巫行036 密会
ミクマリが壁に耳を押し当てると、風の音に紛れて隣の小屋の話し声が聞こえて来た。
「水分の巫女様、無事で良かったわ」
「そうだね、僕も彼女を見つけた時は手遅れかと思った。雪比売様の御怒りに触れたのかと」
恐らくはササメとツキの声。どうやら小屋同士が近く、被せたも確りと固められている為、音が響いて来るらしい。
「雪比売様の呪いだと、本当に石の様に変じてしまうわ。彼女は唯凍えていただけよ」
「そうだけど、“呪い”だ何て言うもんじゃないよ。僕達の神様だよ」
「神様……。神様って何なのかしらね? 余所では、信ずる人達を護って暖かな恩寵を授けてくれるって言うじゃない。どうして、私達女ばかりがこんな狭い村に閉じ込められなきゃいけないのかしら?」
「分からない。だけれど、大切な役目なのだろう? 必要な物は僕達男が手に入れて来るから、君は女達と神様で村を護っていれば良いさ」
「……私、外に出てみたいわ。外の世界を見てみたい」
「それは無理だよ。氷漬けにされてしまう」
『盗み聞きか。卑しい奴だな』
「神様の事を話していますよ。ササメ様はちょっと疑っているみたいです」
『では、俺達を騙しているという訳ではないのだな。騙しているとすれば、あの婆か神そのものか』
「この村は、余りにも狭すぎるわ。他の村の人達は皆、あちらこちらと行き来しているというのに」
「君の欲しい物は何でも手に入れて来て上げるからさ」
「外に出られなければ、何が欲しいかも充分に分からないわ。ミクマリ様だって、女性なのに一人旅為さっているのに」
「外は面白い処でもあるけれど、危険な処でもある。最近は、他所の村を支配しようとする輩がいるらしい。ミクマリ様が旅を出来るのは、御自身の実力と守護神様の賜物だ。それでも吹雪の前では危なかったんだ」
「じゃあ、私をツキが護って」
甘えた声。
「無理言うなよ。雪比売様の術を相手にか?」
「そう言う事じゃなくって……」
さらに甘く。濡れた音。
「御二人は出来ている様です……!」
ミクマリは鼻息を吐き言った。
『他人には水浴みを覗くなと怒鳴りながら、厭らしい奴だな。変態め』
「決して厭らしい目的ではありません! ……でも、可哀想だわ。フブキ様はここの巫女は身が清くなくてはいけないって仰ってましたし」
娘は溜め息を吐く。
『それも引っ掛かるのだ。処女を好むのは男神が主で、女神であれば仕えるまでは良くとも、降ろせば嫉妬に依り魂を喰われる事が多いものだ』
「比売と仰ってましたし、童神なのかも知れません」
『それならば、母親の巫女の方が却って都合が良い』
「では、女子を好む女神なのかも……」
『それは悪くない……が、実例を聞いた事は無いな。何より、女達ばかりを無差別に罰せようとしているではないか。それに、フブキの目の事もある』
「矢張り、何か悪い物なのでしょうか……わっ!」
壁に耳を当てていた娘は声を上げた。
「いけないよササメ。君は巫女なんだよ」
「不公平よ。他の女の子は男に尋ねさせて好き放題にやっているのに、私だけ許されないなんて」
「君には僕が何でも持って来てやっているじゃないか。面白い話だって聞かせてるだろう?」
「欲しくない物を貰ったり、行かれない場所の話ばかり聞かされても虚しいだけだわ。ツキ、私が一番欲しいのは貴方よ。貴方が居てくれれば、この鎖された雪の村でも辛抱できるわ」
『何を話しておるのだ? そんな真剣な顔付きで。若しや、神の正体が掴めたか?』
霊魂がミクマリの視界をちらつく。
「ゲキ様、ちょっと静かにして。今、良い処なのです」
真剣な表情で耳を澄ます娘。
『……変態め』
「僕だって君を愛している。だけれど、僕達には村を護る役目があるんだ。サイロウと呼ばれる王の手は社の巫女の膝元にまで迫っていると聞く。いかにこの村が雪に閉ざされた難所であろうとも、危機が訪れた時に巫女が不在なのはいけない。神様に御守り頂く為にも、純潔の誓いは守らなくては」
