巫行034 暴露
『なあにが災厄の種だ!』
石社の里を出立し名残惜しむイワオと別れた後、守護霊は自分から戻って来た。
社の巫女とのやり取りを包み隠さずに報告をすると、彼は激怒した。
『マヌケ娘め! お前は厄介払いをされたに決まっとる!』
激怒するゲキ。
「彼女達は協力的でしたけど……」
『ミクマリの霊気や御神胎ノ術に対抗する術を持たんから、穏便に追い出したに決まっておる。連中は腹の内を何も見せておらぬではないか! 結局、版図を広げんとする奴等もサイロウと同じなんだろう!』
「争いを好まないって言ってらっしゃいましたよ」
『手法が違うだけで、自分達の信仰や信念を押し付けておるのは同じだ。交易や良質な石を餌にな! お前が紹介された村だって本当にあるかどうか怪しいものだ。単に追い払う為に企図した出任せやも知れん!』
荒御霊はミクマリの頭上で蠅の様にぶんぶんと唸った。
「ゲキ様、何をそんなに怒っていらっしゃるの?」
――やはり、図星だからかしら……。皆さん一様に「悪霊」と仰いますし。
『怒るに決まっておろう! お前が村で遊んでいる間に、俺は空で何をしていたと思う!?』
「な、何を為さっていたのですか?」
イワオとのやり取りを見られていたのだろうか。疚しい事は無いものの、何となく後ろめたくなった。
『婆の悪霊や、白い烏に追い掛けられとったんだ。本当はあんな雑魚共、玉響の間に斃し寿いでやれたんだが、騒ぎを起こすとお前の立場が危うくなると思って、逃げるに留めたのだ』
「そ、そうなんですか」
ここの御使いや守護霊は確りと仕事をしている様である。
『良いかミクマリ。社の巫女共は信用ならん。幾ら他の教えを塗り替えぬ広め方だと云え、大きな集団は一枚岩でもなければ、個の意思や理屈等容易く捻り潰すものだ。お前がこれまでに見て来た村や里だって、必ずしも全員が同じ考えだった訳ではないだろう?』
「……では、御聞きしますが、個人であるゲキ様は信用に足るものなのでしょうか? 私と貴方も考え方は違う筈です」
ミクマリは歩きながら言った。為るべく澄ました表情のままで。
『何を急に。若しやお前、社の巫女の言を呑み込み、俺を疑うと言うのか!?』
守護霊は巫女の前に回り込み、炎の様な霊魂を膨らませて怒鳴った。
「唯、訊ねたまでです。個であろうが集団であろうが、それだけで決めるべきではないでしょう。ゲキ様の性質如何の話は、私としてはどちらでも良いと思っています」
巫女は表情も変えずに守護霊の横を摺り抜けた。
『どちらでも良い!? それはどう云う事だ!?』
「お静かに。耳が痛いです。ゲキ様との付き合いも長くなりつつあります。喩え貴方が“何”であろうとも、……神気を纏わぬ神であろうとも良いのです。唯、御互いに同じ里の事を想い、同じ目的の為に歩いている。それだけで十分です」
『ぬ、ぬう……』
唸る守護霊。
「でも、出来れば隠し事はしないで頂けると嬉しいです。話し難い事でも、私を信じて話してくれれば良いなって。私、何があっても怒りませんから。一回だけでなく、何度でも……」
これはミクマリの本心ではあったが、ある種の策略でもあった。疑念を抱く事と信頼を貫きたく思う事は、異なるが似ている。
『で、では一つ白状しよう……』
微妙に震える霊声。
彼の声にミクマリも立ち止まり、振り返る。
『神気は無いのではない、出さぬだけだ。理由は二つある。一つは、漂泊の旅では多くの神の領域を渡り歩く為、他の神を刺激しない為だ』
確かにゲキはこれを頻繁に警戒している。しかし言葉は続かない。
「もう一つは?」
『どうも、元が人間だったせいか、霊気は当時に匹敵する程に扱えるのだが、神気の方は随分と吝臭くてな……。ほれ、感じて見ろ』
霊魂の色が翡翠色から僅かに白く輝く。風も無いのに僅かな圧。
確かに神気が発せられている様であったが、霊気の分を差し引けばミクマリでも簡単に神殺しが達成できそうな程度にしか感ぜられない。
「確かに、敢えて示す程の神気ではありませんね……」
『い、言うな。自身でも恥じておるのだ。それに俺達から見て物足りぬと言うだけで、人の祀る神としては有り得ぬ程でもないし……』
守護霊は小さくなって震えている。
「ふふっ」
娘は笑いを漏らし、歩き始めた。
