巫行061 蜘蛛
社の巫女の保護兼監視をしている小屋。ホタルは小屋に入ると、中に詰めて居た戦士や術師に礼を言い追い払った。
「具合はどうだい?」
ホタルが声を掛ける。社の巫女は伏せって顔を背けており、返事もしない。
「何処かまだ具合が悪いのかしら。神和は体力を使うものだから」
「態々人の身体を借りなくったって、直接言えば良いのに。うちの火の神様は偶に声を掛けて来るぜ」
「そうなの?」
「おう。もっと燃やせ! 祭だ! ってな。それ位しか言わないけど」
どうやらこの村の神も彼女と気質を同じくするものらしい。
「社の巫女様。御顔を見せて下さい。この村の長は貴女方を責めないそうですよ。私も、社の流派が王の御使いとして、強制されてるのを存じております。過去に、同じ境遇に陥った他の社の巫女様に会った事がありますから」
ミクマリが呼び掛けた。すると、社の巫女は身を起こし、身体をこちらへと向けた。何やら顔の片側を手で覆っている。
「その衣、私達の流派の?」
片目を細める社の巫女。
「では……無いのですが。本部の方と御会いした事もあります」
「でしたら、私達が切り捨てられてしまっているのも御存知でしょう? 使いの白烏兎で事情を知りながらも、助けを寄越さないのですから」
「社の流派は争いを好まないと聞きます。サイロウの手から救うとなれば難しいのでしょう。私の会った本部の方は現状を悲しんでいらっしゃりましたよ」
「……そうですか。でも、どちらにしろ、もう行く当てはありません。この衣を纏いながらもこの手を血で穢し、仕えていた村をサイロウに押さえられているのですから。この地の奪還を仕損じた事を知られれば、村が焼かれます。いっそ殺してくれれば良かったのに。そうすれば、脅しとしての意味も無いのですから村に害が及ぶ事だって……」
社の巫女は顔を強く抑えて俯いた。
「眩暈か? 与えた水はちゃんと飲んだか? あたいと戦うと喉が渇くからな」
水の入った大きな器が枕元に置かれている。
社の巫女は器を引き寄せる。すると、隠されていた顔の片側が晒された。
若い巫女の顔は、醜く焼け爛れていた。
「ああっ!? ごめん、手加減した心算だったんだけど……」
傷を作った当人は慌てた。機微に疎い娘ではあったが、同じ年端の娘へ犯した罪の大きさには気付いた様だ。
社の巫女も自身の顔の状態を明確に知ったのは初めてだったらしく、水の入った器を覗きながら目を見開いている。
「ほ、本当にごめん。あんたが思ったより出来るから、ちょっと張り切っちゃって……」
ホタルは手を伸ばすも振り払われる。火傷の巫女の目に涙。
「自然に任せたら痕が残ってしまうわ。直ぐに診せて」
ミクマリは身を引く社の巫女を捕らえると顔の傷を掌で包み込んだ。
「力を抜いて。逢ったばかりで信が置けないのは分かるけど、霊気を私に委ねて」
耳元へ優しく囁き掛ける。それでも、潤んだ瞳はミクマリを睨んだ。
「だんないよー。姉様の治療はまたいやからー」
「え?」
アズサの気の抜けた助言。意味が通じなかったか、巫女の肢体と霊気から抵抗が抜けた。
「……はい、おしまい」
ミクマリは一瞬の隙を突き、憑ルべノ水に依る治療を施す。身を離すと器の水に霊気を通し綺麗な水鏡とし、巫女の前に差し出した。
「嘘……傷が」
顔に手をやる娘。
「おお! そっか、あたいの肩の傷もあっと言う間に治したもんなー! それだけ早く治せるんだったら、毎日術力比べや組手をしても平気だな!」
「ホタル、死者は治せないのよ。自然に治り始めれば、その分は綺麗には戻らないし、手足が千切れた時は霊気が抜ける前に繋がなければ、二度と戻らないの。痛みで苦しんだ分だって取り返しが付かないのよ」
ミクマリの厳しい声。彼女は多くの村々で治療を施して来たが、切断や腐敗で霊気を失った肉体を治す事は出来ず、何度か悔しい思いをしていた。
「ご、ごめん。これからは気を付けるよ」
「彼女の怪我もそうだけれど、山火事だっていつ間違うか分からないわ。腕前に自信があるのは結構だけれど、霊性は磨いて磨き過ぎるという事は無いのよ」
「う、うん……分かった」
