巫行053 手伝
翌朝、ミクマリが目覚めた時にはゲキとアズサの二人の姿が見えなかった。
気配を探ると、何やら少し離れた処に居るのが感ぜられた。
近付けば清流の音。浅く広い緩やかな渓流が見つかる。深い処でも膝下程度だろうか。川原は白や青灰の細石で満たされている。
そこでは大きな梓弓を背負った娘が川に向かって岩に腰かけていた。頭上には翡翠の霊魂。
「御早う御座います。何を為さってるんですか?」
二人を見付け、朗らかに挨拶を飛ばす。
『何が御早う御座いますだ。静かにしてろ』
起き抜けからあんまりな挨拶だ。ミクマリは少々気を悪くしたが、大人しくそれに従い、挨拶も返さない娘の方を覗き込んだ。
アズサは目を閉じたまま、木の棒を握っていた。長い棒は撓り、その先には糸が結わえられ川の流れに浸されている。釣りだ。
「朝餉の調達ですか?」
小声で訊ねる。
『それは序でだな。これは修行の一環だ』
ゲキは水面から離れながら言った。ミクマリも続く。
「修行? 釣りが修行になるのですか?」
『霊性を磨くのに打って付けだ。魚の霊気を感知する招命、水の流れを感じる探求、集中力の調和。何れの霊性も必要だからな』
「そんな良い修行法でしたら、私にも教えて下されば良かったのに」
僅かに不満を見せるミクマリ。
『釣り具が無かったからな。これはアズサの私物だ。それに、お前の場合は身体を強化する水術を用いて素手で魚を獲った方が色々と都合が良い。一方、アズサの場合は音術を使う。音とは“震え”だ。竿を使った方が感じ易く、音術の鍛錬にもなる筈だ』
「成程。では、態々目を瞑ってるのも修行なんですね」
『その通りだ。今はまだ静かにやらせてやった方が良いが、難度を上げて雑音や騒音の中で行ったり、逆に壺でも被って聴覚を断って行う法も良いだろう』
「修行にも色々あるのですね。ゲキ様、私にはそう云うの余り仰ってくれなかったような……」
ちらと師匠を見上げる。
『お前は俺の解説を聞き流すだろうが。アズサは肉刺に質問をするからな。あいつは勤勉だ』
「私も一所懸命何ですけれど……」
『妬いてるのか? お前の場合は実践の方が向いてるだろう』
「妬いてません! まあ、仰る通り、説明されるよりも実際にやって覚える方が得意ですが……」
『だろう? 弟子の性格を見極め、適正な修行を与えるのが良い師と云うものよ』
そう言って守護霊は笑った。
――私に与えられる試練は余りにも辛いものが多いのだけれど。
ミクマリは心の中で深い溜め息を吐いた。
「うあっ! 釣れたわー!」
アズサが声を上げる。
水音、生成り色が飛沫と共に宙に輝く。
『おお! 鮎か!? これ程大きなものは珍しいな!』
感嘆の声を上げるゲキ。
片手では掴み切れそうもない程の大物。釣り人は全体重を掛けたか、川原の石ころの上に笑顔でひっくり返っている。
「凄い。私もこんなに大きいのは獲らないわ」
『俺は釣りが苦手だったな。糸を垂らす修行はすれども、気が急いで逃がしてしまう事が屡々だったな』
「ゲキ様にも苦手な事があったのですね」
『食料の調達も余り得意な方ではなかった。旅では不味い実を食って腹を壊したりする事も度々で、薬も面倒で良く痛む腹を抱えていた。折角、獣を見つけて捕えても、調理が今一つで肉を無駄にする事もあった。故に、村で感謝の御調が供されるのを愉しみにしておった』
「ふうん」
彼にもそう云った時代があったのだ。肉を持たない神ではあるが、矢張り精神は人間。ミクマリは素っ気無く頷きながらも心の内では彼に身を寄せた。
『鮎は川に依って味が変わるのだ。此処の鮎はどの様な味がするのだろうなあ……』
「……」
酒の時の様に憑依を乞うかと思ったが、彼は特に求めなかった。肉体を得る事で真の鬼に近付く。冗談であっても矢張り戒めているのだろう。
酒であればミクマリは断固として拒否するが、若しも今頼まれれば好い返事をしたかも知れなかった。
