巫行039 鬼女
「あれは……鬼?」
身体が芯から凍えそうだ。天へ上る赤雪の中、ミクマリは泣き笑いの形相をした女を見る。
『そうだ、あれが鬼だ。ササメが変じたのではない。黄泉國より影向した鬼が身体を乗っ取ったのだ』
「私と、ゲキ様との様な関係……」
『否定はせん。だが、信頼も無ければ、血に依った結びつきも無い筈だ。あのままではササメの心も魂も持たぬぞ』
鬼女は喰らい付いていた男の首の肉を噛み千切ると、その身体を投げ捨てた。
「ツキ様!」
悲痛な叫びを上げるミクマリ。
『助けよう等と思うなよ。治療の成否に関してはお前の力量次第やも知れぬが、あれを前に隙を曝け出せると思わぬ事だ』
それでもミクマリは放り出された男の方を見た。
一瞬にして広がる血の湖。その身体は脈打つ事も無ければ、苦痛を示す様子も無い。
瞬間。娘の目の前に異様に爪の伸びた腕が迫った。
霊気を直接ぶつけて弾くも、後方へ弾き飛ばされる。
『ミクマリ、無理はするな。俺と代われ!』
守護霊が駆け寄る。
「やらせて下さい。……最早、ツキ様がああ為ってしまった以上、ササメ様も未来を望む事は無いでしょう」
背の痛みに顔を歪めながら身を起こす。彼女の背が打った氷面には亀裂が走っている。
「唯、腹が立って仕方が無いのです。何の謂れがあって、あの鬼と云う者は村を雪に閉ざしたのですか。何の大義があって、ササメ様を不幸に落とし、その身体で愛する人の命を奪ったのですか?」
立ち上がるミクマリ。
『遥か昔に鬼と化し黄泉へ行った者だ。怨みの根源は疾うに消えているだろう。怨み晴らせず地上に仇為す無差別の復讐者。それが鬼だ』
氷鬼に義は無し。
「赦さない」
巫女の提髪が激しくはためく。
急速に練り上げられ身体に満ちる霊気。
辺りに静止していた雪々が赤き氷目矢と化し娘に迫る。跳躍。彼女の立って居た場所が針山と化す。
空中には既に鬼。夜黒き片腕が振り下ろされる。
霊気を込め両手で受け止め、その身を形作る気を祓い滅する。
清められた腕は消え失せず、元の白い細腕を覗かせる。
「ササメ様、まだ……」
不意を突かれもう一方の腕を突き込まれる。腹を抉られるのは避けるが、その爪に厚い毛皮の衣を断裂せしめる。
着地。水筒の残りの水を引き出し、水に許される限界まで霊気を込める。
宙で雪を蹴り反転する鬼目掛け水を放つ。水は膜と化し鬼の姿を包み込んだ。
「はっ!」
両手を合わせ念じるミクマリ。水球は縮み、光を放ち爆ぜる。
鬼は姿を元の細雪の巫女へと変じ、氷上へ墜落する。
霧の中跪く鬼女。
「あゝ、嫉ましい。仕合わせる女の全てが嫉ましい……」
「貴女を祓い、滅します」
霧を手元へ集め水球に戻す。余り時間が無い。散らす度に水は減り、身体も冷えて肉が嫋やかさを欠きつつある。
「小娘め。やって見せい!」
未だ瞳は金色の鬼のまま。凝視と共に赤く輝く霧が現れミクマリへと吹き付ける。
咄嗟に身を躱す。指先が霧に触れると、骨の芯までもが凍結した。
調和の操気に依り即座に治療するも、当たり処如何では致死に値する威力に心を凍えさせる。
連発。逃げた先に赤い霧氷。再び躱すも、再三の絶対零度が迫る。
ミクマリは懐に手を差し入れると、霧に向かって僅かな神気を放った。
赤天の霹靂。赤き天空から大地へ轟音と共に雷が突き刺さる。
神気の風が辺りの冷気を吹き飛ばし、落下地点に浄化の炎を生み出した。
「神気!? 神術か!? 貴様、一体何をした!?」
鬼が枯れた声で叫ぶ。
手に握った雷神の珠にはまだ神気が残っている。神の炎は赤い雪にも負けず、湖面を溶かし始めた。
