巫行035 豪雪
全身を包む温かで柔らかな感触。
滑らかなそれが肌を滑り擽り、娘は小さな悲鳴と共に意識を取り戻した。
『目覚めたか』
見上げれば翡翠色の祖霊。その向こうには傾いだ木の柱と藁葺きの天井。
「私、一体どうして……」
辺りを見回す。壁と天井の境目の無い小屋。
剥き出しの土の床には石で囲い灰を敷き詰めた地火炉が赤々と暖かな炎を光らせている。
『衣が寒さで凍てつき、身体が冷えて倒れたのだ。俺も話に夢中で水衣の特性を失念していた』
「そうでしたか……」
迂闊だった。暖かで流水に恵まれた故郷では氷を見掛ける機会は殆ど無かったが、水は冷え過ぎれば固まり氷となるのが道理だ。
それでも冬の恐ろしさは知っている。命が在るだけ有難いものなのだろう。
「ゲキ様、ここは何処でしょうか?」
『目的地だ。お前を拾ったのは万年雪の村の男衆だ』
「良かった。御礼を申し上げなくては」
ミクマリは立ち上がった。毛皮を縫い合わせた掛物が落ち、産まれたままの姿を晒す。
守護霊が揺らめいた。
「脱がされてる! ゲキ様見ないで!」
悲鳴を上げ、毛皮で身を隠すミクマリ。
『脱がされたのではない。衣が凍てつき砕け果てたのだ。俺はずっとお前の傍で見ていたが、何も不審な事はされておらぬ。因みに、沓はそこで乾かしてあるぞ』
「良かった……」
坐り込む娘。床にも暖かで柔らかな毛皮が敷いている様で、臀部に当たる毛が擽った。
直後、またも悲鳴が上がる。
尻の下にあった“何か”が動き、毛皮から這い出て来た。
それは獣臭い息を二、三度吐くと親し気に彼女の頬を舌で舐めた。……犬だ。
『そいつがお前を暖めてくれたのだ』
「そうなの? ありがとう」
ミクマリは犬に礼を言い、首を掻いてやり顔を埋めた。暖かな命の鼓動が心地好い。
「お目覚めに為られましたか?」
入り口の藁の簾を開き、一人の若い娘が入って来た。彼女の後に付いて粉雪と冷気が僅かに侵入する。
犬はミクマリの傍を離れると、尾を振って彼女の周りへと跳ねた。
「はい。御助け頂き、ありがとう御座います。私は旅の水分の巫女です」
頑として毛皮を手放さず礼を言う。
「私はこの雪に鎖された村の村長の孫娘で、巫女の“ササメ”と申します」
巫女は全身を毛皮の衣で覆い、長い髪は上や後ろではなく、胸の前で結び垂らされている。
首元には牙と骨で作られた首飾り。頭にも獣の皮を被り、頬には青い染料で犬歯の様なものが描かれている。
そして、両手には何やら毛皮の塊を抱いていた。
「そちらの“小さな神様”に一通りの御話は窺っております。織物の技術を求めていらしたのだとか」
「はい」
――“小さな神様”ってどう云う事かしら?
