巫行044 生贄
再び霧を纏った里の朝。ミクマリは太陽よりも大きく遅れて目覚めた。
『寝穢ない娘め。あれだけ早く横になっておいて、まだ寝足りんかったのか』
村を出立し、欠伸を披露しながら歩く娘。衣も新調し、重い毛皮は礼代わりに置いて来て随分と身軽になった。
心機一転と言った処か、歩きながら集めた水気で顔を洗うとぴしゃりと頬を叩いた。
『処で、昨日は村民も居ったから余り深くは訊ねなかったが、それだけの衣をどうやって手に入れたのだ?』
ゲキが訊ねる。
「どうって、水を使わせて下さいとお願いしただけですが……」
ミクマリは首を傾げる。
『そんな筈はあるまい。その神気の質は生半可なものではない。編んだのはお前とは言え、殆ど神器と言って差し支えない代物だ』
「そんなに凄い物なんですか? 私の衣が?」
若気ながら衣の袖や袴の裾を覗き込む。茜袴の鮮やかな色は足を踏み出す度に視界に入り愉しい。
『衣と言うか、素材の話だ。それだけの品を得ようと思えば、生贄の一人や二人は捧げねば為らんだろう。よもや、その辺の悪人を捕まえて捧げたりはしていないだろうな?』
「しません! そうやってまた私を揶揄って……」
腕組み頬膨らます娘。大仰な身振り。所作の一つ一つで摺り合う衣の感触が愉しくての事である。
『今のは余り冗談ではなかった。お前がその様な行いはせぬと確信はしておるが、如何せん釣り合いが取れぬ様に思えるのだ。
まあ、あの山が天津神の所有物であったのならば、気紛れで賜る事も出来るやも知れぬが……』
「天津神と言えば、高天國にお住まいになっていらっしゃる神様ですよね?」
『そうだ。その辺の土着の神とは訳が違うぞ』
「どう違うんですか? お住まいや生まれだけじゃなくって」
『そうだな、まず、神威の及ぶ範囲やその威力の差だ。例えば、お前がこれまでに会って来た神は国津神で、一つの浜、竹林、里等の限られた範囲に影響を持つ神々であった。一方、神和いだ火雷神の様な神は、広範囲に、或いは覡國の全てに於いての火や嵐へ影響する力を持つのだ』
「國全てに。霧の神様もそんな御凄い方だったのかしら?」
『天津神であれば複数の山をその神威で治めているやも知れぬな。天津神は基本的に自由奔放で人間や覡國の小事は余り気に留めん性分が多い。気に入られるか供物を捧げれば容易く協力を得られるが、逆に気分次第でこちらが害を受ける事も多い。お前も怒らせて居れば今頃永久に山に閉じ込められたりしていたやも知れぬな』
水浴みと薬草摘み如きで、その様な結末は釣り合いが取れない。
ミクマリは心が冷える気がして腕を摩ったが、衣の手触りと温度が直ぐに否定し慰めた。
「そんな方々が住まわれる高天國とは、どんな処なのでしょうか?」
守護神を見上げる。
『ううむ。どんなって……余り地上と変わらんな』
「え、そうなんですか?」
『そうだ。天津神とて向こうでは飯を喰らい、昼寝もする。高天に昇った霊魂を民として國も治める。強いて言うならば、全てが何らかの神の恩寵に与っている故に豊かで、様々な技術にも優れておる位か』
「良い処なのですね」
『そうとも言えぬ。気紛れで力の強い神ばかりである為、吉凶の浮き沈みが激しいのだ。凶事が起これば想像もつかぬ位に荒れる』
「恐ろしい話です」
『滅多にない事だが。俺も高天に暮らした事はあるが、退屈な位に平穏であった』
「そうですか。それを聞いて安心しました」
胸を撫で下ろすミクマリ。
『安心とは何だ? お前が高天に行くのは当分先の話だ。今からそんな心配に気をやる様では困る。最低でも俺より先には逝くなよ』
「神様には寿命が無いでしょうに……。そうでなく、これまでに寿いで来た方々がどうしていらっしゃるか気になって」
『成程な。送った相手の事を気遣っていたか』
「はい。向こうが幸福の地であるなら、これまでの事も納得出来ますし、巫女の仕事にも誇りが持てます」
『今更だな』
「妹も巫女だったし、そこも少し安心しました。元気にしてるかなあ……なんて。死んじゃってますけど」
