巫行079 蟲猿
猿達は小さな娘を見ると、血塗れの牙を妖しく光らせて倩兮と嗤った。
対するアズサは弓弾く仕草。弓箭の徒では無かったが、それと同時に音さえあれば得物は飾りに過ぎぬ。
「ほっ!」
普段の弓を用いる感覚を想像し、発声と共に霊気を撃ち込んだ。
猿達は早急に危険を察知し、光を見るよりも早くその場から退避していた。森の奥へと疾る光の矢。
敵意の応酬。手足の長い獣達が飛び掛かり、その邪爪が幼い術師を襲う。
躱す事まま為らず、腕や脚に鋭い熱が走った。
痛みに悲鳴を上げ、身を捩るも、気丈に霊気の発声。震える祓撃が猿達を弾き飛ばす。
妖しき気配は一度は霧散するも、猿達は起き上がり、再び黒煙燻ぶらせて威嚇を見せた。
声絞り射られる音速の一矢。だが、傷の痛みと三匹の動きの攪乱が狙いを狂わせる。
先程の犬と同じく、猿達に取り付かれる童女。爪が、牙が、邪気無い肉の丘陵に深く食い込んで来る。
アズサは灼ける様な痛みの中、ふと覚えのある感覚を見付けた。
――この爪、毒が塗ったる!
穢れや汚れの毒ではない。薬師の調合で作り出された毒。直ぐに殺すものではない。獲物を痺れさせて動けなくさせる類のものだ。
痛みと混乱の中、その意味を考えていると、猿の一匹が息荒くアズサのふくよかな耳朶を噛んだ。耳輪が硬い音を立てる。
もう一匹は腰に抱き着き爪列をアズサの腹へと沈ませる。矢張り毒気。残りの一匹は脚にしがみ付き上へと這い上がろうとしている。
アズサの頭に過ぎるは死や姉の顔ではなく、この卑しき獣の名を関する巫女の存在。
続いて、この猿達の邪気の根源。獣の腹に仕込まれた蟲の存在。
アズサは音術ではなく、単純に巫女としての清らかなる霊気の放出を行った。光に包まれる森。
有りっ丈の発気が猿達を吹き飛ばす。連中は纏っていた気を霧散させると、腹を押さえて転げ回った。
猿達は一頻り苦しんだ後に嘔吐き始め、それぞれ口から蜈蚣を吐き出した。
赤黒い滑りを持った蟲達は挙って同じ方角へと逃げ始める。
蟲の気の芯には強烈な夜黒ノ気。
捕まえて殺すか、後を追うか、肩や腹の傷を押さえながらも思案するアズサ。
怪我や襲撃への恐怖よりも、自信の疑いが真実へと近付いた不敵な歓びが勝っていた。
またも薄っすらと邪気を感じた。その先に目をやれば無残な犬の死骸。その上を小さな黒い霊魂が漂い、肉が危な気な霧を纏い始めたのが見えた。
巫女は空かさずそれを祓う。青白い光に清められた犬の御霊は地へと引かれて行った。
苦しみのある死に方をすれば、獣も邪気を纏う事がある。況してや、犬が毒と共に猿に食い千切られれば、その怨みは計り知れぬ。
「ききっ!」
件の猿の声。忘れていた。速攻で喉に霊気を練り上げ、獣達を睨む。
……が、蟲を吐き出した猿達はすっかり邪気も敵意も失っており、そこあるのは両手組み合わせ、瞳潤ませて赦しを請う滑稽な姿であった。
猿達は何度も土下座を繰り返し始めた。
「はあ……。蟲の所為やって言いたいんやろ? ええよ、勘弁したるわー」
使役者の元へと戻ろうとする蜈蚣を追うのは諦め、再利用されない様に霊気を撃って滅しておく。
それを見た猿達は飛んだり跳ねたりして喜んだ。
蟲を使った呪術。養育者であったミサキの方針に依り、呪術に適性を見出されていたアズサは、その技を一通りは験し識っていた。
これだけ力を持った蟲を複数用意するのは楽ではない。蠱毒であれを拵えるには、霊気を受けた蟲が両手両足で数えても足りない位に必要だ。
