巫行071 慈雨
冬越しの燕が雲を引き止め、時雨が湖面に花咲かす。土埃叩き上げる香りが立ち込め、微風が荒野から去りしもの達へと知らせを届けた。
膨雀が好奇を示して舞い戻り糞を落とし、狐狸は冬山で毛皮に引っ掛けた種子を持ち帰り、燥いで泥に身体を遊ばせた。
地下に落とされても生き延びていたか、水辺でも何処からともなく魚が現れ水面に波紋と曳き波を描く。
雨への歓びに夢中か、普段ならば食い合い殺し合う種同士も共に潤いを愉しんだ。
そして、虫と烏で糊口を凌いでいた多くの人々もまた空を見上げ、乾いた喉を潤した。
唯一つ、燕舞見届ける人々だけは、羽休めの時までその喜雨に気付く事は無かった。
巫女も自身の汗と神の雫が混じり合い、袖下ろした頃に為って漸く衣が重くなっている事に気付いた。
古ノ大御神は語る事こそ無かったが、人々の願いを聞き届け霖雨を示した。
神の意思を汲んだ長雨は川を満たし、乾いた草を甦らせたが、決して命を押し流しはしない。
立ち去る事のない穏やかな神気。時は必要であろうが、この地は萠きゆくであろう。
水分の巫女の大地を甦らす計画は見事に成し遂げられた。
だが、これで全てが終わりではない。長き間、照日の荒ぶりに晒された土地は神や自然の力だけでは癒しきれない。
そこで人々は交易や旅に依って種子や若木、生きた魚を手に入れ移し替える計画を打ち立てた。
旅には力のある者が必要だ。それからこの地に暮らす者の結束も。
これまでこの盆地では、各地に点在する村々は独立して暮らしを立てているものであった。
それが豺狼の王への蜂起、飢えの共有、雨への感謝の共感を経て、この度一つの共同体“里”として纏まる事に決まった。
里長や法の委細の取り決めに就いては後回しとして、先ずはミクマリの作った池や川、それから再生の湖を祀り、この地を神の佑わう里へと創り変える事が優先された。
加えて、自身の犠牲の下に若者達の今日を繋ごうとした老人達の話が伝えられ、幾つかの村ではミクマリの里と同じ祖霊の信仰も始められた。
そこへ欠かせぬのは巫覡の徒である。老年の巫覡は若い命を繋ぐために山で果てた為、村々では力のある後任が不足していた。そこへ名乗りを上げたのが嘗て王の圧政に手を貸して居た術者達であった。
当然、大地殺しに加担した彼等への反発は、幾ら慈雨や大義を以てしても回避は出来ない。
それでも、大恩人が赦しの教えを説き、怨まれる側も懺悔し、同じく服従の強要や村の破壊を受けた不幸を語れば、蟠りは次第に融解していった。
斯うして、湖の甦った盆地は新しい始まりを切ったのであった。
雨が落ち着き、獣共も本能通りに命を狙い合う様になった頃、ミクマリ達はこの新たな里を旅立つ事に決めた。
「せめて春を見てから行って欲しかったな」
ホタルが寂し気に言った。
「我がままを言うな。ミクマリ様には成し遂げねば為らぬ事があるのだ。それに、俺達はすっかり彼女に頼る事に慣れてしまった」
トムライが窘める。
「いっそ、旅を辞めてここの里長に成っちまえば? 誰も反対しない処か喜ぶよ。実質、里を興した様なものだしさ」
「気持ちは有難いけど、それでは私も、私の里の人達も納得が出来ないから」
返すミクマリも寂し気だ。
『俺も、自身の中に感じる夜黒ノ気に変化を感じない。怨み晴れず、まだ妹巫女の仕事が膠着している証だ』
「だったら、あたいも一緒に行って手伝うよ」
ホタルは不釣り合いな表情と共にミクマリの手を取った。
「ありがとう。でも、それはいけないわ。この地の護り手が居なくなっては困るもの。私達は大丈夫だから」
戦いへの姿勢は正反対の二人であったが、破壊から育みに仕事を移してからというもの、すっかり絆も深まり、ホタルの粗雑な面も多少は改善されていた。
「ホタルさん。私達は私達の役目を果たしましょう」
カエデが言った。
「分かってるよ。言ってみただけだよ」
「ミクマリ様。本当にありがとう御座いました。私、感謝しても感謝しきれません。この風を起こすだけの術もこんなに役に立てて……」
取り合う手に自身の掌も加わえるカエデ。
社の流派出身の彼女は現在、その身に宿す御印を活かし、山の神との口利きを行っている。
春には神和を行う予定も出来た。山神が力を借して植物の生長を促してやると白事を宣ったのである。
