巫行070 雨乞
「ばりばりして……ぼそぼそして……噛んだらぶちっとして……何かがとろっと……」
虚ろな目で呟くミクマリ。彼女は食事小屋の端で茜の袴の膝を抱えていた。
「姉様、変になってしもたなー」
他人事の様に言うアズサ。こちらの口の端からは何かの蟲の脚が覗いている。
「ミクマリ様、大丈夫ですか?」
カエデがミクマリの背を摩る。
「ありがとう。でも、摩らないでいいの。あれは食べ物なの。吐く様なものじゃないの。気持ち悪いものじゃないの。食べ物なの……食べ物なの……」
言い聞かせる様に繰り返すミクマリ。
「こんなん為っちまって、明日の舞は大丈夫なのか?」
ホタルが言う。
「こんなんって、貴女も食べさせていたじゃないですか」
カエデが非難の目を向ける。
「一番食わせてたのは“あれ”だけどな」
ホタルの指さす先には揺らめく霊魂。
『俺は、里長として食糧難に困る者の気持ちを考えてみろとか、餓えた子供の顔を思い浮かべてみろと言っただけだ。食えとは言っていない』
「姉様、好き嫌いせんくて偉いなあ」
アズサも励ましに加わり頭を撫でる。
「好き嫌いと言えば、もう一人蟲を食わなかった奴がいるな」
ホタルがちらとミクマリ達の方を見やる。介抱する白衣の肩が跳ねた。
「わ、私は別に……」
カエデがミクマリの肩に縋る。
『石の社の里は豊かだったからなあ。虫食に頼る必要もなさそうだった。豺狼の治める國も恐らくは飢えとは無縁であろうな』
「ミクマリが言ってたけど、湖が戻って雨を降らせても、土地が豊かに為るまでには時間が掛かるんだってな。獣達や草木はこれから増えるんだから、今それを食っちゃあ、拙いよな」
意地の悪い声が聞こえてくる。
「好き嫌いはあかんなー」
アズサは姉の肩からカエデを押し退け引き剥がした。
「アズサさんも烏は食べなかったでしょうに」
「流派の都合やにー。御使い様の仲間は食べられへん。カエデさん、これ、食べてみいさー」
アズサは円盤状の小さな焼きものを差し出した。ミクマリが、ちらと見る。
何の変哲もない、木の実を砕き粉にして固めた保存食だ。大抵は蜜や塩で味付けがされており、製造に手間は掛かるものの人気の高い一品だ。
「これをですか? 私、好きですよ?」
カエデは受け取るとそのまま口に頬張った。軽快な音と共に顎が上下する。
『おい、こいつ食ったぞ。この流れで何も疑わなかった』
ゲキが驚きの声を上げる。
「え? これなら良く口にしてますけど。ちょっと香ばしくて変わった味……椎の実? それとも棈? 楓の蜜が合いそう……」
幸せそうな社の巫女。
「カエデ。それは団栗と蟋蟀を粉にして固めて焼いたもんだ」
ホタルが笑いながら言った。
「こ、蟋蟀? 嘘っ!? 奥歯に、挟まって……」
青くなるカエデ。半泣きで口の中に指を入れている。
「ははは、何なら歯ごとまとめて一緒に抜いてやろうか?」
「へっほうです!」
必死に蟋蟀の粉を掻き出そうとする娘。
『これだから育ちの良い社の流派はなあ』
「ほんまになー」
膝を抱える娘が二人に増えた。
雨呼びの儀式。一口に雨乞いと言っても、その手法は多種多様である。
川や湖等の国津の水神に頼む場合は御饌や生贄を捧げるか、単純に声の遣り取りで願う。或いは敢えて水を穢し、神を怒らせて嵐を呼ぶ荒っぽい手法も存在する。
古ノ大御神の一端である雨神に頼む場合は、遠き天へと声を届ける必要がある為、太鼓を打ち鳴らしたり、大声で叫びを上げたり、霊気と共に火を高く炊き上げたりすると云う。
他にも、雨を模す水撒きによる呪術で雲自体を呪い落涙させる法もあるが、雨焦がれる地の空は青一色であるのが約束。
結局は神の力の示現に頼るのが普通だ。
この火術師達の村でも雨乞いの技法は伝えられているそうだが、膜鳴も斎いの炎も火神が何度も要求する為に珍しくなく、効果が全くないらしい。
現在に至っては雨神そのものが直ってしまっており、これらの儀式が徒労に終わるのは火を見るよりも明らかであった。
