巫行075 奔走
先ずは約束を取り付けた。早速、小屋へ戻って姉様に報告だ。
アズサは大きく腕を振って村を歩く。揺れる片耳輪と小さな鬢の三つ編み。
土器を捏ねている村の女達が物珍しそうに彼女を見ている。
ふと、ミクマリの伏せっている小屋の前で足を止める。
中に気配は二つ。ミクマリはいつも軽く探知を行ってから小屋の出入りをしていた筈だ。
それは旅する女子に欠かせぬ警戒であると同時に、急に訪ねられて無為に恥ずかしい思いをしないで済むようにといった気遣いでもある。
――ゲキ様、言葉の神様に言われた事ちゃんとやっとるかいなー?
響き伝え聴くは調和と探求ノ霊性。
霊気を辺りの空気に広げ、その震えを自身の耳へ都合良く届ける。
術として珍しい日誘ノ音の才を持つアズサは、通常に用いられる霊気を触覚とする探知の他に、大気を己が耳とする術が使える。
姉と師が覗きがどうのこうのとやっていたが、アズサは以前から術の鍛錬を兼ねて頻繁に偸み聞きを働いていた。
小屋の中は空気が震えていない。
暫くの沈黙。アズサは霊性を集中し、耳を傾け続けた。
『ミクマリよ起きておるか?』
「……はい」
『具合はどうだ?』
「寝ていれば余り苦しくはありませんが、起き上がると眩暈が」
『そうか。ゆっくり休めよ』
「はい」
短いやり取りの後にまた沈黙。
『なあ、ミクマリよ……』
「何でしょうか?」
『えーっとだな』
沈黙。耳を澄ませる。
『アズサは独りで平気であろうか』
「少し心配ですが、この村や近辺には目立った邪気はありません。村の方も返礼の約束も無しに小屋を貸して下さいましたから……」
『そうだな。これまでお前と旅をして来て、悪意の強い村の方が少なかったからな。気にし過ぎやもしれぬ』
「でも、注意はしてもし過ぎる事はないでしょう」
『それもそうだが。こう、お前との旅で善人が多いと、俺が一人で旅をして来た時には余所者には冷たいものだと思ったのは何故であろうかと、少し疑問にも思う』
「ゲキ様、ちょっと意地悪ですからね。嫌われてたんじゃないですか?」
愉しげな声。姉の微笑が目に浮かぶ。
『そういう事を言うか。単に、若い巫女に対する下心で優しくされているだけやも知れぬぞ』
「ゲキ様の方こそ、またそういう事を仰るでしょう? 何だかアズサが心配に為って来たじゃないですか」
『お前ですら男に対して求められんのに、子供に手出しなぞするか。小屋を借りてから、男の覗き見一つ無いではないか』
「見る価値がないと仰りたいのですね」
姉の声が低くなる。
『そうだが』
「覗きたがる癖に、すうぐそういう事言う。病人を気遣って訪ねないだけです。ゲキ様、確り見張っておいて下さいね。ぼんやりしてると私が襲われてしまうかもしれませんから!」
『探知ならしとるから安心せい。小屋の周りには蟲一匹居らん』
「そうですか」
――うち、おるんやけど……。
よもや、現在進行形で探知を行っている自身の霊気に彼が気付かない筈が無いだろう。
アズサは師の不真面目に腹立たしくなり、足音を立てながら小屋へと踏み入った。
「あら? アズサ。早かったわね」
『ど、どうしたアズサ。そんなに急いで何かあったか!? 』
――誤魔化そうとしてはる……。
「村長様に村へ御奉仕をする許可をもろたんで、お伝えに来たんです。それと、姉様に精が付く様に御食事も出して頂けるそうです」
「ありがとう。頑張ってね、アズサ」
アズサの報告にミクマリが笑みを浮かべた。
