巫行007 海神
ミクマリは漁村の小屋を一つ宛がわれ、遠くに聞こえる潮騒を子守唄に眠りに就こうと苦心していた。
この漁村は先の農村と比較して非情に良心的で、村長を兼ねる老巫女とも打ち解ける事が出来た。
だが、村の活気と睦まじさが、寧ろミクマリの痕に塩塗る事となっていた。
嘗て里長を務めた娘は小屋を抜け出し、海に相対した。
今宵は月も眠っている。ただ星屑の煌めきが白波を幽玄に映し出し、寂し気な浪の呼び声だけが規則正しく繰り返されている。
『眠れぬのか』
「はい」
娘は視線を遠海の闇に結んだまま短く答える。
『豊かな村だ。海神の寵愛を余す事無く受けておる。こうでなければ、盗人を見逃し受け入れる手は選べまい』
「子供達も元気そうでした」
『巫女も当代は強かだ。後継ぎに不安はある様だが』
「娘巫女さんは海神に気に入られないのでしょうか?」
『さあな。ここの海神は女神らしい。女神と言うものは気まぐれだ、男の様に契りを貴ばない。ここの海神は今は俺達に関心が無い様だが、長くは居座らぬ方が良い。気が変われば嵐や荒波が俺達を殺しに掛かるかもしれんぞ』
「何故ですか? 私には敵意はありません。それに水分の巫女です。海もまた水には違いないでしょう?」
『年増の女神にとって処女は供物に過ぎないと言われたろう? それでなくとも、お前はどちらかと言うと山に属する女だ。里も祖霊だけでなく、山神の恩寵も受けていた』
山の恵み。余す事無く使える樹木には鳥が宿り、それを支える土は野菜を育て、獣が跳ね周り、それらもまた人々を潤していた。
湧き出る清水は沢を作り、魚を抱き蟹を渡らせ、水の奏でる音は聞く者全ての胸を宥め賺してくれた。
『海とは山と同じく恵みを齎す母なる領域ではあるが、山よりも高天から遠く、谷よりも黄泉に近いのだ。海水は塩気のある水で満たされておるが、決して清められてはいない。正邪多くの霊気を含んだ奇妙な混ぜ物なのだ。今のお前程度の霊気では持ち上げる事すら叶わんよ』
「御婆様には褒めて頂けたのですけど」
ミクマリは沓を脱ぐと両手に下げ、汀に歩み寄り、柔らかな砂に足を沈めた。
打ち寄せる波が足先に触れただけで理解した。
――海の水には無数の生命と霊魂が棲んでる。
『どうだ、霊気を通して和ませて見る自信はあるか?』
「験すまでもありません。海って恐い処……」
何もかもを押し返すかの様に吹き付ける生温かな潮風が、娘の力の源である髪を乱す。
今夜は暑い、夏が舞い戻って来たかの様だ。
『そうだ、怖い処だ。人間は舟を出すだけでも海神に伺いを立てねばならないのだから』
「恐いお母さんだわ」
乱れた鬢の毛が口に触れ、ミクマリはその黒糸を指先で掻いて耳に掛けた。
『聞き齧った伝承では、神が生まれる前後とも知れぬ太古には、全ての生き物は海の中で溶け合って暮らしていたと云う。異聞ではあるが、神すらもその命の汁から生れ出たと云った話もある。万物は海より生まれ、死して海に還るのだとか』
「でも、あの先は私の還る場所ではないわ」
遥か彼方、海の深淵。拒む様に瞳で押し返す娘。
『そうだ。今帰るのは巫女に供された小屋の寝床で良い。お前が幾ら有象無象の術師よりは優れるとは言え、海から見れば只の小娘に過ぎないのだからな。女神の目に留まらぬ様にするに越した事はない』
「はい」
『久方振りの寝床だろう。少々の有事は俺が見て置いてやるから、お前は良く眠れ』
「ありがとうございます」
ミクマリは守護霊に一礼し、踵を返す。
もう一度だけ、命の世界を振り返る。境の無い黒に瞬く星々は変わらずに彼女を見ていた。
翌朝。ミクマリは外の騒ぎで目を醒ました。
「何だよう、今日は休めって言ったじゃねえか!」
「言ったが、それは舟仕事に向かわせるなと言う意味であって、寝て過ごせという事では無い。今日はおらが仕事の骨を教わるから、おめえが童の面倒見ろ。“昆布巫女”様はおめえの事を扱き使えと仰っとったや」
小屋から外を見ると、青年とも少年とも付かぬ童男が“赤尻”の手を引いているのが見えた。
アカシリは欠伸をしながら渋々従っている。彼は名前を棄てて久しかったらしいが、この村に来て新たな呼び名を手に入れていた。
「ほれ、童共や。これが村に仇名した盗人じゃ。今日はこれを玩具に遊べ。おらは漁師の勉強して来るからの」