水を得たミクマリは質問には答えず、無数の水球を生み出す。手早く霊気を込め弾丸と成し、唸りと共に鬼女へと叩き付けた。
しかし、水球は小さな氷の礫と化し、鬼女にぶつかり輝きと共に消滅する。
それでも氷の鬼は目を見開く。
「圧し返せぬ程の威力。信じられん。神を上回ると言うか」
「貴女は神じゃない」
「いいや、我は神だ。誰もが羨む美貌を誇った女神だ。我は仕合わせを得られなかったのに……!」
「八つ当たりじゃない!」
繰り返し腕を振りかぶるミクマリ。溶けだした水が彼女に従い、水の刃と成り鬼女の身体に迫る。
「水は効かぬ!」
赤き霧氷が水を凍らせる。
――霧が来る。
ミクマリは自身の脚が徐々に鈍く為っている事に気付く。
「我が神術、静止ス雪の神髄を受けよ!」
鬼が腕を突きだし、握った。
「……っ!」
心の臓が痛む。胸を押さえ、霊気を急速に練り上げ血を巡らせるが、胸の中から身体が冱てゆくを感じる。
「獲った!」
狂喜の声。鈍った娘の眼前に迫る死の霧氷。
次の瞬間、ミクマリと同じ形をした紅の氷人形が出来上がっていた。
「矢張り、私は神だ。女神なのだ。全ての女より美しく強い。水術使いの巫女等に敗れる筈がない!」
嗤う鬼女。
命も霊気も無い人形へと歩み寄る。
「しかし惜しい事をした。この巫女の身体を無傷で頂くべきであった。この器であれば、黄泉から覡國へ上がる処か、高天國を目指せたものを」
鬼の腕一閃。ミクマリの身体が肩口から腰へ掛けて切断される。
「手応えが、無い……抜け殻か!」
鬼女の顔が歪んだ。娘を象った氷が粉と散る。
背後に厖大な霊気。
鬼は振り返るも心臓へ光の掌底打ちを受けた。
絶叫。
「この我を欺こうとは。小娘めえええ!!」
「貴女は私が祓う。絶対に!!」
赤黒き渦を背中から天へ立ち昇らせる鬼。ミクマリの掌からも徐々に感覚が消える。
――我慢比べだ。負けるものか、絶対。
極寒の黒と白の光の中、ミクマリの意識が途切れ掛ける。
鬼が笑う、我は強い。一転、苦悶。
巫女が再び力を振り絞り、贄とされた女の身体から全ての夜黒ノ気を取り祓った。
霧散する赤黒い靄。
しかしそれは薄れながらも、膝突き腕抑える娘へと飛び掛った。
『それは俺の巫女だ』
娘の周りに突如として現れた結界に阻まれ、神を名乗った醜女の霊魂は完全に滅した。
「……ゲキ様。私は最後までやれました」
腕を押さえ苦悶の表情を浮かべながらも、巫女の身体は再び霊気を練っていた。
『危なっかしい戦いをしおって。俺の心臓まで何度も凍りそうに為ったぞ。俺はお前を失いたくはない』
「う……済みません」
早くも頬に紅を取り戻すミクマリ。
『さっさと腕を治せ。それから、雷神の珠はまだ使えるか?』
「は、はい。瑕は入っていますが、まだ神気を感じます」
握ったままの珠を確認する。
『それを、取り急ぎ奴の開いた黄泉路へと投げ込め。開いた主がくたばった故に、閉じる者が居らぬ。充分な神気を注ぎ込んでやれば、黄泉側が厭うて路を閉じる筈だ』
「開きっ放しだとどうなるのですか?」
『勿論、色々出て来る。尤も、向こう側の主たる“欲深なる母”は黄泉國の主だ。故に無秩序は嫌う。見つければ、あちらで閉じてくれるだろう。だが、それがいつに為るかは分からん』
「成程」
ミクマリは雷神の珠を御神渡りが割れて出来た亀裂へと投げ込んだ。
暫くすると、夜黒き穴の奥で雷鳴が轟き、大地を揺るがす震えと共に亀裂が閉じた。
完全に立ち消える黄泉の気配。
「そうだ、二人は……」
辺りを見回す。男の方は確認するまでも無かった。女の方は身体の形こそは保っていたが、唇と頬の色を一体としたその貌で離魂の事実を悟った。