時折思い出す一番上の妹。巫女や神はその真名を覡國に暮らす人に呼ばれると力を落とすと言われている。
ミクマリは妹の事を決して忘れはしなかったが、律儀に心の中ですら名を呼ぶ事を止めている。次に名を呼び合うのは、高天國で再会した時と心に決めていた。
『……そうだな。また逢う事もあるやも知れぬ』
「でも、天津神様は少し怖い方々だなと思います。命を要求為さるなんて」
表情を落とす。
『何を言っておる。それは国津神でも変わらんだろうが。生贄は人間の捧げられ得る供物の最上の品だからな。神が望まなくとも人間が捧げる場合も少なくはない』
「そんな恐ろしい習わしがあるのですか?」
『そうか、お前はこれまでにその様な儀式は目にしておらぬか。覆い隠されていただけで、既にすれ違ったやも知れぬが……』
「余り信じたくはありません。命を捧げる何て、一体どんな見返りを求めての事なのかしら……」
命よりも大切なものとは何だろう。娘は首を傾げる。
『幾らでもあるだろう。命は命を以てしてのみ、その価値を超える事が出来る。お前のその衣が今後何度もお前の命を救えば、それだけの価値があると言える。生贄一人を捧げて雨を降らせ作物を潤せば、村一つが救われるやも知れぬ。お前に降ろした雷神の力もその程度の事は朝飯前だった。人の片腕が代償なのは安い位だ』
「……」
雷神が降ろされた時、子を抱く母の片腕が供物とされた。その雷神により行われたのは里の水神を剋す行為だ。
『呑み込めぬという顔をしておるな。他者の腕一本でお前は生き延びた。次はそのお前が誰かを救えば良い。お前は既に一つの村を呪縛から解き放ち、その犠牲者の魂も寿いでおる』
「はい……」
『胸を張って歩け。食事で何かの命を頂くのと同じ様に、お前の運命もまた他の者の運命を頂いて成り立っておるのだ』
師に言われ、胸を張ってみる。誰かが背中を押してくれる様な気がした。
与太話片手に暫く山を歩くと、広々とした平野を見下ろす峯へと辿り着いた。森や集落が点在し、幾つかの支流が合わさった大きな川が見える。
霧の里と云うだけあって、低地でも霧が点在しており、視界の彼方は霞んで見えなくなっている。
「広い処……! これも全部、霧の里ですか?」
感嘆を漏らすミクマリ。若しも自分が里長だったら間違いなく手に余る。彼女の隠れ里は精々、良く見かける集落を二、三集めた程度の規模であった。
『それぞれの村である程度完結して生活は行っているだろうが、里全体で統一した取り決めや信仰を持っているのだ』
「神の御使いですっけ」
『うむ。まあ、それぞれの場所にも何らかの神を祀っているだろうがな』
「川も大きい……。幾つもの川が合わさって出来ているのね。水分の巫女としても見に行かなくっちゃ」
斑霧の隙間から日に照らされ輝く水面は彼女の興味を強く惹いた様だ。
『でかいだけで川は川だがな』
退屈そうに言うゲキ。
「尊い神様がいらっしゃるかも知れませんよ」
『どうだろうな。支流ごとに神が居て本流には何も居らぬかも知れぬ。支流に穢れた川が混じれば本流の神聖さも損なわれる。そう為れば神は寄り付かん』
「そうなんですか?」
『まあ、見に行きたければ好きにするが良い。川から程良く離れた処を進めば集落にも当たるだろうしな』
娘は広大で珍しい土地の観光に努める。川沿いを歩き、その発見を逐一師へと伝えた。
「ゲキ様! 川の中に土地が!」
『中州だな。増水すると消える。そこに生える草木は、溺れても死なぬ力強いものだ』
「ゲキ様! きょ、巨大な蜥蜴の様なものが。あれは化生の類では……!?」
『落ち着け。悪い気は感じんだろう。あれは山椒魚と云うものだ』
「ふ、ふうん……全然動きませんね……」
「ゲキ様! 川の中に大きな魚が! 川が大きいと魚も大きいのでしょうか?」
『それは鱒だな。身が赤く、卵も宝玉の様で美しく美味だ。勝手に獲るなよ』
「神様に叱られるかしら……」
娘の腹が鳴る。
『神の気配は今は特に感じないが、大きな里であれば川や山の使い方にも掟が設けてある事もあり得る。余所者が勝手をして罰せられるのは何処でも変らぬぞ』
「そうですよね……」
