巫行054 直向
「ミクマリ様!」
怪我人の手当てをしているとアズサが飛び込んで来た。
「今度はなあに?」
溜め息。村の用訊きに回ってから、アズサよりの呼び出しは三度目であった。
「村の隅に邪気の濃い場所がありました!」
「貴女の祓えない様な邪気は無かった筈よ。さっきもそうやって呼んだけど、大した事が無かったじゃない」
アズサを追い払い治療を続ける。他者を穏便に治療するには多少の時間が掛かる。気を許さねば身体の霊気が従わないのだ。
見知らぬ人間や、巫術に明るくない者であればある程苦労する。緊急であれば力尽くで治す事も出来るが、患者は相当の痛みを受ける。
「ミクマリ様! 祓えました!」
再度妨害。怪我人が悲鳴を上げた。
「ミクマリ様!」
道端で年寄りの悩みに耳を傾けていると、アズサが駆けて来た。
「どうしたの?」
「また邪気が。今度は村の塵棄て場にはっきりとした夜黒ノ気です!」
少し不穏。人の範疇の悪意や気の滞りは邪気。明らかな害意や、恨み辛みが目視出来る程に為れば夜黒ノ気だ。
ミクマリは手早く探知をして程度を調べる。先程気付いたものと比べて特段成長をしていない。
『この村は狩りと採集を中心に暮らしを立てているからな。獣の死骸が悪さをしているのだろう。正当な巫覡が居らず、黒穢の処理が甘いのだ』
ゲキが言った。
「里の大鷹の様な事が起るのですか?」
不安気なアズサ。
『放って置けばな。今は大した事は起こらぬだろうが、病の発生源には為りうる。夜黒を祓った後、死骸を火で清める様に伝えろ』
「私が言っても信じて貰えるかどうか。ミクマリ様に来て欲しいなあ……」
「私は今、手が空いていないわ」
こちらは老人の孫娘を亡くなした悲しみを受けるのに忙しい。ミクマリはその気性故に、聞き手と為り悩める人々の心の清めも得手としている。
行うのは巫女である必要はないが、霧の里でミサキから黄泉の役割を聞いてからは、一層重視しようと心に決めている事であった。
「じゃあゲキ様、お願いします」
『じゃあとはなんだ、じゃあとは。そもそも俺の声が聞こえる者が居らんだろうが。肝心な男覡や村長に霊感が無いのだぞ』
「うう……」
背を向けとぼとぼと立ち去るアズサ。守護霊も溜め息を吐いた。
「ミクマリ様!」
呪術らしき気を払っても苦しみ続ける若い娘を診ていると、またもアズサ。
「……なあに?」
「村の邪気が大方祓えました! それと希望者が居たので占いもしました!」
彼女の梓弓は何時の間にか弦が張り直されている。アズサはミクマリの傍へ寄ると頭を突き出し含羞んだ。
「そう。ねえ、アズサ。この方、何か呪い以外で苦しんでいる様なのだけれど、貴女分かる?」
童女の要求を無視し訊ねる。原因も凡そは分かっている。この娘は無力な男覡の苦労の末に間違った薬の処方を受けていた。
「……」
アズサは不満気な顔を一瞬見せたが、横たわった娘の身体を触り、腹の彼方此方を圧し始めた。
「この辺りが痛いですか? 何か、最近お腹に入れたものは?」
「御爺様にお薬を頂いた切りで。最初はもっと下の方が痛かったのですが、それはミクマリ様に治して貰いました。でも、ここはお薬を飲んでから痛むのです」
苦しそうに喘ぐ娘。
アズサも原因に得心がいった様で「成程」と呟くと、直ぐに薬を煎じ始めた。
「此方のお薬を四度に分けて日に二回、清めた水と一緒に空き腹へ入れる様にして下さい。治るまでは肉や魚を避けた方が良いでしょう。二日の辛抱ですよ」
助言と共に処方される薬。アズサの手付きは薬事が得手だと云うだけあり、中々に慣れたものであった。
加えて、調合の途中でミクマリも知らぬ材料がひとつ加えられており、見立てよりも短い恢復期間が宣告された。
娘は幼い巫女の言葉に少し不安気な表情をしてミクマリの顔を見たが、微笑んでやると息を吐いて頭を寝床に付けた。
得手の薬事とそこそこの霊気に依り、アズサは巫女の名に恥じない活躍を見せてはいる。これまで出会って来た巫覡達と比べても優秀な方だ。
だが、事ある毎の「ミクマリ様!」は止まず、ミクマリは一々作業を中断せねば為らなかった。