ひょっとしたら、二重三重にその術を施してあるかも知れなかった。
逃げる背を撃ったから楽だったものの、あれが敵対者に害為す様に仕掛けられていたら、幾ら自身とてどうなっていたか分からない。
「あ、痛っ!」
一仕事終えて頭が冷えたからか、傷の痛みが強くなった。荷物は持って来ていない為、薬草の類は帰らなければ無い。この闇では調達するのも難しい。死ぬ様な怪我ではないと思えたが、如何せん疼きと疲れが酷い。
眠らなかったのが仇と為ったか、ここに来て本能の要求も彼女の帰路に楓の実の様に転がり始めた。
痛みと疲れ、朦朧とする意識。
霊気の探知で村の方向を確認し続けるが、それも徐々に不正確に為っていく。
身体を引き摺る様に森の中を歩いていると、衣の裾が引っ張られた。
さっきの猿達だ。
猿達はまたも謝る仕草を見せている。
「もう、ええから。そんなきずつなくせんでも良いんやにー」
アズサは苦笑と共に猿に語り掛ける。すると、猿達が草や団栗の類を差し出して来た。
薬草かしらと差し出された品を受け取るも、それが本当に只の雑草と団栗で肩を落とす。
彼らなりの気遣いだろうが、今はこれ以上構っている余裕は無い。アズサは帰路に戻った。
だが、更に裾を強く引かれた。他の猿も脚を押し始めた。
「なんぞ。うっといなー」
好い加減、姉を見習う童女も眉を顰めた。
繰り返し、押したり引いたりする猿達。どうやら、何処かへ案内したいらしい。
アズサは溜め息を吐くと、降参して猿の案内する方向へと進む。
すると、行く手に邪気が現れる。横たわった狸。それは腸を地面へ撒いていたが、未だ苦しそうな呼吸音と身体の痙攣があった。
アズサは猿達を振り返り睨んだ。彼らはまたも土下座と拝みだ。これも蠱術に依る洗脳の所業か。
「すまんなー……」
アズサは舌を出す狸の頭に音矢を撃ち終わらせてやると、黒き獣の魂を清めた。
姉であれば無残なこの状態を元に戻してやる事も出来たかもしれないが、音術と薬事の娘にはこれで精一杯だ。
幼い胸を僅かに無力感が苛んだが、漂白された魂が頬を擽る様に自身の周りをぐるりと回ってから黄泉に還ったのを見て気を取り直す。
「で、まだあるんかいなー?」
猿達を睨む。案の定、別の方角を指差している。
アズサは痛む腹を押さえながら猿の案内に従う事にした。
痛みが鈍く為って来た事が気になった。猿の爪に仕込まれた麻痺の毒は“苦手”の薬師にとってほぼ無害であったが、汚れに毒された傷を放置すれば身体に危険な毒が回ってしまう。
だが、ここで猿を振り切って帰るのも癪だ。犬との追い駆けっこの間に森に複数の邪気が出来たとみえる。自身の事はそれを祓ってからだ。
――めっさしんどいけど……うちは水分の巫女の妹で弟子やん。こんなんでわやに為ったりせーへん。
気丈に自身を叱咤し、猿の案内先で別の清めを行う。憐れな兎の一家だ。
他にもまだある様で、今度は猿に言われずとも、探知せずとも気付く邪気を感じた。その正体は大きな猪の死骸であった。
猿が三匹揃った処で猪を狩れる様には思えない。彼等に施された呪術は相当な練度のものだ。
蟲憑きの猿達を獣殺しに使う意図とは何か。
姉が話してくれた、神産みの儀を妨害した“騒がし巫女”とやらの話と重なる。この地に神と巫女が生まれて不都合なのは恐らくは猿巫女。
川に毒を流させ、付近の森に邪気を蔓延らせる先に何を望むのか。
「絶対、懲らしめたるからなー……」
力ない呟き。熱の中、猿がまた急かしている。
