巫行072 雨宿
一行は山道を少し急いでに歩いた。向かい来る雨雲とぶつかる前に屋根を見付けたい。
だが、ミクマリや師の空からの探知にも、付近に纏まった人の気配は掛からなかった。
「衣を乾かすのは出来るけど、濡れて風邪引いたら厭やにー」
『だが、あの様子では相当の雨と為りそうだぞ。枝葉では凌げまい』
遠方には青い空に不釣り合いな、どす黒い雲。
「そう為ったら私が術で水を弾き続けるわ」
『結界か。だが、お前もここの処は働き詰めであったろう。その時は俺に任せて置け』
「平気です! 霊気も有り余ってますし、身体の疲れだって術で何とかなりますから!」
元気良く答えるミクマリ。しかし、それに付随したのは恥ずかしい音。
「姉様、またお腹鳴っとるで」
「き、気のせいよ! 朝はちゃんと食べたし!」
頬を赤らめる。
「無理したらあかんよ」
アズサはそう言うと横に背負っていた梓弓を木に立て掛け、道を外れて草木茂る方へと分け入って行った。
「別に無理なんか……。アズサどこ行くの?」
『糞でも放るんだろ』
「ちゃう! 姉様がお腹空かせとるから、ええもんないかな思ってなー」
『健気な奴だな。まあ、先程の覗きの話を引っ張る訳ではないが、ミクマリはもう少し肥えねば身体に毒だ。この辺りまで来れば、虫でない食べ物も見つかるだろう』
「あっ、姉様姉様! これもじってー!」
アズサに急かされ茂みに入ると、見覚えのある野菜が地面から白い頭を覗かせていた。
「わ、大根だわ!」
早速、葉の根元を引っ掴み、豊かな根を頂戴する。
『おお。見事な一本。まるでどこぞの巫女の脚の様だ』
「姉様、夕餉はぎょーさん食べなあかんよー?」
痩せたのを心配しているのだろうか、アズサは更に辺りを見回している。それから直ぐに何かを見付けた様で茂みの奥へと入って行った。
彼女に着いて行くと、人の背丈程にも成長した大きな植物が群生しているのが視界に入った。
長く伸びる太い茎は赤み掛かっており、青々とした大きな葉を付けている。その姿はどことなく竹に似ている気もする。
「“ごんぱち”やにー」
「ごんぱち? これも食べられるのかしら?」
「大きいのは虫入っとるし、口がにかにかするわー」
ごんぱちの根元を漁るアズサ。
「あかんなー。ちいこいのあらへん。薬には成るんやけど……」
「ふうん。何の薬?」
「根っ子はわざとお腹壊して毒出すのにつこうて、葉っぱは傷に当てるとええんやにー」
『俺達には余り用が無いか』
「根っ子も繋がっとるから掘るのも面倒やしなー。無しやなー」
『大根があるから、後は肉でもあれば良かろう』
一行はごんぱちを諦めて大根だけを抱えて道に戻った。
それからミクマリが探知を行い、いつもの長耳の獣を探す。だが、今回は上手く逃げおおせた様で甘手の罠に誘われる者は居なかった。
代わりに見付かったのは、これまた大きな生き物の気配だ。
『何か見付けたか?』
「はい、でも私達だけで食べるにはちょっと大きいかな……」
ミクマリが察知した獣は羚羊だ。並んで二つの気配が走っている。ここからそう遠くはない。
『大物でも構わんだろう。肉を術で乾かせば軽くなるし、保存も利く。今のお前なら死骸から霊気が抜け切る前でも干し肉に変える事も出来るのではないか?』
旅は長い。師の提案は理に適っていた。だが、ミクマリには羚羊に手を付けるのに戸惑いがあった。
獣に優しい娘は、人に害を為さない大型の獣へは余り手を下したくはない考えだ。その上、一度に食べ切られないし、どうしても躊躇を生んでこれまでは避けていた。
加えて、彼女の里の山神は女鹿の姿を借りて現れると父から聞いていた。何処か似ている鹿と羚羊。
両者は別の獣だとされているし、当の故郷でも鹿肉が禁忌とされていた訳でも無かったが、これも手を引っ込めるのに一役買った。
いつもの兎ならば、里でやっていた畠を頻繁に掘り返してくれた怨みが思い出された為、まだ気が楽であったが。
「こーっと……ほんまや。なんかおるなあ。こっち近付いて来とる」