軽快な足取りが首筋に風を流す。空気が冷たい。笑いは直ぐに冷えてしまった。
暫く歩き、ミクマリはこれを機に真に気になる点に就いて訊ねる事にした。疑問と言うよりは、自身の推測の答え合わせの様なものである。
「では、偶にゲキ様が“悪霊”と呼ばれる理由は何ですか?」
『それは、お前も良く分かっておるのだろう……?』
「はっきりと仰って頂かなければ」
二人は薄暗い森に辿り着いていた。更に冷え込む。そして、烏の鳴き声。
『俺を神だと信じたのであれば、確信に至っているのであろう? 神は民を映す水鏡だ』
「やはり、里の者の多くが黄泉へ恨みを持って引かれたのが原因なのですか?」
『そうだ』
「……鬼に成ったりしては厭ですよ? 必ず一緒に無念を晴らしましょう。それで問題は解決です」
昏い森を進む。何が居る訳でもないのに薄気味悪い気配が漂う。加えて寒気も。
『ミクマリよ』
少し離れた処から声。
「はい」また、立ち止まる。
『俺は既に鬼に成っておる……と言えばどうだ?』
「別に。“それ”で鬼為らば、気に掛ける程の事ではないでしょう。確かに時々手厳しいな、とは思いますが」
振り返らない。僅かに声が震える。これが彼女の気丈に返せる限界だった。
想定はしていたものの、自身の祀る神が黄泉に引かれる様な事は御免だった。
今のミクマリの心にはまだ、手を血に染める事が出来たとしても、最後の仲間を失うのは余りにも重い。
『そうか……少し安心した。訊ねてはみたが、俺自身が鬼に成っているかどうかが分からぬのだ。成った事もないものだからな』
「鬼とは一体何なのでしょうか? まだ鬼でないとすれば、鬼に向かえばどの様な変化があるのでしょうか?」
『何を以て鬼とするか、定まっている訳でもないのだ。覡國に居ながらにして夜黒ノ気を纏えば鬼と呼べるだろうか。夜黒ノ気は怨みや憎しみから発せられる邪気の極致だ。故に鬼は無念を晴らす為に力を行使し、結果惨忍事を引き起こすのだ。必ずしもそれが無差別に向けられたりするものでもないが、大抵は八つ当たりだ。俺も生前、鬼と呼ばれるものと霊気をぶつけ合った経験があるから分かる』
夜黒を纏えば全て鬼だと云うの為らば、稲霊や、蟷螂の里で果てた社の巫女もまた鬼か。
『……俺も時折だが、村落に近付くと嫌気が差す事がある。何故、俺達の村は狙われたのにここは平和なのだと、妬ましく思う事がある。敵対する者が現れれば道理や法とは別に、そのやり場の無い怒りをぶつけたく思う事がある』
「でしたら、私だって同じです。ゲキ様、私は鬼ですか?」
努めて微笑み訊ねる。
『まさか。お前は鬼の爪を煎じて飲んだ方が良い位だ。最近は多少は安心出来る様には為ったが』
「矢張り、全ての憎悪や嫉妬が鬼に導くものとは限らないのでしょう。子供だって容易く負の感情を表現しますし」
『お前の様に根の慈愛が勝り抑え込んでくれる訳でも、童の様に一過性のものでもない。お前は、俺が憑依している時の様子を知らぬからそう言えるのだ』
「ゲキ様が手厳しいのは何となくは分かってます。ですから、蛭子神の時は意地を張らせて頂きましたし」
『お前の身体に入ると、気力も霊気も昂ってしまうのだ。普段は心で押さえられているものの歯止めが利き辛くなる。取り戻した五感の所為で気が昂ってしまうのか、将又肉があると黄泉が近くなるのかは分からんが』
「憑依するのってどんな感覚なのでしょう?」
『感覚は……肉に就いては精々股の辺りが寂しい位で、生前と変わらん。心持は好い。普段が薄ら寒いせいか、非常に温かに感ずる。安心して何やら気が大きくなる』
霊声が何処か恍惚とした色を孕んでいる様に感じる。
「そうですか。身体を貶されるよりは良いですが……」
巫女は軽弾みに訊ねたが、下腹を擽られる様な気持ちに後悔をした。
『肉を駆るのが神の御霊であろうと、お前の身体だ。斃すべき相手や、命を奪わんとする者が相手であれば、その手を血で汚すのは当然の権利であり、穢れではない。だが若しも、手を下すべきでない相手を滅してしまえば、それは穢れだろう。穢れと言っても神代の資質に関わるものではないが、お前の心にとっては重大な穢事であろう。お前との付き合いも長い。お前がその信念に依り自身を保っている事も知っている。それでも肉に入れば約束が出来ない。だから俺はお前に容易に憑依しない事にしておるのだ』
