巫行004 盗人
「ちょっと! これは私のですよ!」
ミクマリは慌てて手を伸ばしていた。
咄嗟に術式で運動能力を増して衣を取り返すと、盗人を咎めるよりも早く、それを身に纏った。
着衣の順序で思い出す。
大事な物が無い。革誂えの沓だ。
彼女が顔を上げると、衣を奪おうとした腕の主は、既に背を向け山道を上へ逃げようとしていた。
逃げる人物の背は広く、大地を掴み土散らす脚も野太く、放ちっぱなしの乱れ髪が蓑の様に揺れていた。
益荒男の器と見紛う大男だ。
尤も、行いは厭に染みっ垂れていたが。彼の手にはミクマリの沓と、荷物を包んだ麻布の提げ物が見える。
「待ちなさあい!」
娘が拳を振り上げ追い叫ぶ。
男は振り返り、下瞼を引き下げ赤目と舌を披露した。
「ははは! 返して欲しけりゃ追い付いて見ぃや!」
盗人は沓を掴んだ手を夕空に掲げて振り回し煽る。
ミクマリは里で弟共に仕掛けられた悪戯を思い出し、思わず吹き出してしまった。
「……笑ってる場合じゃないわ」
あの丈夫な革沓が無ければ旅は終わってしまうだろう。
巫女は先程の舞で高めた霊気の余韻を使い、水切りの石の様に盗人へ追い縋った。
時を数えぬ内に追い付き、男の肩を叩く。
「はあ!? お前、もう追い付いたのか!?」
振り返る男。穴だらけの歯列を見せて魂消る。
「こら、悪人め! 盟神探湯に掛けますよ!」
「何じゃい、盟神探湯とは?」
「盟神探湯は巫女の卜占に依り罪を占い、刑罰を決める儀式です。裁きますよと言ってるのです!」
「へえ。拝み女は足も速いんだな。だけどよ、何時までも俺に付いて走るのは無理だろうな」
男は進路を変えると森の中へと突っ込んだ。ミクマリも後を追う。
森の悪路を使って巻く気だろうか。阻む枝が距離を開く。
しかし森は直ぐに終わり、先程の川の上流に出た。
水の激しく落ちる音。瀑布と呼ぶにはもの足りぬ大きさだが、滝のある崖が現れた。
男は川の手前で再び進路を変えて岩肌に飛び移り登り始めた。
「岩登りは得意かね巫女さん! 尤も、“その足”じゃあここまで辿り着けるかも怪しいものだがな!」
勝ち誇った様に言う男。
“その足”。
裸足で駆けていたミクマリの足裏は、土で汚れ石が切り裂き、血を滲ませていた。
加えて、上流の荒々しい尖った石が化け物の牙の様に傷付いた足を待ち構えている。
「悪いがこれが俺の生業なんだ。命取っちまわないだけ有難いと思ってくれや」
盗人はこちらを見下ろし喉を鳴らして笑っている。
ミクマリは溜め息を吐いて、注意深く岩の棘を進み、崖ではなく川へと踏み入った。
摩擦と傷で熱された足に山の清流が心地良い。
己の傷、癒すに高めるは調和ノ霊性。
ミクマリが足裏に意識を集中すると傷は瞬く間に赤子の玉肌の様に変じた。
「何じゃい? 諦めたのかあ? 拝み虫! 俺の尻に齧り付いて見せや!」
上から煽り文句が聞こえる。その声は弾んでいる。
ミクマリは両手を添えて男に向かって叫んだ。
「怪我しても知りませんからねーっ!」
「怪我してんのはお前の方やろがーっ!」
男は返事すると矢鱈と笑い、危うく脆い岩を掴んで落ちそうになった。
自然の水気を操るは探求ノ霊性。
巫女は片手で少量の水を掬うと霊気を込めた。
ここの神は余り強欲でないらしく、水は巫女の命令を素直に受け入れてくれた。
山神や川神が自然物の利用を拒む場合は、認められるか、霊力で勝らなければならないのである。
ミクマリは宙に小石程の水球を作り出すと、提髪を尾に身体をくるりと一回転させ、指先で水球を弾いた。
「何踊っとるんじゃ? 巫女には気の触れた奴が多いとは聞くが、若いのに不敏じゃなあ」
そう言いながらも笑う男。
次の瞬間、彼の表情は酷く歪んだ。
自身の足の方へと両手を伸ばす盗人。
「しまった!」
男の身体を支えるものは無し。彼は真っ逆様に硬い地面へと吸い寄せられた。
「危ないっ!」
巫女は霊気を発し、麻の袖振り川に命ずる。水の流れが宙へと持ち上がり大蛇の様に伸び、大地に叩きつけられんとする男の下へと伸びた。