アズサも探知した様で羚羊が来るであろう西の方角を見た。茂みから現れる二匹の羚羊。道を横切る途中で立ち止まる。
「出て来たで。姉様が行かへんなら、うちが獲って来たるなー」
アズサが弓を手にする。
「アズサ、良いわ。大根だけで充分よ」
「あかんよ。姉様はもっと食べりー」
逃げる様に羚羊の方へ駆けてゆくアズサ。羚羊達もこちらに興味があるのか、道端に足を止めたまま、アズサをじっと見つめた。
「アズサ、ちょっと待って」
ミクマリが止めようと足を踏み出した時には、既に音速の霊矢が番の片割れの頭蓋を砕いていた。
斃されたのは角を持つ方だ。兄妹だったか夫婦だったか、雌の方は一目散に走り去って行った。
「ああ……」
思わず嘆息を漏らすミクマリ。垂れた舌と血に染まった首元の毛が虚しい。鹿に似た円らな瞳は射貫かれ白い頭蓋と共に散っている。
「姉様、何か言わはった?」
術に集中していたか、アズサには制止が聞こえなかった様だ。彼女は姉の顔を見上げると得意げに鼻を鳴らし、頭を突き出した。
「ううん。ありがとう、アズサ」
ミクマリは霊気散って行く死骸から視線を逸らし、アズサの頭を撫でてやった。
――仕方の無い事ね。
これまでも獣の命は獲って来たし、甘手で撫でると見せ掛けて殺す騙し討ちすら使っている。何を今更。
恐らく、この戸惑いは慈愛ではなく高慢が生んだものだ。
ここの処、人だろうと獣だろうと命を救う方に随分と傾いていたし、自身の力の範疇で生死を決して来た所為だろう。
ミクマリは心の中で山と獣達へ謝罪し、巫女への供物と化した獣の毛皮を清めてやった。
「ええと、持って行きましょう……」
抱え上げれば、妹と変わらぬ重さが腕に伝わった。
『何をしておる? 先に血抜きを済ました方が軽くなって良いのではないか?』
師に言われ、慌てて羚羊を降ろして作業に戻る。
「お腹空いてぼーっとしてはるんやない?」
水術に依る血抜き。普通の猟師であれば、吊るすか水を使うかで大いに手間と時間の掛る作業が省略される。
臀部から頭に掛けて刃を通し、足を分け運び易い大きさにする。衣を汚さなくなったからと嬉々として妹が大根と違いない扱いで紐に束ねた。
臓物までも処理をしていると寝床を見つけるのが間に合わなくなる為、山に還した。その内に血の臭いを嗅ぎつけた獣達への恵みの一つに変じるだろう。
「行きましょう」
肉を抱え上げるミクマリ。食物へと変じた羚羊の軽さが酷く悲しかった。
暫く進むと、上空を飛んでいたゲキが降下し、声を掛けて来た。
『雨がかなり近くなっておる。それと、屋根の借りれそうな場所を見つけた』
「良かった。村ですか?」
とは言え、相変わらず人の気の類は感じない。
『そうだな。だが、上から見ても分かる位に荒れておる』
「泯びたという事でしょうか?」
『どうであろうな。夜黒ノ気も感ぜられぬから、何らかの事情で打ち棄てられたものやもしれん』
「ええから早よ行こー」
姉妹は師の案内に従い、集落へと向かった。
谷間の僅かな平地に五棟の小屋が並ぶ。六つの隅を持つ小屋の藁葺き屋根は風化しており、大半が空と繋がってしまっている。
しかし、内部にも使えそうな道具や人骨の類が残されておらず、そこから滅亡でなく移住が予想され、故郷を失った巫女と守護神は僅かな安堵の息を吐いた。
大抵は偉いものとして置かれる巫覡や村長の類も居ない様な小さな集まりだったのだろう、それぞれの小屋の作りにも大きな違いは見られない。
幸いな事に一件だけ雨風を凌げそうな小屋が生き残っており、余所から屋根の一部を借りて穴を埋めて、今宵の宿をそこに定めた。
それから、雨が来る前にと小さな屋根の外で火を焚いた。
手早く処理を受けられた肉が一端火に掛れば、娘の感傷と慈愛は玉響の間に押し流された。
火は脂を融かし、赤みが恵みの土色へと変ずるのをありありと映し出す。蕩けた雫が炎に落ち、じゅっと音を立てた。
腹の音も最早、隠しようがない。
「姉様、“つー”垂らしやるなー」
アズサが笑った。ミクマリは慌てて口元を袖で拭う。
「余りにも美味しそうで」
