巫行057 鳥舞
泥遊びが落ち着き、水分の巫女主導の下、村民総出の池の補修工事が始まった。
地下水脈から引き出された湧き水は勢いが衰える事は無く、直ぐに田畠への灌漑と川跡へ水路を伸ばす作業が行われた。
体力を温存して小屋に引っ込んでいた村人達は、ここぞとばかりに痩せた腕を振るった。
乾いていた筈の彼等の身体は今や、自身の身体からでた塩気のある水で濡れている。
村民達は村の仕事が凡そ片付くと、陽が沈んでしまったというのに「隣近所にも水を分けに出る」と言って水のなみなみと入った土器を担いで旅立って行った。
恩返しの手立てを碌に持たない彼等は終始巫女を拝んだり謝ったりを繰り返し、責めてもと“お勧めの虫”を差し出しミクマリの顔を引きつらせたり、烏を追い掛けてアズサに止められたりをした。
「感謝の気持ちだけで結構ですから」「せやにー」
巫女達の苦笑い。姉妹は結局、礼は一晩の屋根だけを要求し、その晩は水を分けに出掛けた村民の小屋を借りて眠る事となった。
「うぐぐ……お弁当に泥が混じって、わやくそになってしもた……」
荷物を検めながら唸るアズサ。彼女は衣も荷物も泥に染めてしまっていた。
乾かす事は出来ても泥が落ち切らない様で、先程からずっと裸で衣と格闘をしている。
一方、ミクマリは一緒に泥を被っていた筈なのに汚れが一つもない。
神の霧で拵えた衣は術で容易く汚れが落とせ、荷物に就いても普段から確りと包んでいるので被害を免れていた。
勿論、髪の泥や肌の汚れを落とす為に人一倍に水を使ってはいたが。
「今日は少し調子に乗ってしまったわ」
毛先を気にするミクマリ。髪の毛は身体から離れなければ血肉と同じく霊気が流れる。術師にとって霊性に関わる重要な身体の一部である。
尤も、彼女はそちらよりも、幼少から誇る矜持への気遣いとして憂鬱を見せていたが。
『地下水はどれだけ深くから引き摺り出したのだ? やるにしてももう少し計画性を持つべきだったな。村民と相談をするとか』
「次回からはそうします……。人身御供を提案されて焦ってしまいました」
『それは雨乞いでの案であったろうに』
「そうなんですけど……つい」
苦笑いと共に頬を掻くミクマリ。
『どの道、雨を司りそうな神の気配が全くしないからな。生贄を百人捧げた処で何の役にも立たんだろうが』
「百人でも?」
『そうだ。居なければ捧げ物に気付かんだろう。柱を立てても干乾びるまでずっとそのままだろうな』
「矢張り、この地には雨は望めないという事でしょうか?」
『いや、神楽を捧げれば良い。その為の舞なのだ』
「舞だって神様がいらっしゃらなければ目に留まらないのでは?」
首を傾げるミクマリ。
『そこはそれ。舞手の力量がものを言うのだ。高天國は豊かではあるが、退屈な処でな。愉しみが芸能か覡國へのちょっかい位しかないのだ。故に、天津神の連中は舞踊や音楽を目敏く見付けてやって来る』
「それ為らば大地の衰えや生贄も見付けて下さっても良いのに……」
『そこが天津神の性格なのだろうな。連中の地上への興味は自身への興味から来るものだ。国津神であれば舞踊や音楽よりも、供物を要求する。それは、土地や信者の具合を測る意味も兼ねているのだ』
「国津神様の方が御優しい様な、そうでない様な……」
『どうだかな。その地や信者に存在を左右される故に真面目にやってるだけにも思えるが』
鼻で嗤う守護霊。
「また失礼な事を仰って!」
『兎も角、雨乞いを行うのであれば、遠くの古ノ大御神の目を惹ける様な完成度の舞が必要だ。アズサが来て以来、余り稽古をしている様子がないが、最近はどうだ? 進展はあったか?』
