巫行033 神社
翌朝、ミクマリはイワオに連れられて社の流派の本部へと足を運んだ。
風吹きすさぶ谷間を抜け、幾つかの村を越えると、里に入った時に見かけた石の柱と同じ意匠の物体が現れた。
石造りのニ柱は先に見かけた物よりも大きく、石柱を渡した部分には使いである白烏兎が並んで居座っていた。
「この小山の上に本部はあるんや」
秋の紅葉に囲まれた山道。路は曲がりくねっており、本部の神殿は未だ見えず。
「あの柱は何ですか? 里の端にも在りましたけど」
柱の前で立ち止まる二人。
「あれは“鳥居住マイノ路”や。出入り口の様なもんで、そこから先が神の里であることを知らせたりする境界になるんじゃ。見ての通り御使いが休む場所でもある。立ち止まると糞を落とされるから気を付けや」
「ふうん。そう言えば、社の流派の方々は里の外にも教えを広める様な事を為さってますけど、御祀りしてる神様はそれ程大きな方なんですか?」
普通は神には力の及ぶ範囲と言うものがあり、信者はその範囲内で生活をするものだ。
山とその一帯であったり、一つの浜辺であったり、湖とそこへ流れる川であったりである。
「……これは、おまんだから教えるが、他所のもんに話したらいかんぞ?」
声を潜めるイワオ。ミクマリは彼の元に寄り耳を向けた。
「社の流派の方々が御祀りしとるのは、多くの神々の御両親なんや。やから、覡國どこでも全てを御覧になっていらっしゃるし、他の神の事を追い出したりはせん」
「そんな尊い御方が!?」
娘は小声で驚いた。
「これだけなら隠れて話す必要はねえ。問題はその二柱の御神様が一度も御姿を現したり、御霊声を聞かせた事がないっちゅうことや」
「それって、本当はいらっしゃらないと言う事?」
「ではないらしい。御二人は離縁為されて、高天國とどっか別の処に分かれて御暮らしに為られてる。その間を挟むのが俺達の住む覡國や」
――一方が高天で、もう一方は別。その間が覡國と言う事は……。
「ちょっ、ちょっと待って下さい。そうなると神々の御両親の片方はヨモ……」
大きく武骨な手がミクマリの口を塞いだ。
「言っちゃいかんて! それで、御力は覡國全てを覆う程のものやし、離縁為されたままやと御気の毒やからって、多くの信仰を集めて縁を取り持とうってな。そうすれば神様も俺達にとっても良い事やろ。社の流派の真の目的はそこに在るんや」
「神様同士の縁を結び直す……素敵」
なんと壮大で、夢想的で情緒的な“おはなし”なのだろうか。娘は口を半開きにしたままに宙を眺める。
「素敵とも言ってられん様だけどな」
唸る男覡。
「どうしてですか? 大きな神様が二柱も舞い戻られるのなら、覡國は安泰でしょう?」
「裏を返せば、その“必要”があるって事や。大変な事が起こるんとちゃうか? それが何かは知らんし、“その時”は人の一生を幾つも重ねる位にずっと先の事らしいが。それでも少し納得が行かんのは、御夫婦は“天津神”やから覡國に御暮らしに為られん筈って処や」
「天津神?」
ミクマリは首を傾げた。
「外の巫女はそんな事も知らんのか。神様は御暮らしに為られる場所に依って呼び方が変わるんや。高天より生まれて高天に暮らすのが天津神。高天か覡國で生まれて、覡國に暮らすのが国津神。そして、黄泉に引かれてしまったのが黄泉神や。これは穢神や厄神とか後は鬼と呼ばれるものや」
「穢神……穢神ノ忌人」
水子の泉の一件が思い出される。蛭子神もまた黄泉神なのか。
「おまんも知っとるんか。黄泉神を祀ったり鎮めたりする巫女の事や。俺は会った事はないが。夜黒ノ気は気味の悪いもんやからな。そんなもんを纏った神様とやり取りはしとうない」
イワオはぶるりと震えた。
「あれは、怖いとか気味が悪いと言うよりは、悲しいものでした……」
視線を地に落とす。
黄泉に引かれてしまった大御神は一体どう為さって居られるのだろう。
「……何だか知らんが。ミクマリは大変な思いを一杯した様やの。本当なら俺が話を聞いてやりたい処やが、柄でもねえし、力不足だ。本部の方々はお堅いから、他流の巫女には冷たいかも知れんが、おまんには特別な何かを感じる。ひょっとしたら卜占の一つや二つはしてくれるかも知れんな」
