巫行043 迷家
「お入りなさい」
戸を叩けば直ぐに返答。老人の声である。
「失礼致します」
娘は頭を下げ足を踏み入れる。
小屋の中では檜の好い香りが充満している。
板張りの床に大きな茣蓙。脚のある板を前に、痩せ細った翁が胡坐を掻いて居る。
翁の纏う黄昏色の衣にはミクマリの手習った技術では再現出来ない模様が織り込まれ、髭は霧の様な色味で顎の部分ばかりを長く伸ばしている。
柔和な表情と豊かな白い眉。頭には黒く染められた頭巾が載っていた。
「お嬢ちゃん。何処から此処へ来為すった?」
翁が訊ねる。
「……ええと、私は……里? 霧の、霧の里です。霧の里で神様の山に踏み入り、迷ってしまったのです。多分……」
娘は自信無さ気に答えた。
「霧の里……何処じゃったかな。ああ、西方にも山を持っていた様な……」
老人は独り言ちる。
「あの、私」
ミクマリは声を上げる。だが、その先が続かない。
――ここへは何しに来たのだっけ?
「まあ、座り為さい。何も焦る事はあるまい」
促され、脚のある板を挟んで座る。
――これは確か“机”だったかしら。何処で見たのだろう。里では使ってなかった筈だけれど。
「お嬢ちゃん」
「は、はい」
「最近、肩が凝っての。偶に頭が痛くなるのじゃよ」
そう言って翁は自身の肩を叩く。
「えっと、お揉みしますね」
娘は唐突に暗な要求をされて戸惑うも、翁の背後に回り肩を揉み始めた。
「おお。効く効く。お嬢ちゃん、さては揉み慣れておるな?」
「はい、村の御年輩の方々のお手伝いをさせて頂く事が多いので、良くやっているんです」
「そうかそうか、良い心掛けじゃな」
翁は気持ち良さそうに息吐き、それから茣蓙の上に俯せに為った。
当然の流れの様に、腰や背も揉み解してやる娘。
沈黙の中、暫し仕事に励む。
「いや、良い指圧じゃった。さてはお嬢ちゃんは按摩師か」
「按摩師? 私は家の手伝いをしているだけで。父と母が里を取り仕切っているのです。だから、弟や妹の面倒を見たり、村々を回って御用聞きをして暮らしています」
「そうかそうか。感心じゃな。それで、手伝いで山菜採りに出掛けて迷い為さった。そうじゃろう?」
――そうだったかしら……。
「そうだったかも知れません。御爺様はここに御住まいでしたら、この辺りには詳しいですか? 私の里に戻る道を教えて頂ければ有難いのですが」
「登って来たのじゃろう? だったら下りれば良いだけじゃろう? まだ日も明るいし、お前さんさえ良ければこの老体をもう少し手伝って貰えれば有難いんじゃが」
窓の外には青空。木々が音も無く揺れる姿も見える。
「喜んで。御一人で山奥に暮らして、何かと御苦労為さるでしょう。何でもお申し付け下さい」
娘は微笑む。
「それじゃ、食事でも作って貰おうかの」
「はい。お任せを。えっと、火は……」
見回す。板造りの床では火が使えない。
「そこに釜土があるじゃろう。食材はそっちの籠に、壺には米がある。水は桶に貯えてあるから、小屋から出る必要はない」
「何でもあるのですね」
「出不精でのう。為るべくこの庵で全てを済ませられる様にしとるんじゃ」
娘は見慣れぬ道具や食材に戸惑いながらも、調理に取り掛かった。
粘土を焼くばかりだと思っていた釜土は料理にも便利が良い事を知った。
包丁が鉄誂えなのにも驚いたが、それで切られる野菜の感触が心地好い事にも感動を覚える。
それに、ここにある器はどれも綺麗に赤く塗られて艶やかに光っている。普段と違った調理場に気分が良くなる。
その内に、米や芋の炊き上がる甘い香りが小屋の中に広がり始めた。
「お前さんは手伝いが好きか? こんな年寄りの相手なんて詰まらんじゃろう?」
「そんな風に仰らないで下さい。毎日の勤めですし、お話しするのは楽しいですよ。でも、皆さん人間ですから、偶に気分の悪くなる様な事もあったりしますけど……」
気の好い人間が多い里であろうとも、矢張り虫の居所が悪かったり、身体の調子に心が引っ張られる事もある。
特に、頻繁に助けを求めなければ為らない老人や病人相手だと尚更である。
それでも彼女は為るべく笑顔を絶やさぬ様、喧嘩別れの様に為った時は、その翌日に努めて朗らかに訪ねる様にしていた。
