巫行068 炎水
空高くに炎の巫女。彼女の立って居た筈の場所には残り火。
「飛んだ!?」
驚きも束の間、自身の足元に霊気の炎が爆ぜた。ミクマリも巻き起こる風に依って空へと打ち上げられた。
「カエデの術に飛ばされて思い付いたんだ。鳥の様に舞って戦うのも面白いんじゃないかって」
ホタルは次々と炎を爆ぜさせ、その勢いで宙を駆ける。
為らばこちらもと引き寄せた水で宙に足場を作り、赤立羽模す娘を追う。
空で繰り広げられる水と炎の撃ち合い。
ぶつかり合う術が水飛沫と火の粉を散らし、青空に白き輝きの花を咲かせる。
それから繰り返し咲く花は次第に雲を作り、僅かに小雨を降らし始めた。
「神様なんかに頼まなくっても、あたい達で雨が降らせられるんじゃないか?」
「水は散らしても消えてなくなる訳じゃないの。これは湖の水なのよ。他所から雨を運んで貰わなきゃ意味が無いの」
「そっか、そりゃ残念。でも良い事を聞いたぞ。詰まり湖の水を心配する必要もないって事だろ? 水は散っても後で集めりゃ良いだけだ」
地に足を付け睨み合う。
空に手を翳すホタル。その向こうの空に光がちらつくのが見えた。無数の火の粉。それらは次々と炎の蝶へと変じ、こちらへと向かってくる。
煌々と輝く蝶の群れ。炎の毒鱗粉が生まれ、それがまた蝶へと変ずる。
「綺麗……でも!」
雲を引き寄せ雨で蝶を打ち落とす。
背後に熱気。振り向けば迫る巨大な炎蛇。ミクマリは波繰り、蛇の首を落とした。
「術にばかり気を取られちゃいけないぜ」
炎の拳が水術師の顔を撃つ。乾いた音と共に爆ぜるミクマリの顔。残るは湿った空気のみ。辺りには揺らぎのない水鏡が乱立する。
それら全てはミクマリの姿を映し出す。
「囮か!?」
振り向く間もなく叩き付けられる水球。ホタルは蹌踉めきながらも、次々と水鏡を蒸発させてゆく。
その中、繰り返し叩き付けられる水球。だが、衣の火勢が強まり、躱すまでもなく水球を消し飛ばす。
「ちょっとはやる気になったみたいだけど、やっぱり受け身じゃないか。今の術だってもっと強く撃てただろう? 好い加減、あたいも怒るよ」
実像の前で怒りをあらわにする炎の娘。
「怒れば? 怖くないわ」
鏡の一つが挑発。相手の力分からず全力は出せない。
「言ったな。串刺しに為っても知らないぜ!」
足元を蠢くホタルの霊気。大地借りるは招命ノ霊性。本物のミクマリは咄嗟にその場から退く。
地面からそそり立つ土の棘。
「これは、“埴ヤス大地”!?」
「結ノ炎しか使えないなんて一言も言ってないぜ!」
ホタルが飛び掛かる。迎え撃とうと構えるが、またしても地面に気配。
炎を纏った格闘に加えて同時に土術。三種の技がミクマリを襲う。
回避、回避。拳を受け止めまた回避。
「避けるだけで手一杯かい?」
実の処ミクマリは、霊気を強く込めた水を肌に纏わせ、霧の衣の神威もあって護りを万全にしていた。
彼女の身体を突き動かしていたのは驚きと多少の恐怖であり――。
「避け方に代わり映えがないね!」
後方へ飛んだ先、地面に霊気。回避が間に合わない。
ホタルの顔色に一瞬の躊躇。それでもミクマリの股下から突き上がる土の牙。
しかしそれは、衣と霊気に阻まれ砕け散った。
悪迄、回避は心と体の反射。実際はその必要すらも無かった。
「やっぱり舐めてるだろ! そんなんで神輿が務まるかよ!」
大地借り、炎以ちて焼殺せしめるは招命ノ霊性。ホタルの立つ大地が赤く光り始めた。円状に広がる光の大地。
「土が燃えてる? 違う、溶けてる!」
霊気を込めた護りが白い湯気を上げる。瞬く間に足先に灼けつく痛み。
地に足は着けられない。再び水の足場に逃げる。
「あたいの取って置きだ!」
両手翳し術を繰るホタル。彼女の額には汗。異才の火術師が肝胆を砕く。
大地からゆっくりと、灼けて蕩く土の蛇が迫る。
それは近付くだけで次々と水の足場を打ち消し、水の蛇をも寄せ付けない。
霊気を込めた水弾を無数に打ち込むも、貫く事も叶わない。
