巫行008 濡衣
肢解……手足を切断する刑罰。
湯放り……放尿。小便を足す。
「……あのお姉さんは村の外の者じゃろう。まさか昨日今日産まれた娘とは言うまい」
無邪気な声が部外の巫女の身体を締め付ける。
「その者が村に害為す悪党を捕縛したのです」
畏れながら娘巫女が言った。
「……おお! それは有難い事じゃ。浜の神として礼を述べるぞ。村の男衆も捕らえるのに苦労していた俊足の持ち主じゃ。あれを捕らえるとは、嘸かし力のある女子なんじゃろうなあ」
――私は本当に迂闊者だ。神気に押し潰されそう。
ゲキ様は注意に留めるだけでなく、神和に参加するのを強く止めて下されば良かったのに。
「心の根の好い、旅の巫女で御座います。他所の神の私物にあります故、御手下しは為さらぬ様にお願い申し上げます」
「……誰がそんな意地悪するか。吾は神としては全くの若輩者じゃ。年増の女神と同じにするな。人間の小娘如きに嫉妬などするものか。しかし、この器の婆の見た目はいかんな。吾も若く美しい母親を依り代に降りたいものじゃがなあ」
またも溜め息。今度はミクマリでなく、詞を取り次ぐ巫女に向けられた様だった。
娘巫女もミクマリと同様、顔に酷い脂汗を浮かべて化粧を溶かしていた。
「……お前は次代の巫女頭じゃろう? 娘も潮を迎える歳だと言うのに、未だに吾を降ろすだけの巫力を身に着けて居らぬ様じゃな? “この婆”もな、村を興した時分には相当に美しい娘でな。吾もこの女に降りて人の身を借りるのを楽しみにして居った位じゃ。それが何じゃ、お前は食うばかりで修行も怠けて肥えるだけ肥えよってからに。次代の器がお前とか、ほんとに勘弁して欲しいのう」
諄々と続けられる神のお叱り。姿は老婆、声は童女、内容は姑。
娘巫女は霊気や神気よりも、別の圧力で圧し潰されている様である。
「……と言う訳でじゃ。水分の巫女に頼みがある。この女は巫力不足故、未だに器に遠い身。審判である盟神探湯すらも蒙昧な結果しか読み取れん始末。お前のその真直ぐな霊気に依る卜占を披露して、多少の足しにしてやってはくれぬか?」
神からの御願い。ミクマリは予想だにしない展開に黙って頭を縦に振るのみ。
「……そうかそうか。ま、部外の巫女が神和の秘術を見た対価としてはちと安いが、吾は気さくで調子の良い質だから大目に見るのじゃ」
「あ、ありがとう存じます」
ミクマリはやっとの思いで返事をした。
「……ふふん。何となく年増の女神の気持ちが分かった気がするの? もう少し肥えておれば、吾の器として歓迎したのじゃがなあ。まあ、そんな事を本気で宣うと、お前に憑いている霊に高天に追い返されかねんからな。さあ、遊びも済んだし、婆から去るとしようかの。では、去らばじゃ」
幼い海神は、そう宣うだけ宣って瞬く間に気配を消した。
まるで水中から顔を出したばかりの様に、その場に居た三人の巫女は息を吐き、苦し気に肩を上下させた。
「お、驚きましたぞ。まさか海神があれだけの詞を賜るとは。この老体にはちと荷が重い」
苦し気に唸る老巫女。汗こそは掻いてはいないが、化粧を施していない部分の肌も石英の様に真っ白に染まっている。
「御婆様、大丈夫ですか?」
ミクマリは一足先に立ち上がると老巫女に駆け寄り身体を支えた。
「おお、もう動けなさるか。ありがとうございますじゃ。こっちが娘だったら良かった……」
老巫女は感謝を述べながら横に居る中年の娘を睨んだ。
本当の娘の方は、神和の空間から解放されてから床に伏したままだ。
