巫行055 抱擁
ミクマリは腕を組んで墜落しながら水術を手繰った。手早く水の羽衣を織り、それを纏って落下の勢いを大きく削いだ。
落下の風を受けて茜袴が広がる。
験しにやられた振りをしてみた。師は霊気を探って直ぐに気付くだろう。アズサは気付くだろうか。
何れにせよ、元を叩くには蛇女の方の相手をする者も居た方が都合が良い。
見習いには手強い相手ではあるが、守護霊が付いている。それに大元を祓えば蛇女も自ずと消えるだろう。
苔生した岩壁、光少なき空間、虫の羽音。
深谷は降りれば降りる程に夜黒ノ気が濃くなってゆく。
上から覗いた時にはそれ程には見えなかったが、まるで巫女を歓迎するかの様である。
降りるに連れて悪臭が漂い始め、ミクマリは大袖で口と鼻を覆った。
歪な岩の谷底へ沓を着ける。川の流れとは別に、水が流れ込み小さな貯水池を作っている箇所がある。
それは、池や沼だと云うには余りにも濁り淀んでいた。
浮かぶ白骨、まだ肉の残った穢れた“部位”。それにその持ち主の霊魂が漂って居る。霊魂達は稜威なる者の意志に依り、本来行くべき場所への旅立ちを禁じられている様だ。
「まるで小さな黄泉ね」
これだけの夜黒の気配の集まりに気付かなかったのはこの深き地形の所為か。
通常ならば、これだけの気配は巫覡であれば離れていても肌で感じてしまうだろう。
先ずは霊気を練り解き放ち、霊的な清めを済ます。谷間が光に包まれる。
物理的な清めは、沼の水分を散らす程度しか出来ない。村民達に指示して骸を在るべき場所へ戻して貰わねば。
一旦は夜黒ノ気を祓ったものの、再び気が甦る地点がある。
少し離れた処に朽ちた衣を纏った骸骨。……それは小さな頭蓋骨を抱きかかえる様に身を丸めていた。
『……来るな……来るな』
響く霊声。
「そう仰らないで。祀れと言ったのは、本当は祓い清めて欲しかったからでしょう?」
『……吾は水神。祓われるべき存在に非ず』
黒い靄が骸骨を包み込んだ。乾いた音と共に骨が立ち上がり、夜黒が肉を作り上げ形を成してゆく。
一人の女の姿。人と異なるのは二点。その黒き気配と、額に伸びる二本の角。
腕に抱くは小さき骸。肉を纏わぬそれだけは夜黒にも冒されず、純白を護り続けている。
「鬼……。分かりました、確かに貴女は神の類でしょう。村を祟ったのも全て御役目の内」
『……何の話だ。吾は憎くて、悲しくて仕方がない。あゝ、巫女よ。お前のその、生きた身体が欲しい』
白き骨を抱いた鬼が飛び掛かる。膨れ上がる右腕。上の蛇女等は話に為らない剛毅な念。
ミクマリは全身と神威の霧衣に霊気を込め、斧薙ぎの様な一撃を受け止めた。
「鬼よ。滅する前に訊ねておきます。貴女は何故に怨み募らせ黄泉に招かれたのですか?」
『……違う。私は逝っていない。逝けなかったんだ!』
繰り返し叩き付けられる大木の様な拳。受ける腕の肉が爆ぜ、骨が軋む。
「逝けなかった?」
鬼の言葉を反芻する。すると鬼は手を止め、上を見上げた。
『死にたかったのに、この深い谷は私を殺してくれなかった。この子だけ先に逝ってしまった』
垣間見える人の心。
「お辛いでしょう」
『同情は要らぬ! 生きた女め!』
殴打が再開される。一層強く込められた念。
それはミクマリには怨み辛みと云うよりも、悔恨に感ぜられた。
今度は剛腕を受けず、大袖に強く祓の霊気を込めて振り払った。黄泉の肉が飛び散り、黒き血と共に切断される。
鬼女の穢れた悲鳴が谷間に木霊する。
隻腕の鬼。膝突き、融けた肉を滴らせる。
気高き巫女の力に呼応してか、敵意の念だけは益々滾らせては居たが、残された腕は白き骸を抱く他に使われる様子がない。
僅かに見えた人の心に願いを掛けて、ミクマリは祓を行う。
清らかなる光が黒を散らし、子と同じ色へと還してゆく。