始めの内は自信の無さから来る助力の要求が多かったが、次第に解決の報告が増え、暗に褒めろや撫でろやとやって来る事が増えた。
幾ら慈愛の巫女とは云え、神経は人。後輩を想って謹厳を装い続けるが、次第にその童女の振る舞いに情けなく為り、苛立ち始めた。
「ミクマリ様!」
「今度はなあに!?」
刺立った返し。アズサは少し怯んだ。
「あ、あの。村の女の人が産気付いたみたいです。こればっかりは、私は触らせて貰った事がない仕事なので、力添えが必要かと……」
悄気る童女。
「……ごめんなさい。直ぐに行くわ」
仕事を置いて小屋を出る。湿気の相談を受けて新たな排水溝の位置を考えている最中だった。小屋の主も自身の問題は置いて「御願いします」とミクマリを拝んだ。
産褥での仕事は初めてではない。巫行に着くよりも昔から関わって来ている。里長時代では巫女を差し置いて主導していたし、幼い時分から親に付いて手伝っている。
今の処は不幸な結末に遭遇した事もない。しかし、こればかりは未だに慣れないものであった。経産婦の産婆であれば肝が据わると聞くが。
ミクマリは久々に圧し潰されそうな心持になった。
この村では正に、“圧”が違ったのだ。
女に不幸の降り掛かる村。数少ない貴重な産み手の事は誰しもが慮っている。ある種の神の様な扱い。
産気付いたという噂は玉響の間に広がっており、ミクマリは現場に向かう途中に何度も拝まれた。
呪いが無くとも難しい事案。取り掛かる前から脂汗が浮く。
『ミクマリよ』
師が声を掛ける。
「何でしょうか」
返事は自分でも驚く程に堅い。
『ええと、俺は離れて置いた方が良いか?』
的外れな戸惑いと提案。下らぬ覗き等は心配する価値もない。
「御勝手に」
『そ、そうだな。まあ、居ても役に立たぬだろうからな』
ゲキはミクマリに付くのを止め、辺りを不安げに振ら付き始めた。何処となく泉の水子を髣髴とさせる挙動。出産劇を前にした男に良くある光景だ。
――私がやらなきゃ。絶対に失敗は許されない。
娘は妊婦の待つ小屋の前で立ち止まり、帯を締め直し、腹を括った。
……。
結論から言うと、村は新たな命を得た。一時危ぶまれたが、産み手の命共々失われる事も無かった。
苦しみの声は、陽が沈み、更に時を経て朝日が昇り、また陽が沈むまでの間続いた。
産婆を務めたミクマリの手腕は語るまでも無いが、意外な事にこの村の男衆は黒穢も赤穢も恐れなかった。
村の存亡に関わる大事だからか、単に霊感がない所為か、兎も角、一般的な男の様に無能を晒したりはしなかった。
しかし、幾ら男衆が手伝うとは云え、ミクマリは孤独な戦いを強いられた。
斯ういった場では産み手の経験者の存在程に心強いは無いのだが、死んだか顔出しを控えたかで居合わせなかった。
難事は更に重なった。
予想通り“水神”を名乗る存在の呪術と思われるものが発動し、産褥に夜黒の気配が這い寄ったのだ。これにも一人で対抗せねば為らなかった。
呪術は存外に強烈で、攻撃は繰り返し繰り返し行われた。この妨害を巫女の霊気の結界で防ぎながらの仕事は並大抵ではなかった。
本来ならば守護に特化した祖霊や後輩が手伝うべきだったのだが、この二人は産褥の気魄に恐れを為して、不在であった。
母子の心身の無事を確認し、厳重に結界を張り、お産に依り生じた赤穢を清め終わった頃には、また空が白み始めていた。
ミクマリは屋外へ出ると息を吐き、脂ぎった肌や冷えた内臓の不快感に気付く。丸二日寝ていない。
加えて、自身の霊気に極僅かな乱れを感じる。母子を護る為に張った結界は自身の髪を用いて作ったものだ。そこそこの本数を根から抜いた弊害だろう。
昇る朝日。
直接、何をしてくれた訳ではないが、疲れ果てた心身に優しく注ぐ朝日が有難く感じる。
気付いた時には太陽へ感謝の祈りを捧げていた。
『いやあ。終わったか。御苦労であったぞ』
のこのこと祖霊が現れる。
「御早う御座います。お疲れ様です、ミクマリ様」
アズサは欠伸と共の登場。顔色は良い。
「呪術はまだ続いています。早い内に元凶を退治しなければなりません」
暢気な二人を咎める事はしない。少々窶れ、目の下に隈も張っていたが、ミクマリは次を見据えていた。