アズサは村とは反対の方角へと進んだ。森の邪気を全て祓うまでは帰れない。そして帰って少し休んだら、直ぐに隣村に行かなければ。
腹が滑り、肩が疼き、足は大根に為った様に引き摺られる。
童女に不釣り合いな使命の心は、却ってを幼き肉体を擦り減らしてゆく。
アズサは足を止め、苦し気に息を吐いた。
足が動かない。それでもまだ気持ちは次なる邪気へと向いている。
――もう、あかん。
心の中で呟く。弱音を声に出さなかったのは僅かな矜持。
腹を抱え、両膝を土に付けて呻いた。
案内する猿達が立ち止まり、気遣う様に触れてくる。
地に引かれる身体。
滔々、幼い巫女は身体を横たえて、深く穢れた森の闇の中へと沈んで行ってしまった。
……。
アズサは目を醒まし、寝床から身を起こして背伸びをした。
気分爽快。すっきりとした目覚め。
冬の空気が衣の隙間へと忍び寄るが、背中だけは妙に汗を掻いており、一層冷気が刺した。
横を見ると姉が寝息を立てていた。
「……?」
何か変だ。昨晩は何をしていたっけ? 童女は首を傾げる。
記憶の糸を辿ると、姉を求めて川へと走り、それから彼女と別れて森に踏み出した事を思い出す。
勿論、その後に自身を襲った災難も、見え隠れする呪術師の悪意も甦った。
腹や肩を探ってみるが、痛みは疎か傷痕すら無し。衣には腹に僅かな血の染みを残していたが、裂けた部分は丁寧に縫い合わされていた。
「姉様、姉様」
姉の肩を揺するも、返されるのは妙に胡散臭い寝息だ。
アズサは姉の意思を汲み取ると立ち上がり、一礼と共に「行って来ます」と言った。
小屋を出て、両手で頬を叩く。
姉の応援に加えて、昨晩の苦労や鍛錬の甲斐もあってか、これまでにない程に身体に霊気が満ち満ちている。
村の空気を伝う音達へ耳を傾けてみる。
村が起き出してから既に長い事も、マスと村長が術の特訓で館を壊して奥さんに叱られた噂も、新しく迎える神様への期待も、下流の村から良い返事を貰った話も全て感じ取れた。
その気に為れば彼等の個人的な音も全て拾い上げられそうだ。
当然、自身が先程まで眠って居た小屋の中の話し声も耳へと届いた。
『独りで行かせても良いのか? アズサは怪我をしたんだろう? 俺は心配だが……』
「確かに心配は心配ですけど……」
『お前の身体の方もましに為ったのではなかったのか?』
「少しは。血はまだ戻りませんが」
『そうか。だが、アズサに無理をさせるよりは、お前が出張って手早く片付けた方が良いのではないか?』
「私はここで待ちます。これはアズサの仕事。私は手出しする気はありません。アズサを信じます。きっと、あの子は無事に村の難事を解決する事でしょう」
『そうか、そこまで言うの為らば、俺もお前の意見に寄り添う事としよう』
「ありがとう御座います」
『俺もあいつの保護者だからな。……どれ、暇潰しにマスの様子でも見て来るか』
アズサは慌てて小屋から離れる。入り口から霊魂がふらふらと出て行った。
師を見送り、洟を一つ啜って、自身も足を踏み出す。
「……何かあったら、いつでも戻って来なさい」
遠ざかる小屋の中、姉が独り言ちるのが聞こえた。
「だんない。絶対に上手く行くさー」
霊気と凛々しさ溢れる黥面携え、梓弓の巫女は奸計巡らす毒巫の根城のある隣村へと足を向けたのであった。
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弓箭……弓と矢、弓を射る事、武士や弓使い、弓取、弓の戦い等、幅広く指す言葉。
黥面……入れ墨の入った顔。