巫行052 溺愛
霧の里を出立して丸二日。一行は未だ里から山一つ隔てた位置を歩いていた。
『旅がすっかり鈍行に為ってしまった……』
守護霊が嘆く。
「良いではないですか。ゆっくり行きましょう」
ミクマリは苦笑を浮かべながら、木陰に座り込む童女を衣の大袖で仰いでいる。
「ごめんなさい。うう、気持ち悪い……。ミクマリ様、助けて……」
アズサは目を回している。
ゲキの嘆き通り、旅はすっかり鈍行に為り果てていた。
これまでは憑ルべノ水に依る肉体操作でミクマリが駆ければ、常人の何倍もの速度で野山を駆ける事が出来た。
守護霊もその特性に依り巫女にくっ付いて行くのは容易い。
だが、新たに旅の仲間に加えた童女には早駆けの術は無く、また身体能力は当然子供のそれ。旅の経験も里内の村を行き来する程度であった。
『担いで行くのも無理な様だな。やれやれ』
「揺れるし回るし……まだ浮いている気がします」
「ふふ、大丈夫? お水あるわよ」
童女の背を摩るミクマリが水筒を勧める。こちらの娘は心配の体には不釣り合いな朗笑。
率直に言って、ミクマリは愉しんでいた。恐らく旅を始めてから最も。
アズサの体力の低さ故、頻繁に休憩を取ってはお喋りに花を咲かせ、旅慣れない足に血が滲めば水術を用いて直ぐに治療してやった。
難所は迂回し、鳥獣や風花を味わい、夜は夜で野宿の処女に珍事が起こらぬ様に大仰な水の結界を編んで目を光らせた。
しかし、毎度難事を避けている訳にも行かず、隔絶された秘境である霧の里を出るにはどうしても幾つかの難所を突破しなければならない。
そんな折、ミクマリはアズサを背負って術に依る早駆けを験したのであった。
負ぶった娘の温かさに、ずっとこの形式で旅をしても良いか等と心で幸福を弄んでいたが、背負われた方はどうも不幸だったらしい。
「うう……まだ気分が良く為りません」
水筒を返すアズサ。口元に零れた水が保護者に依って拭われる。
「何か薬を煎じた方が良いかしら」
『放って置けば治るだろう。それよりも、景色がちっとも変らんのだが』
「仕方ないでしょう。ゲキ様は昨日からそればっかり!」
ミクマリは不満を返しながら荷物の中の薬草に使えそうなものが無いか探す。
「大丈夫です、ミクマリ様。私、自分でちゃんとやれますから」
アズサは青い顔をしながら自身の荷物から小さな擂鉢を取り出した。
「目が回る時は、この甘草と……丁度私のお尻の下にあるこの茸と……」
「気持ちが悪いんだったら香りの好い楠の葉もあった方が良いんじゃないかしら」
「それはお酒や病で胃の腑が悪い時向きですねえ。お腹が空の時は止した方が良いです……」
僅かに頭を回転させながら擂粉木を回すアズサ。
「知らなかった。気分が悪い時は何でも同じかと思ってたわ」
『薬事に於いてはミクマリよりも博学か。旅は水術師が特に秀でているから別として、後は自身の身を自分で護れる様に為って貰わんとな』
「うう、朮の根が切れてる。ミクマリ様、持ち合わせは御座いませんか?」
「私も切らしてるわね……。探してくるわ。丁度、薬にするには良い季節だから」
『揺れの酔い等、暫し寝ておれば治るだろうに』
ゲキが愚痴る。
「でも、旅が進まないでしょう? 朮は昨夕御世話に為った川の傍で見た気がします。ちょっと行って来ますね」
『態々そんな遠くまで戻るのか』
「私なら直ぐですよ」
そう言ってミクマリは霊気練り練り、半日駆けて三人で踏破した山を往復する事にした。
勿論、苦に感じる事はない。剰え目星を付けていた薬草を掘り返し土を落とす時には何か歌の様なものが鼻から漏れ出ていた程だ。
『おい、ミクマリ』
「きゃあ! ……吃驚した。ゲキ様、どうしてここに!? アズサを放って置いてはいけません!」
『人や獣の気配が無い事だけは確認しておいた。あいつなら蟲の類は平気だろう』
「それならまあ……」