ミクマリは考える。
自身には直向きさが足りなかったのだ。放漫な師も厳しく言えば、結界くらいは任せられただろう。
若い巫女も本当ならばこの場で学ばなければ為らなかった筈だ。何をしなくとも横に付けて見せる必要があった。
一方、この村の男衆は必死だった。若い者や新しい命に対する心構えが違うのだ。
――私も、もっと確りしなくては。
ミクマリは急に自身の両の頬をぴしゃりとやると「出掛けますよ」と言って歩き始めた。
「眠らなくて平気ですか?」『飯も食ってないだろう?』
二人の言葉に聞く耳も持たず。
髪に任せた結界が睡眠に依り切れる事はないが、明確に原因を排除せねば霊感の低い村民達の安寧は得られない。
自身にしても床がむず痒く感じ、食事も胃に異物に過ぎぬだろう。
それに、巫女の仕事現場から逃げたアズサは少し油を絞ってやらねばなるまい。
「ミクマリ様、退治は後にして少しお休み為られた方が……」
「私は平気です。今のままでは誰も安心して眠れないわ」
ミクマリは歩きながら気を広げ、怪しい場所に目星を付けると、幼い巫女を言葉で引き摺る様にして山道を登った。
お産を妨害した呪術の残滓を手繰り、原因と思わしき場所へと辿り着く。
『うむ、何とも露骨だな』
ゲキが溜め息を吐いた。
山の中、対岸と隔てられた地。深い谷間。その崖を背に化け物が立ち、こちらを警戒している。
「どう見ても悪い神様やんー!」
アズサはミクマリの陰に隠れた。
その稜威なる者は、上半身が人間の女で閉じた腿の辺りから下が大蛇という出で立ち。
一糸纏わぬ姿に長く畝った髪が伸び、その瞳も覗く舌も蛇蝎の如し。
黒き霧が乳房や局部を隠している。色香で惑わすにしても余りにも禍々しい。これを善神と呑ませるのは色に餓えた男相手でも難しいだろう。
「……巫女か。吾は水神ぞ。崇め奉れ」
化け物が言った。
『堂々と夜黒ノ気を纏いながら何を言っとるのやら』
「黄泉神なのかも知れません」
『ミサキの流派の呼び方を借りるならばなそうやも知れぬが、流石に気配が弱すぎるだろう。成り損ないの見掛け倒しだ』
「あ、あの。あれが見掛け倒しですか?」
アズサは恐る恐る覗き込む。
「そうよ。気配は凶鳥よりも弱いわ。アズサ、ちょっとやってみなさい」
そう言ってミクマリは背に隠れる童女を前方に立たせた。
「うちが!? そんな豪い事出来やん!!」
お邦の言葉と共に後退るアズサ。
『ほれ、例の“やっほー”でもやってみろ。恐らくは一発で消し飛ぶぞ』
「あ、あれは格好悪いので封印しました……」
『唯一の技を棄てるか。では、それ無しでやるのだな』
「……小煩い娘共め。巫女為らば吾が贄として取り込んでくれようぞ」
蛇女が大蛇の尾を伸ばし二人に向かって薙いだ。
ミクマリは一人飛んで躱す。残されたアズサは尾に打たれて転倒した。
「思ったよりは強いのかしら?」
ミクマリは尻を摩るアズサを見て呟く。
『何故態々避けたのだ? お前の気に触れれば自滅しただろうに』
「だからです。アズサに独りでやらせようと思って。でも、アズサには私のお守りを持たせているので、それを越えて打撃を与える程度には強い存在の様です」
『ふむ? そうか? 長生きの蛇が人間に擬態し損なってる様にしか見えぬが。尾が当たったのも物理的なものではないのか?』
「くっそー。やったなー。やったるさー! いわしたるー!」
一発貰って火が点いたか、アズサは背中の弓を手に取った。弓の長さの都合上、構える時も横向きだ。
己の音に命ずるは調和ノ霊性。アズサは弦を弾く音と共に短く声を発する。
霊気を帯びた声が狭き指向性を持ち、鳶の嘶きの様な音を立てながら、矢と成り敵へと飛来する。
命中。蛇女の腹を光の矢が穿つ。矢は風穴を開けると谷の対岸へと消えた。
「どうですか!? 名付けて“音矢ノ術”です! ミクマリ様が赤ん坊を取り上げてる間に、練習しておいたのです!」
得意気に鼻を鳴らす童女。結われた鬢の毛が揺れる。
「速い! けど……」
ミクマリは矢の弾道を目視出来なかった。威力速度共に自身の水弾に匹敵する程だ。だが……。
『もう一つ効果が薄い様だな』