『そうかそうか。それは良かった。少し疎まれておるかと思ったが、流石は俺達の弟子だ。仕事の話だけでなく、飯までせしめて来るとはな。相分かった、俺はここでミクマリを護っておるから、お前は存分にそのミサキ仕込みの巫術を披露してくるが良い』
捲し立てる様に言うゲキ。何故かこちらを気圧す様に眼前に迫って来る。
ちらと、姉がこちらに手を伸ばしているのが見えた気がしたが、霊魂の陰から覗くと妹へ褒美を渡そうとする腕は引っ込められてしまっていた。
アズサは溜め息を吐いて踵を返す。
それから、退出する際に「姉様にちゃんと謝っときやー」と音術を使って師にのみ苦言を届けたのであった。
さて、巫力を隣の妖し気な巫女に頼り切りの村では、アズサの腕前は引っ張りだこと為った。
特に用のある卜占や薬事はアズサの得意分野だ。村民達は余程に隣村の巫女に頼るのが厭だったらしく、アズサがその幼い見掛けに反する巫力を証立てた途端に、心憎いまでにちやほやし始めた。
これには思わず童女も胸反り鼻高くしたが、愛する姉や師に代わって一行の顔を務める立場という事で、緩む顔を一々引き締めながら家々を走り回った。
狩りに頼る村では、獣の移動には敏感に為らねばならぬ。
アズサは大弓叩き鳴らし、狩人達へ助言を宣う。
兎が冬でも旨い草を求めて西へ下り、それを狙う狐狸も追ったが、その先は冬籠りで眠る熊の穴多し。一頭眠りが遅れている為、川に鱒の遡上多いのが災いとなる恐れあり。
村では何やら、男共やその嫁に股周りの痒みの病が流行っているそうだ。
中には人目も憚らず衣の隙間から股座に手を突っ込む者まで居る有り様。
これには蓬を土器で蒸してその湯気を当てると良いと教え、臭気には炭を傍に置き、臭い移りのした衣は灰と一緒に煮ると良いと助言した。
当然、彼等からは感謝はされたが、それと同時に一つの“困った依頼”を頻繁に頼まれた。
それは、隣村の巫女へこの病を感染してやってくれというものである。
“猿巫女”と呼ばれる彼女は呪術にも長ける、この病はきっとあいつの所業だと口を揃えて男共は言った。
確かに流行り病は類感の呪いで起こしたり、感染の術で広める事が出来る。
だが、“ほんまもんの巫女”であるアズサには痒みの原因が呪力や蟲遣りに依るものではないと見抜くのは容易かった為、それを自信と霊気に満ちた声で説いてやった。
男共はアズサの大声に驚いたか肩を竦め、女共は何やら彼等を睨んでいた。
さて、それを機に男共はアズサを畏れる様に為り、これまでは感謝に子供扱いの混じっていた女共は輩に対する様な扱いを始めた。
これが巫女の威光かとアズサは鼻を鳴らし、引き続き村民達の細々とした願いを聞いて回った。
と言っても、大事に繋がる様な難事は見当たらず、主に女のする噂話の真偽を卜う話ばかりである。それから、村から離れた地の様子や出来事の話をせがまれたりもした。
アズサが女の仕事場で姉の武勇伝を声高らかに語っていると、そこへ一人の童男が駆けて来た。
彼はアズサよりも少しばかり背丈があり、他の者よりも身体を飾る骨や綺麗な石の数が多い。
「ここにほんまもんの巫女様がおるって聞いて来たんやけど……」
「あら、村長ん処の“マス”やないの。今丁度、アズサ様のお話を聞いてた処やで」
村の女が出迎える。
「巫女様、父ちゃんが倒れたんや。助けてくれんか」
マスと呼ばれた男児は女の横をするりと抜けると、真直ぐにアズサへと駆け寄った。
「父ちゃんって、村長様が?」
「せやねん。うちの親父、腹が痛い言うて寝込んでもうてな」
「ああ、また?」
女の一人が呆れた声を上げた。
「んー。またかも知れん」
「またって?」
アズサは首を傾げる。