ちらと守護霊を見やる。彼は悪霊らしい気でも地の強烈な霊気でもなく、微風の様な神気を放っている。
倒れる前に話を聞いてはいたが、実際に彼の神気を感じるのは初めてだ。
「それに関しては私共が余所との交易に使う交換材料ですので、何かと交換という形でなら村長は御許しになると思います。対価はそれなりに要求されるでしょうが……。ですが、問題はそこでは無くって……」
目を細め、頬に手をやるササメ。毛皮の袖から覗く彼女の手はとても痩せていた。
「何でしょうか? 私に出来る事なら何でも」
「……兎に角、村長に御会いになって頂きます。衣を持ちましたので、こちらを御使いください」
手に持った毛皮が差し出される。
「ありがとう御座います」
毛皮を受け取り礼を言う……がササメがそのままこちらを向いたまま、座ってしまった。
「ええと……」
毛皮を抱え頬を染めるミクマリ。
「どうなさいました? 矢張り、ここの衣の身に着け方は分かりませんか? 御存知の通り、ここは永遠の雪国ですから、寒さが忍び込まない様にしているので衣の仕組みが余所とは違うのかも知れません」
「私が御手伝い致しますね」と言い、ササメはミクマリを立たせ、身を隠す全ての毛皮を奪い取った。犬が徘徊して尾が脛を擽る。
一方、守護霊は静かに笑った。
ミクマリは子供の様に着付けを補助して貰い、二つの恥辱を味わった。それから連れられ小屋を出る。
簾を上げると、一寸先も見えぬ様な吹雪。
「村長の家は右に一つ隔てた先になります」
ササメに案内され、ミクマリは白い世界に踏み出す。
数歩歩くと壁の無い家屋が終わり、直ぐに次の家が立ち並んでいる事に気付く。
『初見から思っておったが、小屋同士が近いな。珍しい』
ゲキがミクマリの疑問と同様の所見を述べた。
「矢張り珍しいのですか? こんな処ですから、なるべく外を歩かないで済むように工夫しているのです。小屋の熱も貴重ですから」
風の音に掻き消されそうなササメの声。
この雪に鎖された村は家々を密着させているらしい。熱を逃がさず、死の世界を歩く距離を縮める工夫。
藁葺きの屋根に更に土を被せ、その上に雪が積もり大地と一体化している。
二三言の会話をすると、目的の小屋へと到着。
簾を上げ村長の小屋へと入れば、途端に暖気が取り戻される。
中には毛皮を纏い顔に牙の化粧をした老婆が火の前に坐していた。
「“フブキ”様。御客人が御目覚めに為られました。漂泊のミクマリの巫女と仰います」
「うむ。霊気を良く視たい。隣に座らせてやっておくれ」
フブキは目を閉じたまま言った。
ササメの促しに従い、老婆の横へ正座する。
「見事な霊気の磨きじゃな。それに邪気が一切無い。神を連れ歩く程の巫女じゃ。御助けして正解だった様だな」
「御助け頂き、ありがとう御座います」
「じゃが、それだけに申し訳ない事を致した。其方は本当ならば、この村へ来るべきではなかったのだ」
フブキは皺を深く刻みながら言う。
「何故でしょうか?」
「御主は、永遠にこの村から出る事が出来ぬからだ」
老婆は仰々しく言い放った。
「ええと、それは……」
咄嗟に霊気を探るミクマリ。殺気や邪気の類は感じられない。
「雪比売様の所為です。この村では、古来より雪の神を祀っているのですが、厳しい仕来りが御座います。女性は村から一歩も出る事を許されないのです。若しも禁を破ろうものなら、その者は神の怒りを買い忽ち氷の岩と化してしまうのです」
「男や獣には何も起こらんのじゃがな。一度入ったが最後、村の生まれであろうが旅の者であろうが、この掟からは逃れられぬ」
仰々しく言うフブキ。
「私も、氷の岩と化した人を見た事があります」
ササメもそれに続く。
「困りました……」
突然突き付けられた旅の行き止まりに師を見上げる。彼は唯、宙に漂って居た。
