巫行078 月光
差し伸べられる手。優しい微笑み。微風が嗅ぎ慣れた姉の香りを届ける。
アズサは独りで立ち上がり、膝を払うと微笑みを返した。
「姉様、こんな処で何してるんけ? 御身体は大丈夫かいなー?」
逆に心配された姉は当てが外れたと思ったか、少し寂しそうな顔をした後に手を引っ込めた。
「少し汗を掻いてしまって。水垢離をしようと思って川に来たのだけれど……」
ミクマリは川を見渡す。
「せーへんのけ?」
「うん。どうもこの川、新しく神様が生まれそうな気配があるから。余計な事はしない方が良いかなって」
流石は水分の巫女だ。事情は話してなかった筈だが、精霊の気配に感付いている。
アズサは嬉しくなって、今日の出来事を姉に話して聞かせた。
「そっか、大変ね。何か手伝う事、ある?」
「平気やにー。村の皆とうちとでやるさー」
「そう? 何かあったら遠慮なく言ってね」
「はい!」
病床の姉を煩わせる案件は今の処はない。今回は守護霊が出張ってくれそうな気配もあるし、欲しい術と言えば路を拓くに便利の良い土術位だ。
大事業になる為、恐らくは計画の終わりを見届ける前に出立と為るだろう。悪迄もこの村への滞在は、姉の身体を休める為、小休止の序でである。
アズサとしては猿巫女の不審さえ払えれば、もう自身が手を下す必要も無いとまで考えている。
村長達はアズサが横に為ってから戻って来て奥さんに叱られていたが、男覡見習いの童男曰く、「一番恰好悪い土術が上手く為ってもうた」らしいので、いずれ彼がこの地の神と人々を繋ぐ務めを果たすだろう。
「アズサ、今日は頑張ったね」
ミクマリは川を眺めながら言った。
「そやにー」
「疲れてない? 小屋まで送ろうか? 一緒に寝る?」
姉からの申し出。
「こーっと……」
何故だろうか、アズサは未だそれを受ける気が起きなかった。あんなにも欲していた姉の優しさなのに、僅かなお喋りだけで身体の疲れまでもが吹き飛んで行ってしまった様だ。
「平気です。姉様が元気に為ってからまたお願いします」
「そう? 良いの?」
姉は両腕を宙に泳がせている。
「……やっぱりお願いするさー」
アズサは苦笑し、自ら姉の衣へと飛び込んでやる。いつもと少し違う姉の香り。汗の匂いが何故か甘ったるい。
「へへへ……」
ミクマリは奇妙な笑いと共にアズサを掻き抱き、頭を撫でて揉みくちゃにした。
「姉様、痛いわー。何か当たって、にかにかするわー」
「あ、そうだった。ごめんね」
ミクマリは懐に手を入れると、何かを取り出して見せてきた。
漂う霊魂の様な、涙の雫の様な形をした石だ。
「勾玉け?」
綺麗な石をこういう形に加工して、穴を通して装飾にするのを良く見掛ける。その珠は幽かに神気を帯びている様に感ぜられた。
「うん。私は神和をするとね、神様が残した気配が珠に為って身体から出るの。それがちょっと辛くって……」
「それで姉様は夕方苦しそうにしてたんけ?」
「へ!? ああ、ゲキ様が何か言ってた? 私、あの方の事、追い出しちゃったから……」
「ちいとばかし怒っとったさー」
「ゲキ様には珠を産む時は別に何ともないって言っちゃってたから、ちょっと困っちゃった」
神の勾玉が掌の中で弄ばれる。
「そーなん? 姉様、ゲキ様と喧嘩せんとってなー?」
「うん……。もう、大丈夫。いつもより少し大きかったけど、これが出たら少し身体も楽に為ったから」
「珠は何に使うん?」
「神様と同じ術が使えるの。雷神様なら雷が落とせて、川神様なら水が出せたかな」
「言葉の神様やとなんやろなー?」
「なんだろう? 神様は何か術を披露していらした?」
「こーっと……何も? ゲキ様とお話してはっただけやに」
アズサは少し前の晩を思い返す。ゲキが威嚇した位で、神の術が要る様な場面はなかった筈だ。自分は頭を抱えていたけれど。
「何しにいらしたのかしらねえ? 人に身体に断りも無しに入って」
姉は不満そうな表情を浮かべている。神和の巫女の苦労は自分には分からない。
アズサは取り敢えず彼女の腹に抱き着いておいた。矢張り少し違う香り。今の姉の匂いは好きではないかも知れない。
「ふふ、一緒に寝る? 甘えたい?」
「ううん。だんないさー。まだ、眠くもないなー」
「そうなの? 私はもう帰って休もうと思うんだけど、独りで帰れる?」