「まあ、霊感が全く無ければこうもならんからましと言うものじゃが。……そう言う訳でミクマリ様。儂の娘に一つ手本を見せてやってはいただけんか?」
「は、はい。是非」
巫女達は一息入れ、湯を飲んでから改めて儀式を再開した。
次なる儀式は盟神探湯。呪術や巫術を用いて被術者の行いの是非や正邪を問う法である。
村の子供の相手をさせられていたアカシリは再び引っ立てられ、巫女の座敷に正座させられた。
彼は「尻が痛いからこの姿勢は勘弁してくれ」と泣き言を言った。
「さあ、ミクマリ様。貴女様の流派の裁きを御披露目下され」
老巫女に促されて罪人の前に立つミクマリ。
実は、ミクマリは少々困惑していた。彼女は巫女の役に就いてからは日が浅く、実践で裁きを行った経験を持たなかった。
一応は裁きの術を守護霊に指導して貰っては居たが、裁きがどの様な結末を齎すものかまでは知らないのであった。
里で暮らしていた時分も、親や妹が巫女を務めて居り、裁きは里長でなく巫女の領分であったた為、知る機会が無かったのである。
そして巫女と成ってからは、裁きの結果を示すべき民を持たなかった。
『やれやれ。お前は里長の経験者であると言うのに、裁きの一つも真面に出来ないのか』
霊声が頭上から響く。
『俺が伝授してやった“濡レ衣ノ法”を験せ。それならば、問い掛けの是非を答えるのみの手間で済む。万が一、奴の霊気が邪な動きをしたとて苦しめる事は無いだろう』
ミクマリは守護霊の助言に心中で礼を言った。
『部落や一族の長を務める事の多い巫女は、法や政にも長けて居なければ為らぬと何度も言った筈だ。お前の甘さが綻びとなり罪人を見逃す破目になれば村の存亡に……』
ゲキはここぞとばかりに説教を始めた。
「良し! では、これより濡レ衣ノ法を以ってアカシリさんの改心の成否を推し量りたいと思います!」
柏手で説教を切り捨て、宣言するミクマリ。
「先ずは大きめの衣を一着と川の水を桶に一杯用意して下さい」
ミクマリの指示に従い、娘巫女が支度をする。
「衣を水に沈め、水と私の霊気を充分に吸わせます。そしてそれを、疑いの掛かった者の身体に掛けます」
ミクマリは衣を浸し、霊気を込め、アカシリの肩に掛けた。
「冷たいんだがよう。それに、矢鱈と重てえ……」
「被疑者は巫女の質問以外には黙して居て下さい。では、アカシリ。汝は窃盗の罪を償う為に改心し、村に奉仕する事を約束しました。これに偽りはありませんね?」
笑みを消し盗人に問う。
「お前が勝手に決めたんじゃろや。俺は厭だ」
「本来ならば、この村では盗みは肢解を以って償うのが法との事。今の貴方に四肢が健在なのは海神の加護を受けた村民の慈悲の心の結果に他なりません」
ミクマリは厳しい表情を投げ、霊感のある男を霊気で圧すのを試みた。巫女の霊気が空気に含まれる水分に伝播してゆく。
「……なんか気分が良い気が」
口元を緩める罪人。
若い巫女は先刻の海神の神気を真似て男に圧を感じさせようと考えた。
だが、目指す神代としては未だ大器でなく、元来慈愛の気を有する質であった為、寧ろ儀式の場は和やかな気配に包まれてしまった。
「おお、何とも心身共に蘯く様な……」
老巫女は神和で凝り固まったであろう肩を撫でた。娘巫女は夢見心地で口の端に涎を光らせた。
「被疑者の霊気が抗わなければ濡れ衣の霊気が身体に移り、湿り気を保持する力を失います」
「乾けば反省したと言う事か」
男は洟を啜った。
一同、暫し座して待つ。
「なあ、これ。走って乾かしたらどうだ?」
