、肉を有する存在。何度も川原に頭を打ち付けた所為で皮がめくれ上がり、黒い霧の間から赤い雫を覗かせている。
万事休す。着実に消耗していく巫女と精霊。
もっと悪い事に、老婆は弄っていた懐から目的の品を見つけ出した様で、何やら獣の骨らしきものを口に当てて息を吹き込んだ。
「っ!?」
アズサは耳を押さえる。超高音の笛の音。森の中から近づいて来る別の邪気。
高音に耳を害されてその疾駆の音は聞き取れなかったが、邪気の速度で凡その正体は分かる。
犬だ。それも一匹や二匹ではない。群れだ。
最早これまでか。精霊もろとも諦め全て祓い滅するか、それとも助け乞う声を姉へと届けるか。
何れにせよ、それ等は幼き巫女の仕事の失敗を意味する。だが、自身の命には代えられまい。
アズサは心の中で「すまんなー」と謝ると、先ずは魚の黒霧を一旦吹き飛ばして動きを止めた。それから霊気を強く練り始める。
短く切り揃えられた髪が浮き上がり、鬢の小さな三つ編みも震え始める。
滓よ無能よと嘲られていた昔とも、姉を頼って甘えて泣いていた昨日とももう違う。
音吸い込む森の闇夜か目覚め奏でる鳥の朝かも問わずに、鍛錬し続けた日誘ノ音。それは巫女の矜持と共に、一流の術師の技へと変じていた。
「むむっ! 何たる霊気! 何を始めようというのか」
厖大な霊気の胎動に、老獪な呪術師が竦み上がる。
「何をするかは知らぬが、我が呪言により、お前の気を違わせてくれようぞ!」
猿巫女からも霊気。先程の壺の中身を口の中へと吸い込み始めた。
呪言。霊気と怨念の混じり合った呪詛の言葉は、人の頭や心に作用して、荒唐無稽な嘘を信じさせ、幻を見聞きさせると云う。
こちらが上回る呪力を持っていれば呪術を返す事も出来るが、呪力とは邪気と霊気の混合体。生憎慈愛の巫女の弟子に大した邪気の持ち合わせは無い。
アズサは霊気を練り上げ続けながら、呪術師へとその小さな掌を翳した。
震え断つは探求ノ霊性。呪術師の周りへ霊気を送り込み、空気の振動の一切を静止させた。
皺と化粧の口が開く。
「――――!」
老婆は口から黒い煙を吐きながらぱくぱくとやるばかりで、アズサには何も起こらない。
身振りや鈴振りも交えているが、その騒がしい筈の音もこちらへは届かない。
――良し、こんなもんでええか。精霊様、びしょたれな巫女ですまんなー。
狂った犬の群れが森から飛び出して来た。その数は十指折っても足りぬ程。
アズサの狙うは獣の頭そのもの。強烈な震えを以て気を失わせる算段だ。
乱暴な技故に、耳はまず永遠に使い物に為らぬ様になるだろう。他にもどこかが壊れてしまうかも知れない。
仲の悪い犬相手にも謝るのは癪だが、彼等も猿巫女の被害者だ。心の中で一纏めに謝罪を述べると、弓を構えた。
その小さき身に余りも余る長弓と霊気。弓端撓らせ、狂犬の群れへと狙いを定める。
頭蓋震わせ、命砕くは招命ノ霊性。
アズサの指から弦が離れようとしたその時。
「あかん!」
咄嗟に狙いを天空へと逸らした。轟音の波動は天へ向かって昇り、薄雲吹き飛ばし青空を招く。顕現する白き光の柱、その様は正に青天の霹靂。
犬達からはいつの間にか邪気が消え、正気を取り戻して静かに佇んでいる。
彼等は空を見上げ何かを見つめて、耳を僅かに震わせると森へと引き返して行った。
理由は分からないが犬達の傀儡が解けている。アズサは間一髪でそれに気付き、術を天へと放ったのであった。
『うむ、見事な音色じゃのう!』
光去り、出し抜けに降り注ぐは女の霊声。
「……!?」
アズサは震えて始めていた。恐怖ではない。何も面白くはない筈なのに顔が引きつり、胸が痙攣する。
一方、猿巫女は無音で笑い転げ始めた。
何が起こったか、辺りに立ち込めるは奇妙な神気。それは採石場で交渉をした戦神と同等の濃さを持っていたが、押さえ付ける様なものではなく、言い様の無い笑いを生むものであった。
『何じゃ。愉快な声音を持つ童女かと思って出て来たが、乗りが悪いのう』
何の神かは分からぬが、天津神には違いないだろう。自身が呼んだらしいが、天津神の性質は気紛れ故に、不機嫌を招くと精霊や呪術処の騒ぎでは無くなってしまう。
アズサは神気に任せて笑ってみた。乾いた声が喉から這い出る。緊張が神の笑気を上回ってしまっている。
『足りんのう。手弱女振った笑いではなくての、もっと、がははとやれんかのう』
不満気な女の声。どうにかして機嫌を取らねば。そうこうしている内に精霊がまた真っ黒だ。この笑気は夜黒を押さえてくれないらしい。
『どれ、妾が笑わせてやろうぞ』
女神が言った。
すると、黒い鱒が宙に昇り、まるで子供がお道化る様に口をぶうぶうと鳴らし、目玉を引ん剥いて後ろ向きに泳ぎ始めた。
「な、なっとな?」
アズサは精霊の奇妙な踊りに唖然とする。
背後の川から激しい水音がした。
なんと、他の只の魚達も宙に舞い上がり始め、夜黒を纏ったままの精霊の奇妙な踊りに加わったではないか。
空中で繰り広げられる魚達の珍妙な舞。