笑顔を見せるミクマリは保存用の肉の仕度を中断しながら言った。
二人は肉が頃合いになると、直ぐに手を付け胃の中へと落とした。
ミクマリは、乾いた大地では虫食への忌避や、貴重な恵みへの遠慮に慣れていた為か、羚羊の旨味に頬や舌を痛い位に刺激され、剰え鼻を痺れさせ目頭を熱くさせた。
――これだけお肉が美味しいと思ったのは、初めてかもしれない。
ミクマリは今度は謝罪ではなく、手を握り合わせての感謝を捧げた。
「もっと食べりー」
置き去りにされた木器や土器を使い、追加の夕餉の仕度をする。
本当に全てそのままで去ったらしく、村の近くには荒れた豆畠や荏胡麻の茂みも残されており、それが器の香りを引き立てるのに一役買った。
『おい、面白いものがあったぞ』
腹を落ち着かせ、毛皮を弄っているとゲキが戻って来た。彼は肉の焼ける香りが恨めしいからと集落や付近の探索に出ていたのだ。
「ゲキ様。面白いものって?」「何やろー?」
二人は守護霊に連れられて集落の中央にある広場に来た。幾つかの石が意味深長に並んでいる。
「お墓かしら? 広場にあるなんて珍しいわ」
首を傾げるミクマリ。人の埋葬は村や流派に依って規律や手法が違ったが、共通しているのは地面の下に埋める事だ。加えて、穢れを嫌って村の外れに配置して巫女が管理する事が多い。
黄泉に早急に欲しがられたものを別にすれば、人の遺骸も獣と同じ様に時間を掛け蟲や精霊に分解されて骨のみと化す。
肉が朽ちるよりも早く魂は上か下へ行くのが普通である為、遺骸は只の抜け殻に過ぎない。それでも、心的な穢れや、生前の思いの残滓の為に丁重に弔うのが約束事だ。
殯葬や埋葬も巫行の一つ。ミクマリもまた、これまでの村々で墓場の見学をしていた。アズサも故郷ではその手の使い走りを経験している。
『この村には巫覡の徒の気配が無い。故に、穢れも恐れず憩いの場と墓所が近いのかもな。処で、この石を良く見てみろ』
師に言われ巫女の姉妹は墓石を眺めた。それぞれの大きさこそ多少の差があったが、どれも綺麗に磨かれており、表面には何かの模様が刻み付けてあった。
「何の模様かしら?」
『それはな、“文字”と云うものだ』
「文字?」
ミクマリは首を傾げる。
『模様の形状に一定の意味や音を定め、それを並べる事で何かを語り継ぐ事が出来るのだ』
「ふうん。ゲキ様はこれがどういう意味が分かるのですか?」
『分からぬ。文字を使う処は多くない。故に法則もまちまちだ。海の向こう、遥か彼方の大国では揃って同じものを用いているそうだがな。ま、墓石に刻んでいるのであれば、墓の主の名前か何かだろう』
「ふうん」
『ふうん、ではなくてだな』
「何ですか?」
またも提髪傾かせるミクマリ。
『里を再興したら俺達も文字をやってみないか? 様々な技や逸話を遺せたら面白いと思うのだが』
師の勧め。
「途方も無い作業に思えます。それに、口で伝えれば済む話では?」
ミクマリは僅かに考える素振りを見せたが、切って捨てる様に言った。
『いや、だがな。伝え手が居らずとも、文字さえ分かれば誰でも見直せるのが利点で……』
「厭ですよゲキ様。私達の里はもう泯びたりはしません。伝え手が途切れる事はありません!」
言い切るミクマリ。腹が満たされ気分が良いのか、娘らしい満面の笑みでの回答だ。
『ま、まあそうだが。そう言う事じゃなくてだな……もっとこう、便利とか面白そうとかは無いのか……』
「面倒臭そうじゃないですか?」
腹が膨れたせいか、ミクマリは目を擦り言った。
『そんな……』
ゲキは残念そうに呟く。
「はー、姉様、意外と糞あんごやねんなー」
アズサも何か言った。
「便利も良いですけど、手作業や口伝えを忘れると良くない様な気がするのです。私は最近、術に頼りっぱなしなので、時折そう思う事があります」
『ふむ、それもそうだな? まあ、今の提案は忘れて貰っても構わない。だが、こういうものもあるのだと頭の隅に留めておいてくれ』
「はあい」
気の無い返事。
「せや、姉様」
アズサが何か思いついた様に声を上げる。
