巫行037 立氷
「あぁあぁん!」
ねんねの娘が奇声を上げながら小屋へと帰って来た。
『騒々しい。……何だその顔は、新しい術でも編み出したか』
「ササメ様とツキ様が!」
赤い顔面から湯気を上げる水分の巫女。
『滔々やらかしたか』
「濡れた音を! 乳房が! 赤ん坊を吸う様に!」
両腕を上下に振りながら誰も居ない壁に向かって声を上げる娘。
『逆だマヌケ。そっちには誰も居らんだろうが。正気を保て正気を』
「だって、だって……」
『生娘のお前に音だけで何が分かると言うのだ。小賢しく、神の掟に触れぬ範囲で愉しんでるだけではないのか?』
「いいえ! この目で見ました! この寒い村で! 裸になって! ああ……」
ミクマリは両手で顔を覆い、指の隙間から霊魂を見る。
『聞き耳を立てるだけで飽き足らず、覗いたのか』
「我慢出来なくて、つい……」
『卑しい奴目。して、どうだった?』
守護霊が揺らめく。
「……ササメ様がツキ様の上に圧し掛かってらっしゃいました。でも痛そうで……」
『そんな話はしとらん。巫女が純潔を破ったと言うのに“自称神”から反応が無かった筈はあるまい。この村の近辺に限定されるとは言え、永続的に雪を降らせる力の持ち主だ。二人の関係や今晩の出来事に気付いてない筈も無かろう』
「あ……ササメ様は事を始める前に、御許しを得たと仰っていました」
ミクマリはふやけた表情を絞め直す。
『嘘か誠か、どちらだと思う? 俺は相手に気付かれぬ様、極力気配を殺してこの村にいる故に、雪比売の気も読んでは居らぬ。お前は何か感じたか?』
「いいえ、何も。ササメ様が嘘を吐いていらっしゃるという事でしょうか?」
『男と添い遂げたいと希う余りに嘘を吐いた可能性はあるな。力無き巫女の行末は虚言妄言と相場が決まっておる』
「そうでしょうか……彼女、泣いていました。今後の村の事も雪比売様が相談するから、次の新月の晩に二人で祠に出向くようにと仰ったと」
『愈々化け物染みてきたな。神騙りめ。お前の意見が正しいとすれば、全てが雪比売の思惑通りなのやも知れん』
守護霊が唸る。
「どう云う事でしょうか?」
『雪を降らせているのが雪比売ならば、新月の空を覗かせるのも雪比売だ。黄泉の者は月神も太陽神も目の届かぬ新月の晩を好む。恐らく、お前を村に招き、ササメへの影響を促して自身が干渉出来る程に鍛えさせたのだ』
「そこまでもですか? 私達も操られていたと?」
『直接操作する訳では無いからな、神であろうが化生であろうが、術を弄し心を慮り運命を導くのを得手とする者は多い。ま、話は早かろう。偽神を引き摺り出し、悪行を白日の下に晒せば良いだけの話だ』
「簡単に仰いますけど……」
『難しかろうが簡単であろうが、やるのであろう? 二人の蜜月を正当なるものへ代え、民を氷結の掟から解き放ち、お前は織物の技を得て旅に戻る』
「良い事尽くめですね」
ミクマリは拳を握り鼻息を荒くする。漲る気に当てられたか、犬も勇ましく吠えた。
『霊気を抑えろ。隣に感付かれるぞ。尤も、隣も相当昂っておる様だが……』
「気付かせて妨害してやろうかしら……」
舌打ちをする娘。
『お前はどうしたいんだ』
「だって、だって。隣であんな事!」
またも顔を赤くして左右に振る。
『やらせておけ。最悪、今宵が最初で最後に為るだろうからな』
「それって……」
『態々純潔を破らせたのが気に掛かる。婆の目に光が無いのも、あの娘の他に巫女が居らぬのもな』
「でしたら、皆さんに教えた方が宜しいのでは? ああ、でもあの中には入って行けない……」
『不要だ。その必要があるならば、婆が既にそうしておるだろう。何かを知っていて当代の巫女には伝えて居らぬ気色が見えたであろう?』
「確かに。でも、御二人は大丈夫でしょうか」
『さあな。大方、あの二人も俺達も、偽神と婆の化かし合いの手駒に過ぎんのだろう。村の存亡の為なら、命の一つや二つは安いものだ』
「それはあんまりです。折角添い遂げたのに」
ミクマリは表情を昏くする。
『気持ちを込め過ぎではないか? 形はどうあれど、連中は村の為に何らか役割を担っていると言える。全くお前という奴は、割り切れん奴だな。何を学んで来た』
師の呆れ声。
「割り切りと非情は違います。割り切りも悪迄、結末を良くする為のものです。願うのは一人でも多くの幸せ。尽力するだけの価値はあります!」
気丈に睨み返す娘。
『良い眼をする様になった。欲する為らば力を示せ。此度は俺が付いて居てやるが、憑依は最終手段だ。ここには他に神の気配もない。恐らく比売が拒んでおるのだろう。神和の術にも頼る事は出来ぬ。氷雪の魔物相手にどの様に立ち回るのか、手は考えてあるのか?』
