巫行066 戦神
一行は暫しの間、神の出湯を堪能した。
「ホタル、行くわよ。早く衣を着て頂戴」
ミクマリは未だ裸体を晒したままの娘を促した。ホタルは裸のままで岩盤の上に俯せになっていた。彼女の引き締まった臀部が湯気で見え隠れしている。
「岩が丁度良い感じに冷たくて、気持ち好いんだよ。温泉、気に入ったなあ。うちの村にも出ないかなあ」
「火術で温めれば良いんじゃないかしら?」
「その手があったかあ。でも、透き通った湯じゃあ、何か違う気がするなあ」
ミクマリも湯に身体を浸すのを気に入っていたが、確かにホタルの言う通り、湯に溶け込んだものに意味がある気がした。
水術でも時間は掛かるが水を湯に変ずる事は出来る。
だが、湯が濁ってなければ落ち着いて身を浸して居られないだろう。彼女もまた、里を興す時には欠かさず地下を探らねばと心に決めた。
寄り道を終え、戦神が祀られている祠を目指す。
祠への路は、切り立った岩壁や何処からか転がって来た巨大な岩等が点在する硬い大地。緑の姿も見当たらず、乾いた老木が苦し気に枝を伸ばしているばかりである。
土草の地面と違い、人の手を入れるのが難しいらしく、祠への道のりは険しい。
申し訳程度に用意されたの石の階段を上り、鈍い童女が這い上がるのを時折手伝ってやりながら上を目指す。
「まじか。あたい等はあんな処で暮らしてるのかあ」
岩巓より見下ろす風景。低い峯を一つ隔てた向こうに、嘗て湖のあった地が横たわる。
潤いの名残、罅割れた瘠土が虚しい。
「あの罅を塞いで、もう一度大地を甦らせるの。それから雨の神様の一端を呼び戻すわ」
『嘗ては、この大地も湖面の光とその恵みを受ける緑に輝いていたと云う。これはこれで風情のある景色だと思うが、矢張り物悲しいな』
「また見栄えが良くなったら来てやるかな。温泉を愉しむ序でにさ」
軽口を叩くホタル。だが彼女の大地を見る目も何処か寂し気だ。
「姉様、旅が終わったらうち等もまた一緒に来よーな?」
アズサが見上げて笑った。
「そうね」
――旅が終わったら、御世話に為った人達にまた逢いに行きたいな。
漂泊はそれ程は長く無いものの、想い出は掬えば零れ落ちる程に多い。
旅はまだ半ば、これからも記憶は雪の様に降り積もるであろう。過去を顧みるのは未だしや。
『もう一息だ。俺からは祠が見えるぞ』
頭上でゲキが言った。
一行は残りの一歩を詰め、更に見晴らしの良い岩峰に立つ祠を前にした。
「ほんとにここに戦神がいるのかよ?」
ホタルは怪訝そうに言った。時折吹く強い風に吹き飛ばされそうな襤褸屋。
「もう少し、ちゃんとした祠を仕度して差し上げたら良いのに」
ここまで碌な材料が持って来られない所為か、以前に建立に携わった竹林の祠と比べても見劣りが否めない。
一度は修復が為されたそうだが、素材が粗末な為に荒らされた直後だと言われても首を傾げる者は無いだろう。
「それで、どうやって戦神を呼ぶんだ? 何か捧げものが要るとして、何も用意してないけど」
『取り敢えずは祈るしか無いな。可能であれば、この祠を新しいものに建て替えるか?』
「舞で呼びますか?」
『舞は雨乞いに使うのだろう? 短期間で同じ演舞を行っては神も喜ばないと思うが』
「また登るのはかなんわ……。呼び掛けたら御出でませんかいなー?」
旅慣れて来たとはいえ、童女が挑むにはこの岩の峻岳は厳しい。
だが、アズサは汗を滲ませながらも、両手を口に添えて愉し気に「やっほー」とやった。
僅かに霊気の籠った声が山々を木霊する。
『小煩い童女だな』
すると天から霊声。それから神気の圧が辺りの乾いた空気を瞬く間に重くした。
巫女達は岩の地面に膝を突く。
産毛を引き抜かれる様な戦慄。乙女達の小さな悲鳴。戦士も居ないのに鬨の声が脳裏を過ぎり、稲妻が瞼の裏に浮かぶ。
『本当に呼ばれて御出でなさったか』
