巫行005 信用
男が目を醒まし身を起こした。
「乱暴な事は為さらないで下さいね。私も乱暴な事はしたくはありません」
「人を気絶させて置いて何言ってるんだ。……まあいいさ、争っても勝てないのはよおく分かっているし、何よりさっきから薄ら寒い気が俺に付き纏ってやがる。多分、悪霊だ。下手を打つとそれに殺されかねねえや」
盗人は身震いをすると宙を見やった。そこには巫女の守護霊が漂って居る。
「見えるのですか?」
「これに関しては“視える”って程じゃないがな。時折、行き場を失った霊をちらと見る事はある。人って云うのは、怨みや未練が強いと霊魂が覡國に居残っちまうらしいな」
「怨み……」
ミクマリは頭上に漂うゲキの霊魂を見やった。『俺は守護霊だ』と抗議するかの如く、彼は宙を暴れ回っている。
もう少し師匠を揶揄う話の流れに持って行こうかとも考えたが、ふと心に不満が湧き上がるのを感じた。
要するにこの男は、ゲキに恐れを為して手を出さない事を白状した訳で、改心をしたと言う事ではないのだ。
「お前は殺しをしないらしいな。俺も滅多な事じゃ人を殺めない事にしている。偸みの果ての殺しじゃ必ず怨みが生じるだろ? そうなれば、仕手である俺は長い間付き纏われちまう。悪さを出来る程の霊魂にお目に掛かる事は稀だが、決して気分の良いものじゃねえ」
男が呻くと、それに応えるように昏い森の中から梟の声が聞こえた。
「怨みが強ければ、霊魂は黄泉國に引かれて夜黒ノ気を帯びます。そうなれば生ける者にも害する様になるでしょう。直接肉体を傷付ける程の霊気でなくとも、夜黒ノ気に触れ続ければ、生者も生きながらにしてして黄泉に足を踏み入れると聞きます」
「恐ろしいね。それは、“鬼”や“蟲”と呼ばれる者の事だろうな」
「はい。遭ったことはありませんが。貴方がそうでなくて良かった」
ミクマリは微笑んだ。
「お前、ちょっとマヌケだな。鬼や蟲でなくとも、俺が性悪なのは変わらんぞ。これまでも盗人だったし、赦してしまってもこれからもずっと盗人が生業だぞ」
「……」
師匠と同じ罵倒を貰いミクマリは閉口した。
「処で巫女さんや。お前、夜はどうしてるんだ。幾ら巫術や呪術が使えるとは言え、野宿をしているんだろ? まさか、この糞冷える河原で眠る気じゃないだろうな?」
「そうですね。すっかり遅くなってしまいましたが、どこかで焚き火でもしようかと」
「だったら丁度良い、俺の穴倉へ来いや」
男は汚い歯を見せ笑う。
「ここからなら目を瞑ってでも帰れるし、種火もまだ生きてる筈だ。火を起こす手間も省ける。それともあれか? 火なんてもんは術でぱっと点けちまえるのか?」
「私は水分の巫女なので火術は持ち合わせていません。折角、御招待頂いたので、御言葉に甘えさせて頂きますね」
ミクマリは微笑んだ。
「……やっぱりマヌケだ」
男は肩を落とし溜め息を吐いた。
「詰まりは、この河原から離れれば弱くなるって事だろう? 軽々しく口走るべきじゃねえ話だ」
「……正鵠を射ていますが、私は貴方を信用する事にしましたので」
信用と言いながらも外方を向くミクマリ。
「全く調子が狂うなあ。……ま、行こや」
男は立ち上がり歩き始めた。ミクマリも後に続いた。
実の処、ミクマリは相当の見栄を切っていた。確かにこの男の言う通り、水辺から離れれば術の行使の難易度が上がる。一応懐に竹の水筒を持ってはいるが、それを取り出す隙というものもある。
その上で自ら熊の寝坐へ入る様な真似を認めたのだ。
ミクマリは師に自身の信念を認めさせる為とは言え、無茶をしたと早々に後悔をした。
静視している筈の守護霊へ、不合格の烙印に甘んじてでも中断の一声を掛けて欲しいと思ってしまった程に。
暫く男に付いて行くと、木立の傍に盛り上がった土塊へと辿り着いた。