「はい」
「村の御手伝いの方も平気?」
心配そうな貌。仕方の無い姉様だ。
「では、一つ。姉様は神産みに関わった事があると前にお話を聴き齧りましたが、何か気を付ける事とかありませんか?」
妹としてではなく、巫女の後輩として訊ねておく。
「そうね。私はあの時、神産みを妨害しようとした呪術師の気配に気付かなかったの。まだ巫女に成って浅かったのもあるけど、手痛い見落としだった。それと、神産みの場では争いは禁忌よ。悪い念が神様に作用して、悪神に変えてしまうかも知れないから」
助言は寂し気に吐き出される。
「この辺りは強い邪気を感じないけれど、見付けられるだけ見付けて清めて置いた方が良いかも知れない。赤穢や黒穢にも気を払ってね」
「はい!」
確りとした返事。巫行の基本中の基本だが、霧の里でもそれで御使い様の古巣に禍を招いた経験がある。明日はこの辺りの調査をしようかとアズサは思案する。
「じゃあ、私はもう帰って休むわね。お休み、アズサ」
もう一度だけ抱擁を交わして姉を見送る。
夜空を見上げれば、月はすっかり天を叩いていた。月光が星明かりと共に川を照らして眩しい。
今から戻って眠れば、姉顔負けの寝坊に為るだろう。まだ眠気も来ないし、いっその事、訓練がてらに祓をしに出掛けても良いかも知れない。
「良し、目くさいでやったろなー」
そう言うとアズサは瞼を降ろして歩き始めた。口の中で辺りにある物を言い当てながら、森の中へと踏み入って行く。
彼女の視界は完全に闇に鎖されていたが、呟きに込められた霊気が空気を震わせ、辺りの物体に反射して正体を教える。
根を跨ぎ、伸びる枝を避け、足元を這う蛇や蜈蚣を数えて当てなく歩く。
僅かな怨念を見付けて辿れば獣の死骸。これは人間の鼻でも理解出来る。
骸から出る気を清めて更に森の奥へ。
梟妖しく啼き、蟲這いずる闇の世界を怖めず臆せず闊歩する童女。心ある人がこの光景を目に留めれば何事かと慌てるに違いない。
「あ、あかん。こっちは止めとこ……」
とある獣の気配に気付く。この短く吐く様な呼吸音と唸りは、犬だ。
アズサは犬が居るのとは別の方角を目指す事にした。
彼女は犬が苦手だった。もっと幼い頃に村の飼い犬にを撫でようと手を出して痛い目に遭っている。それ以降、自分がやたらと犬や兎等の獣に威嚇される事に気が付いた。
それは“苦手”の性質だ。苦手は蟲を捕らえるのに長け、毒に強いと云われる体質だ。一方、姉の持つ“甘手”は獣を和ませ手懐ける天賦の才。
姉が蟲嫌いであるの為らば、妹が獣に嫌われるのもさもありなん。里に居る頃は単にその個体に嫌われていただけかと考えていたが、旅で寄った村々で飼われる犬達にも嫌われてしまう辺り、間違いないだろう。
依ってアズサは、犬の音を聞き分けると近寄らない様にする癖を身に付けていた。
「なっとな!? 何で追い掛けて来んのー!?」
アズサは目を見開いた。犬の“音”は真直ぐにこちらに向かって来ている。あいつ等は高天國や黄泉國を隔てても嗅ぎ分けるのではないかと言う位に鼻が利く。状況次第では音術や霊気の探知すら負けるだろう。
童女は小さく悲鳴を上げて駆け出した。夜狩りの心算か知らぬが一匹の気配が急速に接近する。
幾らアズサが術に長けた巫女だとしても、身体は全くの幼女。野犬が危険なのは変わりがない。
音術で射貫けば殺すのは容易いが、ミクマリの妹であるという自負と、獣の死骸を清めた直後だという事実がそれを却下する。
取り敢えず逃げられるだけ逃げて、無理そうならば自分で殺めて送るしかない。
「げ!」
早くも後方からけたたましい咆哮。振り返れば、木々の隙間からの月明かりが獣の瞳と涎を光らせている。
――姉様は水の縄をまいつかせるのも上手かったなー。
殺めずに止める方法を模索する。大きな音で気絶させる手も無くはないが、それはそれで他の生き物にどんな影響があるか分からない。
犬の耳にだけ大声を届けるとしても、獣の優れた聴覚には効き過ぎるかも知れない。音を永遠に奪ってしまえば死よりも惨忍だ。これも姉に顔向けが出来ない。
アズサはあれこれ思案し、音という音に耳を澄ませる。
自身の息は苦し気、犬は近くは為ったが変調無し、互いの土を蹴る音の差が縮まって行く。
――これや!