落下は緩衝されたが、男は激しく尻を打った。
「痛え!」
ミクマリは盗人へ駆け寄った。
「悪さをするからです」
腰に手を当て男を見下ろす。
「悔しいが、俺の負けだ。巫女ってのは嘘を並べて人を騙すばかりだと思っていたが、まさか本物の術師にぶち当たるなんてな。……ええい、俺も男だ。煮るなり焼くなり好きに料理せえ!」
男は腕を組んだ。
「食べません!」
ミクマリが声を上げる。
「冗談の通じん奴だな。殺せと言ってるんだ。……痛てて!」
潔さを見せようと凄んでいた男だったが、激痛に負けて腕を解く。
「ごめんなさい。打ち付けるだけの心算だったのですが」
ミクマリの撃った水弾は、男の脹脛を見事に射抜いていた。脈を傷つけたらしく、彼の座る岩は夕焼けに生々しく光っている。
「何を謝っとるんじゃ。自分でやって置きながら分からん女じゃなあ……。どの道、この傷じゃ二度と歩くことは叶わん。悪くすれば毒が入って腐り苦しんで死ぬ。お前が巫女だと言うのなら、俺の霊に怨みは抱かせんでくれ」
「殺しません」
「はあ!? 苦しんで死んだら呪うからな!?」
男は悲観に暮れた顔で叫んだ。
「身体を楽にして、私に気を許しなさい」
ミクマリは屈み込むと、男の傷に掌を押し当てた。
「そんなもんで血が止まるか。……朦朧としてきたわ。もう好きにせい」
男は諦め、大地を背に夕陽の残り香の空を眺めた。
「……手癖の悪さで故郷を追われてから山に籠って追い剥ぎと偸みを繰り返した我が人生。女相手に不覚を取ったのは惜しいが、山で果てるなら先ずは良しか」
「黙ってて下さい」
「覡國への別れ位は言わせてくれよう」
男は鼻声で言った。
「……死にませんから。静かにしていて下さい」
ミクマリは男の脹脛に手を当て続けながら、彼の持つ霊気が自身に従うのを感じ取った。
他者の身を癒すに遣わすは招命ノ霊性。
男の脹脛に穿たれた穴が徐々に塞がり始めた。
被術者は自身の変異に気付き、驚嘆の声を上げた。しかし、巫女の真剣な眼差しに気押されたか、早急に両手で口を覆う。
陽が完全に沈むのと同時に、男の足が完治した。
「……良し」
ミクマリは呟くと、男を置いて川辺へと戻った。穢れを差し引いても、他人の血液は気分の良いものではない。
背後で男は起き上がると腕を組み唸った。
男の足は全快、脚力は彼がやや優勢。辺りには女の頭程の大きさの岩がごろごろしている。
それはミクマリも気付いていた。
男は暫く唸っていたが、「これが恩義と云う奴か」と小声で呟き立ち上がった。
しかし踏み出すと同時に踉めき、石が音を立てた。
「ちゃんと治った様ですね」
ミクマリは振り向き男へ声を掛けた。男は立ち去ろうとしていた。
「何故治したんじゃ」
男は振り返り、巫女の方へ歩み寄った。
「元より殺す心算はありませんでしたから」
ミクマリは清めた手で水を掬い、乾いた喉を潤し言った。
「偸みが咎められれば手足を斬られるのは、法でも無法でも変わらんだろ」
「偸み。ああ、いけない。忘れてた」
巫女は男の寝ていた場所に駆け寄ると、彼が奪った荷物を検めた。
それから、こう言った。
「荷物は戻ったので、偸まれてはいません」
「はあ!? 何言ってんだお前? 巫女ってのは本当に頭が逝かれてるのか?」
男は大声を上げた。
「違います。私は失敗や過ちを見逃す方針なのです。一回ならば! 子供達にもそうして来ましたから」
微笑む娘。
「信じられねえ。俺を赦すってえのか?」
歯抜けの口は塞がらない。
「はい。一回分は。窃盗の分は見逃して差し上げます。さあ、そこに正座して下さい」
ミクマリが平らな岩を指さす。男は首を捻るも従った。
「何をするってんだ。もう俺は死んだ気で居たから何でも構わねえが、霊に怨みを抱かせる事だけは止してくれよう?」
闇夜の中、男の声が震える。
ミクマリは座する男の前に腕を組んで立った。
「さあ、謝って下さい」
相当の怒気を帯びた声。
「へ、赦してくれるって言ったやろが?」
「それは窃盗の分です。貴方、私の水浴びを覗いたでしょう?」
