巫行058 老人
翌朝、ミクマリは連れ合い二人に無理に起こされて寝惚け眼を擦った。
村民に幾つかの集落の位置を訊ね、今後の計画を練る。
盆地が広いせいかその数は莫大。昨日の作業時間から鑑みれば、一日に就き、一、二箇所の仕事が限界だろう。
長らく余所と交易をしていない村や、離れた村に関してはその存亡は不明。果てていれば水の仕事よりも祓や弔いが必要となる。
自分達の物資も無限ではない。底を突けばアズサを抱いて山へと補給へ駆け戻らねば為らないだろう。
「大仕事になりそうです。雨を先に呼び起こした方が良いでしょうか?」
『いや、池を作るのを先にすべきだ。気紛れな天津神を呼ぶよりも、地に根を張る国津神が生まれ易い環境を整えよ。その方が盤石だ。雨の後に水が湧いても有難味が薄く、誕生が遅れる』
「成程。では、順に村落を周って行きましょう」
乾いた荒野を水分の巫女が行脚する。
彼女の付けた足跡には泉が湧き、川が肥え、草木潤い幽かに芽吹き、蟲齧る人々の心が甦る。
鳥や獣も、その慈愛の行いと衣の神気に惹かれ、甘手の技に関わらず茜の袴の後を追った。
徐々に巫女の一行の噂が広まり、十日程が過ぎた頃には、多くの集落が彼女の到来を待ち望む様に為った。
話が早いのは施術者にとっても手間が省ける処であったが、来訪と共に捧げものとして器に盛った虫の山が供されるのが三度目に為った時、ミクマリは「私、帰ります!」と叫び、仲間や村民から必死に引き留められた。
少々苦笑いを呼ぶ場面もあったが旅は順調。
旅の折り返しである盆地の中心部へと足を踏み入れた。
ここでミクマリは計画の大幅な変更を提案した。
この地には、季節一巡り程度の過去には湖が存在した。その名残として不気味な模様を描く窪地が残っているのだが、ミクマリは水脈を掘り起こす内に湖の貯えの多くがサイロウの創り出した大地の罅から地下に落ちて、未だに眠っている事に気が付いたのだった。
「亀裂さえ塞ぐ事が出来れば、水を引き上げて湖そのものを甦らせる事が出来るかもしれません」
『これまた。大きく出たな』
「大地の神様に御願いすれば出来ないでしょうか?」
『お前では無理だな。大地を司るは地母神だ。処女が神和ぐ事は出来ぬ。お前が生贄に為るか、俺との繋がりを切れば不可能ではないが』
「う、それは流石に……」
幾ら他者への奉仕に身体が咄嗟に動く質とは言え、彼女もまた人。身内との繋がりと、余所の地の他人とでは重さが違った。
『大地の神ではなく、何処かに地震や天地を繋ぐ雷を祀る神が居れば良いのだが。そちらなら男神も居るだろうしな。だが、例の火雷神はいかんな。破壊を好む荒魂であった故。他を当たらねばなるまい』
「成程。もう少し調べて来ます」
大地の調査を続け、住民達に湖の在った当初の状況を訊き、当てになりそうな神の在処を調べ、計画を練り直す。
この地に暮らす者達はミクマリの大計画に魂消たが、実現出来るならばと急いで避難の計画を立て始めた。
湖が干上がるにつれて、嘗て水底だった地へ暮らしの拠点を移動させていたからだ。
神に関しては、盆地に隣り合う採石場に、該当する古ノ大御神の一端が居ると聞き及んだ。
石の国津神とは別に高天から覡國に遊ぶ神で、雷や地震、加えて“戦い”を司るという。
『戦神でしかも古ノ大御神と来たか。一端とは云え、それなりの供物か交換条件が要求されるだろうな』
「大地を塞ぐ程の大仕事です。大御神様の求めが恐ろしい……」
『確かにな。だが、天津神は気紛れだ。只ですんなりと仕事を熟してくれるやも知れぬぞ』
「気楽過ぎませんか?」
『お前は生贄を要求されるのを恐れているのだろうがな」
「当然です。納得がゆきません。何故人の命を求めるのですか。救いを求めて死を対価にするなんて……」
歯噛みする娘。
『祈りや信仰への誠実さを測っておるのだろう。命を懸ける事以上に、真剣な事はない』
「確かにそうですが。生贄に捧げられる者は穏やかではありません。自身はその恩寵を享受出来ないというのに」
『一理あるな。捧げられる者は命を落とすが、周りの者は何もしないのだから不公平かもしれん。だが、この地は広く人口は多い。本心から望んで身を捧げる者も居るやも知れぬ』
「それで他の方々は満足なのでしょうか」
『仮に満たされずとも、前よりはましだ。命を捧げた者を永遠に忘れず敬意を払う。これが遺された者の使命だ』
「仰る事は分かりますが」
『俺達の祖霊信仰へも繋がる話だ。それに、疑いは神や贄への無礼だぞ。未だ割り切れぬ奴だな』