「その小さき神が神気の結界を張り、吹雪から其方の露命を護り続けておったのを狩猟帰りの男衆が見つけてな。見知らぬ小さき神が其方の命を助けてくれと強く懇願するもので、断れなかったそうじゃ」
「そうでしたか」
ミクマリは再びゲキの方を見やった。視線に気付いたか彼は少し離れた。
「其方程の力の持ち主であれば、或いは神の怒りを撥ね付ける事も出来るやも知れぬが、力が及ばなかった場合は御助けする事は出来ぬ。部外の者の為に村を危険に晒す訳にはいかぬからの。村の近辺を離れる様な事は為さらないで頂きたい。責を取って衣食住の保証は致す。本当に申し訳ない事だが……」
フブキが頭を下げる。
「宜しくお願い致します」
ササメも続く。
恩人であり村の大事とは云え、呑める筈がない。取り敢えずミクマリは同じく頭を下げ「承知しました」と答えたが、心の中で大きく溜め息を吐いた。
「フブキ様、ササメはこちらへ?」
屋外から男が入って来る。若く筋骨逞しい男性である。
武器こそ携えてはいなかったが、何処か攻撃的な毛皮の衣装と、同じく入れ墨や飾りの牙が身分を語っていた。
「居るぞ。今は客人の相手をしておるのだ」
老婆が溜め息を吐く。
「おっと、失礼しました」
青年は慌てて謝罪し、入り口で跪く。
「ミクマリ様、これが其方をここまで担いだ男衆の纏め役の“ツキ”です。戦士であり、猟の名手であり、巫覡の才もある男です。狩猟に出ていた男衆で霊感の強い者は彼のみでしたので、其方の神に気付けたのは彼の功と言えますな」
「ツキ様。ありがとう御座います」
ミクマリは頭を下げる。
「いや何。私でなくとも守護霊様の御力には気付いたでしょう。雪の風巻に紛れて流れ来る微かで清らかな力につい引き寄せられたのです。すると翡翠色の霊魂が浮いており、その下には氷漬けになった女性が倒れていた、こう言った次第です」
そう言うとツキは手を組み合わせてゲキを拝んだ。
「処でフブキ様、矢張りミクマリ様は……」
「うむ。村から出ぬ様に御願いしておいた。何やら大切な事情での漂泊の旅である様なので、こちらとしても心苦しい事なのだが……」
村長は唸る。
「私が雪比売様と御話が出来れば良いのですが」
細雪の巫女が溜め息を吐く。
「……招命ノ霊性が未熟で、未だ雪比売様を降ろす事が叶わないのです」
「気に病むでない。比売様を御招き出来る程に招命に優れた者は古今、儂以外には居らんかった。しかし、儂も比売様の怒りを買ってこの通りじゃ」
フブキは目を開いた。瞳は濁り、白目との境を失っている。
「何分狭い村じゃ。暮らすのには大して苦労はせぬが。この様な時に力に為れぬのは歯痒い。今や神には口すらも利いて貰えぬ」
「僕は抑々男だからなあ……」
ツキが呟いた。
「降霊術の才はあるのだがの。比売は若い男に降りたがらぬ。処女の巫女のみがその器の役を担えるのだ」
「精進します……。若しも雪比売様を神和げる様になれば、必ず御許しを得てミクマリ様を旅路へ送り出しますから」
そう言うとササメは立ち上がり、小屋の入口へ向かった。
ツキも立ち上がり彼女に続く。
「……あっ」
ミクマリは、二人が退出様に手を握り合ったのを目敏く見つけた。
「望み薄じゃな」
フブキが嘆息を漏らす。
「ミクマリ様にはこの村の一員になって貰う以上、何か手仕事の一つでも身に着けて貰わねば為りませぬな。巫女であるなら巫力を活かして欲しい処ではあるが、水分の巫女に伝わると云う憑ルべノ水も、水を凍らせるここでは持ち腐れるだけじゃ。其方は織物の技を求めてここへ来たのだろ? 明日から、“若い衆”に混じって織物の技術を教えて進ぜよう」
「ありがとう御座います」
「今日の処はゆっくりと休むが良い。身体もまだ癒え切っておらぬだろうしな」
有難い申し出と困却極める事態を受け取り、ミクマリは自身の目覚めた小屋へと戻る。
厚い藁葺きの小屋では先程の犬が待ち侘びていた。