「覗いたと言えば、覗いたが。それは偸みの隙を窺う為だ。霧も出とったし、お前がこっちを見とらんかと思って凝視したぞ。何をそんなに怒る事があるんじゃ?」
「やっぱり見られてたの! 恥ずかしい!」
厳しさ一転、女子の声を上げるミクマリ。彼女の頬は暗がりの中、独り夕陽を取り戻していた。
「は、恥ずかしい? ……訳が分からねえ」
「謝って下さい!」
「悪いと思ってないものを謝れるか! 大体、隠す様な価値のあるもんも無かったやろが!」
男は立場を忘れたか腰を浮かせて反論した。
次の瞬間、男は水の塊を顔面にぶつけられてひっくり返り、気を失った。
『ははははは!!』
宙を別の男の声が木霊する。
「ゲキ様! 見ていらしたのですか! 大変だったのですよ!」
ミクマリは守護霊に向かって吠えた。
『見ておったぞ。賊を生業とする男の脚に追い付き、鍛えられた足を僅かな水で穿ち、死に繋がる傷を癒したその霊気の操力。矢張りお前は呑み込みが早い。不得手だった招命も伸びておるな』
忌憚無く褒めるゲキ。
「あ、ありがとうございます……。死なせたくなくて、少し必死になってしまいました」
娘はまたも頬に熱を帯びたか顔を俯けた。
『招命は験す機会が限られるからな。自ら怪我を作りそれを癒すとは、俺も思い付かなかったぞ。どれ、もう二三個穴を開けて験してみろ』
「鬼ですか!」
『……ははは。冗談だ。まあ、態々遣わせた甲斐があったと言うものだ。無頼の盗人でも巫女の役に立てるものなのだな』
「へ、遣わせた!?」
ミクマリは声を裏返して言った。
『そうだ。この男、多少の霊感を持ち合わせていた故、俺の気を避けて歩こうとした。だから、追い立ててお前の元へと導いたという訳だ。どうだ、良い修行になっただろう?』
満足気な霊声。
「ゲキ様、御戯れを為さらないで!」
山にミクマリの怒号が木霊した。小鳥の群れが枝を揺らして飛び立つ音が続く。
『大きな声を出すな。賊が目を醒ますぞ。霊感がある故に、俺の声も聞こえかねん。先程は都合良く事が運んだ様だが、矢張りお前の考えは甘すぎる。下手すればお前は背を向けていた時に襲われていたのだぞ』
「それは気付いてましたが……」
男が悪さをしない方に賭けた。
『だとは思った。お前が自身の信念を貫こうと思うのならば、その男を殺す事無く、尚且つ俺の霊声を失う事も無い様に、何とかして見せるが良い』
ミクマリは認識を改めた。これは戯れなどではない、試験だ。
彼女は里長の役に就く以前から慈愛の手法を貫いていた。誰だって過ちを犯す。年端の行かぬ子であれば尚更だ。
それが里外の大人には適応出来ぬ事は薄々感じてはいたが、人の善性を信じる事は多くを失った彼女にとっては掛け替えのない自己同一の証明であった。
――優しさの種は既に蒔いている。後は萌芽を待つだけだ。水を分けるのは私の領分。
「分かりました。やって見せます。見ていてくださいね、ゲキ様」
ミクマリは力強く言った。
『頼もしい限りだ。不殺には殺害以上の力が要るからな。霊気を磨くのにも良い訓練だろう』
「はい」
返事はしたが、ミクマリは力に依った捕縛に頼る気持ちは薄かった。
――私の好きにさせて貰おう。これは巫女とか敵討ちとか以前の話なのだから。
『……そうだ。言い忘れておったが、先刻に川で見せた舞。あれは中々のものだったぞ。舞踊については師を探す事を取り止めとする。お前はお前の思う様に舞えば良い』
「ゲキ様!!」
再三、頬を染め叫ぶミクマリ。霊声は笑いながら消えていった。
娘は僅かに泣きたい気持ちに駆られたが、気を取り直し気絶した男へと向き直った。
「……さて、どうしたものでしょうか」
溜め息と共に呟く。
しかし、彼女に悩んでいる暇は与えられなかった。
「う、ううん? 煩えな……」
どうやら少々、騒ぎ過ぎた様である。
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盟神探湯……巫女の占いや神への御伺いに依った裁判。