巫行069 怒髪
「最初からそうしてくれれば良かったのに」
ホタルは血汗流しながらも愉楽の貌を見せる。
ミクマリは懐から黒鉄の刃を取り出した。
「武器か? 別に良いぜ。あんたが使っても仕方がない気がするけど」
言いつつも目を逸らさず火球を編むホタル。小振りな火から感じる霊気は、これまでに無く濃い。
「さっきは少し危なかった。矢張り、手加減は良くないわね」
黒鉄の切先が指先を這う。浮かぶ血玉。刃を懐へ戻す。
「自分の指を? 何やってるんだ?」
「警告します。火球を解いて護りに徹しなさい」
ミクマリの指先より弾かれる一筋の朱。それはホタルの手元の火に中ると霧散した。
「誰がそんな事するかよ!」
放たれる一撃。唸りと共に迫る炎。
神霊一体の大袖がそれを軽く弾き返す。
術者はそれを躱し、火球は遥か遠方へ。大地揺らす轟音と共に上がる火の手。
「矢張り、多過ぎる火は何も生まないわ。物や作物だってそう。何だって争いの種なんだから」
呟くミクマリ。
「まだそんな事言って……!」
ホタルの顔が歪む。手を翳す。辺りを見回す。空気はちらつきはするものの、炎は起らず。
辺りに漂うは極僅かな血の香り。
玉響の間に火術師は神気を孕んだ水球に囲まれる。
その玉達から無数の水撃が放たれる。委縮したか、硬直したままのホタル。
羽音の群れは地面に蜂の巣の如き穿孔を、無数に作り出した。
だが、火術師の身体に新たな傷は一つも無し。
「本気を出すと言って、態と外したのか!?」
怒りか恐れか、震える抗議。
「壊したり、殺したりする事は容易い事です。でも、創るのはとても大変。兎を狩るのはあっと言う間だけれど、その兎が大きくなるまでにどの位の時と、餌が必要になるのか……」
地伏の水流求むは探求ノ霊性。
瞬く間に大地が揺れ始め、辺りから水が噴き出し始める。
「湖を作るまでは容易いの。でも、亀裂から下へ皆零れ落ちてしまう。仮令、湖を成せたとしても、それが命を包み、新たな恵みへと変ずるには時間が掛かる。そして、それは人の手如きには負えない事」
湧き水が次第に足元を沈め始める。罅が閉じた訳ではない、霊気に依る強引な維持だ。
ミクマリは天を睨んだ。
「雨も、この地だけで巡らせ続ける事は出来ない。降っても降り過ぎれば全てを押し流すし、例え慈雨でも、そこへ生き物が居なければ無意味なの」
天霧り立ち上る玄雲。霹靂の欠けた瞑怒雨が降り始める。これもまた祈雨に非ず。
「余所見してるんじゃねえ!」
拳。目を閉じ躱し、涼しく鬢を揺らすのを感じる。
「火垂の巫女。貴女は破壊を祀る戦神の神輿なのですよ」
茜の袴花開き、衣翻し沓一閃。薄い湖面を水切りの石の様に跳ねゆく神輿の娘。
「もう、終わりましょう。人も神も大差無いものなのかも知れない。何かに縋るか、さもなければ身勝手に為るのかしかないのだから」
ミクマリは枯れた地を囲うであろう遠き山々を見回した。
「……下手糞が。腰が入って無いんだって」
ホタルは悪態を吐きながら起き上がった。衣は自身の炎で半分焼け落ち、立つ事まま為らず、小鹿の如き腿を晒しながら。
ミクマリは距離を詰め、掌底打ちを繰り出した。小鹿の瞳に炎再び燃ゆる。
掌底往なし打ち返される拳。衣の護りが打撃を愛撫へと変ずる。
ミクマリは嫌がらせの様に往なせる程度の力で打ち、相手の技は全て受ける。
事情知らぬ者が一見すれば一方的な身の熟しの差だが、結果は全てその逆。
格闘に自信のある娘は既に満身創痍。打ち合いは長くは続かない。茜の開花再閃。愈々身を起こす事叶わず。
雨が止み、青き空が覗いた。
「戦大御神よ、雌雄は決しました!」
空に向かい叫ぶ。
返事は無し。対戦者も倒れ、両手両足を広げて唯胸を大きく上下させている。
「……」
ミクマリは気を繰り、辺りの水気を総動員して水柱を編み始めた。
それは野太く、長く、切先鋭く、雲間を抜け天へと伸びてゆく。
霊気を練り、籠め、固め、唯一つの主張に意識を澄ます。
――私は戦いが嫌いです。それを愉しむ貴方が、嫌いです。
清らかな霊気を帯びた水矛は次第に神聖なる気配を纏い始める。
もっと高く、もっと鋭く。もっと清らかに。川神の水で結った提髪が再び解け、逆巻き、天を衝く。