素直に頷くホタル。快活な娘はすっかり鎮火してしまった。
「大切なものを失う事に為れば、一生後悔しても足りないのだから……」
呟く。目の端で妹分が寂し気な顔でこちらを見ている。
「あ、あの! 私は、ここから遥か北東の方角にある村で巫女を務めていた、楓の巫女と申します。元は巫女の居ない地へ社の本部から派遣されて、そこで巫行と社の教えを行っておりました!」
カエデはミクマリに喰らい付く様に己の紹介を始めた。これまでの彼女の硬い表情は霧散している。
「私は漂泊の旅をしている水分の巫女です。鍛錬を兼ねながら、各地で難事に手を貸して回っています」
「ミクマリ様! ありがとう御座いました!」
ミクマリはカエデに手を強く握られた。握る手は調子が悪いのだろうかとても熱っぽい。目の端で妹が怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「私の科戸ノ風はサイロウの手下に甘んじてから鍛えたのですが、余り使い道がなくって。ミクマリ様の様な水術使いには憧れます! 本部にも水分の巫女は居なかったので!」
「風の術も使い方次第ではないでしょうか。火を消す事も出来れば強くする事も出来ます。水を直接操られなくとも、風に乗せて撒く事だって」
ミクマリが言った。
「戦い以外に使う事なんて、考えた事もなかった。ずっとそればかり考えさせられていたから」
カエデは俯く。
「あ、えーっと。別にうちに来たからって戦闘は強要しないぞ。そりゃ、あたいは個人的にはあんたの才能に興味があるけど……。サイロウから寝返った連中の多くは、あんたと同じ様に戦いばかりやらされてた連中だから、荒事が得意ってだけで。サイロウに寝返った事が知られたくない奴は戦いには出てないしな」
戦好きの村長は取り繕う様に言った。
「ホタルは貴女をこの村に置いても良いって言っているわ。戦いも強要されないのなら、考えても良いんじゃないかしら」
「私は貴女達の土地を滅茶滅茶に荒らした王の部下だったのよ? それを赦すって言うの?」
カエデがホタルに訊ねる。
「そうだ。あたいは水に流すのが好きなんだ。別にサイロウ本人だって構いやしないぜ。その代わり、手合わせはして貰うけどな!」
朗らかに言ってのけるホタル。カエデはまたも俯いた。
「無理よ。貴女でも足元に及ばないわ。天津神を斃してしまう様な相手には、何をしたって無駄」
「かなあ? ま、負けたら負けたでまた霊気を磨いて挑むさ」
「それも無理。サイロウは力のある術師は生かしておかないわ」
カエデが震える様に言う。
「何だよそれ、勿体無えなあ。腕を磨かれて逆襲されるのが恐いのか?」
不満気なホタル。
「逆よ。貴女と同じで、術力を比べるのは好きなのよ。だけれど、ここ最近のサイロウは“妙な術”を手に入れてしまって。殺した相手を黄泉送りにしてしまうの」
カエデは震えを通り越して、死人の様な貌をしていた。
「黄泉に? 巫覡は死んだら高天に昇るもんだろ?」
――黄泉送り。
「特別な寿ぎで敢えて黄泉に送るそうです。相手の怨みや憎しみとは関係無く。本当に力のある巫覡であれば、黄泉から自力で戻って来れる筈だって言って。良く分からないのだけれど」
「鬼に成って帰って来いって事かいなあ?」
アズサが首を傾げる。
「サイロウは一度死んで黄泉に行ったのに、覡國に戻った事があるそうよ。それが切っ掛けで霊感に目覚めたって、ミサキ様が話していたわ」
「ミサキ様が? そう言や、御使い様も高天や黄泉を行き来するってゆーとったなあ。もし、うちもサイロウに斃されてもうたら、お父やんやお母やんに会えるんかいなー」
「アズサ、冗談でもそんな事言わないで頂戴」
「姉様、ごめんしてー」
叱られたアズサは誤魔化す様にミクマリの腕の中へ飛び込んで来た。
「黄泉には行きたくねえなあ。臭くて歩き辛い坂だらけらしいから」
ホタルは鼻を摘まむ。
「態々黄泉に送る様な事をして、一体何が目的なのかしら……」
「分かりません。唯、今のお話からも分かる様に、サイロウは高天以外に黄泉へも執着を持っている様です。処で、ミクマリ様はミサキ様とも御会いになった事があるのですね」