「だったら、ミクマリ様にここの巫女を任せましょうよ。そうすれば、私達も幸せに……」
「本気で言っているのかい? フブキ様は彼女を村の外に返す御考えだっただろう?」
「冗談よ。私だって、村が外の方に迷惑を掛けるのは好かないわ。でも、御許しを貰うにしたって、私は雪比売様の器たる資格には足らないのよ」
「ミクマリ様に骨を聞いてみたらどうだい?」
「同じ教えを乞うなら、貴方の方が良いわ。招命ノ霊性の扱いに長けているじゃない」
「それはそうだけれど、僕は男だし……」
「貴方と私、二人合わされれば丁度良いのに……」
「ササメ……いけない……」
「……しまわ……ければ……よ」
風が強くなり、会話を遮る。
ミクマリは耳に全神経を集中して、更に壁へと身を寄せた。
……だがしかし、唐突に生温かで濡れた感触が頬を撫ぜた。
「ひゃん!!」
『おい、変態娘。気色の悪い声を出すな。というか、大声を出すと盗み聞きに感付かれるぞ』
「い、犬が……」
盗聴娘にの頬に犬が戯れ付いていた。
「だ、大丈夫です。向こうは夢中なので、こちらには気付かないでしょう。それよりも、本当に村を出る事を考えないと、ここの巫女にされてしまいそうです」
『それは困るな。お前は俺の巫女なのに』
「その言い方、止めて頂けませんか?」
頬染め、眉顰めるミクマリ。
『事実だろうが』
鼻で嗤うゲキ。
「私の事、余所の神様に捧げてどの口が言うんですか!」
『残念だったな、俺には口がないのだなあ』
「もう、ゲキ様なんて知らない!」
ミクマリは悪戯をした犬を抱き抱えると毛皮の掛物を被って横になった。
『ははは。お前が知らなくとも、俺はずっとお前を見ているぞ』
愉し気に揺れる霊声。
小屋が暑いのか、犬の体温が高いのか。その晩ミクマリは中々寝付かれなかった。
翌朝、ササメが朝餉へ誘いに現れた。昨晩の密会を盗み聞いていた娘は彼女の顔を見るなり顔を赤くし、体調不良を心配された。
雪溶けの冷水で顔を洗ったせいだと誤魔化し、村の食事場へと案内される。
今朝は雪は止んでおり、陽は射してはいないものの、小屋の丈の半分を埋める程に積もった雪が輝いて景色が明るい。
小屋同士は踏み固められた雪の路で結ばれている。
路を作るのはこの村の巫女であるササメの仕事であり、早朝に術に依って雪を固めて、家々の往来を可能とするのだそうだ。
雪や氷を扱う術師ではあるが、水に戻すことは出来ないらしく、村の水は専ら炎に頼るらしい。
ミクマリは自身の憑る辺である水の乏しさに寂しさを覚えた。
雪が音と視界を奪い去る白き世界。朝にあるべき獣の気配や鳥の囀りさえもここへは届かない。
食事場は一際大きな建物に設けられていた。ここに村民達が集って食事を摂るらしい。
雪神の機嫌次第で隔絶される村では、食事や仕事等に専用の小屋を設け、そこで互いの無事と体温を確かめて暮らすのだ。
家族に対し一つの小屋が与えられ、大人と成った者はそこから出て男衆は有事に備えて大きな住居に纏めて放り込まれ、年頃の女子には一つづつの小屋が与えられる。
この村特有の文化だとツキが語った。
食物は主に男衆が外へ出て持ち帰る物が主だが、極僅かながら村でも採取されるらしい。地の下で育つ野菜達は厳しい寒風にも負けない。
朝餉の献立はその根菜、慈姑や里芋、それに猪肉を煮込み、大蒜と外から仕入れた荏胡麻で香りを付けた物であった。
野菜を見つけて来るのも、雪の下の気配が読める巫女の役割らしく、ササメは食事前に何度も細い指に息を掛け、擦っていた。
食会には老若男女全てが集まる。口々に会話を愉しみながら暖かな器を傾ける。
「はい、ミクマリ様。お煮物をどうぞ」
来訪者に手際良く食事をよそい器を手渡したのは、まだ頬も赤い童女であった。
訊くとこれを拵えたのは自分と歳の変わらぬ童達数人掛かりらしい。
凍てつき死に直結する世界である所為か、この村の子供達は口が利けるように成るや否や、火の扱いを叩き込まれる。