大きな魚の口の中を小魚が出入りしたり、互いに尻尾を咥えあってぐるぐると円を描いたりしている。
『どうじゃ? 魚の舞は面白いか?』
女神が訊ねた。確かに奇怪な光景であり、有事を差し引けば笑っても良いだろう。
だが、アズサの舞への信条とは逆を行く型の踊りだ。言ってしまえば、これは只の乱痴気騒ぎだ。
躊躇えば嘘臭くなる。
音術師の娘は声音を偽って「はい」と答えた。
『……』
沈黙。選択を間違えたか。正直に言うべきだったか。
『……そうか! それは良かった!』
愉し気な霊声。
『いやのう、妾はお主の姉が“お高く留まった雨乞い”で男達気に入られておったのが妬ましくてのう、ずっと監視をしておったのじゃ』
「姉様が……」
ゲキ曰く、雨乞いの場では雨神以外にも多くの神が集まり、燕舞を観ていたらしい。言葉の神同様、彼女もその内の一柱か。処女が天津の女神の怒りを買ったと為れば、肉体の生き死に処の問題ではない。
ミクマリは殺されてしまい、高天に上がった後にも永久に虐められてしまうのではないだろうか。
姉への心配で胸が圧し潰されそうになるアズサ。
『まあ、何を考えたのか知らぬが“コヤネ”の奴が小娘の腸を切り裂いてくれたお陰で気は晴れたんじゃがの。退屈凌ぎに覗きを続けておったが、籠りっ切りで何も面白い事はせんし、代わりにお前の事を眺めておったのじゃ』
「私を御覧になられていたのですか?」
『うむ。お前は爽快な音術を使う巫女じゃ。妾はとても気に入った』
「あ、ありがとう御座います」
アズサは小さな頭を下げた。
『そうかいそうかい。嬉しいか?』
「は、はい……」
『為らば、高天國で妾の舞に歌や演奏を付ける権利をやろう! さあ、今直ぐにゆこうぞ!』
天から降り注ぐ好意の神気。だが、それの意味する処は……。
童女は心臓が竦み上がるのを感じた。
「あ、あの、うち……私は楽器も歌も碌に出来ません」
アズサの持つ芸能の学は舞と、火垂衆の村で太鼓を少し触らせて貰った程度だ。本場で天津神自身が行う神楽の演奏等、務められる筈がない。
『そうか? 奏での才は無くもない様じゃがのう。まあ、その歳では無理も無いか。お前の霊に妾の恩寵を授けてやるから、高天へ来るまでに確りと腕を磨いておくんじゃぞう!』
「は、はいっ!」
――良かったわー。無理矢理連れてかれるかと思うたわー。
アズサは元気良く空へ返事をして、心の中で胸を撫で下ろした。
『では、妾は國に帰るとしよう。……じゃが、その前に、そっちの汚い音と下手糞な舞の婆には失寵の罰じゃ。婆よ。今後、呪いを行えば全てお前に返ったり、効能が意図せぬように変異するから、覚悟をしておくようにのう。それと、お前は高天に来たら神々の玩具にしてやるからの!』
女神はそう言うと、実に愉快そうに笑った。
猿巫女は相変わらず笑気に毒されており、ずっと無音で笑い転げている。涙流し、涎垂らして化粧は崩れ、激しく転がった所為か衣が脱げて垂れた乳房を曝け出し、帯一本が股座を隠しているだけという、目を抉りたくなる様な酷い有り様だ。
それを見て、漸くアズサも笑った。
『良し! 見事な笑いじゃ! 童は笑え! ……それではの。小さき巫女よ!』
女のけたたましい笑いが天へと昇って小さく為っていく。立ち去る神気と笑気。
魚達も雨の様にぼとぼとと川へ降り注ぎ、元に戻って行った。
「はー。いかつい神様やったなー……」
息を吐き、肩を落とすアズサ。
こんな忙しい機会に介入してくるなんて、自由にも程がある。
頭上に陰。神の力から解放された夜黒の魚。こちらの方は何一つ解決をしていない。
「今のは何だったんじゃ? まあ良い。神威は去った! 儂はまたも死線を超えて強くなったに違いない! 我が伝説がまた一つ!」
無音の術が解けた様で、猿巫女が騒ぎ始めた。音を断つ術の所為で、女神の言葉も彼女の耳へ入らなかったらしい。
アズサは猿巫女を無視して空の魚と対峙する。
魚が飛び掛かる。手負いのままで舞わされたのが効いているのか魚は鈍く、疲労を抱えた童女でも楽に逃げる事が出来た。
衝突の衝撃も弱くなってはいる様だが、それは詰まり命の灯が尽き掛けている事を意味する。
「すまんな。ほんまにすまんなー……」
産まれてこの方、今日程に誰かへ謝罪をした日は無かったであろう。幼き巫女は弱々しく身を翻す精霊を見つめ、嘴の入れ墨に雫を伝わせた。
全ての生き物が持つ霊気。正しき巫女の持つそれは、他の者が持つ気よりも遥かに白くて清い。
それは、神気までをも黒く塗り潰す夜黒ノ気と対を成すハレの力。
だが、悪迄それは祓の結果であり、黒そのものを白へと塗り返す事に依るものではない。
――どうせ果てはる命なら、責めてうちの手で。
幼き肢体に輝く霊気を溢れさせ、音に通ずる巫女が唇を開く。
「高天に、還る命を寿ぎます」
川原が白に染まった。
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びしょたれ……だらしない。