「ですが。本当に命を落とす必要がある様に思えないのです」
眉を顰めるミクマリ。
唯一、彼女の見た事のある人柱は無意味で的外れなものだった。これまでの旅の多くは、神の力よりも自身の巫力や人の手に依って切り拓いた事案が多い。
巫女に有るまじき考えだと自覚してはいるものの、本音を言うと“神”というものを手放しでは信頼しない事にしていた。
『諄い諄い。まだ人身御供が必要かどうかも分からんのだ。それよりも、神がお前の裸踊りを所望した場合を心配すべきだな』
「はっ、裸踊り!?」
頬染め表情を一転。
『割と聞く話だぞ。俺も旅の道中で立ち寄った村で見学をした事があるが、あれは中々に愉快だった。舞は完成したのだろう? 愉しみにしておるぞ。神が好色だと有難いのだがなあ』
「ちょっと! もうっ!」
さて、神からの要求に一抹の不安を抱えながらも、ミクマリは避難計画を進めた。
本来であれば全ての村に話を通すのが筋であったが、只一ヶ所のみ、この計画を伝えられないでいた村があった。
王へ祀ろわぬ民。“火垂の衆”と呼ばれる者の暮らす村である。
これは盆地の最も西に位置しており、湖に沈む事は無いが、サイロウの作り出した亀裂に阻まれて他の村々から孤立していた。
しかし山に近い立地の為、盆地全体を覆う旱魃に関わらず暮らしを立てられているそうだ。
彼等は嫌われている。蟲の名はサイロウが与えたものであったが、この地の者の多くもその名を好んで使った。山の恩恵を受け、旱魃の被害を免れながらも火術で他の地を乾かしてしまう故の嫌悪。
土地に変化が有ろうとも、立地的には損害を受ける可能性が極めて低い場所だ。多くの者は放って置けと言い捨てた。
それでもサイロウの手の者を追い払い、その後も繰り返される侵攻からこの地を護る彼らに話を通さない訳にはいかない。
ミクマリ達は大罅を迂回して、火垂の衆の集落を訊ねる事にした。
その道半ば、山中にてある一人の人物と出会った。
「姉様。誰か人が坐っとるわー」
アズサが指をさす。道とは到底呼べない木々の合間に、坐り込む老婆の姿。
「随分と弱ってるみたいだわ」
ミクマリは急いで駆け付け、抱きかかえて呟いた。老婆は身体痩せ細り、手足は磨り傷だらけで息も絶え絶えの様子。
「どうなさりましたか。こんな処で、お独りで一体何を?」
「む? 若い声。まさか今更戻れと言うのではあるまいな?」
老婆は重そうな瞼を持ち上げ、虚ろな瞳を覗かせた。
「私達は漂泊の巫女です。水の難事解決や薬事、怪我の治療等が出来ます。何でも仰って下さい」
「そうか。他所の巫女様か。このまま、儂等を死なせておいてくれ」
そう言って老婆は再び目を閉じた。
傷は直接命に関わりのあるものではなく、この山で付けたものだろう。老婆の命を蝕んでいるのは、外傷や目立った病ではなく、体力の衰えそのものの様だ。
ミクマリは返事をする代わりに、疑問を投げた。
「他にも誰かいらっしゃるのですか?」
「そうじゃ。儂等は、あの荒れた大地に暮らして居た者だ」
『口減らしの老人達か』
ゲキが言った。
「おお、何やら尊い神様が見える。あの地の事情を御存知でいらしたか」
『御存知も何も、俺達はあの地の亀裂を塞ぎ、湖を甦らせ、神退った雨神を呼び戻す事を計画しておるのだ』
「何と。その様な事が可能と申しますか!?」
老婆は目を見開き、それから干乾びた声で笑った。
『そうだ。このミクマリの力であれば可能だ。目処も立っておる』
「そうか、そうで御座いますか……」
涙を流す老婆。
「ごめんなさい。もっと早く来ていれば、御婆様が棄てられる事も無かったのに……」
「若き巫女様よ。儂は哀しくて泣いておるのではないのじゃ。これは嬉し涙じゃよ」
老婆はそう言うと皺だらけの顔を一層歪めた。
「嬉しい訳無いやん。婆やん、死なんとって」
アズサが言った。
「小さな娘さん。御主も声と霊気の美しい巫女の様じゃの。若い二人にはまだ分からんじゃろうな。儂等年寄りはな、自分達からこの山に入ったのじゃ」
「御自分達から? お年寄りだけで?」
娘達は首を傾げる。
「勿論、最初はあの地を棄てて全員で余所へ暮らしを移す話もあった。だが、幾ら地が痩せ衰え様と、若い者達にはその勇気が無かったのじゃ。西に行けば敵が待ち、東には険しい山々。根を持ち上げるのは容易では無い。年寄り共は僅かな資源を食い潰さぬ様、残った連中が少しでも生き長らえる様にとこの地に集まった。じゃが、老い耄れが集まった処で、未開の森で暮らしを立てる事は難しく、狼の餌にしか為らんかった。欲を言えばここを切り拓き村を興し、若者達を呼んでやりたかったのじゃが……。乾いた木すら碌に切れなくての。多くの者が情けない死に様を晒した……」