普段はひと目の付かない山奥で食材を得たり、村によって供された物を食す事が多い。ここの処は神の方にばかり気を使い過ぎていて、人間の事を僅かに失念していた。
「処でゲキ様、これだけ大きくて豊かな川なのに小舟も人も見当たりませんね」
『確かにそうだな。時期の都合か、村で何か催しがあるのか。はて? そう言えば、この時期に鱒が下流に居るのは珍しいな』
「そうなんですか?」
『そうだ。高天では良く世話に為った魚だから分かる。酢と塩で漬けた肉が酒と合って良いのだ』
「ふうん」
『よし、折角だし霊気で気配を感知し、知られる事無く鱒を獲れ。見られなければ何も……』
「ゲキ様! あれは何ですか!?」
師の言葉を遮る叫び。
『好い加減に喧しいな。何でも訊ねるな。見れば分かるだろう。あれは御柱だ。神を招く為か、或いは禍事を避ける結界だろう』
川の中央には柱が立てられていた。
そしてそれには、一人の童女らしき者が縛り付けられていた。
「あの、柱に子供が居ますが……」
『それは生贄だ。良いか、生贄とは……さっき話をしたろう。噂をすれば何とやらだな』
「酷い……」
『川の氾濫を避けたり、豊漁を祈る為に神に捧げておるのだろう』
ミクマリは川原へ下り、柱を観察する。
太い丸太が川に突き立てられ、子供はそこに括り付けられていた。髪は切り揃えられ、衣は子供の物と言うよりは、巫女の衣装の様である。
目を閉じ頭を垂れてはいるが、時折何かを呟いている様だ。
『前もって言うが、許さんぞ。お前は部外者で、あの贄にも意味がある。気の好いものでないのは分かるがな』
「……はい」
返事をしながらもミクマリの沓先は川の中に踏み入れていた。
『ミクマリ』
厳しい警告を帯びた霊声。
『あれは巫女やも知れぬ。霊感のある者の方が贄として喜ばれる。それだけの事情があるのだぞ』
ミクマリは口の奥を噛み締めた。
蟷螂の里を越えて以来、彼女の性分には多少の変化があった。慈愛こそは捨てぬが、目の前の悲劇や不正にばかり囚われず、大局的で理に適ったものの見方。
誰でも彼でも自身で決めて赦してしまわず、然るべきものに判断を委ねる様に律した心の境界。
何処か自身の心に結界を張る様な心算で村々を越えて来た。
特に巫女相手にはその戒めを強くしている。
気を許す事はあっても、必要以上に心を近づけない様に己を抑えて来たのだ。
先の雪に鎖された村の件でも、彼女なりに巫覡の男女に心寄せ過ぎぬ様、食事を共にしながらも距離を置いた接し方を心掛けていた。
友人ではなく、命を拾われた恩に報いる客人としての立ち位置を守り続けた。
それは自身の弱さが大義の妨げに為らぬ様にする為でもあり、また悲しみに呑まれない様に護る為でもあった。
仮に、彼女の裸の心のままにササメやツキに入れ込んでいたとすれば、鬼女に敗北したか、或いは事を終えても二人の死を引き摺りながらの旅に為っていたであろう。
彼女の心が窘める。
――此度の生贄も、あれが巫女なのだとしたら“運命”なのでしょう。あの子の御霊はより多くの運命を救う為に捧げられている。捨て置くべきだ。
だが……。
「どう見ても子供に見えますが」
『髪を短く切り揃えている所為だろう。巫女が霊気を使って拘束を解くのを防いでいるのではないか?』
「それって、無理矢理って事ですか?」
慈愛の巫女の声の調子が下がった。
『念の為やも知れぬ。長く足を止めるな。後ろ髪が引かれるのも分かるが、大切な贄の前に部外者が居続けるのも具合が悪い』
ゲキは先へと進む。
「でも、善悪の判断だって付かないかも知れないのに。自分が供される意味も、知らないかも知れないのに」
立ち止まったままのミクマリ。
『そこまでに幼い童女にも見えんがな。若しもあの者が巫女で自身の役目に誇りを持ってあの場に立てられて居るのなら、お前も同じ巫女として敬意を示さねば為らぬ』
「為らば、確かめましょう」
水分の巫女は川の上を歩き、柱の前へと進んだ。
『やれやれ』
師は溜め息を吐いた。
近づくも、生贄の少女はミクマリに気付かない。
「はー。何日も縛られてんのはきけるわー。こーとな最期になるとは思わんかったさー」