そう言って少年は、朝も早くから貝遊びに興じていた子供の群れに盗人を放り込んだ。
「子供なんかと遊んでられるか! 何だよ、こんな村さっさと……」
「アカシリさん! 御早うございます。頑張って改心して下さいね!」
ミクマリは念押しを兼ねて景気良く挨拶を投げてやった。
「ちぇっ、何が御早うだ。俺より寝坊助の癖に」
「「ミクマリ様、御早うございまーす」」
子供達は重たい頭を下げて快活な返答をした。
「やや、水分の巫女様。お目覚めに為られましたか。御顔を清める桶をお持ちしますね!」
少年は挨拶も返事も無しに慌てて走り去り、真水の入った桶を頭に乗せて戻って来た。
「ありがとうございます」
ミクマリが礼を述べると、少年は頬を染めて手足を閉じ直立した。
「お礼なんて! おらは立派な海の男になる為に、何でも進んでやれと母に言われてるんですよ。これも錬磨の内です」
「それは殊勝な心掛けですね。では、私も少し錬磨をして見ようかしら」
そう言うとミクマリは桶に掌を沈め、水に霊気を通した。
巫女の気を受けた水は彼女の意志に従い、半分程が球と成って桶から引きずり出された。
「わ、水を掴んだ! コンブ様と同じ技だ」
目を丸くする少年。
ミクマリは水球を手で弾き宙に跳ね上げた。
落ちて来た球を伸ばした手の甲で受けて転がし、腕から背に掛けて進めてもう一方の手へと運ぶ。
それから未だ寝汗を含んだ髪と共に身体を反らして、水球を天高く放り投げた。
球はまだ寝起きの太陽を越えて高く上がると、弾けて短い私雨を降らせた。
「巫女様凄い!」
子供達が駆け寄って来る。「もっとやって見せて」と乞われてミクマリは胸を張って鼻を鳴らした。
彼女が水術を会得したのは里を失ってからではあるが、こう言った遊びや目に面白い芸当は子守りの癖で常に頭に過ぎるもので、披露する機会を胸に焦がれていたのであった。
ミクマリは桶の残りの水を使って、掌に納まる大きさの水球を作り出した。
それの一つを頭上に投げ上げ、落ちるまでの間に他の球を投げ上げそれを繰り返す。
「“石投ご”だ」
子供達も時折石で同じ遊びをしている様で、女児が歪な模様の描かれた石を引っ張り出し、ミクマリに続いた。
「上手ね」
「でも、石投ごは手が痛くなっちゃうや」
無念がり早々に石投ご遊びを止める女児。
「じゃあ、私のこれを譲りましょう。その内に割れてしまうかも知れないけれど」
ミクマリは自身が作った水球を女児に持たせてやった。
「わあい、綺麗」
女児は珠の様な水球を日光に空かした。周りの仲間も眩しそうにそれを見上げる。
「球が弾けて足に穴開けられるぞ」
様子を見ていたアカシリが驚々しい声で割って入って来た。
しかし子供達はそれを無視して、水球遊びに興じ始めた。
「何で無視するんだよう。俺が怠けてる様に見えるだろ。俺も混ぜて遊べよ!」
不満気な声を上げるアカシリ。
「煩いなあ。おじさんは蟹とでも遊んでて」
その辺りを彷徨っていた蟹を指さす男児。
「蟹と何て、どうして遊べば良いんだよ!」
「仕方の無い人だなあ。見ててよおじさん」
男児が枝を持ち出し、蟹の尻を突いた。蟹は慌てて逃げる。
「蟹は横にしか歩けないじゃろ? 普通は尻を叩かれたら前に逃げるもんなのに、横にしか逃げられんからずっと打たれるんじゃ」
「ほう、それで?」
「それでって……面白いじゃろ? きっと蟹が赤いのは叩かれ過ぎたからじゃな」
そう言って男児は笑った。
「こ、子供のやる事は分からん……」
首を傾げるアカシリ。
「おじさんも、前向いたまま横に歩くと良いって事じゃ!」
そう言って男児は枝でアカシリの泣き所を叩いた。
「痛え! ちぇっ、揶揄ってたのか!」
アカシリが尻を摩って歯噛みする。子供達が指差し笑う。村の者達からも笑いが起こった。
「ふふふ、仲良くね」
ミクマリは口に手をやり笑った。
『遅くに起きたと思ったら、何を遊んでおるんだ』
ゲキの呆れ声が降りて来た。
「遊んでません。朝の霊磨きです」
『そう言う話ではなくてだな。お前、今日は婆の巫術を見学するのではなかったのか? 海神も降ろす様な事を言っていたが、神和や口寄せは陽の昇り過ぎない内にやる処が多いぞ。巫女の小屋ではもう支度が済んで、誰某が起きて来るのを待っていた様だが……』
「あああ! いけない! 早く仕度をしなくっちゃ!」