視線を草の根に戻す。序でに水も補給しておこう。何なら川の水の塊を浮かせて携行しても良いかも知れない。
『俺はお前に文句がある』
祖霊の声は不満気。
「甘やかし過ぎだって仰りたいのでしょう?」
『そうだ』
「分かってますよ。アズサが旅に慣れるまでです。大体、ゲキ様は辛抱が足らないんですよ。自分で私に好きな様にさせておきながら……」
『あれは霧の里を旅する間の心算で言っていたのだ。辛い旅には憩いがあれば良いかと思ってだな』
「だから、分かっていますって。アズサには独りで歩き回ったり、自分の身は自分で護れる位には為って貰います」
『何ならお前の背中を護れる位に為って貰っても良い位だ』
「出来るかしら?」
首を傾げつつも、難事や荒事で共闘する様を思い描けば口元が緩くなる。
『何を若けておるんだ。大体、お前の甘やかし過ぎ以上に、あいつの甘え過ぎもあるのだ。もっと厳しくせねば』
ゲキの指摘通り、村を一歩出てからのアズサは親を頼る赤子の様に為り果てていた。
最初こそはミクマリの足取りに必死に為ってくっ付いて来たが、半日を過ぎた辺りで転倒を繰り返すように為り、膝を朱に染めた。
瞳を潤ませる娘は傷を清め癒して貰い、心の疲労へは自分から抱擁を要求した。
ミクマリは文句一つ言わずこれに応え、二度と転ばぬ様にと手を握り歩調を合わせた。
それ以降、アズサは頻繁に休憩を求めたり、些細な足の痛みにも治療術を求め、その度に保護者の衣に頬を摺り寄せたのだった。
勿論、野宿の際には二人は一つと為って夢へと潜り込んだ。
川では水垢離もそこそこに童女の身支度に世話を焼き、自身の毛髪を整えた際に出た残骸は布で包んで御守りに仕立て、魔除けとして掛けてやった。
加えて覗きの霊魂を無視して、二人で冷水を掛け合って燥ぎ回っていた。
「甘える相手が居なかったのでしょう。両親は亡くなってますから」
『それでも往生してからでは遅いだろう。何か手を打たねば』
師の言う事も尤もだ。甘えの招く結果が苦労だけ為らばそれも歓びと思えようが、暮らす國を別つ様な悲劇に見舞われぬとも限らない。
ミサキへ若輩者の癖して相談する様に促し、師の反対を押し切ってまで得た道連れを失う事に為れば、それこそ彼より先に鬼に変じてしまう。
しかし、いかにもミクマリにはあの保護欲掻き立てる邪気ない顔には抗えなかったのだ。
瞳に水気湛えられれば胎の中から湧き上がる如何ともし難い感情に呑まれ、それこそ凶事に手を染める覚悟も出来そうな気までする。
里で妹弟や子供達を相手にして居た時には起らなかった感情である。
それに身を任せ世話を焼けば、心身共に快楽と言える程の体験が出来た。だが同時に、行き過ぎれば御互いの毒に為るだろうとも理解している。
「……もう少しだけ。いけませんか? ねえ、ゲキ様、御願い」
ミクマリは童女の技を真似て師に両手を組み合わせて拝む。
『お、お前まで何を甘えとるんだ。巫女で無ければ相手の居ってもおかしくない歳の癖に』
「アズサとも片手で足りるか足りぬかの違いだと思いますが……」
口を尖らせるミクマリ。立場や性格で大人側に立つ事が多い彼女であったが、実際の処は年増と呼ばれるにはまだまだ遠い。
『許さん。俺も我慢しておるのだ。女子供を甘やかすのが愉しい事位は知っておる』
「うう……では、そろそろ彼女が村から持ち出した弁当が尽きる頃合いだと思うので、先ずは食料の確保から教える事にしましょう」
ミクマリは師に答えを返すと、「これは自身への試練でもあるのね」と独り言ちたのであった。
その日の暮れ。想定通り、アズサが柿の葉に包んで持って来ていた食料が尽きた様だ。
アズサは残数の把握すらもしていなかったのか、自身の襷の袋を開いて、柿の葉に残る弁当の残滓を卑しく嗅ぎながら戦慄く姿を披露した。
「ミクマリ様。旅はどの位続くのでしょうか? 途中、何処か村の当てはありませんか?」