「例えば、こんな風な事とかかの?」
麻の衣の上から臀部が撫ぜられる感触。娘は悲鳴を上げた。
「ちょっとお爺ちゃん!」
「ひょひょひょ」
翁が笑う。
「どうじゃ、厭に為ったか?」
「御元気なのは結構ですけど、お料理中は危ないですよ」
「料理中で無ければ良いのか?」
「いけません!」
娘が叱ると老人はまたも笑う。
「ひょひょひょ。儂は悪でのう。逃げた方がええんじゃないか?」
両手で妖しく宙を握る翁。
「もう! ……でも、どうしてでしょうか、今は何だか、斯うして誰かの御手伝いをして居たい気持ちなんです。だから、私の為だと思ってやらせておいて下さい」
「……そうか。それなら良いが」
食事を作り上げ、器に仕度し机に供する。
老人は待ってましたと言わんばかりに手をすり合わせ、匙を使って掻き込む様にして喰らった。
「旨い! お嬢ちゃんは料理が上手じゃのう」
「そうですか? 食材が良かったのかも。ここのお野菜は皆、生き生きとしていますから」
「折角じゃ、お前さんも食べんか? 旨いぞ。まるで時の流れを忘れる様じゃ」
器が勧められる。こんなに盛っただろうか、差し出された器には米がこんもりと山を作っている。
「いえ、お気持ちだけで結構です」
「そうか? ずーっと山道を歩いて来たんじゃろ? 腹も減っとらんのか?」
「お腹が空いていないと言えば嘘に為りますが、こんな処だと食材も貴重でしょう? 御爺様の分を取ってしまうのはいけません」
「お嬢ちゃんの言う通りじゃな。でも、儂はこんなに太っとるから食べ過ぎてものう……」
老人はそう言って自身の腹を叩く。狸も魂消る太鼓腹。
娘は首を傾げた。この方、こんなに太っていらしたっけ?
「こんな腹をして何じゃが、“握り飯”が食いたいのう」
翁は食べる手を止め言った。
「握り飯?」
「米を粒が潰れぬ様に握り合わせ、団子の様にしたものじゃ。少し塩味を付けてくれば良い。簡単なものじゃろ? ほれ、作ってくれ」
またも山盛りの器を向けられる。娘は受け取ると、手を桶で清め、米を握った。
「どうでしょうか? 上手に出来たかしら」
少し丸味のある山が出来上がる。翁はそれを受け取り、旨そうに頬張った。
「良い塩加減じゃ。お嬢ちゃんは天性の甘手じゃのう」
幸せそうな顔。娘もその様子を見て微笑む。
「処で、米を握ればその掌に米がくっ付くのは道理じゃが……」
娘の手を指さす老人。
「そうですね」
「食わんのか、米粒? 勿体無かろう」
老人は笑みを浮かべる。
「ええと……」
勿体無いのは尤もな話だが、老人に見られながら手にくっ付いた米を食べるのは恥ずかしい。
取り敢えず米粒を集めるだけ集め、眺める娘。
「どうした、ぼうっとして。食わんのか」
「少し、昔の事を思い出しました。一番上の妹が、栗の団子を作る時に、態と手に一杯くっ付く様に拵えて、その指を咥えてしまうんです。だから、あの子の作った団子は他のよりも少しだけ小さくって……」
里に帰れば逢える筈の妹。何故だろう。酷く胸が圧し潰されそうだ。
――可笑しい、あの子の名前が思い出せない。
娘はぼんやりと集めた米粒を摘み、口へと運んだ。
「……! 気が変わった。やっぱりやらん。それは儂の米じゃ!」
米が唇に触れるかという瞬間、老人の指が横からそれをもぎ取って行った。
外方を向いて口を動かす老人。
「まあ!」
娘は目を丸くしながらも笑った。それもまた、家族や村の子供に常習犯が居たからだ。
老人は米を飲み下すと、跳ねる様にして娘の方へ坐り直した。
「のう……お前さん、何か忘れておるんじゃないかのう?」
表情一転。好々爺が去った。鋭い視線に見つめられる。
「……そうでした。私、山に入った時に神様へのお礼を忘れたんです」
ミクマリは表情を落とす。
「お礼? 何の話じゃ。そんな話ではなくてじゃな……」
翁は娘の眉間に指を突き付ける。
「御主、巫女じゃろう?」
「えっ、あっ、そう言われれば、そうですね」
ミクマリは首を傾げる。
「水分の巫女なんじゃから、もっと術に頼れば良いものを。儂の身体を解すのも、湯を沸かすのも術で出来たじゃろ?」
「つい、昔の癖で」
――昔?