「ええと、さっぱりです。矢張り他人から見てどうか分からないので何とも」
『俺が偶に覗いとったろうが。人よりも神が観てこその神楽だ』
「ゲキ様は元人間じゃないですか。それに、何だか感性が大雑把と言いますか……」
娘は覗かれていた事を思い出し、頬染め口を尖らした。
『お前も大概に失礼だな……』
「うう、どんだけいろうてもあかへんわ」
未だに衣の泥を落としている童女が唸った。
「そう言えば、アズサは巫女の見習いをしていた時に舞を学んだって言ってなかったっけ?」
「へ? うちですか? 舞は得意やったさー。舞って見せよかなー?」
衣も身に着けず立ち上がろうとするアズサ。ミクマリは黙って制止し、首を振った。
『子供の舞何ぞで、神が満足するとは思えんがな。そう言えば、御使いに対してミサキは一人であろう? 見習い共に神楽を教えても手間処か、流出の危険性の方が大きいと思うが』
「こーっと、うちの処はですねー。ミサキ様と、見習いの子供七人の合わせて八人で舞うんさー」
アズサは腕をゆっくりと振って見せる。
『何故、そんな大人数で? 手足の短い子供の舞は不格好にも思えるが』
「御使い様の御子様は決まって七羽生まれるんです。子連れの御使い様の様子を見立てて踊るんやにー」
『巫覡の見習いが多い理由には、それもありそうだな』
「でも、“巫覡”を育ててるっていう割に、殆どが女の方だったみたいですけど。御使い様が雄だったら困らないのかしら?」
「御使い様も大体は女の子が成らはるんで平気みたいやにー」
「ふうん。そう言えば、神様に御仕えになる方って、男性よりも女性の方が随分と多いみたいですけど、何故でしょうか?」
ミクマリは嘗ての男覡を見上げて訊ねた。
『簡単な話だ。霊感のある霊媒体質は、男よりも女の方が圧倒的に生まれ易いのだ。その理由までは知らぬがな』
「ふうん。……そうだ。圧倒的に多いと言えば、この村、ちょっと変わってるのに気付きましたか?」
ミクマリが二人に訪ねる。
『何がだ?』「分からへんなー」
「お年寄りの姿が全く見えないのです」
訪問時から泥遊び、土木作業に於いても年配者の姿を見ていなかった。
『子供が棄てたとか何とか云っていたな。この様な状況の地だ。大方口減らしと言った処だろうな』
「私も考えたのですが、矢張りそうでしょうか。訊こうにも恐くって……」
『知らん方が良い事もあるものだ。この村の者達と良好な関係を無闇に崩すなよ。通り過ぎればそれまでであるし、忘れよ』
守護霊の割り切った言。
だが、ミクマリは表情を落とした。夕方、子供の様に燥ぎ合った彼等もそんな惨い事をするのか。事情が事情とは言え、やる瀬が無いではないか。
「私がもっと早くここに来ていれば……」
呟く。
『考えるな。過去だ。口減らしなら、最早必要性は無くなった。お前が無くしたのだ。この地を穴だらけにするのだろう?』
「そうですけど……」
「うう、姉様。悄然しやんといて。旅が遅うなったのは、うちの所為やしなー……」
哀しみが伝播したか、アズサは下を向いて呟いた。
「ああ、アズサ! ごめんなさい。そういう心算で言ったんじゃなくって。気にしちゃいけないわ」
慌てて妹分に擦り寄るミクマリ。
「まー、うちはそんなん知らんけどなー」
アズサはミクマリの懐に飛び込みながら言った。
「えっ、アズサ今何て……?」
目を丸くするミクマリ。不遜な言葉を吐いた娘は衣に顔を埋めて無言を貫く。
『ミクマリよ、騙されおったな。此奴、抱き着く時に笑っておったぞ。中々の狸娘だ』
ゲキが笑う。ミクマリは自身の胸に頬摺り寄せる童女を見て、微笑と共に嘆息を吐いた。
「元気のうなったらあかへん」