加えて、里へ早い段階で鳥獣が舞い戻ったのは、科戸ノ風を使った雨の知らせと、山神の促しの賜物であった。
カエデの活躍はそれだけに留まらず、憧れと努力の賜物か、僅かながらに憑ルベノ水の才も花開かせていた。
ミクマリは弟子が出来たと喜んで手取り足取り水術の骨を教えた。
流石に稀代の水術師と比べると見劣りはするが、カエデは今や水場の面倒を見たり、擦り傷切り傷を治してくれと民に甘えられる姿を披露していた。
余談だが、彼女は王の御使い出身ではあるものの性根がミクマリに近く、積極的に奉仕に努めていた為、圧政に苦しんでいた者からも怨まれる事無く、里全体ではホタルを喰う勢いで人望を集めている。特に男共は、山の神を恨めしく思っているとか思っていないのだとか。
「本当は私も着いて行きたいのですけれど……」
カエデは呟き、ミクマリへと少し熱っぽい視線を向けた。その辺でアズサが何やら犬の様に唸るのが聞こえた。
「ミクマリ様の行末を気に掛ける者は我々だけではない。この里の者全てがそうでしょうな。我々は貴女方の旅の無事をこの地より祈っておりますぞ」
トムライが言った。
『トムライよ。世話に為ったな』
「ゲキ様もまた、娘共の愚痴を交換しに訪ねていらして下さい」
『そうだな。肉体があれば酒でも酌み交わしたい処だ。ミクマリよ、全てが落ち着いたらまたこの地の様子を見に来るのを愉しみにしよう』
優し気な霊声が響く。
「はい」
「次は友人としてだけでなく、長としても声を掛けてくれよな。ミクマリの里興しには絶対に、絶対に力に為るから」
ホタルが言った。瞳に似合わぬ輝き一つ。カエデも同じ貌で頷く。
「では、そろそろ行きます。また逢いましょう、皆さん」
微笑むミクマリ。見送りに来た者達が口々に別れの言葉と再会の希望を投げ掛けた。
後ろ髪引かれ、涙堪えて戻るは冬の路。旅のつばくらめは南へと飛び立った。
南方の地。哀しみの故郷の南東に位置するそこには、里を泯滅せしめし地蜘蛛衆が潜むと云う。
怨みと復讐の是非。黒の答えを求めての旅。不信の王の地を避け、再びの山越え。山陵に立ち込めるは冬霧。
輩の地から遠ざかり、妹の掌の温かさ頼りに登る霧の山。
普段なら講釈垂れる祖霊も、思う処あるのか口数少なく、最初の頂に上り詰めるまで、一行は黙々と旅を続けた。
「あ、見ない! 霧が晴れとるわー!」
アズサが峰の向こうを指さした。山中の旅の長さを示す緑が続く。
「本当、少し暖かいわね」
山に影を落とす雲は白。冬の山だが風脚穏やかで、覗く太陽が微笑んでいた。
姉妹揃って袖を持ち上げ、背伸びをする。
『漸く、一息吐いたという感じがするな』
祖霊も緩慢に揺らめいた。
「ふうっ」
長い背伸びを終え、ミクマリが息を吐く。それから振り向き師を見上げた。
「……」
娘は見つめるばかりで何も言わない。
『どうした?』
「私、やりました。あの乾いた盆地を救いました!」
『そうだな』
「水場を増やし、戦神に願いを届けて大地の傷を治し、雨神様を呼び戻しました!」
『うむ、そうだな……』
見つめ続けるミクマリ。ゲキは黙りこくった。暫しの沈黙の後、石に腰かけ休むアズサが「あかんなあ」と言った。
「褒めて下さい!」
滔々口に出しての要求。
『う、うむ。えーっと。良くやったぞ、我が巫女よ』
ぎこちない称賛。
「何だか、心が籠って無くないですか?」
『ほらまたそう言う……。これだからお前は褒め辛いのだ。理由を並べれば理屈っぽいと言うし、手放しで称えればらしくないと言うだろう?』
「言います! 褒めて下さい!」
再三の要求。
『まあ、褒めとは少々違うが、此度の一件は里の再興を企図するお前にとっては大きな自信に繋がったであろう。俺もお前の成長を見て大いに安心した』
「そうですね。これならきっと、全部上手く行きますよね?」
不安げな瞳。
『どうだろうな。場所も違えば地形も神も違う。人も集めねば為らぬから……』
「ほらまたそう言う! 直ぅぐ不安になる様な事を仰るんですから!」
ミクマリが声を上げた。アズサは何が可笑しいか飲んでいた水筒の水を噴き出した。
『舞の時は少し肝を冷やしたしな。お前の恥じ入り易い質にも困ったものだ』