「お静かに。気の乱れがあると改心から遠ざかりますよ。それに、その衣の水には私の霊気が充分に満たしてある事をお忘れなく」
ミクマリは正座し目を閉じながら言った。男は先日穴を開けられた部分を撫でて震えて待った。
さらに陽が動くと、アカシリが驚嘆の声を上げた。掛けられた衣を検めると乾いた感触を指先に返した。
「乾いた様ですね。良かった」
ミクマリは衣を隅々まで確認し言った。
「俺、本当に改心したんじゃろか。自分で分からんのだが」
「心根や霊気の変容は自身では分からない場合も少なくありません。私はアカシリさんを信じますよ」
微笑み掛けるミクマリ。男は肩眉を上げて短く鼻息を吐いた。
「手間は無くとも、時の掛かる法で御座いましたね」
娘巫女が膝を摩りながら言った。
「一般的な、獣の頭蓋を投げ卜う法も行えたのですが、その時の被疑者の霊気のみで判断する事になりますし、海神様の御意思に沿うには私の流派を見せる必要がありましたから」
「霊気に関しては見事な物で御座いました。あの様な質の気を発する骨と言うものを伝授頂ければありがたいのですが」
「骨はー……慈愛の心です! としか。霊気の質は持ち主の気質や感情ですから」
ミクマリは恥かみ言った。
「ううむ。罪人にまで優しく接しろと言う事ですか」
腕を組む娘巫女。
「罪人処か、自身の怠慢を棚に上げて子を叱る海鼠には到底無理じゃの」
老巫女が娘を見て意地悪く笑った。
「処で、俺はこれで無罪放免か? 足が痺れちまったや」
アカシリは正座を崩し、歯抜けの大口を開けて背伸びをした。
「ま、幾らミクマリ様が改心したと仰ったとは言え、その逆が起らぬとも限らぬ。暫くは若手の男共に混じって漁師の見習いじゃな」
老巫女がアカシリの肩を叩く。
男は力無く項垂れた。
ミクマリは漁村でもう一泊頂き、翌朝は今度こそ朝日と共に目覚め、村を発つ事とした。
「御婆様、御世話に為りました」
頭を下げ礼を述べる。
「世話に為ったのはこちらの方じゃ。海神も昨日から妙に機嫌が良い」
村長であり神代である老婆は海を見やり言った。
ミクマリも海を見つめた。
朝日を受けて星屑を煌めかす様な凪の海。遠方から吹き込む潮風も優しく頬を撫ぜる様である。
「ミクマリ様の安全と旅の成就を祈願しますじゃ。海神に仕える漁場の巫女の仕事は、これが肝じゃからな。本当なら、儂自ら鮑でも獲って食わせて遣りたかったが、今は卵を抱える時期じゃからの。海神様に止められとる。次に来た時は山程の海の幸で持て成そう」
老巫女が笑った。
「ありがとうございます。では、私はこれで」
ミクマリはもう一度会釈すると、北に向かって爪先を向けた。
往く当ての定まらない漂泊ではあったが、海の風に背を押されながら歩いてみるのも悪くないかと微笑む。
さて、村を離れるとミクマリは彼女に不釣り合いな笑みを浮かべた。
「どうでしたか、ゲキ様。アカシリは見事に改心したでしょう? 村の方達も海神もとても良い方でした」
頭上を漂う守護霊に勝ち誇った様に言うミクマリ。
『ははは! だからお前はマヌケだと言うのだ』
返されたのは嘲笑。
「何が可笑しいんですか!」
ミクマリがゲキを睨む。
……とそこへ、叫び声が聞こえて来た。
「こらあ、逃げるんじゃねえ!」
「へへへ、捕まえて見ろやあ! 舟を漕ぐのは昼寝の時だけで充分じゃ!」
ミクマリを追い抜くはアカシリ。それを追うのは村の男衆達。
『ミクマリよ。本式の濡れ衣なら、お前の纏っている衣を脱ぎ、それを使って行うべきだと教えたよな? 恐らくは肌を晒すのを厭っての事だったろうが、あれでは衣から霊気と水気が抜けるのが早過ぎるのだ』