「どうしたの?」
「口伝え言うたらなー、ミサキ様がなー、面白いお話聞かせてくれたんさー」
「なあに?」
訊ねるが、頬に一滴雫が落ちる。
『雨だな。続きは屋根の下でしよう』
一行は小屋へと戻る。中へと駆け込むと、計ったかの様に空は雷鳴を伴う私雨を降らせ始めた。
「それはミサキ様がまだ見習いだった頃のお話です……」
落ち着くとアズサは何やら声の調子を落とし、邦の訛りも正して語り始めた。
「ミサキ様は見習いの時分からとても優秀な方で、私よりも幼い頃から巫行の御手伝いをしていました。墓地の傍にある塵捨て場に、穢れの塵を棄てに行くのも彼女の仕事でした。彼女はその日、遅くに出た不幸の始末をする為に、月が昇ってから墓地を訪れました……」
『おっ、怪談話か』
「巫力の高い彼女にとって、それは大した仕事ではありません。先日の雨の所為か、足元の悪さだけが気掛かりでしたが、月明かりを頼りに墓地へと急ぎます。その時ふと、里でまことしやかに囁かれている噂を思い出しました」
「噂?」
「その噂とは、埋葬した筈の人間が生き返り、地面から這い出て来ると云うもの。人の魂は高天か黄泉へ去るのが道理。そうでない霊魂は巫覡の仕事です。当然、こんな話を信じるのは霊感の無い方や子供位のものです。ミサキ様は優秀な巫女ですから、勿論この話を気に留めたりはしていませんでした……」
「生き返るんだったら良い話じゃない?」
「そう思うでしょう? でも、違うのです。地面から這い出て来た人間は、肉が腐り落ちたままで、生前の記憶も持たず、腐った喉から獣の様な声を発するばかり……剰え、知能の方も獣と化したか、動く者全ての喉元に食らいつき、喩え元の肉親であろうとも食べ殺してしまうと云うのです……」
雷光が戸口から差し込み、童女の顔を白く浮かび上がらせた。その貌は至極真面目である。
ミクマリは微笑ましく思った。自分も冗談で作りだした話で良く子供達を怖がらせたものだ。
確かに子供であれば怖がる話かもしれない。自分も一年前なら今夜を恐ろしく感じたかもしれない。だが、巫覡の徒と為ってからは、悪霊や死者の類は、穢れや恐怖よりも、そうなった背景の方に興味が向く様に変わってしまった。
「ミサキ様も矢張り子供です。祓が済んでいるとはいえ、片付ける為に手にしていた死者の持ち物や毛髪が何だか気味の悪いものに思えてきました。それに、雲が月を隠してしまい、墓場は一層暗くなります。珍しく夜啼きをする御使い様の声も何だか不気味です……」
『ふむ……』
「考え事の所為で、塵捨ての穴を通り過ぎてしまった事に気付きます。戻らなくては。そう思った時、月明かりが差し込み、傍のお墓の一つを照らし出します。光に誘われてミサキ様もお墓の方を見ました。すると、お墓の土が何やら動いた様な気が……」
『水を差す様で悪いが。それは、作り話では無いかも知れぬぞ』
「「えっ?」」
娘二人は師を見上げた。
『呪術師の使う術の中には、死骸の中に別の霊魂や精霊を入れて使役するものがあるからな。そうでなくとも、悪霊の方から勝手に死体を借りる事もある。俺もその類を相手にした事があるぞ。触れるだけで祓える代物であったが、魂が抜けた瞬間にどろどろに融けて消えおって、腐った肉の嫌な臭いがしてな、気色が悪いったらなかったな』
「……」
沈黙する娘達の顔色は悪い。胃の中の肉の脂が主張した。
「こ、こーっと。……それで、お墓の方を見ると確かに土は動いています。あの噂話は本当だったのかと、恐怖のあまりにミサキ様は固まってしまいます。すると、地面から二本の何かが突き出て来ました」
「腕かしら……」
矢張り、黄泉から戻り来る者は地上に向かって手を伸ばすのだろうか。不気味な絵図を想像するミクマリ。
気分の良いものではないが、地上を求めるその心には同情が出来るではないか。
「それは、ゆっくりと地面から這い出て来ます……二本のそれに続くのは人の身体ではありませんでした。月明かりに照らされたそれは茶色く輝き……」
「茶色?」
想像をめぐらす。何かしら?