ゲキが言った。彼の声も普段より重々しいものだ。
『見てはおった。普段より戦を治める祈り以外を受ける事が無い故、其方達の様な来訪者は珍しい』
戦神。慇懃な壮年の男の声。
『古ノ大御神よ。ここからもあの不毛の地が見ゆるでしょう。我が巫女はこの地の惨状を慮り、あの地を繋ぎ、豊水の地を取り戻し、愚王の手に依って神退った空に再び慈雨を取り戻さんとしているのです』
やうやうしく語る祖霊。
『愚王。豺狼の手の者は我が祠を荒らした。嘗て、我が乙女の床のべに置き去った剣を求めての事であろう』
『神器を求めてですか。高天に唾する不逞の輩め』
『残念ながら、我はあの剣を疾うの昔に失っておる。この祠も荒らされはしたが、元より大した意味を持たぬ物。我は今は唯、この地で人の世を眺め、詩を詠む事を愉しみとしておる。まあ、戦を司る神だ。詩歌は遊びに過ぎぬが』
戦神と守護神の会話。巫女達は立ち上がる事は疎か、ミクマリですら呼吸をするので手一杯に為っていた。アズサに至っては既に気を失ってしまっている。
敵意は感じないのに、いつかの化け蛙の母よりも遥かに強い神気。
『この地で詩歌は面白くはありますまい』
『うむ。花鳥風月の寂しき地だ。荒野は荒野で風情があるが、一度詠めば飽いてしまう』
『為らばどうでありましょう。巫女の願いを聞き届け、死と虫食の地を再びまほろばの里へ甦らす力添えを頂けませぬか』
『……“まほろば”か。良いだろう。だが、御調を約束事とする以上、只でとはいかぬ。多くの命を繋ぐ事業の礎となる大仕事である故、それなりの対価が必要だ』
――対価。
『御神の仰せのままに』
ミクマリは喘いだ。ゲキ様は簡単に話を運び過ぎだ。戦神に好きに対価を決めさせるなんて。
『我の願いと言えば、そう多くはない。失せ物探しをして欲しい処だが……』
『失せ物とは?』
『剣だ。嘗て妻の許に置き去りにして失われた剣を取り戻したい。或いは、我を産むに至った大刀をこの目で見てみたい』
――それなら何とかなるかも知れない。良かった、生贄を要求されたら私は……。
『どちらも失われて久しい。我が卜いですら霧掛って見えぬのだ。しかし、人の力で見つけ出すには時が掛かり過ぎるであろうな。この地を長く放って置けば、我も退屈が過ぎ荒魂を抑えられなくなる』
『戦大御神の和魂隠れられれば、世は戦乱に包まれますな』
『うむ。痩せた地や汚れた水は死と病を呼び、餓えは生きとし生けるものに輩殺しをさせる。たたなづく禍根は母の喜びと為ろう。それもまた愛だが、その先に覡國に残るものは余りにも侘しい』
『では、何を望まれますか』
『我は常磐の倦怠に重ね、仮初めの住まいとはいえ、祠に乱暴を働かれた故に虫の居所が悪い。自身でも荒魂を抑えるのに苦労しておる。とは言え、我と剣を交えられる者は三國合わせても数える程。戦えば地の裂け目処の話ではなくなる。故に、其方達に頼みたい。我の渇きを満たす命の求め合いが観たい』
――結局は、人の命。
『命と霊気の輝きは、人の持つものの中で何よりも美しい。猪鹿遊び鳥蝶舞う山紫水明との引き換えに相応しいであろう。大地の瑕は我が乾きの満ちに応じて閉じてやろう』
『決まりですな』
『詳細は小さきまほろばの守護神が決めよ。当てはあるのであろう? 我はこの地から動く気がせぬ故、戦いはここから見える処で起こせ。では、愉しみにしておるぞ』
荘厳な神気は木霊と共に消え去った。
圧から解放された娘達は水面から顔を上げる様に息を吐き、暫くはその身を地に伏せ続けねば為らなかった。
「いやあ! 魂消たなあ! あわ良くば一戦御願いしようかと思ってたんだけどな。くさめ一つでやられちまいそうな位の力の差だったよ」
ホタルが身を起こす。
『あれでも相当力を抑えていた様だ。荒魂のままで降りると俺すらも碌に口を利けなかったであろうな』