カエデが言った。
「カエデさんはミサキ様ともお知り合いなのですか?」
「いいえ、私は直接は。社の流派と御使いの流派はどちらも大きな派閥ですから、争いが無い様に上の者同士で時折話をする機会を設けていると聞いた事があります。それに社の流派は多くの神々の御両親を祀る流派なので、神の御使いを祀る流派とも関係があるのでしょう」
「成程。この子……アズサは霧の里の巫女見習いだったの」
「命を救ってもうて、一緒に旅をしてるんやにー」
「ん、じゃあ妹じゃないのか」
ホタルが言った。
「妹に為ったんやん。なー、姉様!」
また衣に顔を埋めるアズサ。
「そうね」
頭を撫でてやる。
「でも、サイロウの手下にもそこそこ強い奴は居たけどなあ。あたいも、ちょっと危なかった事がある」
「初めから進んで手下に加わった者は殺されませんから。でも、そんな事をすると出身地一帯から嫌われてしまいますので、極一部の者だけですね。南方に住む“地蜘蛛”衆位のものでしょうか。彼等は手下の中でも古参で、サイロウからも目を掛けられています。なので、他の手下からも忌み嫌われています」
「地蜘蛛かあ。蟲ってのは矢張り嫌われ者なんだなあ」
「私は、蟲と呼ばれる人が全て悪い人だとは思わないけど……」
「地蜘蛛はなー。黒っぽい色した蜘蛛でなー、地面に穴を掘ってなー、糸で姉様の襷の袋みたいな巣を作るんさー。ほんで巣から顎を出して獲物を引き摺り込むんさー」
蜘蛛の生態を解説するアズサ。ミクマリは自身の襷掛けした荷物入れを喩えに使われて思わず荷物を探った。
「忌み名の通りですね。地蜘蛛は“黒衣”を纏った連中ですから」
カエデが言った。
「……」
ミクマリは静止した。
――黒衣?
「黒衣の術師は、矢張りサイロウの部下だったのね」
ミクマリは呟く。
「知り合いか?」
ホタルが訊ねる。
「……私の里を泯ぼした連中です」
「まじかよ。ミクマリの里を。そうか、それで鍛錬を兼ねての旅なのか。あれっ!? ちょっと待てよ……」
ホタルがミクマリを見て硬直した。
「どうしたの? ホタル」
「いやさあ、黒い衣を着た術師なら、この前、やっ付けちまったからさ」
頭を掻きながら言うホタル。
「こーっと……。この村に姉様の仇がおるって事け?」
「……」
鼓動の高鳴りを感じる。
「いや、居ないんだ」
「追い返したの? 確かに連中は進んで仲間に加わったらしいから、失敗しても御目溢しもあるかも知れないけれど……」
カエデが訊ねる。
「そうじゃない。今思い出しても気分が悪いんだが、あいつはあたいが降参するかどうか聞いたら、自分で自分の腹を切ってさ……」
不殺の戦士が表情を昏くする。
「ホタル、それは何人程?」
「一人だよ。これまでに何度も手下連中とは闘り合って来たけど、黒い衣を着た術師はあいつ一人だけだった」
「そう……」
里を襲ったのは集団だ。
「ご、ごめんなミクマリ。会いたかったか?」
「貴女は悪くない……。でも、会いたかったかどうかと言われれば……」
ミクマリは視線を落とした。膝の上に寝転がったアズサがこちらを見上げている。
「地蜘蛛衆の術師は集団でサイロウの軍門に下っています。普段は何か任を与えられて姿を見せませんが、侵略を行う集団の取り纏め役として単独で御使いの一団に加わる事もありました」
「あれが集団で来たら流石にあたいも拙いな。さっき言った危なかった事もあるって言うのは、その黒衣の事だよ。大抵は手加減したり捕まえたり出来るんだけどさ。自害するのを止める余裕も無かった」
「無闇に手を血で染めるよりは良いわ」
ミクマリが言った。カエデも頷く。
「自分で自分を殺したのもだけど、その後も妙だった。あいつの魂は上じゃなくて下に行ったんだよな。死体が消えるのも早かった。寿ぐ間も無かったんだ」
「黄泉に引かれたという事かしら。また地上に……」
都合の良い話だが、仇は鬼や悪霊として自身の前に姿を現してくれれば有難い。幾ら里の仇とは言え、生きた人間を殺すのは気が咎める。加えて、復讐に依る怨みの積み重なりの心配があった。
