巫行045 川神
遠方から迫り来るは横殴りの瀑布。
それは不思議にも川縁より高き位置を疾っていたが、決して川の導を外れる事はなかった。
土色の濁流に荒ぶる神気。荒魂の天誅が御柱に沓する娘へと迫る。
「はいっ!」
掛け声と共に片腕が振り上げられる。神霊一体の気を帯びた袖が川の神の気を帯びた奔流を真っ二つに叩き割った。
「えー! 川がー!」
童女は目玉を引ん剥いた。
左右に割れた瀑流は宙を駆け、二匹の蟒と為り敵対者を囲う。
獣の群れが獲物を囲う様に回転を続け、徐々にその輪を縮めてゆく。
『……』
渦の中に確かな神の気配。
「川御神様にお訊ね致します。何故、人の子の贄等を求められるのでしょうか」
ミクマリは取り巻く流れを睨みながら言った。
『……吾が命じた……ではない』
激しい水音から僅かに聞こえる男の声。
「巫女の独断と仰られるのですか」
『……知らぬ』
「知らぬ存ぜぬでは通せませぬ。本来ならば人と共存共栄の道を目指すのが御神の務めでは御座いませんか。贄は繰り返し捧げられたと聞きます。何故に御鎮まりに為らないのか」
巫女は問う。激しく渦巻く音に耳を澄ますも、返答は無し。
小さく溜め息。
神が弱っているのか、自身が伸びたか。神の創り出した蟒を破りこの神を剋すのはそう難しくはない。
だが、態々ここの巫女が手を打ったという事は、嘗ては恵みを齎した御神である事は明白。
返答か攻撃か。
待ちながらも渦巻く神気を探り続ける。
――僅かな穢れ。
ミクマリは渦へと手を翳すと、神の水に命じその濁流に紛れた異物を引き摺り出した。
「鳥の羽根……?」
手の内に飛び込んで来たのは、岩色と砂色の横縞模様を持った大羽根。鳥獣に有るまじき夜黒ノ気を漂わす。
同様の気配を濁流の中に見出し、同じく全て引き出し集めた。
取り敢えずは禍羽根を祓い清める。穢れが去ったお陰か、渦の力が増した。
「この穢れが元で荒ぶっていらっしゃったのですか?」
訊ねる。
しかし返答は、より強力になった渦から射出される水弾にて返された。轟音の中でもはっきりと聞き取れる弾丸の唸り。
神の無数の水撃が巫女の身体を叩く。それ等は衣に弾かれ痛みも無かったが、彼女の心には痛打を与えた。
「……もうっ!」
ミクマリは自身の霊気を渦とは逆巻きに操り、その流れを抑えに掛かった。
小さい唸り声の様なものが聞こえたが無視し、神の蟒を力任せに只の川の流れへと戻す。
「口が利けるの為らば口で御返事下さい」
練り上げられる霊気。巫女の気の圧で神の流れが押し退けられ飛沫を上げる。
「祓いますよ」
巫女が不機嫌と共に宣言すると濁流は濁りを消して元の清流へと変じた。
『滅さず鎮めたか。天晴れ』
外で様子を窺っていた守護霊が褒める。横では生贄の娘がすっかり腰を抜かしている。
「川御神様」
静寂を取り戻した川原に巫女の厳しい声が響く。
『……神を辱めおって。ミサキの奴もこれだけの水分の巫女を擁しながら、何故あの様な凡骨を寄越したのだ』
神の声は注意せねば聞き漏らす程に小さい。
「私はこの里の巫女ではありません。漂泊の身分です。手に余る難事が御座いましたら、御力添え致しますが」
『部外の巫女? 為らば話す訳にはいかぬな』
「何故ですか」
『信が置けぬ。里の難事は里で片付けるのが筋だ。ここには巫覡も多い。吾を祀る専属の巫女も居る』
「それで足りてないからお怒りになっているのでしょうに……・」
意固地な神に毒吐く。
『……尤もな話だが。禍の元凶は“この地の役目”に関わる事である故、部外の者に話す訳にはいかぬ。貴様がこの里に骨を埋めると言うのなら考えてやっても良いが』
「お断りさせて頂きます。神と巫女が通じていらっしゃらないのなら、難事が解決する事はないでしょう。このまま里を荒らし、無意味な贄を捧げさせ、悪神と成り果てても宜しいのですか?」
『……信が置けぬ』
繰り返し唸る川神。
「流れより見つけ出したこの禍羽根は夜黒ノ気を纏っていました。御神の方こそ、黄泉に引かれ掛かって居られるのではありませんか? 黄泉の尖兵は信用為りません」
『違う! それは支流の一つに紛れ込んだ物であって、吾は別に……』
男神の声が大きく上擦る。
「何を御話してるのでしょうか。夜黒とか黄泉とか聞こえましたが……」
童女の声。見れば不安気な表情。
「……分かりました。川御神よ、信が置けぬと仰るのでしたら、この身体を依り代に御使い下さい。心身を共にすれば通じるものもあるでしょう」