「ちょっと待ってな。火を熾すから」
「はい」
ミクマリが返事をすると、男の手元が直ぐに明るくなった。大きな土塊が照らされ、それには人の入れる程の洞があるのが分かった。
「雨避け程度のもんだけどな。長くこの場所に居ついて俺の臭いが染みてるからか、獣や虫も寄って来ねえ。だから飯が欲しければ、探し回らなきゃならねえぞ」
「食事は持っています」
ミクマリは襷に掛けた麻の袋から、葉に包まれた物を取り出した。今朝に村を発つ時に渡された、川魚の干物だった。
「干物か」
「もう少し良いものです」
竹の水筒から水を少量取り出すと霊気を込めて干乾びた魚に振った。すると、魚は新鮮とまではいかないが、僅かに瑞々しさを取り戻した。
「へえ、便利なもんだな」
「干物よりは食べ易いです」
魚の身を千切り、口へと運ぶ。今朝の刺し身も中々の味がしたが、一度太陽の恵みを受けている干し物も、噛む程に旨味が染み出て舌を楽しませる。
「食べますか?」
ミクマリは男に訊ねた。
「言うと思った。だけど、そこまでの施しは受けねえよ。それに、今朝方“もっと良いもん”食ったしな。干物なんかじゃねえ、本物の海の幸だ」
男は想像で味わうかの様に目を閉じ、口を綻ばせた。
「海の幸。海がこの辺りに?」
「そうだ。お前が居た川をそのまま下れば海沿いの漁村へ当たる。そう遠くはないな。俺はそこではお尋ね者だ。尤も、そんなの気にせず仕事を繰り返してるがな」
盗人は焚き火の光に悪辣な表情を浮かべた。
「漁村にも巫女が居るかしら」
ミクマリは呟いた。
「居るぞ。下手な農村よりは巫女を大事に扱ってるんじゃないか? 連中は舟を出すにも巫女頼みの神頼みだからな」
――違う村の巫女か。どんな技を持っているのかしら。
手の内を簡単に明かしてくれるとは限らないけれど、霊気の磨かれた者同士であればお互いの実力を測る事は容易いとゲキ様は言っていた。
今朝方の巫女には砂を投げつけられたけれど、友好を結べば何か学びが得られるかもしれない。
「良し、出来たぞ」
ミクマリが思案と干物を交互にしていると、男が声を上げた。
「何が出来たのですか?」
男の手元を見やると、草蔓を編んで作られた縄があった。
「これで俺を一晩縛れ。朝になったら解いてくれ。そこから先は、また盗人と旅の巫女の間柄だ」
差し出される縄。まだ若くて青い臭気が漂う。
「本式の縄よりは弱いが、崖下りの命綱に使える位は頑丈な筈だ」
ミクマリは手渡された縄を引っ張ってみた。手には確かな感触が返って来る。
すると、娘の胸に居座っていた不安が霧散した。
――詰まる処、私の思いが通じたという事だ。後はゲキ様に何か一つ示して見せれば良い。
「信じてると言いましたよ。それに、自分で自分を縛れと言う盗人がありますか」
今度は見栄ではなかった。ミクマリは少し笑って言った。
「まあ、お前の真似と言う処じゃ」
「何ですかそれは」
「自分で怪我をさせて治す奴が居るんだから良いだろう、って事じゃ」
そう言って男は両手を背に回して後ろを向いた。
「ううん、そこまで大仰な事はしたくないので」
「縛れったら。お前は女だ。俺は男。寝てる間に気が変わって襲うかもしれんぞ」
娘は襲われるのは勘弁願いたいと思ったが、ある種の肯定に少し頬が緩みそうになった。
「分かりました、そこまで言うのなら……」
口元を引き締めると手渡された縄を脇に置き、その辺りから一本の花の茎を拝借した。
そしてその茎を使い、盗人の親指同士を結んだ。
「はあ? こんなもんで男が縛れるかよ。俺は結構な力自慢だぞ」
「では、千切って貰って結構です」
ミクマリの薦めに男は怪訝な顔をする。
「どうぞ、やって見せて下さい」
男は言われた通り身動ぎをした。それから首を傾げ、今度は顔が真っ赤になる程に身体に力を込めた。