「アズサ様、ここの村長は鱒が大好物でね。色んな食べ方を験さはる人やねんけど……、海から還ったばかりの奴も生でいかはるから、しょっちゅう白い糸虫に中らはるんよ」
「それはいけませんねー。腹下しのお薬を煎じなければ。しもた、材料を探しに行かんとあかんわー」
少し前にごんぱちを採らなかったのが悔やまれる。虫を下せる薬の持ち合わせがない。
痛むのが胃の腑ならば、ごんぱちよりも蜜で攻め殺すか、椈か松を煎じた汁を使うか……。
「せやけどな、いつもとちょっとちゃう気がするねん」
「いつもと違う? 腹に巣食う虫なら、急に酷く痛んだり痩せたりしますが」
「せやなあ。やっぱり別かもしれん。痛み方は弱いけど、何かちゃう気がするって言うねんな。どっちにしろ、巫女様に見て貰えって母ちゃんが喧しいから来てくれへんか?」
マスはアズサの手を取り、強く引いた。
「おっとっと、分かりました。直ぐに行きます」
引っ張られて転びそうになりながら村長の館へと急ぐ。
館へ入ると、つい先程までは元気だった筈の村長が腹を押えて寝込んで……居らず、彼自身が出迎えた。
「あれ……? 村長様、御加減はいかがですか?」
「アズサ様。どうも、さっきまで、腹の調子が妙でしてな。吐いたらすっきりしましたわ。多分、寒気にやられて胃腸が弱ったんやろうなあ」
からからと笑う親父。
確かに元気そうだが……。
「原因は糸虫ではありませんでしたか?」
「吐いたもんの中には多分やけど、あらへんかったなあ。それに痛み方が違うたし、今日は焼き鱒やったんで、寒気やないかと思いますわ」
「もう、心配させんといてえや」
息子が呆れている。
「そやったら良いですけど……」
食物に原因がある可能性が残されている以上、少し引っ掛かる。姉にも供される予定のものにも、何か問題がでるかも知れない。
「あの、食べたもんは何ですか?」
「鱒だけですな。ちょっと古くなってたかなあ。前の鱒獲りの残りやったし。一応恐いんでほかして置きましたが」
「何処にありますか?」
「裏手の塵放り用の穴に投げてあります。せやけど、他の塵も一緒にあるし……」
アズサは聞き終わらない内に館を出た。
裏手の塵棄て場。臭気消しに被せられた砂も効力虚しく、鼻を衝く臭いが漂っている。
季節柄か幸い羽虫の類は沸いておらず、鼠が三匹食事を愉しんでいる程度だ。
小さな虫の探知は容易では無い。うねる様な霊気の動きを探して、塵棄て穴の中に霊気を張り巡らす。
――あかん。分からへんわ。
居ないのか力不足か、寄生虫を見付ける事は出来ず。仮にうねる者の気配を探知出来たとしても、それが蚯蚓や芋虫の類である可能性も棄て切れない。
アズサは溜め息一つ吐くと塵棄て穴へと降り、一番上にある汚物に手を触れた。
滑りと、未だに残る生温かさ。
「いいいい! きっしょ!」
歯を見せ震えるアズサ。
だがこれも村の為、ひいては姉の安全の為。
――やっぱ、分からへんわ。これじゃ、どもならん。
そもそもの処、塵棄て穴は毒の塊の様なものだ。彼女の“苦手”の勘には煩過ぎる。
霊感に触れるものも見当たらず、鱒はきちんと火も通されている。
目に見える腹痛の原因といえば精々、鱒の骨位のものだが、骨は意地汚くも大骨まで良く咀嚼されていたし、それが原因であれば鱒好きだという彼が気付かない筈はない。
アズサは穴から這い上がると、衣に鼻をくっ付けた。
「うぇ! 暫く姉様の処に戻られへんな……」
「巫女様は一所懸命やねんなあ」
感嘆の声が飛び込んで来た。声の主はマスだ。
「食べもんの事は水の次に大事やろー? 姉様にも大事あったら、てんぽもない事やしな」