何やら文句を言っている。
「貴女は、何故に捧げられていらっしゃるのでしょうか」
ミクマリは生贄へと質問を投げた。
「えっ? なっとな? 誰? 誰ですか?」
童女は顔を上げ、目を瞬かせた。
「私は旅の水分の巫女です。何らか事情があって、その身を捧げていらっしゃる様ですが、私はこの名の通り、水の難事の解決に長けて居ります。部外の者が領分を弁えず差し出がましい様ですが、その命を使ってしまわれる前に、御話し頂けないでしょうか?」
仰々しく訊ねるミクマリ。
「ええと、川の神様が最近よくお怒りになって、雨も無いのに川が溢れたり、畠を荒らしたり為さるもので。それを鎮めようと、これまでに何本も柱を立てて来たのですが、ちっとも御利益が無くって。下っ端巫女の私に御役目が回って来たのです」
「望んだ訳ではないのですか?」
「そりゃー……そうですよう。だってこのまま、御飯も無しに神様に連れて行って頂くまで、ずーっと磔ですよ? 巫女じゃなきゃ逃げてますよ」
「食べ物なら持っていますが」
襷の袋から榛の実を取り出す。
「いけませんよう! この儀式の為に断食もしたというのに。普段から役立たずの余計者なのに、最期位は格好良くやり遂げないと面目がありません!」
そう言うと娘は口を閉じて顔を左右に振った。
「生贄は余り良い方法には思われません。そこから降りて私と一緒に別の道を探りましょう」
「いけませんったら。放って置いてください。私の最初で最後の晴れの御役目なんです」
そう言うと生贄の娘はぷいと外方を向いた。頬には少し歪んだ三角形の入れ墨。
「神様はいつ頃に御出でになるのでしょうか? 神和いで御伺いは立てたのですか?」
「ここの神様は余り御声を聞かせてくれない方なのです。なので、御姉様方が色々と頑張っていたのですが、何を捧げても鎮まって頂けないので、滔々人を……」
――御姉様方。
ミクマリの心の底が湯立ち始めた。
『そもそも神意が読めていない可能性があるな』
守護霊が割り込んで来た。
「わ、お化けやん!」
童女が目を固く閉じる。
『誰がお化けだ。お前も巫女為らば、俺の神気くらいは読み取れ。贄に選ばれる程度には巫力もあるだろうに』
「……ほんまや。神様でしたか。川の神様ですか? 私、やっと役目が果たせます?」
表情を明るくし問い掛ける娘。
『残念だが川の神ではない。この巫女の守護神だ』
「うう、そうですか」
項垂れる娘。
「待って居れば神様は来るでしょうか?」
ミクマリは懐から鉄の小刀を取り出す。
『どうだろうな……ってお前は何やってるんだ。不味い事に為るぞ』
「あ! いけませんったら!」
二人の制止等は何処吹く風。ミクマリは生贄を拘束していた縄を切った。
娘を抱き受けると、ひしと腕の力が返された。
川を渡り、娘を地面に降ろしてやる。
すると、脚は立たずに尻を土に着け、童女は袖で顔を覆って泣き始めた。
「恐かった、恐かったわー。あんなー、うちなー、にっすいからなー、なっとか役に立とう思ってなー、返事したんやけど……ねっから神様お越しにならんもんで、最後まで滓かと思ったさー」
「もう大丈夫よ。私が、貴女の“御姉様”と神様に話を着けて上げるから。川の難事も解決するから」
ミクマリは泣きじゃくる娘の頭を掻き抱く。
『あーあ。矢張りやりおった。待てば暫しも無い奴め。話をする前に事を起こせば面倒な事に……』
守護霊の嘆息。
それは言い終わらぬ内に押し寄せる轟音に呑み込まれた。
上流より出るは茶色く濁った澱の波。
『ほうら来たぞ。中々の神気だ。どう為っても知らぬぞ』
「元より承知です。贄に捧げられるのが運命と云うの為らば、この流れもまたそれを紡ぐ糸の一つに違いありません」
ミクマリは娘を放すと跳躍し、御柱の上へと降り立った。
『神の見立ての上に立つか。面白い。その衣の霧神を口説き落とした手腕、篤と見せて貰おうか』
師は愉し気に言った。
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にっすい……とろい。鈍臭い。