『二人が死んだのは半分は俺の落ち度だ。雑魚と黄泉の尖兵を取り違えるとは、俺もとんだ大マヌケだった』
「助けられなかった……」
ミクマリは氷上へ温かな雫を零す。
『何を言うておる。お前はササメを救ったであろう。それに、仕事はまだ終わってはおらぬ』
「それって……?」
僅かな霊気。ササメの遺骸の上に薄く小さな霊魂。何処からともなく別の魂が駆け付け、その周りを回った。
『もう少し遅れていれば、ササメの魂は完全に鬼女に喰われ、滅する他になかっただろう。二人は巫覡の才のあるものだ。本来為らば高天へと昇る御霊。お前の尽力のお陰で、愛し合った二人の魂が永遠に引き離される事が避けられたのだぞ』
二人の御霊は口を利かなかったが、ミクマリの前へと揃ってやって来ると、小さく揺らめいた。
「いいの、気にしないで。私は貴女達を赦すから」
涙を拭い、少し張り付いた笑顔と共に魂達へ手を差し出す。
いつの間にか空は碧落を取り戻し、暖かな太陽の微笑みを降らせている。
巫女は太陽にも笑顔を返し、祝詞を上げる。
「高天へ、還りし命を寿ぎます」
天高く伸びる清らかな柱。二人の巫覡の魂が高天へと登って行く。
昇天を見届け、溜め息を吐くミクマリ。顔を降ろすと、二人の遺骸は既に消えていた。
『浮かぬ顔だな』
「二人とも生き残る術は無かったのかと、矢張り考えてしまいます。幸せに生きる未来もあったのではないかと」
『初めから仕合わせられた運命だったのだ。二人は若かった。若い内は強欲に欲しがるのが健全だ。幸せを求め、互いを求め合う力が強かった。偽神の力を欲したのも、連中の若さ故の過ちだろう』
慰め。ミクマリは師の言わんとする事は理解出来た。それでも自身がその運命の生地の一糸に織り込まれていた以上、全ての咎を晴らす事は出来ない。
「私も、欲しがりなのでしょうか……」
『そうかも知れぬな。だが、欲さねば得られぬ。何事も求めねば見失うであろう。今のお前は、何を欲する?』
「何も要りません」
『詰まらぬ事を言うな。何でも申せ』
「そうですね……。だったら取り敢えず、頑張ったので褒めて頂きたいです」
含羞み守護霊を見上げる娘。
翡翠の霊魂が揺らめく。
『……ごほん! 良くやった! 格下とは言え、相性の悪い氷術を駆使する鬼を滅するとは、流石は俺の巫女だ』
尊大な物言いだ。
「その言い方、止めて頂けませんか?」
外方を向くも、口元は緩い。
『いやあ、ミクマリは素晴らしいな。俺の誇りだなあ』
抑揚のない霊声。
「嘘っぽいです。もっと自然で優しくお願いします」
『紅き氷結の術を受けた際、霊気を通した水の被膜で身を護り、更には己の像を作り出して敵を欺いた手腕は見事であった。その様、脱皮をする蛇の如し』
「人間扱いしてください!」
『理屈っぽく言ってやったのに。良いか、水神と縁が深いミクマリの巫女であるが、水神の多くは再生を司る蛇の精霊の出である事も多いのだ。俺はそれを引き合いに出し喩えて……』
「蘊蓄は良いので。もっと簡潔にお願いします」
『優しく簡潔で自然に褒めろと俺に注文する等、強欲にも程があるわ!』
ゲキが滔々怒りを見せた。
「欲しがりなので!」
娘が笑い逃げ出す。守護霊もそれを愉し気に揺らめきながら追いかける。
覆い切れぬ悲しみに笑顔を重ねて、ミクマリは雪解けの始まった村を目指し駆けた。
糸の絡み次第では友人と成り得た二人の魂に、心の底で再度の寿ぎを捧げながら。
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氷目矢……木を切る時に補助に打ち込む楔。