ミクマリは里の再建と共に、里の者の御霊の怨みを祓う為の手段として復讐を心に決めている。
だが、ミサキからの話を聞いてから、僅かな躊躇が生まれていた。人一人が背負える怨みや憎しみの限界。
黒衣の術師は集団である以上、自分と守護霊の二人だけでその怨念を受ければ、魂が黄泉に引かれるのではないかという懸念が生まれていた。
己の身が惜しくないと言えば嘘である。だが、それ以上に憎しみの環に自身と守護霊が加わった後の事が心配で堪らなかった。
若しも自分達も鬼に変じてしまったら。或いはその所為で却って里の者の魂が再び黒く染まる事があれば……。
「姉様、だんないよ」
頬にアズサの手が伸びる。
現世に意識を戻すと、他の二人もこちらを見つめている事に気付いた。
「ごめんなさい。少し考え込んでしまって」
「無理も無いさ。ミクマリ、ここで待ってみるってのも手だぜ。他にも地蜘蛛の連中が来るかもしれない。前の奴みたいに手強いのが集団で現れたら拙いし、あんたが居てくれれば心強いしさ」
「……ありがとう。でも、今はこの地を甦らせる事を優先しましょう」
「お、おう。ミクマリは強いんだな……」
感嘆の声を上げるホタル。
――強くなんてない。いざ仇の気配を感じたら怖気付いてしまっている。人を殺すなんて恐ろしい事。
トウロウが私の為にやらせたのとは訳が違う。彼女のあれは恨みや憎しみじゃなくって、愛の様なものだった。
もう一人の水分の巫女の暖かな体液を想い出す。未だに右手と左手では何かが違う様な気がした。
「ミクマリ様は、この地を甦らせる事を御考えなのですか?」
カエデが声を上げた。
「そうよ。西の山の古ノ大御神様に御助力を頂いて大地の亀裂を塞いで、サイロウが斃してしまった雨の神の代わりが出来る御神様を雨乞いで御招きするの」
「凄い……。でも、心配です。サイロウのやった仕事を無かった事にする様な事をすれば、必ず目を付けられます」
「あたいなら喜んで戦うんだけどなあ。ミクマリは厭なんだろ? まあ、黙っていればミクマリがやったって事は分からないから、平気じゃないか?」
「そうね。だけど、仇がサイロウが目を掛けている地蜘蛛衆に手を出せば、いつかはぶつかる事に為るわ」
これは嘗て師と懸念し合った事もある。
「カエデが言うにはあたいじゃ足元にも及ばないって。まあ、あたいも本気をこれっぽっちも出してないんだけど。若しもそうなら、ミクマリでも危ない訳だろ? 先延ばしにして霊気を磨くしかないな」
「勝ち負けだけじゃないの。サイロウは圧政を敷いてはいるけど王なのよ。彼の作った國に暮らして、そこで暮らしを立てている者も居るの。彼等が困るわ。直接の仇でもないのに、王を討てば皆に恨まれてしまう……」
「確かに、サイロウの國は他の地よりも豊かで、笑顔を以て暮らして居る方も居ました」
カエデが思い出す様に言った。
「そこまで深く考えるのかあ。確かに、西の山脈を越えた先にあるサイロウの國は豊かだ。この地が蜂起する前は旅人も来ていたし、國を好いている人も居たな」
ホタルも言う。
「姉様、考えてもしゃーないよ。為る様に為るさー」
「……そうね。今は考えるのは止しましょう」
妹の耳たぶを弄るミクマリ。擽ったそうな笑い。
「そうだなあ。折角仲良く為ったんだから、もっと明るい話をしようぜ!」
快活な娘に火が燈る。一方、痛い目に合わされたカエデはホタルをちらと見た。
「あ、そうでした。話を変える前に一つ地蜘蛛に就いて補足を」
カエデが言った。
「何ですか?」
「サイロウが“妙な術”で巫覡の御霊を黄泉へ送るとお話しましたよね? あの術は、地蜘蛛衆が教えたものなんです。サイロウは各地で術を収集して周ってますから、珍しい話では……」
「ぐえっ!?」
カエデの言葉を遮る様に、アズサの悲鳴が響いた。膝の上に居た筈の彼女は、床へ頭をぶつけていた。
ミクマリは呆然とする三人を残し、自身の里の守護霊が居る館へと飛び出して行った。
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だんない……心配ない。
またい……確実、安心。