「あのっ、ミクマリ様。お魚はどうしたら良いでしょうか!? 魚籠も壺も無いので……」
鮎は石の上で必死に跳ね回っている。
「私が捕まえるわね」
ミクマリは腕に霊気を巡らせ、力強く脈打つ鮎を掴んだ。甘手は魚には通用しない。鮎は死に物狂いで抵抗している。
皮を得る都合や、甘手に依る釣り出しに頼って獣ばかり食って来たミクマリは、久々に手の中に生命を感じた気がした。
感謝を形だけにしては為らないと、心が戒められる様だ。
「ミクマリ様」
「はっ!? ……なあに?」
少し魚に気を取られていた。
「私、調理の方もさっぱりなのですが……」
恥ずかし気に呟くアズサ。
「良いわ、捌くのは私がやるから」
「ありがとう御座います。……こーっと、あのですね」
アズサは何か言いたげだ。
「なあに?」
「大きいお魚、釣れました。私、頑張りました」
「うん。偉いわ。ありがとう」
微笑む。両手が塞がっている為、言葉だけの感謝。
「へへ……」
童女は含羞んだ。
魚を捌いていると、ミクマリは不安に襲われた。
魚を釣ったという事は、これは餌を呑み込んでいる筈だ。だが、胃の腑を割いてもアレが出て来ない。
『何故そんな細かく切っておるのだ? 臓腑で何かするのか?』
ゲキが訊ねる。
「いえ……あの。餌の虫を取り除きたくて」
『ふふん、アズサに感謝するのだな』
彼は笑った。
「ミクマリ様、釣りには餌を使っていません!」
「え? 餌も無しに釣りを?」
「そうです。ミクマリ様は虫がお嫌いな様なので、釣り針だけで釣り上げました!」
「器用な事をするのね」
目を丸くするミクマリ。
「私も初めてだったのですが……」
『音術で釣り針を操作して、生きている様に見せ掛けたのだ。音術の才を持つだけの事はある。才を活かせれば滓扱いされる事もなかったろうに』
「嗤われるだけだったので修行をやる気が起こらなくって。……でも、ミクマリ様のお役に立てると思ったら、何だか楽しくて!」
童女らしく頬染め、和々と歯を見せるアズサ。
『可愛い子分が出来たな。大事にしろよ』
ゲキも愉し気に言った。
「そう、ですね」
ミクマリは余り多く反応を返さず、淡々と調理を続ける事にした。勿論、その心に喜悦が溢れ過ぎて涙ぐんだ程であった。
だが、堪えなければ生臭い手のままに童女を抱き締め、そのまま永久に師と決めた約束を打ち棄て兼ねなかった。
――甘やかしてはいけない……。甘やかしてはいけない……。
愉しければ愉しい程、嬉しければ嬉しい程にその反対に不安や恐怖が頭を擡る。
アズサはミクマリを見ながら首を傾げた。
「……あっ。大物とはいえ、二人で食べるにはちょっと寂しいですね? もう一匹釣って来ますね」
アズサは再び竿を振り振り川に向かい合った。
初めての共同作業で出来上がった朝餉は、とても美味であった様だ。
食事を済ませ、遅めの水浴みを行い、二人揃って覗き魔に苦情を言った後の出立。今日は下りの山道を行く事に為る。
木々の掃けた処に差し掛かると、遠くに穏やかな煙が上がっているのが見えた。
「ミクマリ様、村です!」
アズサが嬉々として指をさす。半ば森と同化した様な家々が見える。耕地は見当たらない。
『歩き巫女をやるからには、村で何か手伝いをせんとな。村に巫覡が居らず、何か困っていると良いのだが』
「良くないです。幾らこちらの都合に良いとはいえ、御言葉が過ぎますよ」
窘めながらも、先程から何となく悪い気配を感じている。仕事はありそうだ。
『俺は別にずっと野宿でも困らんのだが。お前達の為を想っての言だったのだがなあ。土の上は虫が這うしなあ。寝てる間に口に入ったりとかなあ』
「う……済みません。私もそろそろ屋根の下で眠りたいです」
ミクマリは項垂れた。口に忍び込まれはしなかったが、顔を這う虫に悲鳴を上げて目覚めた経験はある。
「村では何を御手伝いするのですか?」
アズサが訊ねた。