ゲキは品の無い笑いを続けている。
「ゲキ様! 気付いていらしたのならお教え頂ければ良かったのに! もう! アカシリさん! 私、捕まえなくっちゃ」
霊気を脚に通すミクマリ。
「いやいや、ミクマリ様の御手を煩わすまでもありませんぞ」
駆け付ける村の巫女の親子。
「さあ、我が跡取りよ。教えた通りにやるのじゃ」
「はい、お母様!」
中年の巫女が両手を組み合わせ、人差し指を立てて念じる。力みに対して物足りない霊気が捻出され、掛け声と共に逃げる尻に向かって放出された。
すると、逃亡者は転倒し、腹を抱えて苦しみ始めた。
「何を為さったのですか?」
罪人の身を案じて訊ねるミクマリ。
「寝てる間に腹痛の呪術を仕込んで置きましたのじゃ。儂か娘かが霊気をやれば、ひっくり返る様にの。いかに俊足の持ち主とて、尻の穴を気にしながらでは満足に走れまいて。がはははは!!」
豪快に笑う熟練の巫女。ミクマリは肩を落とした。
『ほれ見ろ。悪の根が容易く朽ちる筈も無かろう。これで学んだだろう。婆もお前を尊敬する振りをして於きながら、謀を仕込んで居った様だな』
勝ち誇った様に言う師匠。
再び捕らえられ村へと連行される男を尻目に、ミクマリは泣き出しそうになった。
「コンブ様の言いつけだから何度でも改心の機会はやるが、余り手を煩わすんじゃねえよ」
男衆がアカシリの臀部を打ちながら言った。
『まあ、この村為らば大丈夫であろう。お前の言う通り、性根の好い者が集まっておる。あの盗人も何時かは叩き直されるやも知れぬな。ここの神はまだ青いが、巫女や村民の信心によって支えられ、良い関係を築けておるし』
「ゲキ様……慰めてくれるのですか?」
『ふん、何を言うか』
少々上擦った響き。
『ミクマリよ、お前の里がそうであった様に、他者への優しさと云うものは、己自身の豊かさから出るものだ。貧すれば窮し、その手を悪事に染めさせる。他人を思いやるのは殊勝であるが、お前自身の事も気を付けよ』
「……そうですね。でも、私は絶対にそうは為りません」
娘は胸の前で拳を握った。
『全てを失いながらも慈愛の精神を捨てぬ根性には呆れるわ。これからも苦労させられそうだ』
守護霊は身体も無い癖に溜め息を吐いた。
「私、別に全部を失ってませんから」
ちらと上を見やるミクマリ。
聞こえなかったか祖霊は風に任せて漂っている。
「ゲキ様。一つお尋ねしたい事があるのですが」
ミクマリは改まった様子で訊ねた。
『なんだ?』
「海神は『高天に追い返され兼ねない』と仰っていましたが、ゲキ様には本当にそんな事が? 若しかして、それだけの実力が御有りになられるから私に好きにさせていらしたのですか?」
『勘ぐり過ぎだ。神同士は滅多な事では好き合わん。無闇に近寄りたくないと言ったろう。俺が刺激すればお前も危険かと思ったのだ。尤も、予想以上に若い神であったから、俺ならばあの程度の童を滅する事等、糞を放りながらでも出来たがな』
「無礼ですよ!」
表情一変、眉を吊り上げて守護霊を叱咤する巫女。
『ははは。お前も湯放りながらでも術の一つを行使できる様に修行するんだな。ちゃんと出来るか、見て居てやろう』
愉し気に言い放ち遠ざかる霊声。
「ゲキ様!!」
娘は頬を染め拳を振り上げて逃げる霊魂を追い掛けた。
巫女と守護霊の旅は続く。二人の行く先には、これから一体、何が待ち受けているのであろうか。
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