「へえ。姉様は伏せっとるんやっけ? 姉様も巫女なん?」
「そやなー。姉様はうちなんかよりめっさ凄い巫女やにー。水の事なら何でも分からはるし、戦っても御強いんやにー」
「ええなあ。わいも巫女に成りたいなあ」
「男やったら巫女やのうて、男覡って言うなー。この村には巫覡が居らん言うてはったしなー、隣村の巫女は生贄要求しはる人やから、誰かがやった方がええとは思うなー」
アズサは水場で手を清めながら言った。
「わいにも成れるかなあ」
「さあなー。そやけど、巫覡に成ってもしんどい事多いし、死んだ後は他のもんと別っこに為ってまうからなー」
「死んだ後の事は分からんけど、村の役割熟すんが一番ちゃうんか? わいかて村長の息子やし!」
「そやなー。そやけど、巫覡はやる気だけじゃ無理やわー。うちかって、ミサキ様に見つけてもろて、そっから沢山修行したからなー」
「修行かあ。恰好ええなあ」
「恰好ええ事ばかりやないさー……。さ、うちはちょっと川見てくるさー」
アズサはマスにそう言い残し、川へと足を向けた。少し遡上すれば鱒獲りの為の小屋があり、そこで漁が行われているとの事だ。
念押しの安全確認だが、嘗て故郷で姉巫女が穢れの処理を疎かにした所為で大事に至った経験がある。
鼻を高くするのに夢中で足元が御留守に為ったとあれば、姉や師に申し訳が立たない。
――うちはもう、前みたいな滓とはちゃう。失敗はしやん。
見習いの時分を想い出す。姉巫女達からの滓扱いの日々。当時はそれが当然だと思っていたが、一歩外に出れば自分がいかに理不尽な扱いを受けていたかが分かった。
加えて、姉への手伝いを通して自身の実力の高さにも気付けた。御使いの流派は見習いの数多く、巫行の教えの質も高い。
アズサは疎か多くの見習いでさえ、その辺の巫女や呪術師と張り合える程の巫力を有しているだろう。
巫女は神を祀っていなかったり、流派として出来上がっていなければ、呪術師や詐欺師、娼婦に類する存在に零落する事もある。真面目に遣ろうとも巫力足らずに卜占も曖昧に為ってしまうのも珍しくない。
隣村の猿巫女とやらはどうだろうか。実力の程は分からぬが、釣り合わぬ対価を要求する悪徳の巫女である事は間違いない。
アズサはその辺の石ころを猿巫女に見立てて蹴飛ばした。
後ろで物音。振り向かずとも正体は分かる。巫女に憧れる童男だ。危険があるかは分からぬが、追跡を止めさせるか否かで少し思案する。
隣の猿巫女とやらよりも、姉に親切をした村長の息子の方が巫覡として相応しい。霊感があるかどうかはおいて、巫行は神霊事や呪術ばかりでもない。
自身がこれから虫下しの薬草探しがてらに、漁場に調査へ行くのを見学させるのも良いかも知れない。
アズサはそんな事を考える自分が、何だかちょっと大人に成った気がした。
「マス。隠れんで一緒に行かへん?」
「ばれとったか。巫女様、御役目見せて貰ろてもええか?」
「ええよー。その代わり、巫女様言うの止めて、アズサって呼びりー。年上の子供に言われるとこそばいわー」
「分かった! 宜しくやで、アズサ」
笑顔と共に駆け寄って来る童男。
小さな巫女は村長の息子を引き連れて、堂々と村の傍の切り拓かれた山道を登り始めたのであった。
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糸虫……寄生虫の見たままの呼び方。海から遡上する魚にはアニサキス等が付き易い。
きっしょ……きしょい。気色悪い。気持ち悪い。
てんぽもない……とんでもない。
こそばい……くすぐったい。