「水分の巫女はそう多くないから、水回りの難事は需要があるわね。薬草は地域によって生えている場所が違うから、喜ばれたりするわ。巫覡が不在の村なら、御祓い、悪霊退治、卜占、怪我人や病人の治療。産褥周りのお仕事等ね」
「色々ありますねえ。私も、薬事と御祓いと卜いなら出来ます」
『日誘ノ音だったか。音術にはどの様な占術があるのだ?』
「私のは一種類だけしか伝わっていなくて……“弓ノ音卜イ”ですね。この弓の弦を鳴らして、響きの長さや音の高さ等で吉凶や成否を占います」
『成程。その弓は他には何か用途はあるのか? 見た処、矢も無いし、お前が扱うには大き過ぎる様だが』
「これは何代も昔の音術使いだったミサキ様の持ち物らしくて。元々矢を番えて使うものではないのです」
『む。じゃあお前は占術一つの為にその様な大仰な荷物を背負って旅をしていたのか……』
大男の背丈程もある梓弓。アズサの巫女名の由来ではあるが、彼女は伸長の都合でこれを真横に向けて背負わねばならない為に、方々に引っ掛けたり、打つけたりしていた。
その上に彼女はあれこれ荷物を背負っていた。荷物の多さは、旅が遅れる要因と為っていた。
『卜占等は無理に流派や術に拘らず、獣の頭蓋でも投げて行えば良いだろうに』
「うう……。他の占術よりも良く当たる気がするのですが」
アズサは後ろ手に弓を撫でると悄然とした。
「ゲキ様。虐めてはいけませんよ。彼女の名前なんですから。私は好きよ。アズサって名前、可愛いもの」
『可愛ければ良いもんでもなかろうが。巫覡は権力者だぞ。集落の長を務める事もあれば、それよりも偉い役に就く事もある。それを可愛い等と……』
「私の事で争わないで下さいね……? それより、早く村に行きましょう。私の弓ノ音卜イを披露します!」
アズサは表情を明転させると、山の斜面を小走りに駆け降り始めた。それから転んだ。
村に近付くと、邪気は一層強くなった。案の定、住民達は複雑そうな表情で出迎えに現れる。
「おお、巫女ぢゃ。頼みたい仕事が山積みでの……」
翁が言った。
「女子……。うう、いけないぜ爺さん。村から離れて貰った方が良いって」
若い男が弱々しく言う。
「しかし、このままだと暮らしが立ち行かなくなってしまうぞ」
「巫女でなく唯の売り女かもしれん」
「だったら、それはそれで村に住んで貰えばいい。女子な何でも喉から手が出る程欲しいんだから」
頭を突き合せ相談する村民達。
『何やら事情有りだな』
「そうですね。男の方ばかりですけど、女の人はどうしているのかしら?」
屋外で仕事をしている者に女性の姿が見当たらなかった。村民達も拒絶の体でもない故、一人二人は顔を覗かせても不思議ではないのだが。
「矢張り事情だけでも聞いてもらおう。それで、彼女達自身に決めて貰うんだ」
「そうじゃのう……」
決まったらしい。
「是非。遠慮なさらずにご相談ください」
解決できなかった難事無し。熟練の漂泊者が微笑む。
さて、この男ばかりしか姿を見せない村だが、話を聞けば女達は小屋の中に隠れされている事が発覚した。
ここ数年、この付近で生活する女子達に次々と不幸が降り掛かるのだと云う。
原因不明の病に冒される者、本人も理解出来ない不機嫌に襲われ性根が曲がってしまう者、近所の沢へ仕事に出て失踪する者。
どれもが若い女性ばかりに起るのだそうだ。そして次第に女性の数が減った。
殖やそうにも種実らず、胎が大きく為れど流れてしまい、お産に漕ぎ着けたかと思えば母子共に黄泉引き。
滔々村を維持するのに難しい数に為ってしまった。
他所の村から余った女を受け入れるのを験した事もあるそうだが、その女もここへ来る途中に消え失せてしまった。
元々この村にも多少の巫力を持った巫女が居たそうだが、彼女は若くはなかったものの他の女子と同様に不幸で落命している。
女子を使うとまた失うかと畏れ、代わりに翁を適当に男覡に据えたものの、霊感無し故に全くの役立たず。
故に、女不足に重ねて巫行が滞り、村が窮しているのだと云った。