「そうでしたか。てっきり、厳しさ一本槍での事かと。私に御神胎ノ術を施したのはそれも理由ですか?」
知られざる配慮。今度は胸が擽られる。
『単に相手に対抗する力を得る為だ。一度お前の身体に入ってからはそうだとも言えるが。いかに俺とて、全力を尽くしても古ノ大御神を斃せる程の力は持たぬ』
「幾ら黒衣の術師達が強かったとは云え、それ程までの力が必要なのでしょうか?」
少なくとも火雷神は水神を斃すだけの力を持った神だろう。
水神がトウロウの身体を借りなくとも、当時のミクマリにはあれに勝つ自信はなかった。
だが、目覚めれば水神は神退っていた。
『……これまで伏せていた事だが、俺はサイロウと面識がある。恐らくだが』
「豺狼の王とですか? ゲキ様って意外と御若いのですか?」
『人ならば疾うの昔に死んどる年齢だ。仮に旅先で果てず里で長く生きたとしても、お前の父母の顔を見れたかどうかと言った処だな。家族同然の狭い里の事だ、細かな家系などいちいち覚えてはおらんが。恐らくお前の曾祖伯父辺りだろう。俺には子が居らず、弟が跡を継いだ筈だからな』
「つまり、サイロウが子供の頃に会ったと云う事ですね」
指折り首傾げ訊ねるミクマリ。
『いや、俺があった時はサイロウは壮年の男だった』
「ちょっと言っている意味が分からないのですが……。綽名で巫女の役割の様に同じ名が使われている別人と云う事ですか?」
『恐らく本人だ。術式で本来の寿命を伸ばしたり、老化を遅らせる事は可能だ。ミクマリよ、これも黙っていた事だが、お前も水術で頻繁に身体に霊気を通しておるだろう? 恐らくそれが原因となって、お前は人よりも長く生きる事となるだろう。蓋し、サイロウもその類の術に依って長命を得ておるのであろう』
「どうしてそんな大事な話を黙ってたのですか!?」
声を荒げるミクマリ。
『うっかり失念しておった』
「本当に貴方は人の身体を何だと思ってるんですか!」
両手を振り上げ抗議する。
『ゆ、赦せ。命が縮まる訳でも、老け込む訳でもないしな。それに、若く美しいままの方が男神の器としても都合が良いし……』
「ま、まあ、それはそうですけど」
若く美しい。娘は胸の内でほくそ笑んだ。
『それで、これもまた面映ゆい話に為るのだが、俺の死因は奴との巫力比べで負けた事にある。奴は古ノ大御神を剋したこともあると言っておった』
「……サイロウは矢張り力のある男覡なのですね」
『そうだ。そして傲慢で残虐。当時から民に苦しい労働や法を強いて覇を唱える男であった』
「若しかして、ゲキ様はそれでサイロウを討とうと為さったのですか?」
『否だ。確かに大義としてはそれを掲げたが、その実、唯単に自身の力を験したくて挑んだ。以前話しただろう。若く愚かだったと』
「そうでしたね」
『自業自得故に、怨みの感情は持ち合わせては居らぬ筈なのだが……。昨今の自身の変化の所為で、最早自信が無い』
冷たき炎は小さくなった。
「自分を殺した相手が憎いのは仕方がないとは思いますが」
『まあ、男覡であった奴は、俺を寿いだ筈だからな。それは無いだろう。寿がれた霊魂は覡國で得た怨みや憎しみが残らんのだ。それに言ったであろう。平和で豊かな村を見ると妬ましくなると。この念の濁りは里の泯滅によるものだと考えられる。それに、サイロウの手に落ちた村も、民の心は差し置いても、目には豊かな村が多いと聞こえる。力や法に依る支配は必ずしも不幸になるとは限らん。お前の見た蟷螂の里も、ある面では豊かであったろう? 俺が初めに避けて通れと言ったのは、俺自身の逆恨みや八つ当たりの不安でもあったのだ』
若干早口に語る祖霊。
「そうでしたか。だったら、もっと早く仰ってくれれば良かったのに」
『守護神たる者が自身の遣う巫女へ弱味を見せ、里も護れず、剰え鬼に成る等情けなくてな……。これでは神気を得られぬのも無理はない。お前に見放されれば、妹巫女への申し訳も立たぬ。独りでは何もできぬし、全ての信者から信仰を失えば、それこそ鬼に成る他に道は残されておらん』
「……怒りません。見放しません。赦します。情けなくなんてありません。貴方も御存知でしょう? 私は変わり者ですから」
ミクマリは微笑んで見せた。
