巫行042 神隠
霊気巡らせ霊山へ駆ける。
子供があの山に入り込んでいたのであれば、術に依る探知に掛からないのも頷ける。
ミクマリは神の霧に一縷の希望を見出し、一人捜索を開始した。
いかに神気の霧と言えど、近付けば山も徐々に装いを明らかにする。他の山よりも少し落葉樹が多いらしく、緑の他にも秋色や裸の枝葉が目に付く。
「きゃあ! 怪物!」
山に足を踏み入れて直ぐに悲鳴が聞こえた。遅れた紅葉の水木の陰には、こちらを覗く童女の姿。
「子供。……貴女、コブトさんの処のアマちゃん?」
ミクマリは既に微笑みを満たした顔だ。
「あっとる。けど、違う。コブトは親父の仕事道具の名前。名前は“ナシ”や。“無し”違うぞ。檎子のナシ! アマは一番上の姉を言うんや」
「じゃあ、私もアマね」
こんがらがりそうになるミクマリの頭。
「アマやのうて、毛皮のお化けかと思った。姉ちゃん、余所者やね?」
興味深げに覗き込む童女。
「うん。遠くから旅して来た巫女なの。今日はここに泊めて貰おうと思って。皆、貴女を心配してるわ。帰りましょう」
手を差し出す。
「厭や。叱られる」
童女は身を引くと木にしがみ付いた。
「大丈夫よ」
「梨を盗って食ったんがばれたから逃げたんや」
「じゃあ、謝ろう。お姉ちゃんも傍に居て上げるから」
ミクマリは童女のその名に相応しい悪戯に笑みを漏らす。
「巫女様の言う事ならしゃーないな。親父に謝ったる」
ナシは偉そうに言ってのけると、ミクマリの手を取った。
「あ、ちょっと待ってな」
繋いだ手を離す童女。
それから彼女は山を振り返り、天辺で髪を結んだ頭をぺこりと下げた。
「おおきに」
再びミクマリの手が繋がれる。
「霧の神様に御礼言わんとな。悪戯して叱られたら毎度隠して貰っとる」
「いつもここに隠れているの」
「せや。見つかった事ない。でも、夜を明かしたのは初めてや」
「そっか。皆心配してたよ。身体は大丈夫? 夜霧で濡れて冷やさない?」
「神様の霧は暖かいからなあ。家で寝るよりしかえーよ」
――そっか、神様が子供を護って下さったのね。
ミクマリも心の中で神に礼をする。
村へ戻り子供を家へ送る。母親には感謝されたが、ナシは頭に瘤を作りべそを掻き、小さな弟に笑われた。ミクマリはその光景を見て苦笑いをした。
子供が想定より遥かに早く見つかった為、どちらかと言うと山狩りに出掛けていた男衆を引き戻すのに手間が掛かった。
元より歓迎の体で、その上に迷子を見つけて貰った村民はミクマリの為に昼間っからの宴を開いた。
ここでは檎子で酒を造っている様で、宴には梨酒と沢蟹の油煮、里芋を煮たもの、山鳥の肉を器用に薄切りにしたものが供された。
守護神にまでも御丁寧に御神酒と神饌が供された為、彼は「身体をちょっと貸せ」等と迫ったが巫女は聞こえない振りをした。
食事の方は兎も角、酒を身体に入れられたら堪ったものではない。娘は個人的信条で酒を厭っている。
村民も安堵からか、或いは理由を付けてそうしたかっただけか、ぐいぐいと盃を空にし「ミクマリ様は呑まねえの? じゃあ、貰っちゃうよ」と愉し気だ。
宴も酣。陽も傾き切らぬ内に頬を夕焼けにした村民の為、ミクマリは酔い覚ましに南天の葉を煎じようと、荷物を検めた。
「あら、切らしちゃってる」
手持ちの薬草の束には見当たらない。酔いの治療は水と水術で代用できる為、在庫に気を遣っていなかったのだ。
村の酔っ払い共を治すのは簡単だが、彼等は暴れる事もなく気分良くやっている。