「御婆様……。他の方は何処へ?」
「恐らく儂が最後じゃろう。儂は村で巫女を務めた女でな、この地でくたばった仲間を鎮め寿ぐ為に生き続けておる。仕事は半ばじゃが、もう身体が動かん。数を間違っとらんなら、後三人の魂に始末を付けてやらねば為らぬのじゃが……」
「そんな。矢張り遅かったのね」
瞳潤ますミクマリ。
「うーむ、まだ分らんか? 寧ろ間に合ったのじゃがなあ。儂等も、御主達もな」
老婆が愉し気に唸る。
「間に合った……?」
「そうじゃ。儂等が自ら村を離れる事で、若い者も多少は多く生き残った筈じゃ。そうして繋いだ処に御主が現れたんじゃ。儂は、この役目に誇りを持てそうじゃ。何も知らぬままに息絶えれば、未練によりこの地に魂を縛り付けられる事と為ったやも知れぬ」
『それだけ話す元気があるなら、俺達の仕事を最後まで見て行かんか?』
守護霊が言った。
「そうやにー。婆やんも一緒に行こやー」
「折角ですが、辞退させて頂きますな。年寄りは引き際が肝心じゃ。元はと言えば、儂等の世代でサイロウの要求を撥ね付けられなかったのが悪い」
「良いとか悪いとか、無いと思います。生きられる為らば生きましょう」
「若いのう。お年寄りは大切にとでも教えられましたか?」
「そうです。私の里は、祖霊信仰を行っていますから」
「為らば、少し改めた方が良いでしょうな。信仰はそのものありきではない。それに値するから崇め奉られるものじゃ。卑しく生き残り、若者の生き血を啜る様では只の悪霊に過ぎませぬぞ。それに、巫女様方の旅の足を引っ張って計画に遅れが出れば、それこそ黄泉に落ちる程に悔いるじゃろう」
老人は宣い、笑った。
『……御老人よ。貴女の意思は俺の巫女が継ぐであろう。安心して逝くが良い』
「成程、守護神様という訳じゃな。儂も、いつか貴方様の様に、若い者を見守る身分に成れれば良いのじゃがな。守護神様、貴方様の信仰への口出し、御赦し下さい」
『ミクマリ、アズサよ。頼みがある。俺とこの御老人からの頼みだ。この付近に彼女の仲間の御霊がまだ三つ漂って居る筈だ。それ等を寿いでやって欲しい』
「寿ぐって、巫女さんやなくても高天に昇れるんけー?」
アズサは首を傾げる。
『ああ。魂が気高ければその資格がある。この彼女は巫女の様だが……』
「お仕事、引継ぎ致します。行きましょう、アズサ」
二人は付近の霊気を探知し、指示通り三つ御霊を見付け、彼等に対して祝詞を上げた。
三つの御霊は祝詞に反応し、高天國へと還って行った。
「気高い方々だったのね」
呟くミクマリ。だが、内心では納得をしていなかった。生き延びる道もあっただろうに。
「……なんな!? 姉様。あれを見ない!」
アズサが大声を上げる。
彼女の指さす先でも御霊が天へ昇っている。ゲキと老婆の居る方角だ。
「嘘、お婆さんが!?」
二人が駆け付けると、翡翠の守護神が老婆の骸の上に静かに佇んでいた。
「ゲキ様、御婆様は!?」
『逝去された』
「そんな。まだ御元気そうだったのに」
『……そうだな。最期に力を振り絞ったのだろう』
地の下から気配が這い寄る。力のある者の肉の末路の約束事。
土から虫が湧くのか、肉が虫に変じるのか、赤黒いものが蠢き、死体を黄泉へ運び去って行った。
「う……」
理とは云え、何度見ても気分の良いものではない。
「蟲さん仕事早いのー。普通の人だと埋めてからも時間が掛かるやんなー」
“苦手”故か、流派の違い故か、アズサは遺骸が夜黒の蟲に依って地へ引かれる様子から目を離さなかった様だ。
『黄泉も欲しがる程の人物だったという訳だ』
――私やアズサも死ねば、ああ為るのかしら。幾ら魂は高天へ逝けるとしても、不気味だわ。
魂には役割があるにしても、肉体はどう云った理由で持っていかれるのかしら。
『ミクマリよ』
師が呼び掛ける。
「は、はい。何でしょう?」
『御老人と、それと俺から、もう一つ頼みがある。湖の計画が落着したら、此度の老人達の最期を皆に伝えてやって欲しい。それと、布教は趣味ではないのだが、祖霊を祀る事を勧めてやってくれないか?』
「はい。喜んで」
『ありがとう。任せたぞ、巫女よ』
祖霊の魂は穏やかな礼と共に揺らめいた。
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