巫行038 静止
氷の刃に依る斬り込み。
寝起きの身体の立ち上がりの悪さと滑る足場が邪魔をして、頬に紅き一閃を走らせた。
水分の巫女は傷を撫ぜ癒すと、後方へ飛び危な気に氷上へと着地する。
「御二人とも、私の話を聞いてくださ……」
迫る獣骨の尖端。
身を躱すも肩を掠める。毛皮の衣も軽業に仇為す様だ。
「ごめんなさい!」
ミクマリは謝罪と共に口元から唾を取り出し、霊気の籠ったそれを男へと投げ付ける。
ツキは見えぬ何かに腹を突かれる様に吹き飛ばされた。
「ツキ!」
ササメが駆け寄り気遣う。
「僕は良いから、あいつを。思ったより出来る様だ」
敵を前に隙を見せる二人を尻目に、ミクマリは荷物から水筒を取り出す。部屋の暖気の抜け切らないそれは素直に彼女の命に従う。
「二人とも、話を聞いて。貴方達では私には勝てません。穢雪比売神は神ではありません。黄泉の者です。貴方達も村の方々も騙されているのです。本当に討つべきは比売なのです」
回答は無し。戦士は獣の槍を向け、巫女は立氷の刃を構えた。
「脅す様で申し訳ないのですが」
ミクマリは水筒の水を術で僅かに引き摺り出し、小粒な水弾を幾つか中に浮かべた。
「水術よ!」
ササメが警戒を促す。……が、既に彼らの足元には複数の穴。
「その気に為ればこの氷湖を割るのも容易いでしょう」
力を見せ付けながらもミクマリは焦りを感じていた。ここ数日間、清流と遊ぶ機会を設けられなかった為、霊性の機微が悪くなっていた。
手加減が、難しい。
「矢張り、比売神様の仰る通り危険な女だ。僕達も出し惜しみはしていられない様だ」
ツキはその場に立ったままに掌を突き出す。
「ごめん、ササメ。君の友達は、僕が殺す」
他者の命を凍てつかすは招命ノ霊性。
ミクマリは自身の心の臓に男の霊気が忍び寄るのを感じた。
「狩りには便利なんだ。皮を傷付けないで獲物が獲れるから。でもまさか、ササメと同じ年頃の女性に使う事に為るなんて」
悲し気な表情と共に、震える程に握られる男の拳。
「あの……御二人は騙されてます! 普通、神様は罰や危害だけでなく、恵みを齎すものなんです。ここの神様は何か恩恵を授けてくれましたか?」
心の臓に氷結の術を受けている筈の娘は、白い息を吐きながら呼び掛け続けている。
『霊気の差も見抜けんのか。お前如きの力ではミクマリの鼻汁すら凍らせられんわ』
守護霊が上空で嘲笑う。
「そんな。術の力ではササメに引けを取らないのに」
青くなる青年。
「ツキ。先にあっちの守護神を始末します。あっちの気は大した事がない」
ササメは氷の足場を術でせり上げると守護霊へと迫った。
強烈な巫女の霊気の光が霊魂を包む。
『確かに神気の量は大した事がないだろう。矢張りお前達は、本物の神に触れあった事が無いのだな。気には質や鋭さと云うものがある。種程の神気であれど、打ち破らんとするなら、大木の霊気を練らねば為らぬ』
翡翠の霊魂は涼し気に講釈を垂れる。
霊気を込めた掌底打ちが繰り返し試みられるも、視界を光らせるだけで霊魂は身動ぎ一つしない。
『もっと練ってから撃てと……』
「ゲキ様! 怪我をさせてはいけませんよ!」