腕の中の娘が呟く。子供なりの気遣いへ頬緩ませ撫ぜてやる。
『何にせよ、浮付いた心も沈んだ心も放って置け。これからお前が行う行為は歴とした善行であり、この地の今後を左右する重大な任なのだからな。お前は俺の巫女らしく堂々と振る舞い、雨乞いの際もお前らしく舞えば良い』
「またそんな投げっ放しな御話を為さって。頑張るのが私だからって、ゲキ様は適当を仰っていませんか?」
『そうだが』
「もうっ!」
『揶揄ってるのではないぞ。お前が実践派だから任せておるのだ。これぞ守護神と巫女の絆の為せる技、或いは師弟の絆と云う奴だ』
「……」
笑い揺らめくゲキを尻目にまたも溜め息。旅に出てから一生にした溜め息の数が倍以上に増えた気がする。
確かに師の言う通り、理論理屈を並べられても舞踊が改善されるとは思われない。
地下水脈を引き上げ池を作るのは験すが、毎度毎度の様に都合の良い地点に水脈が見付かるとは限らぬだろう。
それに、人や畠は潤せても水場から離れた土草には縁遠い話だ。獣の為にも人里離れた処にも池を引くべきかもしれない。
子供や命の連鎖の根である大地が力尽きれば、この苦労も水の泡だ。
どちらにせよ、近い内に雨乞いの儀式を行い、再び雨の神を近隣へ呼び戻さねば広大な地の再生には至らないだろう。
『何を難しい顔をしておるのだ? 考えても仕方が無いと言ったろうに』
「いえ、そちらの話ではなく」
『舞にしろ年寄りにしろ同じだぞ? 取り敢えず、動け。アズサに話を振ったのは此奴に代役をやらせる為ではないだろう? 子供とは言え、ミサキから舞踊を教わった者の意見は貴重だと思うが』
「ゲキ様、うちは子供じゃないさー!」
抗議するアズサ。彼女は未だに裸でミクマリの腕の中に納まっている。
「子供じゃないなら、ちゃんと衣を着て頂戴。出来れば、もう少し恥じらいを持って欲しいのだけれど」
ミクマリが祖霊に肌を晒すのを嫌う一方、アズサはその点を全くと言っても良い程気に掛けなかった。
ミクマリも始めの内はしつこく注意を促してはいたが、本人の無頓着さに加えて、どうも覗き見癖のある霊魂の方も本当に興味が無いらしい事が分かった。
気にしているのは彼女だけである。
『またその話か。隠すから覗きたくなるのだ。月水もない子供の裸に、見るべきものがある筈無かろう』
「また子供って言った……。でも姉様も、うちと変わらん様な……」
そう言ってアズサは再びミクマリに抱き着き、胸を弄った。
「……こいつめっ!」
ミクマリは妹分の頭を引っぱたいた。
それから、ミクマリは二人に未完成の舞を披露し、批評を求めた。
ゲキは相変わらず「良いじゃないか。俺は好きだ」と好い加減に褒めて、娘の頬を無闇に赤く染めた。
強いての助言は「照れが見える。雨乞いは土地の者達の前でも行うのだから、そこは克服しろ」。
これに関してはミクマリは全く自信が無い。二人に舞を披露するだけでも、胸がお祭り騒ぎの状態である。水術で野山を駆けてもこうはならない。
指摘通り、これは大きな課題だと胸に留める。
一方でアズサは、眉を上げたり下げたりして終始唸り続けていた。
「どう? アズサから見て」
「うーん。確かにゲキ様の仰る通り、確かに照れは有りますし、ミクマリ様の舞の所作の一つ一つは目を見張るものがあります。大袖を使った大きな動きは私達の舞にもありませんでしたし、水術に依る常人には難しい身体の動きも見事です。唯一無二の舞踊と言えましょう」
妙に畏まり感想を述べる童女。
「……ですが何と言いますかー。全体として纏まりが無いかと。何か踊りに於いての主題は御座いませんか?」