鬼には役目があると聞いた。祓の届かぬ黄泉で他者の怨みまでも集め貯え、覡國に影向する事で巫覡に気付かせ、自身を滅させる。
その御霊を柱とする事で、役目を果たす哀しき存在。還る先は無。誰の取り決めか、鬼自身はその真実を知らない。余りにも惨い仕打ちだ。
「……高天に、還る命を寿ぎます」
掟破りの祝詞。巫女の発する光が親子の骸を優しく包み込む。
光消え、静寂が辺りを包み込む。残るのは不快な腐肉の臭いのみ。
ミクマリは希う様に谷底から遠い空を見上げた。
・……寿ぎを受けて昇る魂の姿は無し。
慰めの太陽も木々に遮られ、拝む事が出来なかった。
巫女は暫しの間、昏き谷間よりも深い哀しみに沈み佇んだ。
鬼を滅したミクマリは水の足場を宙に作り谷を登った。
蛇女を生み出していた元凶を滅した以上、上も片付いている筈だ。
『戻ったか……』
翡翠の霊魂が溜め息交じりに漂って居る。その下には蹲ったまま啜り泣く童女。
「ミクマリ様がのうなってしもうた……。厭や……厭や……。矢張り弓占いは当たるんや……」
『お前が落ちてからずっとこの調子だ。俺はお前の目論見には直ぐに気付いたが……』
「アズサは戦わなかったのね」
『全くな。抵抗すらも見せんかったから、あれは俺が滅しておいた』
「下に鬼が居ました。谷に子供と共に身を投げた女が正体です。それが化け物を作り出していたのでしょう」
『そうか、御苦労だった。……が、どうやらこちらの方は薬が過ぎた様だな』
二人が会話をするも、アズサはミクマリの帰還に気付かず、長雨を降らし続けている。
「厭や、また独りぼっちは厭や……」
「アズサ、アズサ」
童女の肩を揺すり、頭を撫でてやる。そこで漸く気付き、彼女は啼泣を激しくした。
「生ぎでだあ」
抱き着くアズサ。震える背中を叩いてやる。
「ごめんね」
「ミグマリ様がのうなってまた、独りぼっちになったかと……」
確かめる様にこちらを見つめ、また衣に顔を埋める。
「ごめん、ごめんなさい……。少し厳しくし過ぎたわ」
『俺も旅を急いでミクマリを煽り過ぎた。済まん』
ゲキも謝罪した。
「急に冷たくされたから、嫌われたかと、思いました」
嗚咽交じりに答える童女。
『勘違いだ。旅は過酷で危険なものであるから、俺達はお前を独り立ちさせようと思ってだな……』
「ゲキ様。勘違いは私の方でした。ミサキ様と相談の上とは言え、半ばこちらの私情での引き取りです」
ミクマリはアズサの頭を撫でながら続ける。
「アズサは処分の指示として旅に着いて来ていたのです。元は望んでの事ではありません。それを大した説明も無しに強要して。本当にごめんなさい。旅が嫌だったのね?」
「違いますよう。確かに、旅は、辛い事もありますけど。御二人と一緒に居るのは、楽しいです」
「無理はしなくていいのよ。その気に為れば直ぐに里に返して上げられるわ」
「そんな事言わんとって。うち、里に帰りたないです」
アズサはそう言ってまた泣きじゃくる。
「そっか、ごめんね。分かったわ。……ゲキ様」
祖霊を見上げる。
『うむ、俺にも責はある。それに、流石に可哀想に為った。この旅は里の者へ捧げる弔いの旅なのだ。連れ合いの身を護る為に心を死なせる様な者では、悲願を果たす事は出来ぬ。歩みが遅くとも構わぬ、巫力や霊気を磨くのも少しづつで良かろう。済まぬかったな。アズサよ』
ゲキはその身の炎を縮めて言った。
難事片付け、巫女が村へと帰還する。ミクマリは谷底の遺骸の事を村民達に話して聞かせた。
どうやら村には、十年ほど前に諍いの果てに村を飛び出した一人の女が居たらしい。
元は余所の村から嫁いで来た女だったのだが、既にその胎には子が居たらしい。
