巫行060 快活
「おあ、吃驚した……」
抱きかかえられたホタルが呻く。
飛び退いてからミクマリは気付いた。社の巫女を覆う気は、いつかの時の様な怨みの籠った黒い気ではない。
敵意こそは纏ってはいたが、それは全くの逆の色。
――神気だわ。
社の巫女が立ち上がった。その貌、若年の娘に非ず。
「おい、そこの娘よ!」
袖を持ち上げこちらを指さす巫女。その声音も冬の落葉樹の如し。
「え、あたい?」
ホタルが自身を指さし首を傾げる。
「そうだ。頭の悪い火術師め! 儂はお前に言ってやりたい事がある!」
男の声でがなられる罵声。
「な、何だよ急に豹変しちゃって。まだやるなら受けて立つぜ!」
「知れ者めが!」
巫女の身体から発せられる強風の様な神気が二人を襲った。
「神様が怒っていらっしゃるわ。ホタル様、一体何を?」
ミクマリは振り返った。ホタルは気圧されたか後退っていた。
「何を? ではないわ! 儂の山の傍で毎日毎日結ノ炎なんぞ使いおって! ここの処は雨も降らず空気も乾いておる。そこに無遠慮な炎が合わされば、いつぞ惨事になるかと気が気ではない。今日に至っては大風まで合わさって滔々儂の山がつるっ禿げに……」
怒りと神気を撒き散らしながら巫女の身体が歩いてくる。
「ミ、ミクマリ。あれは一体どう為ってるんだ? 何となあく、知ってる神様が降りてるって事は分かったんだけど、何であの巫女に?」
訊ねるホタルは悪戯を叱られた子供の様に首を竦めている。
「……恐らくですが、社の巫女は神代なのでしょう。特殊な術が施してあり、仕えてない神様相手にも身体を貸せるのです」
ミクマリは自身の胎を撫ぜた。
御神胎ノ術。社の流派にも彼女の胎に施されているものと同様の術が伝わると聞く。
「旱よ! 申し開きをしてみよ!」
別の名で呼ばれるホタル。
「ヒデリ?」
ミクマリは首を傾げる。
「その名前で呼ばれたくないんだよなあ。縁起が悪いから。火垂の方が格好良いし。ミクマリもそう思わない?」
腕組み唸る娘。
「え? ええ、まあそうね……」
確かに旱では縁起が悪い。今のこの地の状態と重ねて尚更に悪い。
「だけど、蟲の名は忌み名じゃないの?」
「そうなんだけど、分かりやすいしなあ。うちってさ、元々火を使って弔いをする風習があって、亡骸を燃やす時に散る炎が蛍みたいでさあ。風情があって良いもんだよ。サイロウが付けた名前だけど、結構良い感覚してると思うなー」
「あら、そうなの……」
ミクマリも自身の里山でホタルを見た事がある。蟲の類は苦手だが、蛍は夜に眺める分には良い。
「おいこら! 聞いておるのかヒデリよ! お前は当代の村長だろうが。先代や先々代はもっと思慮深く、森に感謝する者達であった。それが何だ。大地が枯れておるというのに戦いに明け暮れ、山の恵みを容赦なく使い倒しおって!」
社の巫女の身体が怒鳴る。
「でもさあ、サイロウもどうせ名付けるなら赤立羽にして欲しかったなあ。あたい、あの蝶が好きでさあ。あれが群れになって飛んでるのを見た事があるんだけど、火垂よりもそっちの方がうちの儀式に似てるし……」
「あの、ホタル様。山の神様がとても怒っていらっしゃるのだけれど」
巫女の身体を借りた神は二人の前まで歩み寄っている。腰に手を当て、眉間に皺を寄せて立ち尽くし、大層ご立腹の様子である。
「うちの村で祀ってるのは山の神じゃない。火の神だ」
そう言うとホタルは神気を押し退け、前へ出た。
「いけないわ。神様に無礼をしては。山の恵みを受けられなくなるわよ」
「はっはっは。大丈夫、大丈夫。恩恵を受けているのはあたい達人間だけじゃないんだ。動物にくれてやって人間にはやらない何て器用な事出来ないって」