「長い触覚に毛の生えた六本の脚と、羽根を持つ……巨大な虫だったのです!!!」
落雷の爆音。
ミクマリは脳裏に影向した“それ”に悲鳴を上げた。それは霹靂の音を切り裂く程で、師が文句を付けた。
「しかも! その子供の胴程もある巨大な虫は、羽を広げたかと思うと自分の顔へと飛んで来るではありませんか! ミサキ様は特に虫が苦手という訳ではありませんでしたが、その脂ぎった腹を顔に押し付けられては堪りません。恐怖と驚きが重なって、悲鳴を上げる間も無く気を失ってしまったのです!」
ミクマリは慌てて顔を袖で拭った。
「翌朝、ミサキ様は墓地の真ん中で目を醒ましました。昨日の事は夢だったのだろうか? 首を傾げ、顔に着いた泥を払います。すると、顔は何か滑った粘液で汚れており、何やら口の中にも……」
「わーっ! わーっ! アズサ! アズサ!」
ミクマリはアズサに抱き着き、腕を巻き付け終幕を語ろうとする口を塞いだ。
『アズサ、その辺にしてやれ』
ゲキが笑う。
「へへ……。姉様は恐がりさんやなー?」
アズサは抱き着く姉の髪を満足気に弄る。
「恐いんじゃなくて、気持ち悪いの! もうっ!」
ミクマリは暖かな霧の衣を纏っているというのに、何だか鳥肌が立つのを感じる。
『俺もそんなにでかい虫はお断りだな。夜黒で出来た巨大な蟲は見た事があるが、黒く靄掛ったものであったし、大して気には為らなかった』
「うう、私もそれなら平気かしら……」
ミクマリは初めて祓を行った時に対決した黄泉に引かれた稲霊を思い出した。
あれは巨大な黒い狐だった。毛皮のある生き物は可愛らしいのに、どうして蟲はあんなに気持ちが悪いのだろう……。
「あ、毛皮。アズサ、これを羽織っていなさい」
ミクマリは羚羊の毛皮を軽く処理したものをアズサの肩に掛けた。
「暖かいなー」
「でしょう? 冬雨で酷く冷えると思うから」
「でも、姉様とひっ付いて寝たらだんないよー」
アズサが胸の中へ飛び込んでくる。
「ふふ、この子ったら」
ミクマリは微笑み、童女のふくよかな耳たぶを弄ぐった。
「擽ったいわー」
嬌声を上げるアズサ。
――――。
また落雷。雨が小屋の壁板を叩く音も激しくなる。
『本当に酷い雨だな。明日には晴れてると良いのだが……』
「ま、僕は雨宿りは好きだけどね」
突然、若い男の間の抜けた声がした。
『誰か居るのか?』
問うゲキの声は厳しい。
「居るよ、僕はここに居る」
笑う様に言う男の声。
「え!? なっとな……?」
アズサは姉の身体から身を離した。
それから辺りに幽かな神気が漂い始め、再び青年の笑い声が響いた。
「僕だよ僕。ミクマリちゃんだよ」
その声は確かに巫女の口から発せられていたのだった。
******
もじる……取る、千切る。
ごんぱち……虎杖。或いは痛取。タデ科の多年草で割とどこにでも生える山菜。
大きくなると人の背丈程になる。若い茎や葉が食用に適しており、すっぱい。
にかにかする……痛い。痛む。
つー……涎。
あんご……アホ。糞あんごは大アホ。