「そうじゃな。昔の癖じゃ。御主は今はそんな手間を掛ける必要はないじゃろ」
「そうかも知れません。でも、手間暇を掛ける事が無意味だとも思えません。御爺様は、術で奉仕された方が宜しかったのでしょうか?」
「いいや。気持ちが籠っとらんのは好かん。知り合いにも形骸化だ何だと嘆く奴が多いからのう」
――そう言われれば、どうして忘れていたのだろう。私は水分の巫女だ。
「巫女よ、そろそろ帰るが良い」
「もっとお手伝いがあれば申し付けて貰っても……」
「空を見よ。夕暮れじゃ」
窓の外では空が燃え始めている。風が吹き込む、木々の騒めきが聞こえる。
「でも……」
何故だか腰を上げる気にならない。
「どうした、帰らんのか?」
不意に哀しみが胸を襲う。
「私には、帰る場所はありません。無くなってしまったのです」
――そうだ。私の里は泯びてしまったのだ。
私は、守護神と共に妹や里の者の無念を晴らす為の旅をしていたのだ。早く戻らなくっちゃ。月日が経ち過ぎている。きっと心配しているだろう。
哀しみに暮れてあの方が鬼に変じてなければ良いのだけれど……。
「そうか……。御主は良い娘じゃからのう。何か手伝ってやりたいのじゃが。里に関してしてやれる事は何もない。無くなってしまったものは戻らないのじゃから」
「はい。だから帰る事は出来ません」
ミクマリは翁を見つめる。白い髭と眉毛は優しく笑った。
「そうじゃな、だが過去は変えられなくとも、未来は創れるじゃろう? だから早く“行く”が良い」
「……はい。御世話に為りました。ありがとう御座います」
翁に向かい、手を床へ着き頭を下げた。
――――。
「……?」
ミクマリが顔を上げると、そこは昼下がりの山中であった。
小川の中に膝を突き、毛皮の衣を濡らしている。
立ち上がり、辺りを見回す。ここは霧の神の山だ。
だが、先程の様に水が焼けて彼女を痛めつける事は無かった。
「私、確か……」
神への無礼を行ったのを畏れ、山を下ろうとした筈だ。そこから先の記憶は霞掛かった様に曖昧。
身を屈め、もう一度川に手を浸す。穢れ一つない清水。秋の暮だというのに、水は何処か温かに感じる。
それは良いものの……屈んだ拍子に衣の隙間から、どうともし難い酸っぱい香りが漂い鼻を曲げた。
「あっ、あのっ! この御水を使わせて頂けませんか!?」
娘は立ち上がり、誰へともなく許可を求める。
何処か遠くで、老人の声が聞こえた。
ミクマリは静かに礼をすると、濡れて重くなった毛皮を脱ぎ去り、小川の水で身体を清め始めた。
ここの処はやりあぐねていた鉄の刃による手入れも済ませ、胎の印の様子も確かめる。
特に変化はない。神和も行っていないから当然か。
必要な仕事を終え、もう一度小川に背を預け空を眺める。
水は温か。小川の辺りの木は彼女と同じく衣を全て脱ぎ去っており、霧も斑霧と化して身体を隠してはくれなかったが、同じ裸であるという事が却って恥を押し流した。
いつの間にか覗いた青空を見つめ、身体を流れる水の音に耳を傾ける。
ずっとそうして居たかったが、ふと誰かの視線を感じて身体を隠し身を起こした。
見回すも人は疎か、鳥一匹見当たらない。ただ、また何処かで老人の愉し気な声が聞こえた気がした。
ミクマリは首を傾げる。
流れる神の川水が身体を這う様を眺めると、ふと用事を思い出した。
――陽が沈む前に仕事を済ませてしまおう。水浴みの許された今ならば、出来るかもしれない。
水分の巫女は辺りの霧や小川に自身の霊気を這わせて見る。確かに神の気配を含んでいる水気達。
それらは素直に彼女の霊気を受け入れた。
「……ありがとう御座います、お爺さん」
口を衝いて出たお爺さんという言葉に僅かに疑問を覚えながら、ミクマリは水を編み始める。
