巫行067 神輿
「鹿、鹿、角何本?」
頭の上に両手を翳した童男が声を弾ませ訊ねる。
「え? 二本やろー?」
「違うよアズサちゃん。角の数やなくって、枝の数を数えるんや」
「成程なー。じゃあ……六本?」
「外れー!」
「えー? 何でなん? 六本やろー?」
「薬師指は半分しか立ってないし、五本と半分やでー!」
「はー! ずっこいわー!」
「狡やないで。鹿の角と木の枝はよう間違うようになっとる。枝の真似して隠れるんや。良く見て騙されんようにせんとあかん。おとんが言っとった! 狩人の基本やで!」
「ぐぬぬ……」
遊ぶ子供達。和やかな風景を見つめる瞳は曇り空。
――結局、戦いか。
戦神の要求に応える為、ミクマリとホタルは決闘を行う事と為った。演武とはいえ、神が望んだのは命のぶつかり合い。
『内容にさえ満足すれば、死を以ての結果で無くとも良いだろう』とゲキは言ったが、それでも決闘は決闘。慈愛の巫女の心は晴れない。
相手は意見が合うとは言えないものの友人であり、この地の防衛戦力の要。
ホタルの気質からして間違いが起っても怨まれる事はないだろうが、自身の心や新たに出来る大地の潤いに大きな染みを残す事に為る。
――はぁ。
幾度目かの憂鬱を胸中に響かせる。
演武の件は関係者各位に伝達済み。神輿の一人であるホタルの父も快諾。張り切って男手自ら祝い飯の仕度を始めた。
もう一方の友人であるカエデは心配こそしたものの、森の神の神和だけでなく、「火の神もお相手しなくては」等と言った。
降臨の場で気を失っていた妹は心配すらせず、舞台より離れたこの地で鼓を叩き、その鼓舞の音を音術で舞台や祠へ届けると息巻いている。
舞台。戦いの場は枯れた湖を予定。戦神の祠から見下ろす事が出来、住民達の避難も予め済んでおり、戦いで荒らしたとても後は湖底に沈むだけの地だ。
「また、溜め息か? ミクマリは昨日からずっとそれだなあ」
「死ぬかもしれないのよ?」
「あたいがか? ミクマリがか? 言っとくけど、あたいの結ノ炎が……」
「何度も聞いた。どっちもよ」
「死んだら死んだでしょうがないさ。その時は遺った方が相手を寿ぐんだぜ。黄泉は臭いらしいから、ちゃんと高天へ送ってくれよ? あ、でも相討ちに為ったらどうしたら良いんだ?」
「ゲキ様が探知していてくれるから平気。あの方は生前は私よりも優れた男覡だったのよ」
「へえ。戦ってみたかったなあ。強い男は好きだ。弱い奴はお断りだ」
歯抜けの笑顔を見せるホタル。彼女は先程も挑んで来た村の男達を伸していた。
命懸けの儀式を目前とした為か、契りを申し込む男の数は両手両足で数えても足りない程であった。若者だけでなく、年寄りや何故か女、村民だけでなく嘗てのサイロウの手の者もいれば、過去に圧倒的な敗北を経験した者も混じっていた。
「ゲキ様は性格が悪いわよ」
「関係無いね。強けりゃ良いよ」
「強くて性格の悪い男と言えばサイロウだけど、彼みたいなのでも良いの?」
「良いさ」
「どうして? 酷い王じゃない。それに、この地をこんな風にした張本人なのに。皆にだって恨まれてるでしょう?」
「そうだな。だけどさ、サイロウの嫁さんに成れば、そんな事も止めさせられるかもしれないぜ? 男は女に頭が上がらないもんじゃん? あたいの村じゃ大体そうだよ」
「そんな事、考えもしなかったわ……」
「巫女と神との関係も夫婦に似てるって良く言うよな。ミクマリだって、鬼に成り掛けてる守護神に仕えているんだ。似たようなもんじゃないか? ま、あたいはサイロウを止めるより、くっ付いて一緒に強い奴を探しそうだけど……」
言われてみればと考え込むミクマリ。自身がゲキの鬼化を抑える行為と、夫婦と成りサイロウの暴虐を食い止める行為は似ている。
――だけど、共に歩む契りはそんなものではないでしょうに。
結婚って言うのはもっとこう、穏やかで、幸せで、熟した橘の実の様に酸っぱくて。
……等と考えて腕を組み唸る。
『確かにホタルは才があるが、お断りだな。俺は長い黒髪が好きだし、歯抜けも嫌いだ。同じ抜けておるなら間が抜けている方がましだ』
翡翠の霊魂が現れた。
「ちぇっ、振られちまった。この村じゃ歯を抜くのは当たり前なんだけどな。何か、この村を興した人達の故郷での習わしらしいよ」
『神の恩寵にも関わらぬのにそんな事をしておるのか。非合理的だな。肉を食うにも苦労するだろうに。その歯の件だが、トムライから伝言を預かって来ておる。今の内に済ませて置け、との事だ』