離れていても、目を瞑っていても気付くであろう霊気と熱気の塊。
「恐ろしい術……」
だが蛇は鈍足。熱気の感じない位置まで逃げれば何も恐れる事はない。
それ処か、未だ必死の形相で術を繰るホタルは棒立ちだ。
「はあ……」
溜め息一つ。手の中で水弾を弄ぶ。溶岩の蛇を狙う振りしてホタルの頬を狙い撃つ。
狙い通りに頬の入れ墨を掠める水弾。
ホタルは慌てて蛇を操るのを止めて、その場から飛び退いた。
大地の赤熱が止み、溶岩の蛇は土の像に変じた。
「ホタル、私は貴女を見くびっているんじゃないわ。術比べと命の取り合いは別ものなのよ」
今度は額を狙い、水弾を指で弾く。
ホタルは首を曲げて回避。次が来るかと彼女はミクマリの手に視線を釘付けにしている。
横に、上に、背後に弾を作り遠隔で放つ。
ホタルは辛うじて気付いて身を捻るが、弾は肩を穿ち、露わな脇腹も血に染め、炎の衣を爆ぜさせた。
――後で治して上げなきゃ。いつか自分もこんな風に水の弾を浴びせられたんだっけ。
あの湖上での戦いも命懸けだった。でも今は乾いた湖で、私へは死の気配は迫りそうもない。
殺す気はない。仮に、簡単に殺しても多分戦神は満足しないでしょう。
「ホタル、貴女やゲキ様も心配していたけれど、神輿に相応しくないのは私じゃないのよ。一緒に神様に謝りましょう。貴女のさっきの術なら、時間を掛ければ大地の亀裂を埋める事が出来るかもしれない。演武でない他の手で行きましょう」
「またそうやって!」
白熱する地面。舞い上がる火の粉が蝶に変じ、無から産まれ出る無数の炎蛇。
揺らめく枯れた大地。空に村。遠方にさかしまの山。無数の炎と宙に佇む水気が、狂った場景を映し出す。
ミクマリは空に手を翳すと、戦いで消費した水気を全て雲に変じ、雨を降らせた。
霊気の籠った無数の水滴が炎で作られた傀儡達を弱らせる。
爆ぜる音。火術の点火による跳躍か。読んでいた、燃える拳は水術師の掌の中。
「糞っ!」
燃える拳に伝わり続ける霊気。炎が一層固く結ばれ、火術師自身の拳を爛れさせ始めた。
「止めなさい、ホタル!」
それでも火勢弱まらず、次第に水の護りを破りミクマリの掌も焼き始める。
「止めるか。止めてやるもんか。あたいは命を懸けてるんだ。この戦いを戦神様に捧げるんだ!」
「そんなに戦いが好きなの? 理解できないわ。貴女も、戦神様も」
「好きだよ、大好きだ。あんたが争い事が好きじゃない事は知ってる。それでも斯うして闘り合ってくれてる事には感謝してる!」
「もう止めましょう」
燃える掌を押し返すミクマリ。
「厭だ! 放さない。放さないぞ!」
ホタルは拳解き、逃がすまいとミクマリの指に自身の指を絡めた。
「あんた。この地を甦らせる心算で来たって言ったじゃないか。多くの生き物の命を救うんじゃなかったのか」
握る力が強くなる。
「そうよ」
呼応し強く握り返す。
「それだって、自分の復讐や里の再興の為の練習位にしか思ってないんだろ。要はこれまでの事は全部、嘘だ」
「そんな事ないわ! 貴女だって戦いたいだけでしょうに!」
霊気を込めた握り込み。ホタルの手が歪み音を立てる。雨音切り裂く苦痛の声。
「怒ったね。あたいは確かに戦いたい。だけど、“それだけ”じゃないんだぜ。こんなでも村長だし、詰まらない戦いをして、サイロウに抵抗してまで、他の村の連中を護ってやってるんだ。この演武だって、神様に認められたいとか、あんたと戦いたいからやってるのは間違いない。……だけど、この地の為だって事も、嘘じゃない!」
ミクマリの手は振り解かれ、焼け焦げ折れた一撃が飛来する。その拳に護りを破る力はない。攻撃を加えた側の手が厭な音を立てた。
「あたいはどっちにも命を懸けられる。あんたは戦いが厭なのを言い訳に、目の前にあるこの地を救う手段を棄てようとしているじゃないか。この、嘘吐き!」
――嘘吐き、か。
見当たらぬ否定材料。いつの間にか治療を忘れて焼け焦げた右手。反し無傷の左手。嘗て血濡れた手を想い出す。
腕の無い女が自身の命を以て教えた事は何だったか。
