巫行006 漁村
河原の石は下るに連れて小粒になり、愈々と粉の様な肌理の細かなものへと変わる。
独特な磯の香りが鼻腔を刺激し、耳にも爽やかな音が届き始めた。
「まあ、これが海ね」
隠れ里暮らしの長かった娘が和やかに言った。
「お前は海が初めてか。俺はこれが見納めだろうな」
海辺と山を狩場にした盗人が溜め息を吐く。
砂州の先には木造の小屋が立ち並んでいる。
風は強く打ち寄せる波よりも凪ぎが少ない。干し草葺きの屋根には石が乗せられている。
「宿借りや宿借りや。逃げねば宿無しにしてやるぞ」
浜では童が枝で何かを追い回している様だ。
「遊んどらんと、貝の殻分けでも手伝いや。もうじき男共が帰るからね」
窘める女は頭の上に水桶を乗せている。ミクマリも泣く幼子を抱える時はああやって仕事をしたのを思い出した。懐かしい首の疲れが蘇る。
「母ちゃん。あれ、誰や?」
子供がミクマリと盗人を指さした。
すると女は折角の桶を砂上に落として中身を打ち撒けた。
「女達ぁ! 出会えや! あの盗人が来たぞ! 巫女様! 巫女様も御出でませや!」
女の呼び声に応じ、小屋からは棒やら石やらを持った村民達が現れる。
彼女達は瞬く間にミクマリと盗人を囲んでしまった。
「ほら見ろよう!」
声を上げる盗人。
「ここで逢ったが百年目。村に害為す悪党め。手足を切って海の底に沈めてくれようぞ!」
「いや生温い、沈める前に背中を切り裂き、塩をたっぷり塗りこもうぞ!」
村民の中から威勢の良い老婆と中年の女が現れた。
二人は他の簡素な麻の衣を着た村民とは違い、袖のある着物を纏っており、顔中に染料で何かの模様が描かれている。
それから、頭部には鉢巻きで海藻らしき物体を兎の耳の様に固定していた。
「さあさあ、もっと狭く囲え囲え! この男は脱兎の如く駆け鹿の如く飛ぶからな……って既に縛られておる」
二人の海藻女は顔を見合わせ、それからミクマリを見やった。
「見知らぬ娘じゃの。髪を上げとらんし、化粧もしとらん。村の者ではないな? 若しや、お前がこの盗人を捕らえたか?」
老婆が訊ねた。彼女の口の周りには白い化粧。
「お母様。まさかそんな筈は無いでしょう。村の男でもこれまでやられっ放しだったのですぞ。この女は人質か何かでは?」
中年の女が割って入る。こちらも同じく白い化粧。
「お前の頭には海鼠が詰まっとるんか。悪党が縛られて人質が綱を引く何て事がある訳なかろう」
「為らば売笑の類でしょう。この村にも荒縄で縛られて悦ぶ男は居ります故」
真面目な貌で女達が言い合う。
「違います! 私は水分の巫女です。この者に覗きを働かれたので捕らえたのです」
「覗き? 分らん事を言う奴じゃ。……ふむ、水分の巫女か」
老婆はミクマリを爪先から頭の先まで眺めた。それから、宙に漂うゲキの霊魂の方を見て顔を歪めた。
「お母様、どうなさいました? 漂泊の巫女ならば、矢張り巫娼でしょう。男共に悪影響なのでさっさと追い払うべきです」
「やはり海鼠じゃなあ。お前にはこの霊気が感ぜられんのか。この水分の巫女は儂の若い頃に負けず劣らずの巫力を持ち合わせておるぞ。憑けとる悪霊を差し引いても、真面に呪力比べをすればこの村は廃墟と化すだろう」
そう言って老婆は白い化粧の顔を歪めた。
「あの、私そんな乱暴な事はしませんから。それに、そこに浮いて居る緑の人魂は私の里の守護霊です。ここには、一つお願いがあって訊ねたのです」
「宿と飯じゃな? この界隈で迷惑千万を働いた盗人と引き換え為らば、一年は持て成してやっても足が出るが……」
またもゲキを見やる老婆。
「やっぱり俺を売り飛ばす気だったんだな! この鬼! 拝み虫! 胸無し! 醜女!」
盗人の男が騒ぐ。力を込めて縄を断ち切ろうとした様だが、脂汗と湯気を生むに終わった。
「宿は僅かな間で結構です。それよりも、この盗人に罪を灌がせて、この村のお役に立つ様にして頂けないかと」
「「「はあ!?!?!?」」」
その場に居た女達全員が声を上げた。それからゲキはまたもミクマリを煽り始めた。
「ほら見ろ、お前やっぱり変なんだって……」
当の悪人も肩を落として言う。