ミクマリが見上げ叫ぶ。
『俺の巫女は少々甘くてな。お前達を説得し、偽の神を引き摺り出しそれを滅し、村を氷結と豪雪から解放せんと粘っている。比売の気を感じた事があるか? それはどうだった? 気の好いものであったか? 背筋の凍る様なものではなかったか?』
「悪霊め!」
勧告に従ったか、ササメは霊気を練り上げ弾とし、至近距離でゲキへとぶつけた。
「ササメ様、危ないですよ!」
ミクマリの忠告虚しく、ササメは自身の技の勢いで氷柱から身を宙へ躍らせた。
下に居た男が確と抱き止める。
「ゲキ様はあれで本当の御力を隠しています。巫女に成って浅い私には、貴方達が修行不足なのかは測りかねますが、少なくとも勝ち目はないでしょう。寝込みを襲えば、私に対してはまだ分があったかも知れませんが」
ミクマリは“火打石”と“麻布”を手に二人へと近づいた。
石打ち鳴らし炎を鑽る。
「火?」「その程度で!」
ササメとツキは二人揃って氷柱に両手を突く。柱は瓦解し、氷の礫がミクマリへと迫る。
――降るのは粉雪程度。霊気も巡り身体が暖まって来た。後は水さえあれば。
ミクマリは礫の嵐を横に躱しながら、燃える麻布を凍った湖面へ放った。
「何を企んでいるか知らないけど!」
ササメが天を指差し、燃える布へ振り下ろすと辺りの雪が飛び掛かる。
しかし火は消えず、雪を水と化す。
「荏胡麻の油を浸してあります。もっと多くの雪で覆わなければ炎は消えませんよ」
ミクマリは溶けだした水を引き寄せ、霊気を通し水縄を編む。
既にこちらへ迫っていた戦士の獣牙を往為すと、縄を巻き付け捕縛した。ここへ来るまでに何度か相対した野盗へも使った手である。
「比売を誘き出し滅します。手伝って下さい」
ミクマリはツキを見下ろし言う。
「……比売が悪いものなのは、僕も気付いて居た。だけど、最近は多くの村々が争いにより泯滅する噂を聞くようになって、力が必要だと感じた」
青年は跪き青白い顔のまま言った。
「悪いものの力に頼るべきではありません」
「雪が鎖し、土地から価値を奪う事で、結果的にこの村は護られているんだ」
「村を護るのは魔物の領分ではありません。それは、貴方やササメ様、フブキ様の役目です。交易に依り他村との関係も良好なら、危険も少なく、有事には力を貸して頂けるのではないでしょうか?」
「貴女の言う通りだ。何もかも。だけど……」
だったらもっと早く教えてくれれば良かったのに。青年の呟きが聞こえた気がしたがミクマリは後方に鋭い気配を察知し振り返った。
風切りの音。
水膜を張り飛来物を遮蔽する。矢だ。咄嗟に編んだ防壁とは言え、僅かに敵の鏃の先が突き抜けている。鏃の色は赤。
「防がれた。穢雪比売神様から賜った静止ス雪の術が」
ササメの声。
ミクマリの視界に赤いものがちらつく。
曇天より降り注ぐ粉雪は、いつしか血の様に赤いものへと変じていた。
『愈々お出ましか』
「ツキから離れて。比売神様が何者だろうと、関係無いわ。これまで私から全てを奪って来たのだとしても、二人の“これから”を約束して下さったのだから!」
突き込まれる赤い刃。幽かに香る黄泉の気配。
――何処から現れる? 祠? 空?