「旅は何時まで続くか分からないわ。村も知ってて目指すよりも、山を越えた先に見つけてそこで寄る事に決める方が多いの」
「そうですか……。あの、今日も野宿ですか?」
「勿論。野宿の方がずっと多いわ。慣れるしかないの」
「……」
一足早い日没の表情を見せるアズサ。ミクマリは励ましの言葉の一つも掛けてやりたかったが、ここは心を鬼にと踏ん張った。
……アズサの腹の音が鳴る。
「ミクマリ様。私の食料が尽きてしまったのですが……」
餌場を覚えた雀の様に童女が擦り寄る。ミクマリの懐には木の実の類が無くはない。だがここは頑張れ、我慢だミクマリである。
「陽が沈む前に、食事を調達しましょう」
「そ、そうですね」
アズサは脚を摩りながら返事をした。ミクマリは先程に足の治療をせがまれた時には「疲労に慣れるのも旅の経験だ」と言って断っている。
「でもミクマリ様。食料を調達するには少し遅くありませんか? 暗くなって木の実も野草も分からないのですが」
「そこはそれ。私達は術師です。霊気で探知をして生き物を探すのです」
「探知……と言っても付近には御二人以外に霊気はありませんが」
「自身の霊気を広げて、それに触れるものを調べるのです。探求ノ霊性と招命ノ霊性の応用よ」
「やってみます」
アズサは返事をすると霊気を高めたり引っ込めたりしながら唸り始めた。その隙にミクマリは枯れ木へ火を鑽る。
「あの、さっぱり分からないのですが」
「霊気を押し出すのではなく、泡の様にしてゆっくり広げる感覚でやるのが骨よ」
助言を聞き、またも唸り始める。
頬を揺れる編み髪。アズサの髪は生贄にされた際に肩の上で切り揃えられてしまっていた。
巫覡は急に髪を失うと霊気を練るのに難儀する。
彼女はそれを自身の努力で克服してはいたが、矢張り細かな霊気の動きを意識するには髪に“塊”を作る方が良い。
そういう事情で、無事だった鬢の毛や前髪の一部を編む事にしたのだ。勿論、世話を焼いたのはミクマリだ。
暫くすると、ミクマリが初めて体験した時の様にやや艶容な悲鳴が聞こえた。
「で、出来たみたいです。鳥や虫の気配も分かって、肌を撫ぜられる様……。さ、さぶいぼが」
目を見開き歯を見せ、腕を摩るアズサ。
「やっぱり里では教わってなかったのね。それじゃ凶鳥の事も気付かない筈だわ。でも、初めてやって小さきものの気も感ぜられれば上出来です」
そう言うとミクマリは、自身の手が無意識の内に童女の頭を撫でている事に気付いた。さては幻術か。
「でも、食べられそうな生き物が居ないですよう。虫は止まっていて食べられる種類か分からないし、鳥は獲る手段が無いです。蛇も寒いのでもう見当たりません」
「蛇や虫は食べなくて結構です」
今度はミクマリが鳥肌を立たせる。
「そうですか? 里じゃ皆普通に食べていた様な。私、獲るの得意ですよ? 火を少しお借りして照らせば手元も……」
「結構です! 探知は覚えられた様なので、時折験して辺りの気配を探る様にしてね。夕餉は私が支度をします」
ミクマリはそう言うと手早く霊気を練り探知を繰り返した。練度も慣れも範囲も自分が上だ。自分がやれば何か見つかるだろう……。
彼女は虫の類は追い払う事は出来るが、その容姿や動きが苦手で口を付ける事などは想像もしたくなかった。
旅の最中、何度も腹から恥ずかしい音を奏でた事があったが、外骨格をばりばりとやるよりは祖霊に笑われる方を選んだ程だ。
『減点だな』
師が溜め息を吐く。
運の悪い事に、直ぐには小動物の類は見つからなかった。その内にアズサが焚き火の傍の木の樹皮を弄り始めた。
――見付かれ、見付かれ。虫は食べたくない。
「あっ、“美味しい奴”が穴に」
童女が舌を出し、頭傾げて木の幹を覗き込んでいる。片方だけの耳輪が焚き火に照らされて揺れる。
――! そうだ、穴だ!