叢雨過ぎ去り、灼ける日差しが湿った空気を立ち上らせる。咽る様な土の臭い。
「死ぬまでやってやる」
距離を取るホタル。集まる霊気と熱気。両手から吐き出される炎蛇。
返す水蛇。
二匹の蟲がぶつかり圧し合う音。遠くから太鼓の音が聞こえる。
「手緩いわよ」
気圧を強め白い飛沫が火術師の方へ迫る。
「まだまだぁ!」
再び圧し返される。また、遠方の村より腹に響く鈍い音。
散る水集めながらの押し返し。火は一向に収まらず、徐々に水術師へと迫る。
「本気に為れよ。この偽善者!」
挑発するホタルの足元の土が溶け始める。彼女の纏う火焔の衣も一層猛り狂った。太鼓の音が乱れ撃つ。
水の蛇が次第に痩せ細り始める。一方火の蛇は肥え太り始める。
「嘘じゃないわ。皆の事救いたいのは!」
僅かな水に霊気を込めて、蒸発を防ぎ火の勢いに耐える。
それでも水流から散った飛沫を使い、火術師の身体を狙う。しかし水弾届かず。霊気を込めた炎の衣に遮られる。
更に威力を増して狙う。それでも届かぬ水。
「ホタル……もう、死んでも知らないんだから!」
加減無し。発声と共に練り上がる霊気。水の許容を越えた厖大な気。光り輝く水蛇。
視覚と聴覚が白に包まれる。
ミクマリは衣で熱風から顔を守り、爆発が収まるのを待つ。
景色よりも先に現れたのは熱気。ゆっくりと這い寄る、溶けた大地の香り。
白は赤へと変じ、溶けた土がミクマリを抱き込んでいた。熱に覆われる景色。
――水蛇が消えた!? 途轍もない熱量だわ!
繰り返し使われた水は次第に散り、風と共に遠くの地へと運ばれたか。灼熱の塊が迫る。
咄嗟に取り出したるは水色の勾玉。
いつかの焦れったい神気を孕んだそれは砕け、無から水を生み出した。
だが、暴れる流れは溶岩の胎の中で娘の身体を激しく揺るがし、危うく溶けた壁へと近付けてしまう。
髪の焦げる臭い。ぷつりと髪を結わえた糸の切れる音。
――そうか。私、髪が傷付けられるのが厭なんじゃなくって、この臭いが嫌いだったんだ。
嘗て里が燃えた時。冬より寒く、夏より暑き季節に、鼻を衝き続けていたあの死の香り。
脳や胃の腑が震える。香りに付随するは無残の記憶。燃える知人の亡骸や、身体に火が点き恐れ戦く子供の姿を思い出す。
これまで、唯単に泯びだけを謳った記憶。単純に惨い、哀しいとだけ語ったそれ。
残虐の詳細には瞼を閉じた振りをしていた。自身の髪焼く臭いが、封印されし委細を鮮やかに甦らせる。
失われた命達は、何かへ賭けた訳でもなかったものだ。ミクマリは反芻する無残の記憶に唇噛み切り、血を流した。
何の謂れがあってそうならねば為らないのか。勝手な部外者。黒衣の地蜘蛛衆。
勝手は人だけに非ず。
天津神は対価を求め、高天も黄泉も己の役目ばかりに夢中だ。
守護神さえ苦労を押し付け、多くの国津神が難事として己に立ちはだかった。
自身の助けと為る筈の水は今はさかしまに焼けた土へと押し流そうとしている。
誰しもが剋し合うばかりなのか。
「やっぱり嫌いよ」
呟き、血の唾を吐き棄てる。混ざり合う神気と霊気。神の水へと溶け込む穢れ。
神の気剋し、従えるは人ノ性質。
巫女の領分を超えた力が濃き神気の濁流を操り、死を伊邪那美う土を鎮め始める。
尚、無より溢れ続けるは神の水。
温き水に身を委ね、神の水で糸を編み、乱れ散った髪を再び結わえる。
以前、師から聞かされた事がある。巫覡は神に仕えるだけでなく、その代理なのだと。
故に人々は穢れ事を行う巫女を崇め奉るのだと。
――今の私達は神輿としてぶつかり合っている。だけど、私は戦神の代理なんて真っ平だわ!
屈服した神気を自身に取り込み、気魄を込めた発声と共に溶岩の壁を弾き飛ばす。
「まじかよ! 殺っちまったかと思った!」
安堵交じりの驚愕。
死の抱擁から脱したミクマリは、眉一つ動かさず斯う言った。
「本気で御相手致します」
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