緩んだ哄笑を浮かべるホタル。
「そういう問題じゃ無いわ。山御神様は火事を心配していらっしゃるのよ。私も以前、火術の使い過ぎで森を火事にしてしまった子を知ってる。大変だったのよ。そこには水が沢山あったから何とか消し止められたけれど、この地ではそうはいかないかも」
「そうだ。この巫女の言う通りだ。お前も理解している通り、儂は人間の為だけに恩寵を与えているのではない。命は全て繋がっておる故、分け隔てる事も難しい。若しもそうしようと思うのならば、お前達人間にその環から外れて貰うしかないだろうな」
膨れ上がる神気。
「平気だって。心配しないでよ。あたい、ちゃんと炎の操作はしてるんだ。これまでに何度もここで戦ったけど、一度も火事何て起ってないだろ?」
『おいミクマリ、この女は頭が悪いぞ』
ゲキが遠くでぼやいた。ミクマリは額を抑えた。
「言っても理解出来ぬなら、神の怒りを受けて貰うしか無かろう」
何処からともなく草蔓が現れ、ホタルの身体を這い上がり始めた。
「擽ったいね。女を擽る程度の力であたいに勝てるとでも思ってるのかい?」
不敵に笑う火術師。
「ホタル様。流石にそれは私も承知出来ませんよ」
山神の横に立つミクマリ。
「おっ、良いよ。二人一度に相手をして……」
ホタルの左頬にある炎を象った印が赤く光った。
「あっ」
ミクマリは火の粉散らし始めた娘の後ろに、彼女と同じ意匠の衣と入れ墨の大男を見た。
「この、愚か者がっ!!」
男はホタルを怒鳴った。それから直ぐに山神の前に駆け寄り、額を地面に付けた。
「山御神様、うちの娘が飛んだ失礼を致しました。どうか御気を鎮めに為って下さい」
「あーっ、親父!? あんたはあたいに負けたんだから、もう隠居だって言ったろ。出て来るなよ!」
「喧しいわ! お前は今、どれだけ拙い事をしているのか分からんのか!?」
「何だよ。あたいが負けるとでも思ってるのか?」
「そんな話はしとらんわ!」
言い争う親子。山神が溜め息を吐いた。
「“弔”よ。娘は確り躾けておけよ。お前の代から儂や火の神との交信が難しくなっておるからな。火の神の機嫌を取るのは結構だが、人は山の恵み無しに生きる事は出来ぬのだ。先々代の“熾”が村長だった頃が懐かしいわ。あいつは儂と火の神の間を取り持つ重要な役目を見事に果たしていた。巫力高く、霊気鋭く、気高い乙女だったというのに、お前が手籠めにするから……」
父にも降り注ぐ説教。何やら彼にも非がある様で、一層平伏した。
「まあ、良い。余り見知らぬ巫女に負担を掛けて、更に別の神と問題に為っても困るから、この辺にしておく。兎も角、火の扱いにだけは気を付けろよ! それと、余り無闇に木を切るな! 獣を獲り過ぎるな! 後は雨乞いの一つでも験せ!」
山神がもう一度文句を付けると、社の巫女の身体が崩れ落ちた。立ち去る神気。
「おっ、どっか行った? やー、驚いたね」
ホタルは肩を回すと歯抜けの歯列を見せた。
「ホタル様。もう少し山神様の事を気遣って下さい。山神様に見放されたら計画が実ってもこの村が窮してしまいますよ」
ミクマリは平然と笑う娘を見て頭が痛くなった。
「“様”だなんて止してくれよ。ミクマリ。あたいとあんたは大して歳も変わらないだろ。実力だってさ?」
「おい、“ヒデリ”。こちらの巫女様は何だ? 社の巫女と少し違う衣を着ていらっしゃるが。お前と山御神様との間を取り持とうとしてくれたようだが……」
トムライが訊ねる。
「ああもう。親父には後で纏めて説明してやるから。取り敢えず、いつもの“あれ”をやるぞ!」
ホタルは父親をあしらうと戦士達に呼び掛けた。
「あれって?」
ミクマリが訊ねる。