「充分には思えませんが、幾つか手は。本質が夜黒ノ気為らば、巫女の霊気で立ち向かえる相手です。水術は本命ではありません。それに身体が凍てつく前であれば、術式で力を増す事は出来ます。雷神様の珠もありますが、これはまだ験した事がない上に、恐らく強力過ぎるかと」
『及第点の回答だ。珠は神の性質に依るが、大抵が一度か二度の使用で砕ける代物だ。験し撃ちもまま為らん。雪比売との戦いは良く頭の中で模擬を行っておけよ』
「はい!」
口元引き締め師を見つめるミクマリ。
……しかし、その表情は瞬く間に崩された。
「風に紛れて声が聞こえて来るので、今晩は端っこで寝る事にします……」
『奨められんな。小屋の端は凍える様だ。犬も嫌がるだろう』
「ゲキ様は炎の様な御姿をしていらっしゃるのに、暖かくないのですか?」
『祖霊で暖を取ろうとするな。霊魂は肉を持たぬ故に空気と同じか、それ以下の暖かさと相場が決まっておる。毛皮で耳を覆って堪えるのだな』
ミクマリは悄々と毛皮の敷物の間に身体を滑り込ませる。
「うう……。夢に見そう。ゲキ様もこちらへいらっしゃりませんか。空気と同じならば、こちらの方が暖かいですよ?」
『結構だ。獣臭い』
「残念」
守護霊に申し出を断られ、悄然とする。犬の熱は人の熱と違う事を感じ、愈々に心を寒くした。
幸い、何も夢は見なかった。
翌日、ミクマリはササメを始め、ツキやフブキの様子を探った。
特段変わりのない振る舞い。悪迄は装い。違う事があったと言えば、ツキは男衆の泊まり掛けの交易の旅に参加しなかった事。
それから、夕餉の苦行を終えたササメがツキと何やら声を潜めて会話をするのを見つけた。
連れ立って野外へ出る二人。間を置いてミクマリも外へと出た。
二人の姿は暗闇と小雪に依り見失っていたが、新しく呪い固められた雪の跡を辿れば追跡は楽であった。
路は村の外れへと続く。
二人の向かった先は拓かれており、草木の一本も見当たらない。
唯、雪原が広がり、不自然に凍った岩が真直ぐに続き、闇の向こうにぽつりと明かりを湛えた祠を浮かばせていた。
『ミクマリ。そこは地面ではないぞ。湖だ』
師が指摘する。
「えっ、湖が凍ってしまっているの?」
『そうだ、珍しい景色だがな。その盛り上がった氷岩の道筋は氷が圧し合って出来た物らしい。僅かに呪力を感じるから、踏まぬ様にしろ。呑み込まれるやも知れぬ』
「氷が割れて下に落ちたりしないでしょうか?」
沓の先で湖面を突く。硬い感触が返される。
『落ちれば命に関わるが、下が水で満たされて居れば好都合だ。少し霊気を通して視ろ』
師の奨めに従い、氷へと霊気を響かせて視る。
しかし、全ての水気は静止しており、水分の巫女に服従を示しはしなかった。
「水心まで確りと凍ってしまっている様です」
『冷水へ落ちる心配は無いが、当てにも出来ぬ様だな』
ミクマリは小さな氷の欠片を拾い上げると、「ふむ」と頷いた。
『どうした?』
「いえ、行きましょう」
ミクマリは足を踏み出した。
しかし、沓裏が表面を滑り、娘の身体が宙に舞った。
悲鳴を上げて頭を打ち付ける。
『足を滑らせたのか。マヌケめ』
「こんな地面。初めてで……」
言い終わる前に次は尻を打ち付けるミクマリ。間抜けた声を上げる。
『また転びおった』
「今度は、何だか地面が揺れた様な気が……」
――したのだけれども。
『おい、祠の方で影が動いたぞ』
霊魂は自身の光を隠すように巫女の背中に隠れる。
「どうしましょう。気付かれたかしら」
目を凝らす。影は向かい合って居る様に見える。
こちらに気付いた様子ではないが、影はこちらへと向き直り、手を繋ぎながら歩き始めた。
「戻って来ます。もう用事が済んだのでしょうか」
『兎も角、俺に覆い被され。光が漏れて気付かれる』
ミクマリは霊魂を下敷きに伏せて息を潜めた。顎に湖面が当たり焼ける様だ。
「良かった。雪比売様がこの村と私達の為に知恵を授けてくれて」
ササメの声は弾んでいる。
「でも、意外だったな。少し残念な気もする」
ツキの声は少し憂いを含んでいる様だ。
「……仕方ないわ。掟の厳しい御神だけれど、村を見つめ、危機には動いて下さるのよ」
「明日の朝までずっと繰り返し神様の名を唱えろと仰っていたね。何と言ったっけ?」
「もう、貴方! 確りしてよ“穢雪比売神”と仰っていたわ」
「愛か。道理で僕達の仲を取り持ってくれた訳だ」