「貴方も、悪事から足を洗った方が良いでしょう。海の幸もお好きな様ですし、漁師の見習いにでもなったらいかがでしょうか」
澄まし顔のミクマリ。
剰え、宙に浮かぶ守護霊に向かって、いつぞや盗人が披露した舌出しを披露した。
「この女は冗談が過ぎますな。悪党と共謀に違いありませぬ。蟲や悪霊を送る呪術師が外には居ると云います。お母様と同等のお力を持つと仰るのならば、生きた悪党を遣わせる巫力があっても不思議ではありません」
「無くは無いが……この女の霊気であれば、桶の中の魚を竿で釣る様な真似は不要じゃろう。水分の巫女よ、御主は本気でその様な事を宣うか?」
「はい、勿論です。私は益不益に関わらず殺生は好みません。これは私の信ずる道です。亡き故郷でのやり方でもあります。罰を与えなければ示しが付かないと仰るのならば、将来に差し支えない程度に罰して頂いても結構ですから」
ミクマリは真心を込めた視線を老巫女へと送る。
「勝手に話を進めるんじゃねえ!」
青筋立てて割って入る盗人。
「貴方は黙って為さい。一度死んだ身だと仰ったでしょうに」
睨むミクマリ。
「愉快な女じゃ。……良かろう」
老婆は皺の刻まれた瞼を下ろし言った。周りでは不満の声が渦潮を作っている。
「女共よ黙りや。儂は巫女頭で村長じゃぞ。人の手に依る裁きは儂が決める」
老婆は頭の海藻を抜き取り、両手それぞれに握った。それから、女達が振り上げたままにしていた得物達を海藻の先で追うと、ぴたりと“とある折檻棒”の前で停止させた。
「昆布が占うには“これが良し”と出ておる。村の女はこの道具を用いて盗人の尻に毎日一撃づつ見舞う事。尻の皮が厚く無ければ舟に乗るのも苦労するしの」
「げぇーっ! 本気かよう!」
男は涙声で叫んだ。
老巫女が指し示した折檻棒には牡蠣の殻が結わえ付けてある。
「尤も、儂が決めれるのはここまでじゃ。男共に嫌われ舟から偶然落ちても知らぬし、海神の怒りで波に攫われても致し方無しじゃからな」
「そこは彼の努力次第でしょう。その自業自得で招いたとあれば、私も気に留めません」
ミクマリは頷いた。
「留めろよ! そしてこいつ等を止めてくれ!」
盗人は村の女衆に引っ立てられて行った。
彼女達も手を下す事を認められたからか「頑張って改心するんだよ」等と言いながら牡蠣の棒を愛おしそうに撫でている。
ミクマリは「良かった」と思った。
「さて、巫女である御主は直々にこの儂が持て成してやろう。小屋に案内するから付いていらせ」
老婆は女衆を見送ると踵を返し歩き出した。中年の娘巫女の方はまだ得心の行かぬ様で、ミクマリを不躾な目で見ていた。
『あの耄碌婆め、食えぬわ』
守護霊は小声で言った。
「良い方じゃないですか。悪霊様の事も視えていらした様ですし?」
『ふん。まあ、巫力や霊気の見立ては正しかったがな。お前にとってこの村に危険は少ないだろう』
「お婆ちゃんにこの村の巫行に就いて教えて貰いましょう」
『手の内を漂泊の同業にそう易々と明かすものか。どちらにせよ、大して役に立たんと思うがな。だが、海と為れば話は別だ。ミクマリよ、一度、海水を視ておけ。それと、勧められても舟には乗るなよ』
そう言い残すとゲキはミクマリから離れた。
「何処に行かれるのですか?」
『あの婆に視られるのが気に障るだけだ。何かあれば霊気を飛ばして呼べ。そう遠くへは行かん』
遠ざかる霊声。
「もう! 勝手な人。私が見られるのを厭うのは理解してくれない癖に」
見上げ文句を言うミクマリ。
「何をしておる。早う来い」
昆布の老巫女が振り返り声を掛けた。
「はい、直ぐに参ります!」
ミクマリは快活な返事をして浜を駆けて行った。
日帰りの漁に出ていた男衆が戻り、留守の間に起きた出来事に驚き、盗人への処遇に魂消た。
労働の成果を掠め取るのを見捨てて置けるかと漁師達は、罪人を留置した小屋へ怒りと共に駆け付けた。
……が、盗人の見るも無残な尻を囲う女共に睨まれて、叩かれても居ない自身の尻を抱えて退散したと云う。
「男共は儂の決定を呑むそうじゃ。明日は一日“赤尻”を休ませて、次の漁で験すと言って居る」
老巫女はミクマリに茶碗を差し出す。中には白湯に昆布の欠片が浮いて居る。磯の香りが鼻腔を擽る。