天津神は高き処に在る高天國に暮らす神々だ。神の国は激しく荒れるか、平穏退屈かの二極が常。故に、神々は癒しや娯楽を常に求めている。
退屈は専ら生きる人々の暮らす覡國を覗く事で凌がれているのだと、巫覡を始めとした神を識る人々の間では囁かれている。
天から眺めたり、現人神と為ったり、獣の姿を借りたりして直接地を歩いたり、或いは何物にも気付かれぬ様に気配を消しての観覧もある。
兎に角、神々は“覗き見”が大好きなのである。
覗き。覗きは神であろうが、人であろうが、獣であろうが嗜む行為。それは興味からであったり、性癖であったり、また生きる為の警戒であったりする。
とある娘も、これら全てを合わせた事情で隣の小屋へ聞き耳を立てていた事がある。
取り分け、悦楽を熾し、興味を強く引くものと言えば、異性の裸体。
人間は元より、初めから神として生まれたものや、獣から昇華され神に成ったものまでもが、何故か人間の裸体を有難がるという。
覆い隠され閉じ込められたものを密やかに偸み見る快感。本人に恥辱や恐怖を与える事無く、その行為を遂げる達成感。教えや流派に関わらず共通する背徳感。
兎も角、それは天津神をも強く引き付けるのである。
一方、神への呼び掛けを目的とした神楽、こちらから捧げる音楽や舞も“覗き”とは対極ながらも神の悦ぶものだと云われている。
覗きと大きく違うのは、その行動の起点が神であるか人であるか。当然、覗きの場合は神の勝手であり対価は無く、捧げものの場合は満足を得られなければ最悪、罰を受ける事もある。
故に、神楽は練習を重ね、演目も趣向を凝らして目に嬉しいもので無ければ為らない。
尤も、短絡的ではあるが、豊満な体つきの美女の全てを余す事無く晒せば、大概の男神は容易く雨でも何でも降らせるであろう。
美女の条件とは、色香と霊気を孕む長い黒髪。健常で逞しい子を産みそうな腰と臀部。産んだ子を良く育めそうな乳房。
地に引かれ垂れる程の豊かな脂肪は、その者の暮らしの良さと気苦労の無さを暗示し、性根の曲がりを否定する。
舞の中身も健よか也よりも、笑い付する不健全さが求められる。自ら見せに来ておきながら肌を隠すのは最早、意味が不明だ。石や糞を投げられても文句は言えまい。
『だから脱げ』
守護霊が言った。
「お断りします!!」
巫女が叫ぶ。
『天津の雨神は大抵が男神だ。水分の巫女が肌を晒して股を割れば玉響の間に駆け付けるぞ』
「厭です! 大体、それで済むんでしたら、何故私は舞の鍛錬をしなければ為らなかったのですか!?」
『そりゃお前、裸踊りと一口に言っても様々な技がある。布切れ一枚を腰に垂らし、舞う度に見えそうに為ったり為らなかったり、或いは器を二枚用意し、それで交互に隠すとかだな』
想像したか、ミクマリの顔が見る見る内に赤くなった。
「やだ! 絶対にやだ! そんな練習してません! ゲキ様も覗いたんだから知っているでしょうに!」
『そう言われればそうだな? 何故、俺は指示を怠った……!?』
愕然とした霊声が響く。
「知りません! って言うか言われても絶対やりませんから!!」
『ああ、そうだった。お前の乳が貧相故に、裸体を見せると却って神への無礼かと思って、舞そのものの練度を上げて肌は見せない方向で行こうと思っていたのだった』
「祓いますよ!!」
光る掌が振り上げられる。
『良いぞ。俺は高天から全てを見守って居るからな』
白々しく優し気な霊声。
「ああん! アズサ、ゲキ様が苛める!」
妹へ抱き着くミクマリ。
「ゲキ様、姉様を苛めたらあかんなー?」
苦笑するアズサ。
『苛めているのではない。揶揄っておるのだ』
「そう言えば、うちん処もちゃんと衣着て舞うなー。舞の時はなー、黒い千早を肩に掛けて舞うんやでー」
『御使いを模しておるのだったか?』
「そやそや。姉様も、燕さん真似して舞うからええもんなー」
膝の上の黒髪を撫でながら言うアズサ。
『燕か。里にあった守護神を祀る神殿にも巣を掛けておったな。糞で穢すものだから、巫女が苦労しておった』