子が生まれるまでの時が合わぬと夫に烈しく責められ、子と共に追われて行方知れずに為ってしまったのだ。
そして、その夫も数年前に失踪していた。
谷にあった遺骸は共に回収された遺留品から、他所の村から迎えた女、沢に出て疾走した女等、呪いの犠牲者達と件の夫のものと判明した。
片腕の砕けた骸骨と子供の遺骨も回収され、それらは村のやり方を超えて丁寧に埋葬された。
本来ならば、この村では子供の遺体は特別に土器を拵えてそれに収めて埋めるらしいのだが、敢えて親子共々葬る事にしてやった様だ。
村は今後は生き残った女に加えて、何処か余所の村から余った女を嫁に貰って立て直すという。
勿論、ミクマリとアズサにも声が掛かったが、そこは丁重にお断りしておいた。
「ミクマリ様、まだ眠らなくても平気なのですか?」
供された小屋の中、アズサが訊ねる。
「ええ。何だかまだ目が冴えたままで」
『二日も寝て居らぬのだろう? 明日は無理に起こしたりはせぬから、確りと眠れよ。お前が倒れれば旅は鈍行処の話ではなくなってしまうからな』
「そうですよ。でも、もし倒れたら看病はお任せくださいね!」
歯を見せるアズサ。
「倒れたら御願いね」
ミクマリは微笑みを返す。
旅慣れに重ねて、憑ルべノ水に依る自身の身体の調律。働くには何とも便利の良い身体。
それは、人から掛け離れたものに思える。同じく、心も度重なる苦難に麻痺を患い人から離れたのだろうか。
旅をして来たミクマリから見れば、アズサの巫力は十分なものだ。だが、彼女は里では滓扱いをされ続けて来た。
そこに初めての苦難や努力の成果が吊り下げられればどういう気持ちに為るか。その心が汲めなかったのは大きな失態だ。
「本当にごめんね、アズサ」
「ミクマリ様、また謝ってる。大丈夫ですよ。今日は驚いてしまいましたが、次はちゃんと出来ますから」
「無理はしなくていいのよ。戦いは全部私達がやっても……」
「心配性ですねー。どうしてそんなに私の事を心配するのですか?」
笑み首を傾げるアズサ。
――矢張り、面影が何処か重なってしまう。
『ミクマリにはな。妹がおったのだ』
ゲキが言った。
「妹さんが?」
「……そう、貴女と同じ年頃の子だった」
「だった……。里の無念を晴らすと仰っていましたが、妹さんも?」
「ええ。彼女は当時は里の巫女を務めていて、里が襲撃された時に最後まで戦っていたの。あの時の私には何の力もなくて、唯一人生き残ってしまった」
何度語れど込み上げる哀しみ。失ったものは戻らない。
「……お辛そう。私には本当の兄弟は居なかったので。でも、ミクマリ様も独りぼっちに為ってしまったんですね」
「そうね。ゲキ様がいらっしゃるけど、この方は身体は無いし、直ぐに覗くし、意地悪だし、口喧しいし」
守護霊を見上げ微笑む。当人は何も言わなかった。
「元は、私の妹がゲキ様の巫女だったの。私はその後を継いで巫女に成ったの」
「巫女に成って二季節位と仰ってましたね。凄いです。私より修行が短いのに。妹さんもお強い巫女だったのですか?」
『ミクマリよ、アズサにはもう一つ謝らなければ為らん事があるな。俺も、お前も』
ゲキが遮る様に言った。
「そう……そうね」
「何ですか?」
『俺とミクマリは、その妹の面影をお前に見ていた。お前を引き取る事にしたのも、生贄から解放したのも、それが理由だ』
「ごめんなさい。アズサはアズサなのにね」
頭を下げるミクマリ。
「そんな! 謝らないで下さいよー。それだったら、ミクマリ様だけでなく、妹さんも恩人ですよ。高天に向かって御礼を申し上げないと」
アズサは謝罪を押し退けると天井を見上げて手を握り合わせた。
「妹様の名前は何と仰いますか?」
「巫女に為ってからは“妹巫女”と呼ばれていたわ。姉の私が里長をしていたから」