アズサは自身の“走る音”に霊気を込めた。音は路傍に転がる石の様に固く変じ、見えず臭わぬそれは野生の鋭い感覚を欺く。
犬が“ぎゃん”と悲鳴を上げて遠ざかる。躓いて転んだだけだ。多分、これが最適解だろう。
「よっしゃ!」
走る娘は肺から上がる血の臭いにも構わずに声を上げた。
「はあ、豪かった……」
足を止め、息を整え、振り向く。
「ウー!! ワンワンワンワン!!」
余計怒らせたらしい。
童女に向かって犬が跳躍。幾ら、音矢ノ術が音速の貫きであろうとも、霊気の練りや反射の問題がある。
玉響の間にアズサは組み敷かれ、獣の口腔から漂う死を噛んだ臭いと、生暖かい液体を顔に浴びせられた。
万事休す。犬は一唸りすると牙を剥いた。
……が、急にアズサの身体のあちらこちらに鼻を近付け、急に甘ったるい声を出した。
「な、なんぞ……?」
――襲いに来たんやなかったんけ?
首を傾げるアズサ。
しかし、犬の鼻先が彼女の開けた腿を嗅ぐと、矢張り唸りを上げた。
「ひいっ!」
悲鳴上げて這いずり逃げるアズサ。
犬はしきりに鼻を鳴らし続け、またも衣や髪の臭いを嗅ぐと大人しく為り、仔犬の様な声を転がし始めた。
……かと思えばまた吠え出す。
「ほたえとるんかいな? ほんま、敵わんわー……」
アズサが下から抜け出し立ち上がっても、犬はじゃれたり牙を剥いたりで忙しい。
「うう、きっしょいなあ」
顔に付いた涎を手の甲で拭う。
すると、どうするか決めかねていた犬は唸るのを止めて、アズサを再び押し倒さんばかりに舐め散らかした。
「ぐええ。ねぶるなー」
闇の中、身体中を臭くて生暖かいもので撫ぜられる童女。やっぱり殺しとくか。
またも舐められて身震い一つ。
巫女に成る前であれば恐怖の余りに粗相をしたかも知れないが、そっちの方が嫌いな犬の穢れでない分、ましな気もする。
「もうええか? せんどもねぶりよってさー!」
「わんっ!」
犬は満足した様子で、尻尾を振りながら森へと引き返して行った。
理屈は分からぬが、取り敢えず難は去ったので、祓や鍛錬は後にして川へと戻る事にした。身体中が犬臭い。
「次やったら、今度こそ頭みじゃくからなー」
冗談抜きに怒りを投げるアズサ。
ふと、辺りに複数の気配。邪気だ。隠されている様だが、かなり強い。
アズサは腰に手をやる。
――しもた。弓はマスん処に置いたままやん!
取り敢えず霊気を練り身構える。
気配は全て樹木の上に在り。
術も無しに聞き取れる枝葉の鳴る音。
直後、犬に何かが飛び掛かり、その姿を覆い隠す。犬は悲痛な叫びを上げたが、それは途中で泡の様な音に為り、途切れた。
犬に群がる獣達が穢い音をさせながらこちらを振り向く。
いつしか温かな湯の中で見たあれと同じ姿。だが纏うは白い湯気ではなく、黒い靄。目は恍惚でなく異形の紅色。
犬を貪り食らうは、三匹の穢れた猿であった。
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にかにかする……痛い。
くさいで……塞いで。閉じて。
まいつかせる……絡ませる。
ねぶる……舐める。
みじゃく……壊す。粉々にする。