村に依っては火種は集団の命綱に等しく、責任者が管理する事も多いものであるが、この村では火を絶やさぬ様にする為、寧ろ誰でも扱える様にする必要があるのだ。
外で遊べぬ子供達は野良仕事や水汲みを覚える事は無く、代わりに誰しもがこの村の産業である織物裁縫や炊事を遊び代わりに覚える。
男児は洟を垂らしたままで男衆にくっ付き、獣獲り野草摘む業を得る。
男衆は遠方へ狩りや交易に赴く事も屡々で、その際には犬を伴って行く。
その鼻はいかに村が雪に閉ざされようと必ず帰り道を見つけ出し、暖かな野山では獣を追い詰めるのに一役買った。
彼等は村内では貴重な熱源となり、食事も充分に与えられる。
――厳しい処だけれど、皆で協力して豊かに暮らしているのね。
ミクマリは顔を綻ばせ、楽し気に朝餉の座を囲む村民を見回す。
ふと、奇妙な光景が目に留まった。
巫女であるササメだけが浮かない顔をしているのだ。
……昨日の悩みが原因かと思えば、そうでは無い様だ。
何故ならば彼女の目の前には巨大な器が置かれ、乱暴とも言える量の食物が山を為していたのだ。
それは彼女の為だけに仕度されたものらしく、細い指を肉の脂で汚しながら黙々とそれを口へ運んでいた。
ササメはミクマリの視線に気付き、一層表情を落とし、顔を雪の様に白くした。
「あれは雪比売様から課された役なのじゃ」
フブキが言った。
「あれも御役目なのですか?」
単なる大食いや食欲の制御が出来ない質ではないらしい。ササメは時折嘔吐きながらも食事を口に押し込んでいる。
彼女の想い人が時折心配そうに声を掛けたり、背を摩ったりしていた。
「雪比売様が身体を持たず、食を摂る事が出来ぬ為、巫女が身代わりに食事をするのだ」
「御辛そうだわ」
「雪比売様が満足の行くまで食事を摂らねば、巫女へ血肉が行き渡らん。ササメは日に二度あれだけの食事を摂っても、一向に肥えぬのじゃ」
「フブキ様も?」
嘗て神を祀ったという巫女の身体は毛皮の衣を通しても痩せた様には見えなかった。
「儂も現役の頃は同じ任を持っておったが……お恥かしい話じゃが、食べるのが好きでの。特に苦ではなかった。じゃが、ササメは生まれ付き食の細い娘じゃ。神の御力に依り食事が体内に残らぬとは言え、気持ちの方は萎えても食わねば為らぬ。喰わねば生気を吸いつくされるし、吐く事も許されぬ」
「……」
――殆ど呪いじゃない。神かどうかなんて関係無い。あんまりよ。
「あの、失礼ですが、雪比売様の恩寵に就いてお訊ねしても宜しいですか?」
ミクマリは堪りかねてフブキに訊ねる。
「……恩寵も何も、この巡り合わせの結果、我々は生き延びておるしの。織物で名を馳せるのも、男共が優秀なのも、全ては神の御導きの御陰じゃ」
老婆は肩を竦め食事と格闘する娘から顔を逸らすと、光の無い瞳でミクマリを睨んだ。
「御婆様」
ミクマリは盲目の巫女を睨み返す。
「……其方に“その力”があればの。其方が火術師であれば、これまでの歴史や儂の命をかなぐり捨ててでも縋ったじゃろうが」
フブキは立ち上がり、摺り足で小屋を出て行った。
ミクマリや他の者が食事を終えても、ササメの苦行は山の中腹と言った処であった。
子供達は大方の片付けを済ませた後、静かに巫女の傍に坐り、行を見守って居る。
大喰らいと見られる少し脂の乗った童女や、伸び盛りであろう童男すらも巫女を羨望の目で見る事は無い。
恋人は自身の本来の役に呼ばれ、小屋を後にした。
行が終わると、か細い娘は胸を撫で下ろした。額には雪国に相応しくない水滴が大量に浮かべている。
童男が木の扇を持ち出し巫女を仰いでやっている。
「お疲れ様です。御気分はどうですか?」
ミクマリが労いの声を掛ける。
「ごめんなさい。神の御意思でして。村の者の理解は得られているとはいえ、お恥かしいです」
恥の吐露とは裏腹に、顔からは一切の紅が失われている。
「御背中擦りましょうか? 治療術や薬草の覚えもありますが」