「ふうん。真名は何て?」
「それは……言えないわ。巫覡は真名を呼ばれると巫力が落ちてしまうから」
「もう巫女の任が解かれたのなら、名を呼んでも良いのでは?」
疑問が投げられる。彼女の言う事も尤もだ。だが、ミクマリは自身の心の内でさえ、妹巫女の真名を呼ぶ事を避けていた。
「どうしてかしら、呼ぼうという気が起こらないの。まだ何処かで生きて……」
『悪いが、それはないな。俺が看取ったのだから。俺達の里は祖霊信仰を行っている。祀られた先祖の御霊が佑わう隠れ里だ。妹巫女もまた巫力の高い巫女であったのだ。何れ俺が神退る事と為れば候補に上がるやも知れぬ。尤も、俺は歴代最強と自負しておるから、そうなるのは遠い未来の話だろうがな。何にせよ、ミクマリが里を再興せねば意味の無い話だが』
――そっか、そうよね。あの子もまた守護霊に成りえるのね。私自身だって。ゲキ様の振る舞いを見る限り、少し愉しみかも知れない。
ミクマリは微笑む。案外、人の生き死にそのものに大した意味は無いのかもしれない。魂の在り様の問題だ。あの子は高天から見守って居るのだ。
「でしたら、私も頑張らなくては。巫女頭になる予定なので! ミクマリ様には里の事に集中して貰って、私が巫行を頑張ります!」
「無理はしなくても良いのよ。貴女は貴女なのだから」
「もーまた! ミクマリ様は気にし過ぎさー。うちは一度死んだ筈の身さー。そう考えれば何でも幸せやにー」
好い加減にアズサは顔を顰めた。
『また邦の言葉が出とるな』
「おっと。私の村は、里でも端の方だったので、少し訛りが違うんです。本部でお勉強した際にミサキ様に注意されたのですが、治らなくって」
「別に治さなくても良いわ。その方が貴女らしい気がするもの」
「そやけど、ちいとごっつくてなー」
アズサの敢えてのお邦言葉。頬染め頭を掻く。
「ふふ、好きにして頂戴。兎に角、これからも宜しくね、アズサ」
童女の手を取る。
「宜しく御願いします。あのなー、好きにしてええんなら、お一つ良いけ?」
「なあに? 何でも言って良いわよ」
微笑むミクマリ。
「ミクマリ様の事を、“姉様”と呼ばせてんかー?」
屈託の無い笑顔。
「……分かったわ」
「やったあ。姉様ー」
胸に飛び込んで来る新たな妹。姉はそれを確と抱き締めた。
『子供の癖して気を遣ってるのではないだろうな?』
ゲキが水を差す。
「そんな事無いさー。家では一人っ子やったしなー、姉妹巫女とは仲が良くなかったしなー、お姉ちゃんには憧れてたんやにー!」
「そうよね。疑うなんて酷いわ。アズサ、私の本当の妹に為りなさい」
「へへー」
二人は抱き合いながら祖霊に向かって意地悪く笑って見せた。
『全く。護らねば為らぬ者が増える守護霊の身にもなってくれ』
そう愚痴る祖霊の霊声も、嘗てない程の優しさを湛えている。
「里を興したら二人処の話ではありませんよ。ゲキ様ももっと確りしてください!」
ミクマリが笑いながら言った。
「それもそうやなー」
アズサも笑う。
「アズサ、宜しくね」
「はい、姉様! 姉様の髪の毛、むっちゃさらさらやにー!」
アズサが姉の髪を撫でる。
『此奴の黒髪は見事なものだ。これより立派なものを持つ女は見たことがない』
「アズサの耳たぶも触り心地が良いわ」
ミクマリは妹の耳に手を添える。
「こそばい! 姉様、そこ褒める処やあらへんなー」
『“苦手”の家系は耳たぶが大きいらしいな』
「ふうん……ねえ、アズサ。貴女の事、もっと聞かせて」
「……はい!」
小屋に響く三人の談笑は夜更けまで続いたのであった。
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佑わう……守護する、加護を与える。
こそばい……くすぐったい。