「そうですか。傷を治療すれば明日にも使えると思いますが」
引き渡した張本人も赤い尻を見学をしたが、「暮れ時のお日様が二つ並べばこんな感じですね」等と間の抜けた感想を述べていた。
「治療術も使えるか。益々儂の若い頃を思い出す。じゃが、それでは罰に成らんじゃろ」
「そうですね。私も昔は子供達を叱った時に良くお尻を叩いたものです」
「ははは、儂は今でも打っておるぞ。お前は見事な巫女なだけでなく母でもあったか」
老婆が笑う。横に座っていた彼女の娘は少し頬を赤らめて俯いた。
「いえまさか。私は役柄上、子は持てませんから」
「とすると神和の巫女でもあるか。まさか、あの男霊を降ろすのか?」
「一度、身体を捧げた事があります。落ちた稲霊を祓う機会がありまして、不覚を取ったので解決を代わって頂きました」
「ふむ。どの様な術を使う霊か?」
老婆は首を傾げる。
「さあ、私は気を失って居ましたから。ただ、稲霊は黄泉國には引かれず、高天國に還ったと」
「そうか。どの様な法を行使して祓ったにしろ、あの霊からは少々不気味な気を感じる。邪気か夜黒か……。充分に注意為されよ」
「ゲキ様がですか? ……それはきっと、私の旅の理由に原因があるのだと思います」
ミクマリは老婆の指摘に、驚きよりも哀しみを以て答えた。
「ほう、差支え無ければ話して頂けんか」
ミクマリは村の巫女の親子に里を襲った黒衣術者の話と、ゲキとの馴れ初めを話して聞かせた。
「……辛い思いを為されたな。儂も嘗て村の者と共に土地を捨てて漂泊した事があったが、お主は孤独の旅か。復讐の念に駆られて黄泉に踏み入れても可笑しくない境遇だというのに、盗人へのあの施しと来たか。健気な娘よのう」
老巫女はミクマリを拝み始めた。その娘も鼻を啜っている。
「私は、こんな有り様ですけれど、ゲキ様は里を見守って来た守護霊なのです。仇が憎くても仕方がありません。御婆様が感じられた邪悪な気はそれ由来のものでしょう」
「お主の言う通りじゃ。正義の憤怒は義を違える者にはただの憎悪にしか映らぬ。気高き里の守護霊を蔑んだ事を赦しておくれ」
額を床に付ける巫女。頭に結んだ昆布が力無く垂れる。
「そんな、顔を上げて下さい。実際の処、口も悪いですし、乙女心も分からない人ですから、半分悪霊みたいなものですよ!」
ミクマリは慌てて手を振る。
「ははは、乙女心と来たか。旅もそれ程は孤独でない様で結構な事じゃ。どれ、乙女でも夜は寂しいじゃろう? 良ければ村の顔立ちの整った男を添わせるが」
老婆が笑いながら言った。
「御母様! ミクマリ様は男神を降ろされる尊いお方です。穢す様な真似は為さらないで下さい!」
娘巫女が怒った。
「冗談の分からん奴じゃ。そもそも、儂ら海神に仕える海神ノ使徒からすれば、子を持たぬまま巫行に着く方が未熟なんじゃがな。普通は漁師の婿でも取ってから修行を始めるものじゃ。海神は海を司る母なる女神。年増の女神にとっては、人間の乙女なんぞは贄に過ぎん」
「うちの里とは逆ですね。私の処は男の方の祖霊を祀る流派でしたから」
「なる程の。とすれば、野良の男神も降ろせるやも知れぬな」
「男神の力を借りる為に巫力を鍛えては居るのですが、招命ノ霊性が不得手でして。もし宜しければ、何か手解きを頂けないかと」
「お主程の力量で仰られる不得手では、儂の助け等は役に立たぬと思いますがの。……まあ、明日には次の漁と“赤尻”の事を伺い立てる為に海神を降ろします故、御見学為さると良いでしょう」
「ありがとう御座いますっ!」
ミクマリは提髪を跳ねさせ礼を言った。
「お前も、確かと儀式を見ておくのじゃぞ。その歳に為っても未だに満足に昆布占いも出来て居らぬのだからな」
娘を叱る老巫女。年増の娘巫女は項垂れた。
「さあ、今日はもう遅い。海辺の夜は冷えますや。波に遠い処に寝床を支度します故」
老婆は優しい微笑みと共に立ち上がった。
「ありがとう、お婆ちゃん」
ミクマリは再び頭を下げた。
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巫娼……巫女業と売春業を兼ねる者。
海神……海の神。海全体を司る場合もあれば、特定の浜や入り江を管轄する場合もある。