ミクマリは強引に精度を上げ、土や草に宿る僅かな精霊や霊気をも調べた。そうすれば生き物の通り道や棲み処等も見えて来る。
割と近くに腕よりも太い穴を発見。これは蛇穴ではないだろう。
娘は急いでそこへ駆けつけると穴へと手を突っ込み、乱暴に中身を引き摺り出した。
「アズサ、夕食を手に入れましたよ!」
ミクマリの手には二本の長い耳が握られている。
「わー兎。可愛いやんー」
アズサは幹を穿っていた木の小枝を捨てた。まだ戦果は得ていない様だ。
「今晩はこれを頂きましょう」
額に汗して安堵の息を吐く。
「矢張り、食べるには殺さなければ為りませんよね……」
兎の代理の様な瞳がミクマリを見上げた。
兎はまだ生きている。捕獲時には暴れたものの、諦めたか“甘手”を信用しての事か、今は脱力している様だ。
「勿論です」
「……」
言いたい事は分かる。ミクマリも矢張り、獣を殺すのに抵抗を無くす為には苦労をしていた。
「命を頂くのだから、感謝をしましょうね」
骨折音が響き、極めて短い悲鳴が上がった。
それから、兎の血肉は娘達の腹と弁当に消え、骨も洗い幾つか確保し、皮はアズサの為の沓へと変わる事に決まった。
「長旅では布沓はいけないわ。これがあれば、もう少し歩くのも楽になる筈よ」
焚き火の前で皮を弄る。普通は皮を使える様に手入れするには時間や日光の世話に為らねばならない。
だが水気を自在に操る水術師の場合は、松脂さえ有れば即席で革製品を拵える事が出来る。
「アズサ、足を出して」
童女の足に毛皮を巻き、長さを合わせて黒鉄の刃で裁断する。
「ミクマリ様、何でも出来るのですね」
「そうかも。でも、本業の方には劣るわ。皮だって、もっともっと時間を掛けて鞣した方が良いの。旅の沓は壊れるのが早いからそこまでしないだけで」
「ずっと斯うやって旅を?」
「そうね。季節を二つも越えないくらいだけれど。殆ど人里から離れた処で暮らしてる様なものね」
「お辛くないですか?」
「旅は大変ね。だけど、目的の為なら頑張れるというものよ」
針で紐を通す。針も旅の途中で獣の骨を使って何本も作り、使い潰している。紐も水術の訓練を兼ねて草木から拵えたものだ。
自身の沓も補修を重ね、何足目か分からない。通り過ぎた村落の数も両手で足りない。
「目的……。ミクマリ様の里を滅ぼした悪い連中をやっ付けるのでしたっけ」
「それは手段の一つ。私は唯、死んでしまった人達が黄泉で安らかに為ってくれれば良いの。目的はもう一つあるの」
「何ですか?」
「もう一度、里を興そうと思うの。全くの一から。人を集めて、家を建てて、畠を作ったり木を植えたり……」
毛皮を撫で、裏返して作業を続ける。
「里を興す……」
焚き火の火の粉を映す瞳が輝く。
「途方もない話だというのは分かってるのだけど。今まで、沢山過ちを犯して、悲しい事や辛い事を見て来たから。今度はそういう事の起こらない里を作りたいなって」
理想を語るのは容易い。旅も始めてまだ大した時を経ていない。それでも過酷な運命は実際の時よりも遥かに娘の心を削っている。
決意は固いものであったが、その声は遠く昔の夢を語るかの様な色に染められていた。
『と為れば、アズサは里長を除いた最初の住人という事に為るか? 俺は神だから村民には数えられんからな』
守護神が言った。
「ミクマリ様とゲキ様の村かあ。良いなー。住みたいですねー」
『俺の巫女はミクマリから代えんが、巫行を分担したり自然物の神等がおれば他にも手が必要になるからな。アズサには他の巫女を纏める頭をやって貰おう』
「うちが巫女頭にですか? 夢みたいな話やにー」
頬を緩ませる童女。
「そうね、夢みたいな話……」
針を繰る手が止まる。
「では、私はミクマリ様と一緒に里を興して、右腕として働くのを目標とします! その為にも、御二人に頼ってばかりいないで、もっと自分で色々出来る様に為らねば!」
『威勢が良いな。期待して居るぞ』
「へへ。この旅が終わったら巫女頭かあ……」
遥か彼方に思いを馳せて、童女がだらしなく笑った。
『案外、良い転機に為るのではないか?』
ゲキがミクマリに耳打ちする。
「だと、良いのですけれど。それでも、まだまだ教えなければ為らない事は沢山ありますから」
『そうだな……』
「ほら、アズサ。沓が仕上がったわ。験しに足を通して、少し歩いてみて」
沓を手渡す。
「あ、中が毛皮で温かい……」
「鞣しが甘いから、直ぐに硬くなってしまうけれどね。それでも、布沓よりは随分と良い筈よ」
兎の革の沓を履いて佇む童女。両手を組み合わせ、何かに祈った。
「……今晩はもう寝ましょう。さあ、冷えるからこっちへいらっしゃい」
「はい、ミクマリ様」
虫も鳴かぬ冬の入り口。焚き火の音と娘達の寝息だけが響く。
頭上には焚き火と違う色の炎。
物を焼かぬ命の揺らめきが、静かに二人を照らした。
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さぶいぼ……寒疣。鳥肌の事。