邪悪な雪に気配を散らされ、探知に難儀するミクマリ。ササメの体裁きは取るに足らなかったが、赤き氷雪の纏う気は先程とは比べ物に為らない程に鋭く為っている。
未だ燃える油布に手を翳し、周辺に出来た水気へ霊気を送る。
「させるか!」
赤い雪が布を覆い炎を消すも、水は泡を立ててその領域を広げ続けた。
「炎は消したのに!」
ササメが歯噛みする。
ミクマリの霊気は水分を高速で微細振動させていた。振動は熱を生み、次々と氷を輩へと変えてゆく。
水術師にとっては、水の毒気を抜き湯を沸かす術は難しいものではない。
彼女の場合は普通よりも圧倒的に早く、少ない水分で氷に打ち克てる。それだけの違いである。
――時間を稼いで気配を探れ。
ミクマリは氷上に湯気立つ泡を足元へ引き寄せ、滑りを利用して氷上を駆け始めた。
追い縋る赤き矢を躱し、せり上がる立氷を飛び越え、水分の巫女は夜黒ノ気の出処を探る。
取り分け気配が濃いのはただ一点。
細雪の巫女、その身体のみ。
「ちょこまかと! 比売神様、もっと御力を!」
両手を天に衝き出すササメ。紅き雪は吹雪へ変わり、湖面を覆い、ミクマリの広げた領域を塗り替える。
氷上を走っていた泡や湯気も失われてしまった。
「ツキ様! ササメ様は一体何を為さったのですか!? 比売の気配は、彼女の中から感じられるのですが!」
赤雪に埋もれ掛った男の拘束を解いてやり、助け出す。
雪はミクマリにも纏わり付き、徐々に体を冷やし始めていた。
「ササメは、その身を比売神様に捧げた。捧げたと言うよりは、入り込まれたんだ。僕との交わりを許され、純潔の結界を破らされ……」
「そんなの人質じゃないですか!」
「……それでも、僕はササメの傍に居るんだ!」
助けた男は赤き雪を従わせ、その身を雪に滑らせ女の元へ逃げた。
「ああ、ツキ。良かった。戻って来てくれた。貴方があの女に言い包められたら、私、どうしたら良いか分からなかったわ」
ササメはツキの首に腕を巻き付け頬へ口付ける。
恋人は口元を歪めた。
「ゲキ様、比売神は若しかしたら……」
師を見上げるミクマリ。
『その様だ。どの機会で巣食ったかは分からぬが、比売神は既にササメの身体に憑依して居る様だ』
「矢張り、私が霊性の指南を行った所為でしょうか?」
『切っ掛けに過ぎん。ずっと以前から狙っておったのだろう。身体を持たぬ悪霊の良く使う手だ』
「どうしたら宜しいでしょうか?」
『雪に夜黒ノ気が混じり始めた。夜黒が込められておるという事は、巫女の霊気で祓える代物という訳だ。水術だ氷術だと囚われずに、純粋に霊気だけで向かうが良い』
「はいっ!」
水分の巫女は気魄を満たし、掛け声と共に発気した。
勃然と現れた白き柱が紅い雪を、天を、比売の使徒達を呑み込む。
光が収まると叢雲立ち退き、紅き雪は白く変じ、後には倒れた男女が残った。
『見掛けの黄泉の気配は消えたな』
「でも、まだ中に居ます……!」
巫女は構えを解かない。
「どうして。どうして勝てないの……」
振ら付きながら起き上がるササメ。
「こう為れば、穢雪比売神自身に御出で頂くしかないわ」
「止めろササメ。もう諦めよう。ミクマリ様の御力なら……」
「仮に出来たとしても、彼女は旅に出てしまうわ。良く分かったでしょう? 私達が力不足だって事が。私達に必要なのは永遠に守護してくれる存在なのよ」
「彼女を頼ろう。ここで果てるよりは良い。喩え生き長らえるのが僅かでも、苦難に満ちていても、共に生きよう!」
恋人の説得に細雪の巫女は涙を零す。
「……もう、手遅れなの。私だって前から気付いて居たわ。騙されてるって事に。フブキ様が何か隠しているって事に」
「だったらどうして!?」
「貴方と添い遂げたかったからよ。……だから最期の我がまま。ツキ……私ね、行ける処まで、行ってみたいの」
再度両手で天を衝く雪の巫女。
「……分かった。ササメ。行こう、二人で。何処までも」
戦士は巫女の前に跪き、獣槍を掲げた。
再び空が赤昏くなる。だが、天は拓かれたまま。
雲が立ち込めるのは空に非ず、黄泉寄り出し紅き煙が氷湖を蝕す。
神渡り引き裂き出るは深き割レ目。
國と國とを繋ぐ道が今開かれる。
『抜かったわ! 隠れていただけではない。憑依しておったのは比売の一部だったのだ。黄泉路が開く! ミクマリよ、影向を待つな。直ぐに霊気を練り滅せよ!』
赤き雪が地から天へとさかしまに降り注ぎ、師の警告を掻き消した。
赤黒き光。
摂理を無視した現象に袖で顔覆う娘。
逆巻く雪は宙にて静止し、全ての風が消えた。
音の無い世界。
視界を取り戻した娘が見たのは、紅き涙を湛える金色の瞳、額には黒き立氷の如き角。
……その面妖なる女が男の首の肉へ喰らい付く姿であった。
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