「祭りだよ祭り。事ある毎に火を焚いて宴をするのさ。人間は火の神のお陰で闇を切り拓き、暖を取り、肉を焼き、外敵を倒す事が出来るんだ。火の世話を受けたら祭ってやんないとな! 今日は村の防衛の成功と、ミクマリ達の歓迎と、湖の計画の成功を祈って三倍の御祭りだ!」
そう言うとホタルは霊気を練り、森の傍で火柱を熾した。戦士達もそれに合わせて喚声を上げる。
ミクマリ達は溜め息を吐いた。
さて、彼女達の火の祭りは嘗ての村長と客人達に阻止され、目下の優先事項である、王の配下の処分とミクマリからの計画の伝達が優先された。
神事や政の主導権を娘に明け渡していたものの、トムライも会話に混じり、進んで計画への協力やサイロウ側からの防衛を約束した。
彼は一線を退いてはいたが、それは怪我や老衰に依るものではなく、ホタルと決闘をして負けた為の代替りだったらしい。
元は彼の妻でホタルの母と為る女性、オキが巫女を務めていたのだが、トムライが娶られ、ホタルを身籠った事で彼女は表舞台から降り、夫のトムライが長に就いたのだそうだ。
しかし、山の神とこの村で祀る火の神は両柱共に男神で、男覡であるトムライでは交信が捗らなかった様だ。
不幸な事にオキは娘の命と引き換えに産褥にて果てており、ホタルは男手主導で育てられた。
ホタルは両親の巫力と女の霊感、それに加えて男の気性を継いだ稀代の巫女であり、有能な戦士に育った。その気質は豪胆で勇猛果敢。実力と潔さで民や戦士達からも強い支持を受ている。
だが、少々……というか随分と思慮に欠ける頭をしていた。
祝いや晴れの出来事があれば祭りを行い、狩りをしては祭りを行い、敵を退ければ祭りを行った。その度に火を使い、小屋や草木を焦がし、食物は感謝に欠ける程に宴で消費された。
戦好きも相まって、話し合いで解決出来うる難事も大抵は術力や武力を比べて白黒を着けたがった。
戦いの多くはサイロウ側からの防衛である為、致し方ない面もあったが、この様に物資を浪費して命を危険に晒し続ける手段が長く続けられる様には思われない。
そしてここ最近では、彼女の“ある流儀”がこの村に大きな変化を起こし、山の食い潰しに拍車を掛けていた。
「ホタル様。社の巫女だけがまだ目を醒ましていませんが、他の連中は全員従うそうです」
村長の館に戦士が報告に来た。
「そっかそっか。じゃあ、伏せってる奴以外には、小屋建てと食事の調達の仕事をやっといてくれ」
ホタルは機嫌好く返事をした。
「ホタル、若しかして襲って来た王の配下を赦すの?」
「そうだよ。あたいさあ、火術を使う癖に、水に流すのが大好きなんだ」
娘は目を細め頬の入れ墨と共に笑った。
ホタルは打ち破った王の配下を処刑したりせず、希望すれば釈放し、或いは自身の村の民として受け入れていた。
しかし、それは情けや愛の為せる業ではなく「腕を磨いてまた来い、それか一緒に闘おうぜ」という無類の戦好きからの事である様であったが……。
サイロウは噂に違わず、自身の期待に応えなかった者を処刑する男である。
だが彼は、この地の雨神を斃した直後から北の地へ旅に出ており、現在は國に不在。直ぐに処刑という事はない。
しかし、この地の謀反を抑えられなかった失態が不在の時期に起った以上、王の帰還までに奪還せねば怒りは必至。
各地で強引な服従を迫る事案が発生しているのも、この地での失敗を穴埋めする為だと噂されている。
サイロウの軍門に下った者の多くは力に依る服従であり、元より尊敬に依る遵従ではない。
彼の國に暮らし根を張る者や、村を質に取られた者も在ったが、どうせ殺されるならばとホタルの呼び掛けに応じる者が少なくなかった。
次第にこの村には戦士や術師が増え始め、戦力が増えれば防衛も容易と為り、数が増えれば勧誘の力も一層強化されていった。