「最初だけです! 皆さん、私の舞に見惚れてましたもん! ゲキ様も見ていたでしょう!?」
小鼻膨らませ、袖を激しく振るミクマリ。
『そうだな。お前はとても美しかった』
率直な言葉。ミクマリは両袖を使い鼻まで隠した。……が、笑った目と紅の頬が覗いている。
『気配は忍ばせていた様だが、例の戦神も覗きに戻っていたぞ。それだけではない。何の神かは分からぬが、他にも何柱もの天津神が舞を見つめていた』
「えっ、本当ですか?」
『本当だ。実を言うと俺は余り見惚れている閑が無かった。あれだけの天津神達を前にして、何か粗相があれば、何が起こるか分かったものでは無かったからな』
「そんな大事なら教えて下されば良かったのに」
『無心に舞っている者にどうやって報せろと。それに、知ったら知ったでお前の身体は緊張に依り石に変じたに違いない』
「ですね……。本当、神様達の覗きには困ったものね……」
眉を顰めて空を見上げる。太陽が笑った気がした。
『これからも困らせてやるからな』
「痴れっと覗きの宣言をしないで下さい」
「言ってもうたら、覗きとしてはどうなんやろか?」
アズサが疑問を投げる。
『警戒されて肌を隠され、物足りなくなるであろうな。それに、気付かれずに観るのが良いのだ』
「だったら余計な事言わない方が良いでしょうに。……こっそりでも覗かないで下さいよ!?」
『気付かれなければ誰も損をしないだろうが』
「皆、にこにこやにー」
『最近の感想を述べるとすれば、ミクマリは少々痩せてきた気がする。元よりふくよかさに欠ける身であるのに』
「感想なんて要りません!」
「姉様、蟲食べへんから。お腹ぎゅーぎゅー鳴っとるのに……」
アズサの心配そうな表情。
「鳴ってません!」
「鳴っとるなあ」
アズサは霊気漂わせながら耳に手を当ててみせた。
「音術を変な事に使わないで……。水術ってどうしてだか使うとお腹が空くのよね……。特に走ったり体術を使うと酷いの」
赤裸々に告白するミクマリ。
只水を繰るだけでは、そこまでの空腹には陥らない。怪我をしたり、戦いや山駆けをすると腹が減る。恐らくはホタルが見抜いた治療術の弱点と同様のものだろう。
『そう言えば、日誘ノ音は音を届けるだけでなく、聴き取る方にも強かったな。どうだアズサ、今度俺を手伝って姉の水浴みを余す処なく観察せぬか? 水垢離は水術の修行の一環でもある、それを覗き見ればお前の術や霊性の磨きにも役立つやも知れぬぞ』
悪霊が唆す。
「アズサに変な事吹き込まないで下さい!」
妹と師の間に立ち塞がるミクマリ。
「アズサ、ゲキ様みたいに為らないでね」
振り返り妹を諭す。
「もう遅いけどなー」
アズサが何か言った。
「えっ? 今何て?」
「何もあらへんわー」
外方向き片耳の輪を揺らす娘。
「ああん、アズサ! 覗いたのね!?」
『お前だって、同じ穴の貉だろうに』
鼻で嗤う霊声。
「なっとな? 姉様も覗きしはるんかいな?」
首を傾げるアズサ。
『そうだぞ。此奴は雪に鎖された村にて、若い男女の……』
「わーっ! わーっ!」
ミクマリは頬染め再び袖を振り振り騒いだ。
「それはいけません! 内緒! 秘密! お願い! アズサにはまだ早いお話です!」
思い出される雪の村での蜜月。細雪の巫女が衣を床へ落とし、幼馴染の戦士へ覆い被さり……。
「ま、何でもええけど早う行こなー」
アズサは首を傾げながらも腰掛け石から離れた。
「切り替えが早いのね……」
『いつまでもうじうじとやるお前とは反対だな』
苦笑するゲキ。
「遠くからやけど、雨の音が近付いとるんよー。雨宿り出来る処、探さんと」
アズサの呟きにミクマリも水の気配を辿ってみた。確かに遠方から大雨が近付いている。隣の大地は少し前までは日照り続きだったというのに、これが神威の差だろうか。
『では、改めて旅を再開しよう』
守護神の促しに従い、巫女達は歩き出す。
一度だけ振り返る再生の土地。あの地に降った雨は、確かにミクマリの心を育んだ。
――さようなら。また逢いましょう。
彼女達の冬旅はまだ始まったばかり。先に待ち受けるは芽吹きの春か、将又、破壊の春雷か。
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白事……神の言葉が届けられる事。