「ありがとう御座います。申し出は有難いのですが、食事の度にそう云ったものに頼る訳にも行きませんので」
「ササメ様、御食事、美味しくなかった?」
童女が心配そうに訊ねる。
「ううん。美味しかったわ。食べるのに疲れてしまっただけ。雪比売様も御歓びに為っていらっしゃるわ」
微笑むササメ。
「そっか、良かった!」
子供達は笑顔を返すと残りの片付けに戻った。
「……とんだ大嘘吐きね。神の声なんて聞こえもしない癖に」
ササメが呟く。
「ササメ様……」
ミクマリは隣に座り、彼女の背を摩った。
「何を食べても味がしないのです。楽しみの少ない村で食事すら苦行なんて。もう、淹悶……」
悪態を吐くササメ。ミクマリは掛けてやる言葉が見つからない。
「剰え、雪比売様は夢すらも要求為さるのです」
「夢も?」
「そう。最近の私の夢は何も見えないのです。以前はツキに話して貰った未知の世界が想像に広がったと言うのに、今は昏い空で唯、風の音を聴くだけ……。昨日は子供に春が来る夢を見たと言われて……。ミクマリ様、春とはどの様なものなのでしょうか?」
自嘲か妬みか、汗も引き切らぬまま、口を歪ませるササメ。
「春は……花の季節。根を張り枝張り、空の晴るる季節。私は春のお日様が一番好きです」
ミクマリは季節を愛していた。里で見せる折々の景色と恵みを思い出す。春だけでなく、夏も、秋も、冬も。
「お花。好きじゃないです。遠くから持って来て貰っても、直ぐに枯れてしまうもの。太陽だって、ちっとも顔を見せてくれない。この村はずっと冬なのです。何も変わらず、延々と同じ日を繰り返し、命殖ゆる事ない季節。雪は吹けども、行き交う事の許されぬ死の季節です。ミクマリ様も、この村で折角の命をふいに為さることでしょう。私が巫女として力不足なばかりに……」
ミクマリの手が払われる。
「私にはその心算はありません。他者に指南できる程に巫力があるとは思ってはいませんが、それでも貴女の力に為ろうと思います。力を磨き、雪比売様と御話しましょう。神の御心を知り望みを叶えれば、厳しい戒律にも変化があるかも知れません」
固く握られる細い拳に掌重ねるミクマリ。
「……当たってしまってごめんなさい。私の手、冷たいでしょう? それとも、貴女が外から来た人だから暖かいだけなのでしょうか」
更に掌を重ねるササメ。
雪の巫女の手は氷の様に冷え切っていた。
「あの、旅の話を御聞かせ願いませんか? 子供達も手習いがあるとは言え、一日の半分は退屈をして過ごしています。私も、村の男達から聞けるのとは違ったお話を耳に出来れば嬉しいのですが」
「ええ、構いませんわ」
ミクマリは微笑んだ。
それから数日間、ミクマリはササメに招命ノ霊性の指南を行った。
冷たき氷の術では穏便に他者へ働き掛けるものは無く、一般的な術である他者の感知程度しか霊性を鍛える術はなかった為、余り進捗は芳しくなかった。
一方、ミクマリが引き換えに教わる織物の方は上々であった。
初日こそは機織り機に突っ張る脚を攣り子供達に笑われはしたものの、直ぐに村の一流の織手に追い付いて見せた。
縫製や皮の煮炊きの骨も身に着け、植物から繊維を採取する際には水術に依る乾燥が活躍し、水術師としての面目も保たれた。
退屈凌ぎに語る旅の話は子供達だけでなく、退屈していた大人達も耳を傾け、ミクマリはすっかり村の住人として受け入れられた。
『はあ。お前には危機感と云うものが無いのか。織物の技術を得たのは兎も角、いつまでも道草を食っていて良い身分ではないのだぞ』
「時間を無駄にはしていません。水場が無くとも、雪解け水で禊もしていますし、霊気も磨き続けています」
ミクマリは誰も小屋を訪ねなくなった夜間に、毛皮の衣を纏ったままで身体を動かし続ける日課を設けていた。
今も額には汗。この運動の後に雪解け水で身体を拭うのをとても気に入っていた。
『その度に追い出される俺の身にも為ってみよ。お前の身繕いは長過ぎるのだ。外は魂をも凍らせる程の寒さだ』