『そうか、そうだったな。俺を想うの為らば、頼みがある。難事に困る村を助けるなとは言わぬが、直接サイロウの手の者と霊気をぶつけ合うのは、今は避けてくれ』
「承知しました。でも、“今は”って?」
『これは俺の勝手な推測だが、この界隈やその周辺に於いて聞き及ぶ大勢力は、王の擁する国と社の流派の二つだけだ。両者とも手法は異なるが、多くの流派の力を取り込んでおる。その中に黒衣の術師も居るのではないかと考えているのだ』
「他者を泯ぼす手を使うのであれば、サイロウの方が疑わしいかと。これまで、彼の手に依る惨い所業は幾つも見て来ましたから」
『故に確定せぬ内に奴に近付くのは止したい。目に留まれば、俺達にも手が伸びるであろうしな。社の巫女にしても、腹の探り切れぬ処があったであろう? 覡國を覆う程の神の復活を目論む等、気の遠い話ではあるが、達成されればサイロウ等話に為らぬ程の大事変が巻き起こるであろう。どちらが噛んでいるにせよ、俺達の悲願に立ち塞がる事となれば神代の力は必須となる。俺も初めから強大な敵の影を嫌疑し、お前の胎を器とさせて貰ったのだ。手下である術師を斃して、はいさようなら、とゆくのであれば良いが』
「一番有難いのは、黒衣が何方の勢力でもなく、黄泉の息の掛かった鬼や蟲の場合ですが。それ為らば私も遠慮無く滅せますし……」
ミクマリは軽く頭を捻り唸った。
『矢張り、お前は少し変わったな。頼もしい。……頼りにさせて貰うぞ、我が巫女よ』
祖霊の炎が揺らめく。
「そうですか? ありがとう御座います」
顔を蕩けさせる娘。
『……故に、俺は鬼へ成るのが恐ろしい。神が邪悪であれば、巫女や信徒もまたその影響を受けるかも知れぬ』
「私も鬼に成ってしまうと仰るのですか?」
『可能性の話だ。穢神ノ忌人にも神を鎮める尊い役目の者は多いからな』
「そうですね。でももしも、私も鬼に成ってしまったら……」
ミクマリは顎に手を当て漠然と呟く。
『成ってしまったら?』
「一緒に大暴れをしましょう。怨みのままに、憎しみのままに」
ミクマリはそう言って笑った。
『……』
ゲキは返事をしなかった。その揺らめきの意味は知れない。
昏い森、凍える風が吹き抜ける。
冷気と共に白いものが視界を流れた。
「雪……」
木々の裂け目へと手を伸ばす。
枝葉の屋根の上では細雪が踊っている。
『日のある内に村へ行かねば。立ち話をしている場合ではなかったな』
二人は森を進み始める。
『凍える様だ』
震える霊魂。
「身体が無くとも、凍えるのですか?」
『そうだ。身も心も。肉がない分、もっと深くが冷える気がする』
「そうですか……」
歩く程に雪は深まり、二人の間を寂しく吹き抜ける。
『処で、さっきの話だが』
「さっきの話?」
『一緒に暴れ様と言う話だ。あれはお断りだ』
「ええ……。折角、寄り添って差し上げたのに……」
ミクマリは洟を啜りながら言った。水製の衣が酷く冷えていた。水術で霜焼けを癒しながらの旅。
『本当に寄り添うと言うのなら、俺が完全に鬼に堕ちた時はお前が俺を斃し、寿いでくれ』
「そんな。ゲキ様を手に掛けるなんて」
冷えた身体が立ち止まる。足は骨まで凍り付く様だ。
『巫女の務めだろう? 今のお前に祓って貰えれば、俺も満足だ。責が無ければ、今直ぐにでもそうして貰いたい。巫女に清められ高天に昇る者は、全ての恨みや哀しみを忘れられるのだから。尤も、黄泉に落ちれば滅する他にないのだがな……』
「そんな事、仰らないで」
二人を遮る回雪は小吹雪と為りつつあった。
ミクマリはそれを掻き分ける様に守護霊へと両手を伸ばした。
悴む手。指先は宙を泳ぐ。
『赤い頬をして、洟まで垂らして……泣いておるのか? いや、まさか、今祓おう等と考えて……』
たじろぐ霊。
「大マヌケな方だわ……。貴方に、身体が有れば、良かったのに……」
そう言うと娘は急に倒れ伏した。
『おい、ミクマリ。どうした? 確りしろ!』
声を掛けども返事は無し。
森の終わりを目前とし、吹き込む雪に埋まりゆくミクマリ。
衣が凍て付き、身体を蝕む。
肉を持たぬ守護者は、唯々彼女の頭上で叫び、飛び回るばかりであった。
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蓋し……思うに。考えるに。