――神も、人も、巫女も、何も変わらない。私達は森羅万象の子。蓋し、この役の名にも意味は無いのかもしれない。
「答えなさい、戦神。私が巫女だというなら、貴方が神だというのなら。絡まる運命の意味と答えを与えて頂戴!」
『その柱は何の心算か』
問いに返されるのは問い。威厳と神威の霊声が響いた。
山頂と変わらぬ強烈な圧。ホタルが呻いた。
「貴方に声を届ける為のものです!」
ミクマリは屈する事無く答えた。身体に漲るは小さくも同質の気。
『そうか。我に矛を向けている様に見えるが』
「私は争いが嫌いです」
睨む天。
『ははは、戦神を捉まえながら、良くぞほざいた!』
怒りの娘。余裕の戦神。
「希います。大地の傷を御塞ぎ願い申し上げます、私達の争いに意味をお与え願います」
『我が荒魂には其方達の戦いは物足りぬ。其方と同等の技量の神輿をもう一基仕度すれば、満足もいったであろうが……』
「……」
肩落とすミクマリ。所詮、天津神は天津神に過ぎないか。
尤も、演る前から結果は見えていた。それでも戦好きの娘の熱意に応える為に、敢えて戦い、敢えて水柱を以て神を呼び付けた。
『だが、約束は約束だ。演武の花は五分咲き。咲く黒雷も半分だけ散らしてやろう』
「それでは湖は……」
『案ずるな。荒魂満たされずとも、和魂は和んでおる。月無き娘よ、あの守護神は“まほろばの地を甦らす”と言っておったな?』
「……はい」
『里の守護神と巫女が地を離れ漂泊してるを見るに、お前達の邦は失われたのか?』
「仰る通りです。蘇生目指すまほろばの地とは、ここだけではありません。私の悲願は泯滅されし里を再興し、その地を争いと無縁のものとする事です」
『それは何者の手を借りても易い事では無いであろう。我が和魂を以てしてもな。それだけではない、其方は今後も数争いの海を数多と越えねば為らぬ。腰なづむ植え草薙ぎ払いて、麗しき國を築き、我に示す事が出来るか?』
「必ず。霊魂を懸けて挑んでおります。これまでも、これからも」
淀まぬ答え。
暫しの沈黙。
『……嘘を含まぬ様だ。為らば、残りの五分は後払いとしてやろう。我が和魂が隠れる様な事を成せば、全てが水の泡と為る事を努々忘れるでないぞ。運命編みし水分の巫女よ』
空が晴れると同時に、天から気配が薄らいでゆく。続いて大気に轟くは、地が揺らぎ岩が崩れ動く音。
ミクマリは気を失ったホタルを担ぎ上げると、罅割れた器から俊足の術を駆って退却し始めた。
綴じゆく大地。解かれる水の柱。満たされ始める在りし日の水辺。
「ホタル、起きて。終わったわよ」
担ぐ荷物に声を掛ける。返事の代わりに「糞、負けた」の声。
傷だらけの娘。駆けながらに治療を施してやる。傷は殆ど癒されたが、力を使い果たしたのか霊気が弱々しい。
気も少し分けてやろうかとも考えたが、自分が居る間は寝ていて貰った方が村も静かで良いかも知れない。
何はともあれ、どちらも死なずに神を動かす事が出来た。
「私の勝ちね」
娘は天をちらと見てほくそ笑み、神輿担いで知らせを待つ村へと急いだのであった。
火垂衆の村へと戻ると、その眼前に伸びて居た筈の亀裂もすっかり塞がっており、引き換えに幾つかの家が倒壊していた。
やや心配にはなったが、予め村々には地震の予告は済ませてある。因みに、方々への予告を届けるのに手間を省いたのは妹の音術だ。
家々の倒壊した村は泯びたかの様な有り様であったが、娘達を出迎える面々は、自らが死地より勇み帰ったかの様な貌をしていた。
ここに来るまでにも一つ二つの集落を通過したが、同様に人々は健在で、歓声で走るミクマリを後押ししていた。
「おお、ヒデリよ。生きて戻ったか」
一番に駆け付けたのはホタルの父、トムライ。
「その名前で呼ぶなよ、親父。死ななくても襤褸糞に負けたよ。ミクマリがその気に為ってれば、百回は殺された気がする」
ミクマリはホタルを降ろしてやる。振ら付きながらも地に足を付けた。……が、良く見ると彼女の右手がまだ赤く爛れている。
「ホタル。右手が治り切っていないわ」
「怪我をしたのか!?」
大声を上げるトムライ。娘を捕まえて揺さぶる。
「怪我なんていつもしてるじゃん。この怪我はミクマリにやられたんじゃない。結ノ炎の使い過ぎだ」