『良いかミクマリ、お前は村の恩人であり客である存在だが、先も言った様に女神の領域では余り力を誇示するような真似はするなよ』
「はい、黙って見るだけにします」
ミクマリは浮足立って小屋へと足を向ける。
『ああ、後それと……顔ぐらい洗って行けよ』
ゲキに指摘され、慌てて桶の前に戻り両手を突っ込むミクマリ。
水桶の中は空っぽだった。
さて、寝坊娘が昆布巫女の小屋を遅まきながらに訪ねると、次の舟出とアカシリの処遇の是非に付いて占う儀式が開始された。
白い化粧と昆布の兎耳の様相をした婆巫女が神代となるべく正座し、同じく昆布を頭に巻いた娘巫女が横に鎮座する。
彼女達の前には火が焚かれ、焼き魚や焦げ目の付いた団子等が供えられている。
「高天國と海原の狭間に神留まり座します海の女神よ。覡國より供物と器持ちて御顕神願います……」
――本式の祝詞だ。
彼女の里でも先祖の霊を口寄せて伺いを立てる事はあったらしいが公開はされておらず、儀式の間には里長であるミクマリさえも禁足であった。
普段から漂えるゲキからして、里の流派にはこの様な仰々しいやり取りは無かったかもしれない。だが、初めて目にする本式の神和にミクマリは少年の様な興奮を覚えた。
それも束の間。流木の様な老婆から、突如として荒波の様な霊気の圧が発せられた。
――これが本物の神和の巫女の霊気。
ミクマリは自分を持ち上げていた老婆の隠し霊に僅かな嫉妬を覚える。
しかし、その怒濤の霊気も一瞬の事で、今度は老婆に向かって吸い寄せられて行く別の気を感じた。
深夜に眺めた黒き海。玉響の内にその海底へ引きずり込まれる様な感覚。
小屋の中の音が消える。まるで水中。
――これが海の神様のもつ神気。
ミクマリは心の中で震えた。
「……吾を呼ぶのは誰か」
老婆の口から若い女……いや、童女の様な声が発せられた。声は小屋の中を鈍く響いた。
「貴女様を崇め奉る村の者でございます」
娘巫女が答えた。彼女の声も反響して、聞こえる方向に混乱が生じる。
「……おお、久しゅうな。一応聞いては見たが、まあ他に呼ぶ者も居らんか!」
何やら軽い調子で返される御言葉。
「仰る通りでございます」
「……して、此度の用向きは何じゃ? 早う申せ。力及ぶか分らんが、快く祀ってくれるお前らの為じゃ。吾はとても張り切っておるぞ!」
「勿体無い御言葉です。私共の願いは次の漁日の吉日の御示しと、捕らえた盗人を改心させる事への是非でございます」
「……へ? へえー。例の盗人を改心させるのか」
感心したような幼声。
「御神が許さぬのなら取り止めますが」
「……別に好きにするが良い。人と人の法の話じゃ。いつもの若芽の卵占いか、海獣の骨を投げる法でも使うが良い。村の存亡に関わる事でも無いのに、小悪党如きで吾に伺いを立てるな」
「申し訳御座いません!」
額を床に付ける娘巫女。
「……それと、吾の海域では不審な雲の流れは見当たらん。当分の間はいつ舟を出しても安全じゃろう。但し、海の凪ぎが過ぎる分、獲れ高は振るわん。無理せず怠けず慎ましく舟を出すが良かろう」
「ありがとうございました。お尋ねしたい事は以上でございます」
娘巫女が顔を上げて言った。
「……それだけかい。呼ばれぬよりは良いが、もう少し何か無いのか。詰まらんのう」
重たい神気混じりの溜め息。予想外の気性の軽さとの落差にミクマリはその溜め息に呼吸を奪われた。
「安寧と安定こそ御神のお力で為されたものであり、それこそが民の信心を増すのです。用向きが少ない事こそ神威の証であるかと存じます」
「……堅苦し……そう言うのは良いから。ちょいと吾の方から訪ねたい事がある」
「は、何でございましょう?」
「……そこで座って見物しとる若い娘じゃ。あれは何者だ」
正座するミクマリに向かって海神の気が向けられた。露骨な嫌疑と敵意。
――しまった、矢張り迂闊に近づくべきじゃなかった。
ミクマリは身体中に脂汗が浮き出るのを細かに感じ取った。
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神威……神の威光。当作では神の影響力や力の強さを示す使い方もする。巫力に対しての神威。霊気に対しての神気。
鬢……左右側頭部の髪。
石投ご遊び……石のお手玉遊び。