「……千切れねえや」
「茎に私の霊気を込めてありますから。万が一それを切る事が出来れば、私を好きにして頂いて結構です」
「ちぇ、凄え自信だ。実を言うと、そっちの縄だったら本気を出したら千切れたんだがなあ」
そう言って男は高笑いをした。一方、ミクマリはまたも肝を冷やした。
男の寄越した縄に霊気を通す事も可能だったが、その心算は無かった。親指に結わえた茎も霊気は通してあるが、実は余り信頼の置けるものではない。
それはゲキに演じて見せただけの事であり、本当は自身の咲かせた信頼の花の方に重きを置いた行動だった。
「ま、騙し合いは無しだ。俺は寝るぜ」
男は転がると背を向けた。
「……」
結局の処若い巫女は、独りで彼是と立ち回った挙句に不安な夜を過ごさねば為らなくなったのだった。
長い夜が明け……。
『おい、マヌケ。マヌケ娘。捕らえた悪人よりも長く寝てる奴があるか』
気疲れで寝落ちていた様だ。命もあるし、霊声も聞こえる。ミクマリは安堵の溜め息を吐いた。
しかし、彼女が目を開くと男の姿は無かった。
「何処へ行ったのかしら」
ミクマリは寝たままで呟いた。
『さあ、何処だろうな』
含みのある言い方。
突如、ミクマリの肩が力強く掴まれた。
慌てて霊気を研ぎ澄まし、その場から飛び退き起き上がった。
盗人が目を丸くしてこちらを見ている。両手も自由だ。
「そんなに驚く事はねえやろ。起こそうとしただけだ。言っとくが、茎は切ったんじゃねえ、勝手に切れてたんだぞ」
男は両手を振って見せた。それから身震いをし、ゲキの居る辺りを見上げた。
『そう言う事だ。お前が意識を失った時、拘束も解けてしまっていた。俺が敢えて此奴の前で霊声を使って霊感を擽っておかねば、お前は今頃この男に犯されている最中だ。好い加減、己の甘さを認めよ』
「……」
ミクマリは口を結んで守護神を睨んだ。
「何処見てるんだ、凄え怖い顔してよ。やっぱ悪霊が居るのか?」
首を傾げる盗人。
「な、村へ行く心算なんだろう? 途中までなら案内してやるし、それまでは縛り直して貰っても構わねえからさ。遅くなると俺が陽のある内に帰れないんだよ」
男は青い貌をして言った。
「……」
ミクマリは黙って昨晩の蔓縄を使って男を巻き、蔓の汁気に余分に霊気を込めた。
それから、一言も口を利かずに男と山を下り始めた。
『詰まらぬ意地を張りおってからに。本式のマヌケめ。マヌケの本流。マヌケの開祖。マヌケの王。マヌケの神』
頭の上から嘲笑いと共に言霊が降り注ぐ。
ミクマリは益々押し黙って、男を引き連れ山道を歩いた。
「よう、巫女さん。そろそろ村が近くなるから放してくれぇや? このまま村の連中に見つかったら、本当に殺されちまう。漁村で殺しをした事はないが、偸みは相当に働いてるからなあ」
後ろ手に縛られた男は顔だけで巫女を拝む。
「殺されるとは限りませんよ。私の様に赦すかもしれません」
ミクマリがそう言うと、守護霊の爆笑が聞こえた。男は身震いをした。
「やあっと口を利いたと思ったらこれだや。あり得ねえあり得ねえ。連中は善良な漁民かもしれねえが、俺は悪党だ。村の結束の前じゃ部外者の命なんて蟻ん子以下!」
好い加減に男も顔を顰めて言った。
「……でしたら、改心しましょう!」
ミクマリは手を打ち、満面の笑みで言った。
「は?」『は?』
「これまで悪事を働いた分、奉仕して赦して頂くのです。それで村の一員にして貰いましょう。そうすれば、貴方も賊から足を抜けるし、人殺しをして黄泉に悩まされる事も無くなります!」
それを聞いたゲキは肉体が無い事に感謝を述べながら笑い、盗人は死人の様な貌になった。
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