「自分で自分の身を焦がす程の戦いであったか。まあ、大事無い様で良かった」
父親はほっと一息吐いた。
「火で護るには限界があるみたいだ」
焼けた腕を見つめるホタル。
「傷、放って置くと良くないわ」
ミクマリが手を伸ばす。
「どうしよっかな……」
拒む霊気。
「何を悩む事があるの」
ミクマリが窘める。
「これ、少し跡が残る程度に治せない?」
「へ? 跡が残る様に? どうして? お肌が……」
ホタルの頼みにミクマリは間抜けた声を上げた。
「お肌って、今更だな。見てみろよ、あたいの身体」
自身の炎で衣を焼き、只でさえ生地の控え目なそれは、殆ど全裸と言っても差し支えなかった。
見える肌色の広くに肉の盛り上がりや凹み、何かの筋の様なものが沢山残っている。
「温泉の時に見なかったのかよ?」
「あの時は湯気が有ったし、自分の事で一杯で……」
「傷を見る度に思い出すんだよ。その時何があったかとか、何を学んだかとか、どんな相手だったとか。大体は覚えてるぜ」
無数の傷。その内の一つを愛おしそうに撫でる娘。
「……分かったわ。治すって言っても、治療を拒む心算でしょう?」
「あたいの事良く分かってるじゃん。流石、親友!」
親し気に笑うホタル。ミクマリは苦笑で返す。
親友。敢えて否定はしなかったが、返事もせず治療を開始する。
別に今更に拒絶の戒めを引っ張り出す気はない。単純に気が合わないので“お友達”位でお願いしたかっただけである。
ホタルの傷を愛でる仕草は何処か自身が妹を愛する時の仕草に重なった気がしたが、深くは追及しないでおいた。
「……はい、これでどう? 腕は引き攣らない?」
治療を凡そ終えて訊ねる。
「引き攣るけど、これは肉じゃなくて皮だから動かすのに支障はない。これであんたとの戦いも思い出に残った」
笑う娘。穴開きの白い歯列が眩しい。
だが、顔色悪く、直ぐに眉を顰めて振ら付いた。
「大丈夫? 血を流し過ぎたのかしら?」
「でかい傷は焼いて塞いだから、そんなに流してない筈」
肩口に大きな傷跡。醜く盛り上がった火傷の跡。これは演武の前は無かった筈だ。
「そんな無茶して! 無理に治すから痕に為ってるじゃない!」
「良いだろ、あたいの傷なんだから。腕の火傷は自滅の傷だからな。ミクマリに付けて貰った分も残さないとな」
言いつつも地に尻を付ける娘。
「大丈夫?」
「霊気切れと……多分、この“治療が原因”だと思う」
腕を指さし言うホタル。
「憑ルベノ水が?」
首を傾げるミクマリ。
「気付いてないのか? まあ、普通は一回ぽっきりだし分からないか。最初に傷を治して貰った時、酷く疲れたんだよ。それから……」
腹の音。
「腹が減る。普通、怪我や病気を治すのって体力が要るだろ? 飯食って寝てるのが一番だ。あたいは運動もするけど。……ミクマリはこれまでに治療が上手く行かなかった事ってないか?」
「霊気を拒めば治療も拒否出来るわ。前も言ったけど、失われて時間の経った身体も戻らないから、そう言う意味では失敗もある。だけど、それ以外では経験が無いわ」
『水術の治療は悪迄、身体の霊気や血の巡りを高めて治療を促すものだ。本人が余程疲れ果てていたり、死の淵にいる場合は治りが悪かったり、却って死に繋がる事がある』
師が割って入った。
「ゲキ様。治すと死ぬかもしれないなんて、そんな話、初めて聞きました」
命に関わる事なのに。見上げ睨むミクマリ。
『これまでに癒してきた怪我人達は、同じ村の仲間に手厚く介護されて来た者であったろう? 機会があれば話す心算だったが、失念していた』
「適当だなあ」
ホタルが呆れ声を出す。
――適当じゃない。多分、水術の治療が万能でない事を身を以て教える為に黙っていらしたのだわ。
どの道助からない人だとはいえ、その人が亡くなってから私に話す心算だったんだ。
本当に厳しい御方だわ……。私もホタルと同じなんだ。傷が残るのが身体か心かの違いで。
……でも、私は自分の傷を愛せそうに無い。
「教えてくれてありがとう、ホタル」
再び手を取り礼を言う。
「お? おう」
「ゲキ様。亀裂は閉じました。地下の水の引き上げも済んでいます。残す処、後は雨乞いの儀式だけです。今直ぐにでも始めましょう」