「本当に、身体が無くとも寒いのですか? 以前仰っていたのは気持ちの問題かと思いました」
『目が無くとも見える。耳が無くとも聞こえる。肌が無くとも熱は感じるのだ。凍え死んだり焼け死ぬことは無いが、不快ではある』
「そうなんですか。でも、御食事は摂られませんよね?」
舞の真似事を止め、首を傾げるミクマリ。
『供される御饌は形式上のもので、実際に食せはせぬ。寧ろ、こちら側が霊気や神気を与える側になる。後の直会で食する事で神との繋がりを強め、その気を身に纏わんとする儀式なのだ。実際は御饌を喰った位で神の力は得られんがな』
「ふうん、御食事は無しですか。少し寂しいですね」
『まあな。お前が旨そうに飯を食って居ると、身体が夜黒に冒されて行く様な心持だ』
「ええ……そんな事言われても」
『実際考えもみよ、己は食えもせぬのに、匂いだけ嗅がされるのだぞ。怨みも募るわ』
「匂いも分かるのですか?」
『人並みにはな。獣の霊魂であれば獣並みに鼻が利くらしい。斯うしてお前が狭い小屋の中で毎晩汗を掻くと、こちらは堪ったものではないわ』
同居人の苦情に衣の胸を引っ張り鼻を鳴らす娘。自分の鼻では良く分からない。
足元に控えて居る犬の顔を見るが、彼は平然とした顔をしていた。
「……私、臭いですか?」
『臭いと言うか、香る。お前もそれでいて女なのだなと痛感させられる』
「祓いますよ」
祖霊を睨む娘。
『冗談だ』
ゲキは僅かに距離を取った。
「欲は無いって仰ってませんでしたっけ……」
『言ったかな? 覚えとらんなあ」
「もう!」
溜め息を吐く娘。
「……心持は兎も角、清い霊魂は欲が満たされなくとも死んだり消えたりする事は無い。肉を失っても肉欲が尽きぬのは、黄泉の者位だろうな』
「成程」
ミクマリはこの村の巫女に課せられた役目の一つを思い出す。
『まあ、祓うにせよ焙り出さねば為らぬ。もう少し織物を学んでから事を起こしても遅くはないだろう。尤も、あの娘ではいつになるか分からんが』
「そうですね。今晩も密会為さっているのでしょうか。御二人の為にも、私も鍛錬を怠らないようにしないと」
ミクマリは宙に向かって拳を繰り出し、袖を振り始めた。
『また張り切りおって。処で、訓練をするにも衣を脱いだ方がやり易いのではないか? 衣に臭いも付かぬし、汗の処理も楽だろう』
「ゲキ様に外へ出て頂けるのなら考えます」
『断る、寒い』
「裸を見たいだけでしょうに」
『半分鬼だからな。欲が半分あってなあ』
倩兮倩兮と笑う悪霊。
「……幻滅しました。私、外でやって来ます」
娘はぷいと外方を向くと、小屋から出る事にした。
『とか何とか言って、今晩も聞き耳を立てに行く気だろうに。小屋越しだと風で聞こえんからって、欲に忠実なのはどちらなのやら……』
「別に良いじゃないですか! 気になるんですもの!」
彼の指摘通り、ミクマリは隣で行われる密会を毎回盗み聞いていた。
毎夜毎晩、一線を踏み越えそうで踏み越えないやり取りを繰り返す男女の甘い囁きと悩みの声は、ねんねの娘の好奇心を刺激して仕方が無かったのだ。
『その様な卑しい事をする位だったら、正直に訊ねれば良いのではないか? お前は行く先々の巫女と友好を築いてきたではないか。女子はそういうのは得意だろう?』
短いながらも親友の様に言葉を交わした者や、敵同士でありながら何処かで心を通わせ合えた者。
ササメもミクマリと年齢は余り変わらない。恩もあり、労や苦悩も知っている。覗きも趣味や僅かな嫉妬だけでなく応援の意図もある。
だが……。
「兎に角、身体を動かして来ます」
ミクマリはゲキの疑問には答えずに小屋を後にした。
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機織機……古代の機織機は椅子に座って使う大型の物ではなく、足や柱で糸を張り、一糸一糸毎に作業をしていく。