蛇女は特に苦痛を感じた様子もなく、腹の穴を夜黒が塞ぎ、またも尾が迫った。
「どうして!? お腹に穴開けたったやーん!」
子供の運動能力だ。回避全く至らずに引っ繰り返る。
「ゲキ様、ご覧になられました?」
『うむ。確かに矢で腹が穿たれておったが、肉が有った様には見えなかった。あれは夜黒ノ気のみで構成される稜威の様だ』
「アズサ。矢では祓える範囲が狭いわ。直接手で霊気をぶつけなさい。何処でも良いから」
先輩巫女の助言。
「うう、折角格好良い術考えたのに。あれに近付くのは無理やに……」
今度は尾が頭上から叩き付ける。アズサは為されるがままに額を地面と接吻させた。
「痛いー! ミクマリ様! 助けてー!」
額を抑え半べそのアズサ。御守りの加護か、見た処、擦り傷も瘤もない。自分で転んだ時の方が余程に拙い怪我をしている。
「甘えないの!」
今度は蛇女の尾が童女に巻き付き、身体を引き寄せた。
「……旨そうな巫女の童だ。糧にしてやろう」
微笑み舌をちらつかせる怪物。獲物が小さく悲鳴を上げると笑みは更に歪んだものと為った。
「あれだけ密着してれば霊気を練るだけで祓えるのに!」
ミクマリは両袖を振り下ろし唸った。
『完全に気が萎えて只の子供に為っとる。良いのか? 放って置くと流石に怪我をするぞ。それに、長く捕まっていると夜黒に冒される』
師の忠告。
「痛いよう……助けて……」
悲痛な声が上がる。
――ここまでか。これ以上堪えるのはアズサも私も無理だ。
ミクマリは溜め息を吐くと、アズサを締め上げる蛇女へ一足飛びに接近し、術も練気も無しに大袖振るって叩いた。
蛇女は悲鳴を上げる暇もなかったか、静かに霧散した。
「……?」
違和感。気だけで構成される悪霊を退治する機会は珍しくない。幾ら大した事のない相手とはいえ、妙に手応えがないと感じた。
水に例えるなら、塊というよりは膜か。
「うう、恐かったあ……」
涙零して坐り込むアズサ。
ミクマリはそんな彼女を見て腕を組み、溜め息を吐く。
――もっと確りして貰わないと。これじゃ、足手纏いに為ってしまうわ。村でもそこそこ仕事はしていたけれど、却って手間を取った方が多かったし。
『おい、ミクマリ。気配は消えてないぞ』
――矢張り、鬼に成らなければいけないのかしら。かといって、私が居たらどうせ甘えてしまうだろうし。さっきのだって、一人で祓えた筈なのに。
「ミクマリ様! 化け物がまた出ました! さっきより禍々しい気配が!」
――呪いは悪行だけど、反すればそれだけの怨念を抱く程の苦しみを受けたという事。
見掛け倒しの悪霊の割には、お産を妨害しようとする念は強烈だった。悪霊すら直向きに信念を通そうとしているというのに、私達と来たら……。
『おい、ミクマリ。アズサの言う通り気配が強くなってるぞ』
――うーん。
視界に先程よりも濃い黒を纏った蛇女の姿を認めながらも、何か良い手は無いかと思案する。
再生したのは承知しているが、矢張り雑魚は雑魚。まだまだアズサだけでもやれる強さに思える。それよりも、手応えの無さが引っ掛かる。
「ミクマリ様! 危ないっ!!」
何時の間にやらアズサは守護霊の下に退避しており、そこからの警告である。
最早、やる気も無いのか。ミクマリは溜め息を吐く。
敵の尾が打ち付けた瞬間に気付く。先程よりも相当に力が増している。
気を練っていなかった所為もあるが、蛇女の尾は自滅する事無くミクマリの身体を捉えた。
だが所詮、これは蛇の抜け殻に過ぎない。何処か余所に本体が居るのだ。
叩き飛ばされながらもミクマリは納得した。
敵は失態を犯した。抜け殻へ力を込め過ぎた所為で、その念の出処が明確に為った。
「ああっ! ミクマリ様ーーーっ!」
アズサの悲鳴。
ふと、下を見る。打ち付けるべき地面は無し。奥底に流れるは浅い川。
『おいっミクマリ! 何をやって……』
師も動揺している。
「きゃああーっ! やーらーれーたーっ!!」
ミクマリは長ったらしい悲鳴を上げて、重力に任せて沢へと落ちて行った。
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