「兎に角、戻ったら陽が昇るまで御神の真名を呼び続けましょう。そうすれば御力を御貸し頂けると……」
二人が遠ざかって行く。恋人の手は堅く、堅く結ばれていた。
『確定だな』
衣の胸の中から声がする。
「矢張り、穢れた神様なのですか?」
『神等と笑わせるわ。黄泉の尖兵か鬼だろう。夜黒を本質とする者は、神や巫女とは逆で真名を呼ばれる事で覡國との干渉力を強める。恐らく、霊感のある二人に名を呼ばせ力を高めて、影向する気であろう』
「止める必要は?」
『無い。自身の力のみで影向出来ぬ者等、程度が知れる。現れれば滅せよ。問題は戦いの場と相性のみだ』
「この上で戦う事に為ったらどうしましょう……」
冷たい氷の地面。これならばまだ水上の方が楽だ。
『俺に聞かれてもな。お前の運動神経の問題だ。どうしても無理そうなら腹で滑りながら戦うのだな』
「お腹と顎が冷たい……」
ミクマリは両腕を広げてばたつかせた。
翌朝、ミクマリは寝込みに無礼を受けた。
声掛けも無しに侵入して来たツキに肩を掴まれ強引に起こされたのだ。
「水分の巫女、当代の巫女である細雪様が御呼びだ。直ぐに来て頂こう。守護霊殿にはここに残って頂く」
彼らしからぬ厳しい物言い。彼の目の下にはどす黒い隈が浮かんでいる。
『断る。俺は里の神だ。他村の弱き者の指図は受けぬ』
「弱き者? ははは、御冗談を。その粉雪の様な気で。ここは穢雪比売神様の掟の内側。貴方の力では巫女を護るだけで手一杯だったではありませんか」
乾いた笑いが響く。
娘は口元に垂れた唾を袖で拭いながら二人を見比べる。
『おい、ミクマリ。さっさと起きろ。いつまでも寝惚けていると、その身体を使うぞ』
「し、仕度をしますから直ぐに……」
「済まないが、用事は直ぐに済む。早く来てくれ」
ツキが急かし腕を掴む。ミクマリは咄嗟に荷物だけを掴むと小屋から連れ出された。
男のもう片方の手には長い獣の骨で作られた槍が握られている。
『どうやら、少々面倒な状況に為った様だな……』
ゲキが嘆息を漏らす。
雪道を引き摺られ行く。
音の無い世界。雪は降っているものの穏やかだ。粒の大きなものや小さなものがまばらに風に舞っている。
食事の為の建屋等からも、まだ湯気や煙は昇っていない。
「腕を放して頂けませんか。私、逃げたりしませんから」
ミクマリが抗議をする。
「断る。貴女には祠へ来て貰わなくては」
腕が強く引かれる。
「痛い!」
少し大仰に声を上げると、ツキは容易く手を放した。「逃げませんから」とミクマリは繰り返す。
「……一端に被害者振らないでくれ。村の者を騙して、ササメに嘘を吐いて於きながら」
「どう言う事ですか? 私、嘘なんて何も吐いていません」
「そうですか。どちらにせよ、同じ事です。もう神の盟神探湯に依る審判は下されているのですから。弁解は無意味です」
氷の如き断罪。
氷湖に辿り着く。
陽が昇り始めたか、昨晩に見た時とは一変した風景。雪の森に囲まれた平らな空間。祠へと延びる白い御神渡り。その先には小さな木製の祠が一つ。
祠の前には、ササメが俯き佇んで居た。氷の湖面は風が強い。前で結ばれた髪と毛皮の衣が靡いている。
ツキは足を滑らすミクマリの腕を強引に掴み直し、確かな足取りで氷上の祠へと連れて行った。
「ササメ。水分の巫女を連れて来た。さあ、二人で役目を果たそう」
呼ばれた女は白い頬をこちらへ向けたまま「分かったわ、ありがとう」と呟いた。
男の腕に突き飛ばされるミクマリ。
「穢雪比売神様は仰った! お前は外から凶事を持ち込みに来た悪しき呪術師だと!」
男が獣槍を突き付けながら高らかに言い放つ。
「貴方達は二人共、騙されているわ! その比売は神ではありません!」
蹌踉めきながら説得を試みる。
「ミクマリ。貴女の事、嫌いじゃなかったわ。村の外の人と仲良く出来たのは初めてだった。それだけに、酷く悲しい」
細雪の巫女が顔を上げ、氷柱の如き澄んだ視線を向ける。
吹き荒れる風、辺りから氷結の術師の腕へと雪々が集う。
天より舞い散る雪を操るは探求ノ霊性。霊気を纏った氷雪が立氷へと変ずる。
「貴女には死んで貰います。穢雪比売神様の為、村の為。……そして、私達二人の未来の為に!」
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水心……水の心得、水泳の技術、或いは池や湖の底や中心を指す。この場合は湖底。
御神渡り……凍った湖面が膨張しせり上がり、道の様に見える自然現象。
立氷……上に向かって伸びる氷柱。つららや垂氷とは逆。