「鳥とは言え、神殿にそんな事をするのは畏れ多いかな……。ゲキ様は怒らなかったのですか?」
『鳥に文句を言っても仕方なかろう。俺が掃除する訳でも無し。巣出りから旅立ちまで見守ってやったわ。まあ、肉のあった頃なら巣を粉々にしただろうが』
「酷い!」
ミクマリが声を上げる。
『怒らなかったのですか、と訊ねて置きながら……』
村長の館で歓談を愉しんでいるミクマリ達。いつもの戯れ。裸踊りは勘弁願いたかったが、ミクマリにとってこのやり取りは有難いものであった。
雨乞いの儀式は水分の巫女の独力では行われない。祭りの村の太鼓が叩かれ、その音は音術に依り空へと届けられ、この村に根付いた多くの霊感を持つ者も一体と成って祈祷を捧げ、舞と併せて彼方の空へと届けられる。
詰まりは、ミクマリは多くの視線の中で舞を披露せねばならない。
彼女は舞の稽古は闇夜に紛れるか、人里離れた清流に足を浸しながらで密かに行ってきた。実際に披露した相手は守護霊と妹の二人のみ。
戦神との件が済んだ後はまだ喜びで失念していたが、一晩明けていざ雨乞いの仕度だと村が躍起になった途端に、彼女は怖気に苛まれ始めていた。
自身の羞恥の感は他の者よりも鋭い。それは自覚している。何よりこれは遊びではなく、この地に暮らす生きとし生けるものの未来を懸けた一幕だ。
弱音を吐く事は許されない。
――恥ずかしくって逃げ出してしまいたい。決闘でも、死でも無いというのに。
ミクマリはアズサの腹に顔を押し付ける。嬌声の後に髪を滑る温かな感触。これですら物足りない。
そこへ緋袴の娘が飛び込んで来た。
「皆さん、大変です!」
息切らせるカエデ。
「どうしたの?」
「ホタ……ホタルさんが……」
苦し気に喘いでいる。余程慌てたか。
『どうした? また付け火でもしたのか?』
ホタルは現在、先日に抜歯の儀式での約束を果たす為に決闘中の筈だ。雨乞の儀式はその後に行う事となっている。
「違います。負けたんです! ホタルさんが!」
カエデの声色は何故か嬉しそうだ。
「えっ、ホタルが!?」
「はい。昨日の演武の疲れの所為か、よろめいた処を顎に良いのを頂いて気を失ってしまった様で。気持ち良かったなー」
カエデは宙を殴りながらに語る。
「それで、怪我はしてない?」
眉を顰めるミクマリ。
「そうでした。それでミクマリ様を呼んだのでした。……と言っても、怪我人はホタルさんではなくって、相手の男の子の方ですけど」
「もう、加減しないんだから。では、治療が終わったら雨乞いを始めますね」
ミクマリは立ち上がり、守護霊を振り返った。
『おう。その前にミクマリ。それにカエデ』
呼び止めるゲキ。二人は足を止めて小首を傾げる。
『衣を脱げ』
「「はっ?」」
娘二人は「何を言っているんだこいつは」という顔で霊魂を見た。
「流石にせたらこいで、ゲキ様」
アズサも苦言を呈した。
『違うのだ。カエデ、その衣を雨乞いの間だけミクマリに貸してやってはくれぬか? ミクマリの纏う衣は天津の霧の神器である故、神気が強過ぎる。雨神が霧神かと勘違いして厭いかねんからな』
「そう言う事でしたか。態々変な言い方しなくても良いでしょうに」
「では、後程お貸ししますね。行きましょう、ミクマリ様」
「うちも行くー」
連れ立って館を出ると広場は騒然となっていた。
負けた筈の村長は元気に地団太を踏んで悔しがっており、一方、勝者は顔面をぼこぼこに腫らしながらも晴れの笑顔で寝転がっている。
村人達はまさか彼が勝つとは思っていなかったらしく、唸り声を上げ幸運が実力に含まれるものかどうかの審議を行っていた。
審議の結果は否。村の男衆は決闘に吝を付け、ホタルに敗北を撤回する様に懇願し始めた。
「そりゃ、あたいだって負けたのは無かった事にしたいけどな……」
戦い好きの彼女も唸った。潔い娘の弁では、体調不良と手加減込みでも負けは負け。
それに、相手の幾ら殴られても倒れない胆力と、満身創痍に為っても相手の隙を見逃さない洞察力は本物故に、断る事が出来ないと語る。