確実に勢力を増しつつあるホタルの村。元の村民達もホタルに良く従い、新たな仲間とも仲良くやっていたのだが、一つの困り事があった。亀裂に依り村の土地が盆地側に広げ辛く、土地と共に山の資源も確実に食い潰していたのだ。
今回、山神が腹を立てたのはその事を含めての警告であったし、それに関しては嘗ての村長も時折、娘に苦言を呈していた。
しかし、ホタルは「親父は負けただろ。あたいはあたいの好きな様にやる」の一点張り。
村長の座を掛けた決闘もホタルの方が半ば強引に発案した物らしい。父親の方もまさか負けるとは思わなかった様だ。
「実を言うと、母親のオキも随分と男勝りでな。俺はずっと尻に敷かれっ放しだった。山御神様は俺がオキを手籠めにしたと言っていたが、実は逆なんだよ。だが、オキには思慮深さや優しさが大いにあった。それがヒデリの奴と来たら……。俺の付けた巫女名も棄てちまって、こっちの話をちっとも聞きやがらねえ……」
そう言ってトムライは孤独を含んだ笑みを浮かべた。
ミクマリは無闇に敵を処罰しない姿勢と、怨み持たず快活に昨日の敵を輩とするホタルを、理由は兎も角として気に入った。
親子の仲の擦れ違いが僅かに気には為ったが、まあそれは自身の埒外だ。踏み込まず、男手一つで娘を育て上げた男の哀愁を見て切なく微笑むに済ませる。
「次の仕事があるだろうけど、今日はゆっくりして行きなよ。あたいも、久しぶりにちょっと疲れた。神気は気を付けないと“重い”よなあ。ミクマリは平気だったのか?」
ホタルが言った。
「え? ええまあ……」
言っては悪いが、あの山神も単純な気の総量では遥かに格下であった。だが、慈愛と甘手の娘は他の神への対応とは違い、直ぐにそちらの味方へ付き、意志を汲んだ。
「ま、それでも次に戦ったら負ける自信はないけどね。気が向いたらまた闘ろうぜ!」
「お断りします」
「ちぇっ」
心底残念そうな娘。
「ホタル様。社の巫女が目覚めた様です」
先程の戦士が戻って来た。
「おー。で、どうだった? うちに来るって? 来てくれたら良いなあ、あいつには組手をして体術を教えたいな」
手を擦り擦り笑うホタル。
「それが、意固地になっているのか、衰弱しているのか分からないのですが、うんともすんとも言わない様子で……」
「それはいけないな。あたい、手加減したんだけどなあ。直ぐに行くよ」
ホタルが立ち上がる。
「ミクマリ様。同席してやって頂けませんか? うちの娘だけでは何となく心配で……」
トムライが言った。
「はい」返事をして立ち上がるミクマリ。
『アズサ、お前も行って来い。ホタルも心配だが、うちのマヌケもそれなりだ』
「はい!」
「……ゲキ様はいらっしゃらないのですか? 社の巫女から例の術師の情報が聞けるかも知れませんが」
師の物言いに少々抗議したかったが、失態は失態だ。思考を別の私情へと切り替える。
『ん? ああ……。お前が代わりに聞いておいてくれ。俺はトムライと話がある。サイロウの様子や西の山の戦神に就いて訊ねたい』
ゲキは何かを思案する様に揺らめいてから答えた。
「おお、それならば喜んで御力に為りますぞ。何なら互いの娘への愚痴の交換でもしませんか」
トムライも愉し気だ。
「はあ……分かりました。では行ってまいります」
ミクマリは娘達と館を出て、社の巫女の居る小屋へと出掛けた。
社の流派、王への服従、そして御神胎ノ術。自身と同じ印を持つ娘との会話に、不安と期待を胸に寄せながら……。
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旱……日照りの意。長く雨が降らず日差しの強い状態。