祖霊の魂が震える様に揺れた。
ミクマリも起き上がり、倒れたままのアズサの身体を検める。
『アズサは無事か?』
「はい」
脈はある、呼吸も穏やか。眠っているだけだ。
『そうか、それなら良かった。楽に事が運んで良かった。万事上手く行きそうだな』
「何がですか? 戦神様は命を要求為さったのですよ。それを何一つ提案も無しに受け入れて!」
ミクマリはゲキを見上げ睨んだ。
『古の戦神に意見等が出来るものか。それに、“命そのもの”の要求はしなかっただろうに』
「命の求め合いと言いました。殺し合いでしょう? この地で戦争を起こせという事でしょうに! “当てがある”とはどういう事ですか? まさか、この地の方々とサイロウの手の者を再び戦わせようと御考えなのではないでしょうね!?」
『怒鳴るな喧しい。痩せた素人に戦わせれば敗北必至。火垂の衆に任せればこれまでと同じで楽勝。況してやサイロウが戻ればそれも圧倒の結果に終わる。戦神が求めたのは命と霊気の輝きであって、一方的な殺戮ではない』
「手加減や寝返りを計算に入れた戦いでもないよな」
ホタルが口を開いた。彼女の頬の入れ墨が揺らめいて見えた。
『ホタルよ。戦の申し子であるお前為らば、神の望みが理解出来るな?』
「ああ、血沸き肉躍る戦いが観たいって事だろ? 数の大小や勝負の結果なんて問題じゃない。やり手とやり手同士の霊気のぶつけ合いだ」
「それって……」
――嫌な予感がする。
「愉しみだなあ、ミクマリ! 神に捧ぐ演武とはいえ、命を懸けなきゃな。村の者も呼んで、歌や踊りで盛り上げても良いな。もう、我慢出来なくなってきた!」
独り盛り上がる娘の辺りにちらつく火の粉。
『この地の護りを代表する火垂の巫女と、恵み齎し水分らんとする張本人であるお前。この件に於いて演武の神輿として担ぎ上げるのに、これ以上に相応しい者は存在せぬ』
「私にホタルと戦えって仰るのですか!?」
『そうだ。不都合があるのか?』
「あります!」
『お前が忌み嫌っていた他者に死を約束をさせる柱立てでもなく、お前達の魅せ方と力量次第で結果の如何が決められるのだぞ。この地の人や獣の命全ての対価がそれだ。願って得られるものでもあるまい』
「でも……」
ミクマリはホタルを見た。普段よりも一層無邪気で克、親しみの籠った視線が返ってくる。だが、鋭い霊気は肌を焦がす様に燻ぶっているのが分かる。
「念の為に言っとくけど、水と火だからって簡単にあたいに勝てるなんて思わない事だよ。あんたが強いのは初めて逢った時から気付いてる。それから、あたい相手に本気を出す気が無いって事も」
「殺し合いは出来ない」
「あたいは出来るけどな。この地を取り戻す為に親父にくっ付いて戦ってきたけど、殺生は避けられなかった。仕方無しに敵を殺しもたし、知り合いも死んでる。皆、折角生き延びたのにさ、このまま、枯れて終わっちまう何て、勿体無いだろ?」
「ホタル……」
『此奴も人を束ねるものであり、過酷な運命を紡ぐ者なのだ。お前はどう答える?』
――やるしかないのね。
炎の村の長の視線を受け、里の再生を誓った巫女は静かに頷いた。
「良し良し。そう来なくっちゃな! ……それにさあ! あんなに凄え神気を持った戦神様の神輿に選ばれたんだ。命を懸けるっきゃないよなあ!」
腕を振り上げ、飛び跳ねて回るホタル。
『まあ、そっちが本音だろうがな。根っからの戦好きだな』
守護神は呆ている。
「……」
「あーあ! 今から愉しみで全身がむず痒いよ。ミクマリ、あたい達、滔々本気で闘れるんだぜ。あんたももっと愉しみなよ」
燃え盛る入れ墨。焔の巫女は不敵に笑った。
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柱立て……神に見立てた柱に人間をくくり付け生贄に捧げる。