「何だよ。今の内にって。親父まであたいが死ぬと思ってるのか?」
『俺も思ってるぞ。うちの巫女に勝てる筈がないからな』
「そんな事言って。後で泣いても知らないぞ」
『生憎、俺には目が無い。霊魂には血も涙もないのだ』
「正に鬼だな。ミクマリが死んだら鬼に成っちまうんだろ? そしたら、あんたとも戦えそうだな」
ゲキを見上げ睨むホタル。
『やってみるが良い。……尤も、このマヌケ娘の様子では有り得ぬ話でもない気がするが」
「そーだな」
二人は溜め息を吐いた。
ミクマリは二人のやり取りをぼんやり眺めながら、まだ何かぶつぶつと独り言ちている。
「ミクマリ。あたい達は冗談でこんな話をしているんじゃないんだぜ。仮にあたいに勝てる自信があったとしても、手を抜いているのがばれたら戦神は怒るだろうぜ。そうなったら、誰の為にもならないんだからな」
背中が叩かれる。
「じゃ、あたいは歯抜きの儀式を済ませてやるかな。飯の前だけど良いのかな……?」
ホタルは村の奥へ去って行く。
『俺も泣き喚く童男の見学へ行こう』
守護霊も続く。
ミクマリは未だに決意し兼ねていた。
――戦いは嫌い。戦いたくない。でも戦うしかない。身に入らないわ。
独り残され心寒く為り、二人の後を追う。
犬歯を抜く成人の儀を眺めながら、これまでの戦いを振り返る。
悪霊の祓、乱暴者の捕縛、神からの決闘の強要。どれも望んだ戦いではない。我がままなのは分かってはいるが、そもそもそういう事が起こらない様にと多くの学びを得て来た筈だ。
悪人や戦士だって、自身の死や痛みを望んでる訳ではない。
――死や痛みを望む者なんて、どこにも居ないわ。戦神様は他者にそれを求めるのだから、性悪にも程があるわ。
「ホタル様! 僕は痛み止めの薬無しでやります!」
儀式に挑む少年が息巻いた。見守る村人から歓声が上がる。
「おーし、良く言った。まあ、アズサが薬をこさえてくれなきゃ、元々儀式に回せる痛み止めは無かったんだけどな」
対峙する巫女は満面の笑みで尖った石と木槌を構えた。
「大人に成ったら、決闘を申し込んでも良いですか!?」
少年は頬赤らめ、叫ぶ様に言った。
「いいぜ。あたいの演武が済んだら、一番に相手をしてやるよ。ほれ、横に為れ」
ホタルは少年を仰向けにし、その上に跨った。彼の口に尖った石を宛がい、槌を振り上げる。
「歯を食い縛るなよ。他の歯も一緒に抜けちまうからな。最後まで泣かなかったら、決闘はあたいの方は霊気無しでやってやるよ」
振り下ろされる槌。
硬い音が響き、少年の身体が跳ねる。彼の顔は見る見る内に紅潮していく。
「めっさ痛そうやわー……」
見ているだけで痛みが伝播したか、アズサは手にしていた痛み止めの薬の入った器を落とした。
「後一本、来いっ!」
半分大人の彼が叫ぶ。瞳はやや潤んではいたものの雫は零れず。
「やるじゃねえか!」
群衆から再び歓声。それと太鼓の一鳴らし。
硬い音。青年は肩眉上げ、眉間に深い皺を刻む。口から赤い血滴らせたが、涙は堪え抜いた。
大歓声。観衆の後ろで祝火が上がる。
「ほんとに泣かなかったか。酷いのだと、一本目で逃げ出すんだけどな」
感心する村長。彼女は人差し指を立てている。その先には小さな炎。
「後は傷を焼いて終わりだ。他の連中みたいに、あたいの指を噛むんじゃないぞ」
青年の口に差し入れられる指。彼は令された通りに村長の炎の指を優しく受け入れて見せた。
流石にこれには誰しもが驚いた様で、歓声ではなくどよめきが辺りを流れた。
青年は無事に儀式を終え、未だ跨ったままの娘を見て同じ歯抜けの表情を見せ合った。
「ホタル様。決闘、愉しみにしています」
「あたいもだ」
彼女は青年の上から退く。青年は一礼すると群衆の中へ戻って行く。他の大人共が彼の少し大きな背を祝いを込めて叩いた。
「へへ、こういう訳で、あたいは死ねない。ミクマリ、あたいはな、強さってのは体術や霊気だけじゃないと思うんだ。……あんたは本当に強いかい?」
ホタルは視線を青年からミクマリへ移しながら言った。
見つめ合う神輿の娘達。
「私は……」
ミクマリは目を逸らし、ホタルは肩を落とした。
神前に献上する演武の前夜祭。人が人の為に祝う宴。
結局、神輿の一人であるミクマリは戦いに迷いを抱えたままに一夜を明かしたのであった。
乾いた大地。干上がった湖には無数の黒き稲妻が巣を張る。