役目はまだ終わっていない。後は雨神を呼ぶだけ。勝ちを納めた今為らば、気分良く舞う自信がある。
『今は身体を癒せ。肉は傷付かずとも、お前も霊気を消費して、疲労しておるだろう』
「していません。寧ろ高まっている程です」
嘘はない。急かす様に気を高めて見せる。黒く艶やかに揺らぐ解き髪。「まじかよ」のぼやきが聞こえる。
『……お前、少し雰囲気が変わったか? 神気が……いや、その衣の所為か。まあ、焦るな。雨神を呼ぶにしても、この地の空には先程までは戦神が居たのだ。気配もまだ幽かに残っている。神同士は無闇に干渉をし合わない。雨神も戦神も天津神である故、気分が大きくものを言う。加えて、演武でお前達が散らした争いの霊気も未だ残っておるだろう。舞の披露にはそぐわぬ。暫し待って、気配の晴れを見てからの方が良い』
「そうですか……」
娘は残念そうに言うと、懐から唯の麻の紐を取り出し口に咥えた。唾を紐に浸み込ませながら髪を手で纏め、その気の籠った紐で提髪を結う。
途端に気が抜け、心がふわ付くのを感じ始めた。
「そうだそうだ。焦る事はないぜ。取り敢えず、上手く行ったんだから、祭りだ!」
ホタルは霊気切れと言った矢先の癖して、両手を上げて炎をちらつかせた。
「またそれ。今度火傷しても治して上げないからね」
「無い無い。他にあたいの腕が灼ける様な相手なんて、それこそ神かサイロウ位だろ?」
ホタルは炎を収め、傷痕残る腕を振り振り言った。
『ここから探知をしていたが、二人の演武は目を見張るものがあったな。探知を持たぬ者も気付いておったし、音もアズサの補助無しに響いて来ていた。恐らく、ミクマリが旅立ってから一番の実力を持つ人間であったのは間違い無いであろうな。戦神もお前達を認め、見事亀裂を閉じた訳だしな』
「やった。あたいの腕前はミクマリのお師匠からのお墨付きだ」
ホタルは無邪気に抜けた歯列を見せた。
「そうね……」
気分良さ気な二人を尻目にほくそ笑む。此度に神が助力を決定した理由は、演武の成果だけではないのだ。
「お墨付きでも、サイロウに手を出したりなんてしないでね。折角湖が戻っても、また壊されてしまったら元も子も無いのだから」
「分かってるって。暫くは戦いは休憩だ」
「本当に?」
懐疑の目で戦好きの娘を見る。その場限りで、明日には自分に再戦を挑んで来るのではなかろうか……。
「また、失礼な事考えてるだろ。あたいだって、ミクマリとの戦いでちゃんと得るものがあったんだぞ」
「なあに?」
「それは、“護り”だよ。ミクマリは攻めも凄かったけど、受けも凄かったからな。あれだけ強いなら、戦いが好きじゃなくてもやっていけるのが分かる。あたいは前の地蜘蛛の時も苦労したし、つい最近は森の神様にも叱られたからな。火力ばかりじゃなくって、使い方ももっと工夫してみるよ」
含羞む炎の娘。ミクマリも含みの無い笑顔で返した。
「処で、アズサの姿が見えないのだけれど。あの子も確りと役目を果たしたのだから、褒めて上げなくっちゃ」
辺りを見渡す。肉体や気が衰えずとも、矢張り戦いは戦い。一瞬、死の香りを嗅いだ事もあり、ミクマリは癒しを欲していた。
妹を探せば自然に手が撫でる動作を始めた。
『あいつなら、祝いの宴が決まったからお前に旨いものを食わせるんだと息巻いて、村の狩人共と出掛けて行ったぞ』
――可愛い子。
ミクマリは頬を蕩けさせる。
「何を食べさせてくれるのかしら」
『旨い芋虫や太い蛇を探すと言っていた』
「ちょ、待って!?」
焦るミクマリ。
『俺に待てと言われても』
「ははは、ミクマリは蟲が食えないんだ?」
笑うホタル。
「だって気持ち悪いじゃない!」
「この地の者は皆食べますぞ。見掛けが恐いのでしたら、見た目を誤魔化す調理法も御座いますから」
トムライも笑っている。
「ゲキ様! 私が食べられない事を知っていて、どうしてアズサを止めてくれなかったのですか!?」
ミクマリは髪を逆立て祖霊に向かって吠え立てた。
『そんなもん、面白いからに決まっとるだろう!』
涼し気に揺らめく翡翠の霊魂。
半壊した村にミクマリの悲痛な叫びが響き渡ったのであった。
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