「どうしましょう……」
犬を撫でながら呟く。
『取り敢えずは恭順の体だな。織物の技術を身に着けたら脱出するしか無かろう』
「でも、神の怒りで氷漬けにされるって仰ってましたよ」
犬が腹を見せるので腹を撫でてやる。
『それもこの雪の及ぶ範囲だけの事であろう。神の力に勝れば突破も可能だ』
「でも、村の方が神様に罰せられてしまうかも」
犬の腹に顔を埋めながら言う。
『為らば、神を剋してしまえ。御祓いだ。御祓い』
軽々しく響く霊声。
「そんな。神殺しだなんて!」
『声が大きいぞ。幾ら吹雪が遮るとて小屋同士が密着して居るのだ。聞こえるやも知れぬ。そうなれば直ぐにでも追い出されて氷漬けだ』
「本気で仰ってるのですか?」
犬を掻き抱く。犬は為されるがままだ。
『妙だと思わんか。ここの神とやらが』
「妙って? 厳しい戒律があるからですか?」
『穢神ノ忌人ではなかろうか。雪だぞ、雪』
「雪……」
耳を澄ませば小屋の外の風が分かる。
『普通、戒律や鎮めを必要とする神は、恩恵と害が表裏一体に為っているものだ。川神であれば水の恵みと氾濫、山神であれば山の恵みと土砂崩れ。火の神であれば言うまでも無かろう。では、雪は何だ? 人に害為す事はあれど、全てを眠らせ殺す雪にどの様な恩恵がある?』
「それは……無いのかしら?」
単に雪に親しくない自分達の智が及ばぬだけやも知れぬが。
『大方、封じねば辺りに雪害を齎す悪神だろう。神かどうかすら怪しいぞ。正体が分かれば滅してしまうのも手ではなかろうか』
「若しもそうでしたらね。でも、私の術で雪の神様に勝てるのでしょうか……」
『無理だな。仮に相手の神気を大きく上回る霊気を以ても、水を凍らす術には手も足も出んだろう』
「悪霊であれば霊気で祓えますよね」
『その通りだが、相手との実力差次第だな。やれるだけやって勝てそうもなければ身体を貸せ。何とかしてやる。今の俺がお前に憑依すれば、国津は疎か、下位の天津神も剋せる』
「出来れば、ゲキ様には戦わせたくありません」
鬼化の進む守護霊は、巫女の身体に降りると狂気へと足を踏み入れる事と為ると話した。
『そうだな。だが、お前の命には代えられん。俺を寿ぐ約束を果たす者が居なくなってしまうからな』
視線の分からぬ霊魂と見つめ合う。温かな炎が揺らめく。
「処で、ゲキ様には御礼を申し上げなければいけません」
娘は表情を明るくして言った。
『礼だと? 何だ?』
「倒れた私の事、護って下さったので」
『当たり前だろうが。守護神が唯一の信者であり、巫女であるお前を護らないでどうするのだ』
「そうでなくて、私が倒れてから、ずっと神気を発してますよね?」
『神だからな。当然だ!』
霊魂は怒鳴る様に言うと、ミクマリから離れた。
「神気を出すのは恥ずかしいと仰ってませんでしたか?」
ミクマリは和気ながら霊魂を追う。
『夜黒処か、地の霊気さえも性悪だと言われるから、恥を忍んでだな……。お前を助ける処か、敵だと思われたら目も当てられんだろうが』
ゲキはまたも移動した。
「ふふふ」
ミクマリは口元を毛皮の袖で隠しながら彼に続く。
『何故付いてくる!?』
「いえ、別にい」
愉し気に返す娘。犬も尻尾を振って追い掛ける。
『ええい、鬱陶しい。付いて来るな。犬かお前らは』
娘が笑い、犬は返事をした。
恥じ入る守護霊は滔々小屋の隅へと追い詰められてしまった。
『俺を追い立ててどうする心算だ。仕様の無い戯れは止せ』
「ふふふ。あーあ。ゲキ様に肉体があれば良かったのにー」
ずいと霊魂に顔を近づけるミクマリ。
『何を訳の分らん事を』
ふと、ミクマリの表情が変わる。
『どうした?』
「……何か聞こえます。何かしら?」
ミクマリはゲキから離れると、眉を上げ上げ、部屋の隅の斜壁に耳を押し当てた。
******
地火炉……囲炉裏。
万年雪……降雪の季節を過ぎても残る雪。