そう言ってミクマリは身体中の霊気を散らし鎮める。
『なんと。全くの無防備を晒すか。いや、その衣が護っておるのか?』
「私の胎には八百万の神の器の印たる術が施されています。難事解決にこの身を使うも良し、この地の巫女へ諸悪の根源を伝えるも良し。御自由に」
『その胎、その衣。畏れ多い神威を感じる。天津の恩寵か? 貴様は一体何者だ……っておい!』
神が叫んだ。
ミクマリは神の返事も待たず、全身から力を抜いて御柱から川へと身を投じた。高く飛沫が上がる。
「巫女様が落ちてしまいました!」
童女が叫ぶ。
『さては川の神を降ろす気か』
ゲキが言った。
静寂。川は静かに流れ続ける。
暫くすると、川からミクマリが這い上がって来た。
「巫女様、御無事ですか!?」
童女が駆け寄る。
「ええ。もう大丈夫。生贄も要らないって」
濡れた手で童女の頭を撫でるミクマリ。
「そうですか、良かったわー」
童女はまた泣き出した。
ミクマリはもう一度子供を抱き締めたい衝動に駆られたが、その腕を引っ込めた。
『して、川の神はどうした?』
「神和いで御話を聞かせて頂きました。彼は“やたらと口下手”らしくて。それで霊性の足りない巫女には声が届かなくって、川を荒らしてまで気付かせようとしていたらしいのです」
『面倒臭い神だな……・』
「この川の支流の一つに穢れが混じるらしく、それをこのまま放って置くと本流を使う村々に凶事が起こるだろうと」
鳥の羽根を取り出して見せるミクマリ。
『成程な。それで、その鳥を祓えば万事解決という訳か』
「それが、矢張り里の“不始末”は里自身に片付けさせるべきだと仰られたので、その方向で纏まりました」
『“不始末”か。巫女に降りれぬのなら直接天降り一言伝えればこの様な手間を取らずに済んだものを』
ゲキが溜め息を吐く。
「長い間、川に異変が無かった為に声を出す機会が無かったそうで。只でさえ口下手なのに姿を見せるなんて恥ずかしい事が出来るかと御怒りになっておられました」
『何に怒ってるのだ……。仕様もない神だな』
またも師の溜め息。
「ここの水分の巫女へ荒ぶった理由と原因を伝え、彼女達にその元凶を叩かせよとの事です」
『手間だな。俺も先程に夜黒ノ気を感じたが、あの程度の気であれば探索に手間取ったとしても、お前為らば半日も掛からぬ仕事だ。あんな神でなく、俺を降ろせば芋を煮る間に片が付く』
「土地神の顔を立てる為です。その方が誰にとっても良い結末を得られるかと」
『不遜なのか殊勝なのか。まあ、好きにするが良い。お前の言う通り、巫女共に知らせず解決しても恩は売れぬからな』
顔を立てるというのは建前であった。依頼を受けた決め手は二つ。
一つは御互いの極個人的な都合。“恥ずかしい”に共鳴した為であった。
「あ、あの……御助け下さって、ありがとう御座いました!」
娘が頭を下げる。まだ目尻には光。
もう一つ。それはこの邪気なさを残した娘を供物に捧げる判断をした“姉”とやらの顔を拝みたかったからである。
「当然の事をしたまでです。川神様は生贄は不要と仰っていました。難事の原因も聴き遣っていますので、貴女の御姉さんの処に案内して頂けますか」
ミクマリは敢えて童女の純粋な礼を突き放した。
「……は、はい是非。という事は、難事自体はまだ解決していないのですね?」
「その通りです。行きましょう。問題が大きく為ったら困りますよ」
「案内します!」
童女はゆく手を指さし歩き始める。
それから直ぐに立ち止まり振り返った。
「あ、あの。私は“梓弓”の巫女です。“アズサ”と呼んで下さい。里では特に大きな役目は担っていませんが、これでも一応巫女です」
御辞宜一つ。
『巫女と言う割には霊気は常人程度にしか感じんが』
「それは、縛り付けられる前に髪を切ったから上手く気が練れなくって……」
元は巫女らしく長かったのか、肩の上当たりでばっさりと切られた髪を弄くるアズサ。
『男か女か分からんな』
「守護神様、私は女です! 月水は未だですけど、多少の巫行と術は身に着けています。それに、本部からも一番若手で現場に派遣されたんですよ!」
アズサは喚く様に声を荒げる。
『だそうだぞ、ミクマリ』
「そうですか。宜しく御願いしますね、アズサさん」
ミクマリは早足を止めずに返す。
アズサはその後をちょこちょこと付いて行った。
『やれやれ。何を意地張っておるのやら』
ゲキはミクマリの頭上で溜め息を吐く。