後の飲み過ぎの為に薬を作り置いてやろうと、南天かそれに類する効能の野草を探しに山へ出る事にした。
『多目に採って来いよ。そして自分の分も煎じておけ』
守護霊は卑しく神酒に神気を与えたり引っ込めたりしている。
「身体はお貸しません。他の手持ちの薬草も切れ掛かっているので、少し時間を掛けて来ます。夕暮れまでには戻るので、若しも何かあれば呼んで下さいね」
ミクマリは守護霊に託けて宴の場を出る。ゲキは愉し気にしている村民を眺めながら『呑み過ぎは自身の責だ。死んでも知らん』と言い捨てた。
神の所有物である霧の山は避け、その隣の山に踏み入る。こちらも神威の余波か、何処か神聖な気配を感じる。
宴の場の濁った空気から解放されたミクマリは、木々の中でたっぷりと息を吸った。
出て来た序でに清流を見つけたい。身を浸す程でなくとも、山から染み出る流れが恋しい。
村の生活用水として引かれている川はあったが、流石にそこで身を清めるのは卑しい。
手早く身体を拭くにしても、借りた小屋が宴会場に為っている以上は山で水場を探す他なかった。
野草を摘み、鳥や小動物の気配を愉しみながら山を散策する。
落葉の一帯は落ち葉が乾いた音を立て、常緑の一帯は鼻腔へ青い香りを届ける。
そして耳を訪ねたのは、待ち侘びた水の音。
ミクマリは榛実の実を探る手を止め、音の方へとふらふらと引き寄せられて行った。
見付かったのは期待よりも大きな小川。多少の深度もあり、場所を選んで横に為れば水垢離も出来そうだ。
方角的に村の生活用水に流れ込むこともなさそうである。
「お水、お水」
愉し気に独り言ち、いそいそと毛皮を弄りながら小川へと近づく。
清流の感触を確かめようと、娘は感謝も忘れて手を浸した。
「痛いっ!」
火に触れたかの様な痛みと共に、差し入れた手が弾かれた。
ふと、辺りが霧に包まれる。
――しまった。ここは霧の神様の領域だったんだわ。断りも無しに水を使おうとしたから、怒らせてしまったのかしら。
立ち上がると、無礼を詫びながら頭を下げる。
清流は喉から手が出る程に惜しかったが、早々に退散するべきだと考えた。能々考えれば、自分の歓迎会等は後回しにして、子供を護って貰った礼を供えに来ても良い位だったのではないか。
ミクマリは自身の不徳にを恥じて悄気返り、とぼとぼと下山を始めた。
「あれ? 私ったら……」
首を傾げる。
気付けば斜面を登っていた。心の中で「マヌケ娘」と罵り、踵を返す。
重なる無能。これで若しも酒でも入っていれば、目も当てられない事に為りそうだ。戻ったら守護霊を厳しく制しておかなければ。
頭の中で祖霊への諫言と手に入れた薬草の仕事を練りながら斜面を下る。
繰り返される常緑と紅葉の風景。次第にそれは落葉が地面を埋め尽くす様に為り、木々も寒々とし始めて来た。
「こんな場所、通ったかしら?」
ふと胸に不安が過ぎる。
――迷子? ……子供じゃあるまいし。
知らぬ土地とは言え、旅慣れ登山を繰り返した筈の自身が迷った事に気付くと、もう一度頭の中で師の声真似をした。
霊気の膜を広げて、村の気配を感知すれば良い。旅人である前に巫女だ。祖霊の気配を見つければ容易く村へと戻れる。
「……」
気配無し。これもまた失念。神気の靄がせせら笑う様に行く手を阻んだ。
為らば早々に山を出てしまえばいい。下り続ければ厭でも山は終わる。