触れれば塵と化す雑草。死して久しい獣の残骸。土に張り付いた在りし日の湖の幸。
この地に、命ある者は唯二人。
日暈背に戦神に命の炎捧げんとする焔の巫女。
対して日を拝むは迷い水。未だ覚悟決めやらぬ水分の巫女。
二柱の神輿の間を駆け抜けるは穏やかな真風。軽き栗毛を揺らすも重き濡れ髪は揺らがず。
晴天遥か彼方、幽かに感じる戦慄の神気。
舞台の上に言葉はない。
唯、互いを剋さんと霊気磨き燻ぶらせ、始まりの響き音を待つのみ。
――どん。
天地揺るがす霊気の音が駆ける。
先を切ったのは炎の巫女。火走り、黒煙上げながら迫り来る。
瞬く間に詰められる距離。ミクマリの眼前には既に炎の蹴撃。
神威の袖で受け止め、更に短き間に脇腹へ掌底を打ち込む。
「全く、その水術は狡いぜ。あたいより後から動いても間に合うんだからさ」
叩き込まれる拳の連打。それら全てを包む様に押し返す。
ミクマリの手首が捕まれる。燃え上がる二人の手。傷は生まれて直ぐに消えるが、痛みが娘の身体に逃げを促す。
敵の前蹴りが鳩尾にめり込む……よりも早く後方へ。
「水を使いなよ。地面の下に霊気を流し込んでいるのは分かってるんだぞ」
不満気なホタル。
「分かったわ……」
無傷の腕を痛みの残響と共に天へ翳す。揺れる地面。罅割れの大地が開き、水の大蛇が召喚される。
「そうそう。そう来なくっちゃ。為るべく派手な技で行こうぜ!」
日照る空気が更に乾く。焔の入れ墨光らす娘の両脇に二匹の炎蛇。熱が生み出す風が二人の対の髪を激しく震わせた。
水蛇の腹と喉元に食らいつく炎の牙。だがそれは、破裂音と共に僅かに白き蒸気上げるに留まり、消滅した。
「まじかよ。二つ出したのに! だったら、でかいのだ!」
続いて更に巨大な蛇。これが畠を走れば農夫は首を括り、山には道が出来るだろう。
炎の顎が水の蛇を呑み込む。だが大蛇は腹を割かれ、中より出る瀑流が炎の術師へと到達する。
ホタルは燃える両手で受け止める。炎の衣の火勢が弱まり娘の身体は遠くへと押しやられて行く。
「籠った霊気の量が違うわ。この地の水を無駄遣いする気はないの」
呟く水分の巫女。
炎で地下水が散ってしまえば、湖の形成に悪影響が出るかもしれない。故に水量よりも霊気の質で勝負を掛けた。
遠ざかる水の蛇。白い爆発。水蒸気の中から睨む入れ墨が迫る。
瞬間。背後と上空の二か所より霊気。多方位からの火柱がミクマリを襲った。咄嗟に地下水を噴き上げ熱から護るが、拳闘士の連打が肉を叩いた。
「霊気で身体を強くしても、反射が遅いんだよミクマリは。何も考えてないんじゃないか?」
笑みと共に忠告。
――そんな事ないわ。
これまでに演じた死闘では、常に策を弄し続けてきた。
正直な処、いつの戦いだって開幕で対戦者の額を撃ち貫く事は出来た筈だ。だが、単に相手の肉体を破壊するのが目的ではなかった。
此度の戦いも同じだ。
それをさせないのは、自身の憑ルベノ水は癒し包み込むものであり、穿ち剋すものではないとの自負。
一方、策を弄さないのは、愚直な炎の娘にはそれへ対応する力が無いと侮っての事だ。
「あたいの事、信じてないんだろ」
この場に相応しくない哀し気な一言。
「頭が悪いって思ってるんだろ。やる気が無いだけで、本当は雑魚程に思ってるんだろ!」
爆ぜる音と熱気。見えない一撃がミクマリの腹を撃った。腸の滑る感触。
腹を押さえ蹲る。
ふと、ホタルの身体から炎と霊気が消えた。
「あんたの霊気を探った時は信じられなかった。驚かない様にはしていたけど、こんなに強い奴が居るなんてって思った。内心じゃ、あたいは誰よりも強いと思ってたから、正直悔しかった。本気でやり合いたいって心の底で思ったのは初めてだ。地蜘蛛の術師も強かったけど、あれは村を護りながらの戦いだったからだ。本気を出したら敵は斃せても村ごと焼いちまう。手加減をしなきゃいけなかったのは、あんただけじゃないんだ」
玉響の間に練り上げられる炎と気。
ミクマリは考える間も無く痛みを押し退け退避し、大地から大量の水を引き摺り出した。
――殺気。
「ミクマリ、あたいはあんたの強さを信じる。だから、あんたもあたいの事を信じてくれ」
殺意と親しみを込めた視線。決して和む事の無い二対の感情。
その均衡を大きく崩した後、炎の術師の身体が熱風と共に掻き消えた。
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真風……南風。