「別に何も張ってませんが」
『声で丸分かりだ。子供に優しくするのはお前の性分だろうに?』
「命は救いました。充分でしょう」
ふと思い出す。何日も縛られているのはどうだとか言っていた。
ミクマリは荷物から榛の実と水筒を取り出すとアズサへ渡し、礼も聞かずにまた早足で歩き始めた。
『入れ込んでしまうのを恐れておるのだな?』
「分かっていらっしゃるのなら揶揄わないで下さい」
『揶揄って等おらぬわ。だが、今回の件はお前の手に余る仕事でもないのに、意地を張る必要等あるか? 偶には息抜きも必要だろう』
「ゲキ様は矢張り御甘くなってますね」
『甘やかしているのではない。お前を信頼しての事だ。厳しく接するも気遣うのも全ては俺の役目で、お前の為を想ってだ』
「だったら、放って置いて下さい。油断すると必要以上にあの子を甘やかしてしまいそうで」
『本当にそれだけが理由か?』
ゲキが問う。ミクマリは答えなかった。
「あ、あのっ。ミクマリ様!」
アズサが急ぎ足で横に並び声を掛けて来た。
「先程の、川の水を操るのはどうやって? 神様の御水は持ち上げられないとミクマリ姉様は仰っていたのですが」
『ミクマリ姉様?』
「こーっと。ごめんなさい。御役目で呼ぶので、同じになってしまいます。私の“姉妹巫女”の方のミクマリです。この近くにある村では里の川神様を祀っているので、そこに御勤めになっています」
「……」
――姉様。
『水分の巫女はその者だけか? 些か修行が足りていない様だが』
「そうですね…・・。ミクマリ姉様も本当は水術が本分ではないのですが、他に才のある者が居なかった為に任命されてしまって御苦労なさっている様です」
――それで生贄を? 水術や巫力以前の問題だわ。
『成程。水は人の暮らしにも重要な故に神には水神が多く、水分の巫女は需要が高い。その割に憑ルベノ水に長けた者は貴重だ。お前の姉とやらも、そこまでの才では無いのだな』
「そんな事を言うと叱られますよー。失敗をすると顔に水の球をぶつけられるんです。でも、こっちのミクマリ様はあんなに大きな流れを操るなんて。憧れてしまいます!」
目を輝かせるアズサ。
『ミクマリはまだ巫女に成って半年足らずだ。類稀無い才と努力に依ってその力を得た。ま、俺と胤を同じくするのが理由やも知れぬがな』
「守護神様はミクマリ様の御先祖様なんですねー」
『そうだ。祖霊信仰が分かるか。良く学んでおるな』
「聞き齧りですが。座学の覚えは本部で一番でした!」
『ほう。処で、先程の話と合わせて推察するに、この里では村々から巫女の候補を集めて本部で育てているという訳なのか?』
――知ってる癖に。
「そうです。巫女頭であるミサキ様が村々を見て回って、才能のある者を抜擢するんです。私もミサキ様に選んで貰ったんですよー」
柔和な笑みを浮かべる童女。
「でも、本部の姉様方にもミクマリ様程の使い手は居なかったような……。ひょっとしたらミサキ様よりも……」
ミクマリは前を見て歩いていたが、擽ったい視線は手に取るように分かった。
『俺の巫女は覡國屈指の才の持ち主だろうからな。そうそう張り合える巫覡は居らんだろう』
当の巫女は二人の会話が耳に障ったか、眉を顰めて歩調を速めた。
「あ、待って下さいミクマリ様。今後の参考にしたいので、是非お話を!」
アズサが駆ける。守護霊はミクマリの前へと回り込む。
『あの童女はお前に憧れてるぞ。思い出さんか』
「……何の話でしょう」
『髪さえ長ければ瓜二つではないか?』
「顔は違います」
『ほれみろ。遠慮せずに可愛がれば良かろう』
「……あの子に代わりは居ません」
『代わりとは言っておらんのだがな。お前がそうしたいなら勝手にするが良い。俺は暫しアズサと話に興じる。磨きは足りぬが才は感じる娘だ』
「才があれば誰でも良いのですか」
露骨な棘。
『良い訳無かろう。だが、俺とて人の心を持っている。それにあいつとは神と巫女の間柄だったのだぞ』
そう言うとゲキは独り先を急ぐ巫女を放って、アズサに声を掛けてお得意の蘊蓄を垂れ始めた。
熱心に聞き入り質問を返すアズサ。
その内にミクマリが救った筈の童女の嬌声や、普段の師らしからぬ愉し気な声も混じり始める。
ミクマリは手を使わずに耳を塞ぐ術は無いものかと奥歯を噛み締めたのであった。
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