普通ならば冷え込む沢に当たれば死が近付く悪手であるが、彼女は水分の巫女で大仰な毛皮も着込んでいる。
川を辿れば山から出れる。そうすれば探知も利く筈だ。
……どの位歩いただろうか。何時までも白濁と枯れ葉の景色は終わらない。相変わらず纏わり付く神気。
気付けばまた登っていた。
「御戯れは止して下さい。礼を欠いた事は謝りますから」
姿の見えぬ神へと謝る。気配に変化は無し。耳を澄ませど、鳥や虫の立てる音すら聞こえぬ。
娘は駆け出した。身体に霊気を巡らせ、衣の内がまた汗で蒸らされる事も捨て置いて。
見た景色。先程ここは通った筈だ。
心の中でぽつりと師の名を呼んで、繰り返される冬山の景色を見渡す。
きっと神様じゃなくて狐狸の仕業だ。知らぬ間に酒を呑んで惚けているのかも知れない。
あり得ぬ取り違えを頭に燻らせ、霧に濡れる毛皮から水滴を弾く。
行けども行けども終わりは見えず、進めど戻れど景色は同じ。
次第に妄想と事実が目の奥を擽り始め、娘は年甲斐もなく瞳を潤ませ始めた。
「ゲキ様! ゲキ様!」
己の守護者の名を呼ぶ。娘を嗤い、呼べば来ると豪語した彼の神は何処。
叫びは濃霧に呑まれ、空へも届かない。天乞う視線すらも何も拾わぬ。
その霧も何時の間にや、薄灰から大禍色の暮靄へと変わりつつあった。
一足早く胸の底に宵闇を迎え、娘は唯、遁走を貪った。
師の名を叫び、村の誰かを呼び、終ぞ覡國を去って久しい父と母を呼び、心に妹を浮かべた。
走り疲れ立ち止まり、膝に手を当て肩で息をし、汗とも何とも付かぬ雫を顔から零す。
――。
夢か幻か、遠くで子供の歌う声が響く。
村だ。村の子供が遊んでいるんだ。
ミクマリは汗の飛沫と共に顔を上げる。
霊気を棄て、耳を澄まし、唯肉の感覚に頼り音の出処を探る。
――子取ろう、子取ろう。手伝いせんと遊ぶ子取ろう。
……それは、右からも、左からも、上からも、下からも聞こえた。
――子取ろう、子取ろう。手伝いせんと遊ぶ子取ろう。
繰り返される短い歌詞。
愉し気な声が大きくなり、小さくなり、娘の周りを廻々と響き遊ぶ。
娘は叱られた子供の様にしゃがみ込んだ。
霧と遊戯の円環。その中で娘の掌は自身の降らせる秋霖を受け続ける。
――子取ろう、子取ろう。手伝いせんと遊ぶ子取ろう。
――泣きじゃくる子供は間引くぞ。
……脅す様な文言。……子供の声は何時しか翁の笑う声へと変じていた。
「……」
娘の耳にはもう声も何も届かなかった。いつしか助けを求める事も、祈る事も諦め、老木を避け、死に葉蹴りながら、何かに招かれる様に山を登った。
闇の霧が辺りを支配し、東雲過ぎ、白霧彷徨い、またも暮靄。
白と黒を幾つも越え、幾度も大禍時を潜り抜け、唯々斜面を登る。
――何日過ぎたろうか。それとも、何年?
ふと、気付く。枯れ木の立ち並ぶ先に枝葉を潤わせた林が一つ。
久方振りの変化にも何の感慨も抱かず、唯それに向かって足を引きずる。
木々に紛れて小屋が佇む。
いつの間にや迎えた闇夜に悄然と浮かぶ。
窓板の上げられた隙間からは温かな光。
見た事もない光景であったが、何処か心中のまほろばの里を思い出す。
娘はそれが何であるかも思案せず、鎖された戸を叩いた。
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神饌……神に供える食物や酒。この場合は食べ物。
大禍色……大禍時は逢魔ヶ時。詰まりは夕暮れ。オレンジ色。
ししくる……泣き叫ぶ。
すぐる……間引く。