余談だが、実際に結婚という言葉を口に出した際は、彼女らしからぬ恥じらいが披露された。
だが、普段から戦士としても術師としても、また女としても組み敷きたがる者の多い身。その上、幾ら村長とはいえ若輩であり、何よりも父のトムライが大いに反対してしまい多勢に無勢、ホタルも弱ってしまった。
当の、昨日までは子供だった青年も彼等に意見する力は持ち合わせておらず、唯々理不尽さに抜けたばかりの歯を噛合わせるばかり。
そこへ乙女連中が割って入り、「当人達の気持ちが一番大事です!」と一喝。先ずは婚約という形に収め、青年が男共に認められる強さを得られれば晴れて結婚、という形が提案された。
不運の敗北を喫した娘も、己の力不足を識る青年も、父親も納得し、男共へも婚約期間中も決闘を受け付け、ホタルを破った場合は婚約者と戦い、その座を勝ち取るという約束を設ける事で不満を治めたのであった。
そんな一幕の後、やっと再開される舞の仕度は慌ただしい。神事の多くは陽が昇り切る前に行われる事が望まれる。
舞い手や怪我が治ったばかりの青年、顎を打たれて気を失う事故に見舞われた村長までもが雑務を手伝う騒ぎ。
ミクマリはこの間も、心の中では人前で舞を披露する事への気後れと戦い続けていた。
しかし、彼女の心中察する者も無く、時は無慈悲に流れ、愈々と神前へ捧げる儀式の時が訪れた。
風下りる麓の村。静まり返った人々の見守る中、舞い手の巫女は壇上へ立つ。
――――。
多くの人々の視線。娘は恥じ入り、骨肉が固くなるのを感じた。
頬が熱い。舞の前から汗が頬を伝う。
風が白衣の大袖を悪戯に揺らし、逆巻きに衣の持ち主の臭いを鼻に届けて気を散らす。
霊気を集中しようにも、乱れ散る提髪が煩い。
震える袖を持ち上げ、「舞わねば、皆の為だ、大地の為だ」と心中で自身を鼓舞する。
だが娘は腕を下ろし、息を吐いた。
哀しみも無いのに瞳の染みと頬に熱を感じる。
長い躊躇いは次第に群衆の沈黙を解き、どよめきや不審の目が心をちくちくと刺した。
――遠方から無理矢理雲を引き寄せて、誤魔化してしまおうかしら。
過ぎる愚かな考え。舞わずして雨神に来て貰いたい。正に雨乞う心。
洟を啜り、こちら側の雨は降らぬ様にと、瞼を上げ続け瞳に日照を与える。
震えが止まらない。抑えようとすれば抑えようとする程に、身は更に固く縮こまってゆく。
ふと、遥か昔に両親に叱られ、館の外に独り放って置かれた出来事が頭を過ぎった。
何故そうなったかは最早思い出せないが、唯、昼間だったというのに大禍時に呑み込まれる様な心持だったのは確かだ。
溢れそうな暖雨。
『貌が硬いぞ。もっと愉し気にしろ』
師の苦言。それを切っ掛けに声援が飛び出し、娘を却って恥じ入らせた。
「ゲキ様、余計な事言ったらあかんなー」
叱るアズサ。
――この人は本当に人の気も知らないで。
心で溜め息。師は冷厳か揶揄を与えるばかりで欠片も慰みに為らず。
「姉様、だんないさー」
静かな霊気の籠った囁き。姉にのみ捧げられた励ましの音術。
いつもの遣り取りに心へ浮かぶは平常の時。
寒凪が訪れた。
幽かな霊気の脈動の後、吹き下ろす寒風は止められ、借り衣からの香りが安堵を引き寄せる。
風の音と共に囁きは去り、瞳に映る筈の群衆は只の風景と為った。
こころ青空、見えぬ神を思い描き、雨の季節を希う。
――舞います。
見上げる空。雫が散る。
示し合わせたかの様に太鼓の音が響き、それと重なりに確かな手付きで大袖が振り上げられる。
今ここに、一羽のつばくらめが雨の季節を告げに訪れた。
******
縄文クッキー……縄文時代にもクッキーらしきものがあった。主に栗の実や団栗の粉を使ったもので、小麦粉は使われていない。
香辛料や蜜、塩等で味付けをする。肉や卵を一緒に捏ねてハンバーグにしたものもあったのではと想像されているとか。
現人神……この世に人の姿で現れる神。或いは権力者=神とした呼称。
せたらこい……しつこい。