「一応、鳥を模して振り付けを行ってるのだけれど……」
「矢張り鳥ですか。私達ミサキの候補は、御使い様と交信する為に、御使い様の所作を真似た舞いを学びます。御使い様も確かに生きた鳥です。或いは烏の親類なのでしょう。鳥にも色々御座います。ミクマリ様は、一体何の鳥を御想像為さって舞っておられるのでしょうか?」
童女に似合わぬ鋭い指摘と眉間の皺。頬の嘴を象った入れ墨も舞の穴を突く様に上下した。
「う……。それは適当だったり……。鳥って種類が多いんですもの」
「その通りです。鳥にも色々御座います!」
アズサは、ずいとこちらへ顔を近づけた。変わらずの顰めっ面。
『鴨に、山鳥に、雀に鴫。雉や鶉等も旨い。身体は無いが腹が減るな』
師が何か言った。
「何か種類を絞って振り付けを行った方が良いと言う事かしら?」
「はい。それと、先程も申し上げましたが、纏まりがないと言うのは、鳥の種類の一貫性だけでは御座いません」
相変わらず近い顔。
「ご、御座いませんか。では、御教授を……」
「……」
勿体振った制止と沈黙。暫しアズサに睨まれる。
「……それは」
「それは?」
「それは、“語り”で御座います!」
「語り? “おはなし”の事かしら?」
ミクマリは首を傾げる。
「はい。音楽でもそうですが、舞踊にはおはなしと同様に“起承転結”が必要なのです」
『お、何やらそれらしい理屈を並べ出したぞ』
「理屈ではありません。心に語り掛けるのです」
今度は霊魂へと顔を近づけるアズサ。
『お、おう……』
彼は少し天井の方へと逃げた。
「ミサキ様は、巫女の修行に関してはお厳しい方でしたが、時折愉しい御話を聞かせてくれました。他愛無い内容のものばかりでしたが、私達子供にはそのおはなしの時間がとても愉しみで……」
『自分で子供と言っとる』ゲキがぼやいた。
「おはなし、成程……」
ミクマリには心当たりがあった。彼女もまた里長であり、子供を育て面倒を看て来た経験のある者だ。
話を作るのは余り得意ではなかったが、子供が繰り返しせがむ“物語”にはある程度の共通項があるのには気付いていた。
『今の話で何か分かったのか?』
上から聞こえる声は退屈そうだ。
「あとはそうですね……。御使い様の親類とされる烏は、死の使いや死の象徴としても有名です。私達の処では、多くの死者が出た時にも烏舞いと呼ばれる舞を行い、死者を弔う事があります。烏は死を司るのです」
『司る、か。池には鴨が泳ぎ、木を小啄木鳥が打ち鳴らし、川では川蝉が遊ぶ。春を告げる鳥等も居るな。鳥には自然や季節の使者も多い』
「……そっか。燕だわ。燕は、梅雨の前に現れて、人里に巣を作るの。そうして、乾いた冬季節には何処かへ飛び去ってしまうの」
鳥の多くはミクマリ以外の人間を避けたが、燕だけは例外だった。人に慣れる事は無くとも、彼等は好んで人の住まいの傍に巣を掛ける習性がある。
『雨の季節を告げる鳥か』
嘗ての里長は、まほろばの地、最期の初夏を想い出す。辛い記憶よりも僅か前。
今も色鮮やかに脳裏に描ける、胸を締め付ける様なあの幸福の日々。里の者達と一緒に、雛の巣立ちを愉しみに見上げたあの鳥を。
「……ありがとう、アズサ。舞は必ず完成させるわ」
ミクマリはそう言うと立ち上がり、小屋の外へと足を向けた。
『どうやら何か掴んだ様だな。アズサ、俺達はさっさと休もう。明日は寝穢い娘を起こす仕事があるからな』
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わやくそ……滅茶苦茶。
人身御供……人間を供物に捧げる事。生贄。
神楽……神に歌や音楽、舞踊を披露する儀式。