霧や清水から白い糸を取り出し、それを霊気で張り大きな布地を織る。
これより編み上げるのは霧の白衣と袴。
いつかの木の葉や蔓の様な小細工は省き、学んだ織物の技のみで仕立て上げる。
何度も着あわせ、術で拵えた水鏡で姿を確かめながら納得のゆくまで調整を繰り返す。
衣装は先に借りた衣を真似た。儀式の際に羽織るという千早も拵える。これは現物が残っていたので参考にしようとした。
だが、如何せん素材が白一色。千早の模様も織り込めなければ、お気に入りの赤い袴も作れない。
出来上がったのは真っ白な衣。それは神聖ではあったが、娘の心に響かない代物となった。
「可愛くないなあ……。あの赤いのが可愛いのに」
矢張り、何か植物でも誂えた方が良いだろうか。草蔓は面白くないし、花は見当たらない。あっても子供っぽいかも知れない。
ふと、とある植物が目に付く。すっかり花は落ちてしまっているが、鮮やかな色の代表ともいえる植物。
娘はその植物を掘り返すと、赤い根っ子と白い袴を見比べて満足そうに笑った。
空が茜に染まる頃、ミクマリは下山し、宴の席へ戻った。
ほんの暫く席を外していただけだというのに、人と酒の熱気を孕んだ小屋の空気が懐かしく思えた。
『もう戻って来たか。為らば一杯くらい……』
翡翠色の霊魂がふらふらと漂ってくる。
「ゲキ様。酔ってます?」
『いや、色々と験したが霊魂では酔えん様だ。あ、いや。酔っているのか? お前が社の巫女の格好をしている様に見える』
「何を為さっているのですか……。薬草を摘みに行った序でに、霧の神様から御許しを貰って衣を編んでみました」
ミクマリは大袖を振り振り言った。
『この短時間にか? いや、俺はきっと酔っている筈。……そんな事はないな。衣には確かに霧の神の神気が籠っておる。……何だ詰まらん』
ゲキは巫女から離れるとまた御神酒に未練がましく憑りついた。
「詰まらないとは何ですか。霧の神様からお借りした有難い衣ですよ」
『素材は兎も角、意匠までも他所から借りたら詰まらなくないか? と言うか、また社の巫女と勘違いされるぞ』
「よく見て下さい、細かな処は違います。良いですか? まず、衣は二重にしてあり、この開いた肩口と赤い糸が……」
工夫を凝らした箇所を指さし解説する。社の巫女の白衣は単純な作りであったが、ミクマリの誂えたものは所々に赤い糸で刺繍がされており、儀式でもないのに千早も纏っていた。
千早には糸や袴と同じく茜の根と草を煎じて作った染料により細かな刺繍が施してあり、良く見ると薄く太陽と鳥の意匠が繰り返し施されている。
『あー分かった分かった。可愛い可愛い。可愛いから呑め』
だが、残念ながらゲキの目にはそこまでは留まらなかった様だ。
袴の色も緋袴より僅かに深い赤、茜袴と言った処だろうが、これもまた言っても理解して貰えないだろう。
「飲みません。ほら、皆さんもそろそろ家に戻りましょう。陽が沈みましたよ」
ミクマリは身繕いに無頓着な師に溜め息を吐くと、暢気に転がる村民達を起こし、薬を煎じて持たせてやった。あれを飲めば今朝も気持ち好く目覚められるだろう。
「さ、明日からはまた旅の続きです。霧の里の見学! 今日は早く寝ましょうね」
男共を追い出し息を吐く。それから衣の袖を掴み、眺めて頬を綻ばせた。
『明日からって、今日も昨日もずっと旅をしてるだろうが。何をそんなに張り切っているのやら』
ミクマリは疑問を投げる守護霊を尻目に横になり、夜遅くまで掛けて新たな衣の暖かで柔らかな感触と堪能したのであった。
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