「原因は分かっとるんぢゃ。あの水神が呪うとるに違いない」
難事に困り果てていた処にこの村の近所に水神を名乗る妖しい化生が現れ、自身を祀れと宣ったらしい。
それが現れた時点で巫女を失っていた為、神なのか黄泉に関わる者なのか断定は出来なかったが、霊感の無い男衆でも疑う程に怪しいものなのだと云う。
「成程、分かりました。原因を祓うのは先ずは置いて、取り急ぎの問題を片付けましょう。代わりに屋根と器を御貸し頂ければ結構です」
軽く柏手を打ち、一つ返事で引き受けるミクマリ。
「断ると思ったが……豪い軽い返事ぢゃなあ……」
「命を落とすかもしれんのだが……」
「気が狂っとるのではないかな。巫女にはそういうのが多いって聞くし……」
男衆は喜ぶよりも巫女を奇妙なものを見る目付きで眺めた。
『ミクマリは正気だ。俺の巫女はこの程度の難事は幾つも熟して来た。この程度で尻込みをするとでも思ったか』
ゲキは男衆に言った心算だったが、霊感が無い為、声を聴く処か感じる事も出来ない様だ。
「私も恐い話やと思います……」
新米巫女の方は話を聞いただけで竦み上がっていた。
「さあ、アズサ。村は随分と気が濁ってる様だし、手分けしてさっさと解決してしまいましょう。アズサは西から廻って頂戴」
「えー!? うち一人で!? 無理やにー! 呪われてしまいます! ミクマリ様、一緒に、一緒に御願いします!」
驚き慌てふためくアズサ。
「どうして? 病気で困ってる方もいるのよ。夜黒ノ気も祓わなきゃ為らないし。アズサは私よりも薬事が得意でしょう? 手伝って欲しいなー」
実際の処はミクマリ一人でも充分に思えた。村に蔓延る邪気は今の発言の間に祓う事が出来た位だ。
村人の手前言わなかったが、アズサの訓練に丁度良いと考えたのだった。
「うう……分かりました。やってみます。でも、不安です。ちょっと、上手く行くかどうか占ってみよう……」
「お嬢ちゃん、占い何て要らないから病気の者を見てやってくれんか?」
村人の要望を無視し、アズサは背の弓を外すと土の上に正座して弓を膝に置いた。
それから、目を閉じ、一呼吸置くと右手で弓を固定し、左手で弦を引く。弓端が撓る。
……。
古びた弓は音を奏でる事無く、張り詰めた弦を途絶えさせた。
『あーあ、弦が切れおったわ』
嘲笑う守護霊。
「……」
アズサは顔面蒼白。満月の様に目を見開いている。
「……音が高く長い方が良しとされます。低かったり、響きが歪だったりすれば凶です」
「弦が切れるとどうなるの?」ミクマリが訊ねる。
「最悪の結果に為ります。ミクマリ様、止めましょう? この村は放って旅に戻りましょう!」
泣き付くアズサ。
「古くなってて切れただけよ」
ミクマリは頭を撫でて慰める。
「古くなんて無いです。弦は良く切れるので頻繁に張り直しているんですから!」
『おい、それ大丈夫なのか。吉凶の前に当てに為らなそうな……』
「うちの弓ノ音卜イは当たるんですよー! 前だって弦が切れた翌日に生贄に決まったし、その前だって村への派遣が決まったし……」
宙に向かって喚くアズサ。村人が首を傾げる。
『それは考え様によっては誉れだろう。当たるとしてもお前が苦労をして成長をする暗示だろうな』
「私もそう思うわ。と言う事で、頑張りましょうね、アズサ」
ミクマリは半べその童女を自身から引き離すと、単身村の中の用訊きに向かった。
邪気は普通ではないが、数日前に御使いの森で祓を行った時よりは遥かに薄い。アズサの手にも余る事はない筈だ。
病も薬事か御祓いで解決出来るであろうし、怪我の類なら自分が治せる。病原も大抵は呪力の類か水回りかに絞られるものだ。
漸う漸う考えればこういった役割分担もまた愉しい。
ミクマリは村には少々申し訳無く思ったが、これも可愛い妹分の為だと御機嫌で難事へと挑んだのであった。
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