唐突に背が叩かれる。
娘は蹌踉めき“鳥居住マイノ路”を越えた。
「こっから先はおまん独りや。俺には村の仕事があるからな」
そう言ってイワオは顎をしゃくる。紅葉の山道から、年増の巫女が現れた。
白衣に緋袴。ゆっくりとした足取りで、提髪を揺らしつつ。
「じゃ、また寄る事があれば声掛けろよ。その首飾りがあれば、俺に会わんでもまあ、良いんやが……」
鼻を掻くイワオ。
「帰りには必ず寄ります。また御会いしましょう」
ミクマリが微笑み掛けると、彫りの深い色白の顔は紅葉し、去って行った。
「ミクマリ様ですね。お待ちしておりました。本部へ御案内致します。付いていらして下さい」
巫女は一方的にそう言うと、直ぐに踵を返し、山道を登り始めた。
霊気を探るも、特に逆立った処や負の感情を感じない。
彼女は一体どう云った立場の巫女なのか。イワオが引き継いだという事は本部の者であろうが。
ミクマリは年増の巫女に黙って続き、紅葉彩る絢爛な風景を進む。
案内者の緋の袴は紅葉のそれに良く似ていたが、ミクマリの水衣にあしらう榊の葉は異彩を放つ。
山道を登り切ると、鳥居が現れる。その先には幾つもの小屋。その数の割には出歩く人影は皆無。
綺麗に並べられた建物群の奥には神殿と思われる大きな建物が遠くに見えた。
地面には一面白い小石が敷き詰められており、地から伸びる柱に依って建物はやや高い位置に床を持つ。
夕陽色の木材造りのその小屋は特徴的な屋根を持っていた。
頂の甍覆の両端には虫の触角の様な意匠の柱が伸び、等間隔に丸太が並べられている。
ミクマリは無礼ながらも、ひっくり返った蜈蚣を想像した。
巫女に連れられ、敷かれた小石の小気味良い音をさせて、一つの小屋へと案内される。
小屋の入り口には簾が付いていた。案内の巫女がそれを持ち上げると、幽かな神気に似た空気と共に、中に正座する別の巫女の姿が現れる。
案内をした巫女は一礼をすると何処かへと去って行き、中に居た巫女が「御入り下さい」と言った。
ミクマリは巫女の正面に正座をした。
「この度は、同胞の罪を灌ぎ、浄め寿ぎ頂いた事の御礼を申し上げます」
巫女は目を閉じ、坐したまま言った。
「既に御存知の事とは思いますが、彼女は望んで罪を犯した訳ではありませんでした。全ては豺狼と呼ばれる王の仕向けた事です」
ミクマリは返答をする。
「サイロウは、西の地に国を持つ男。野心甚だしく、他者を蹴落とし、奪い、殺し、力に依る支配を最上とする邪なる者です。剰えあの男は、神を殺し、高天を踏み荒らす事を企むのです」
「神殺し……」
蛙の水神を思い出す。
「信念の衝突の結果であれば致し方ない事。ですが、彼の者は自身の力を験す手段として神殺しを行います。噂では、一度は黄泉に引かれたが、覡國へと舞い戻った者だと聞きます。サイロウは黄泉の尖兵なのやも知れません」
「それは、生き返ったと言う事ですか?」
「詳しい事は分かりません。死返玉なる神器にはその様な力があると聞きますが、神器は殆ど言い伝えのみで、実物があるかどうかは……」
社の巫女は閉じていた瞼を開き、ミクマリを見た。
暫しの沈黙。
ミクマリはこの間の意味を告白の促しと取った。
「あの、実を申し上げますと諸事情があり、一時期貴女達の流派の衣を御借りしていた事がありまして……」
「見ておりましたよ。サイロウの手に落ちた巫女達にも何度も使いを飛ばしておりますから。貴女の事は気になっていました。貴女は巫女として恥じぬ働きを為さっていましたし、衣の件は御気に為さらない様に。ミクマリ様は性根も好く、巫力申し分なく、流派は違うものの私達のやり方とそう遠くない御考えの持ち主だと存じております。私達、社の流派も無益な殺生や争いは好まないのです」
御見通しであったのなら、正直に白状して正解だったろう。ミクマリは心の中でそっと胸を撫で下ろした。
「衣を偸んだから生剥の刑だ」等と言われたら、脱兎の真似をする心算であった。
「何分、神が不在ですから……。巌の覡より聞き及んでいらっしゃるかと思いますが、私達の祀る神は離縁により御隠れになられたままなのです。巫覡としての修行は怠らず、有象無象の巫女や呪術師よりは実力を持つ者が殆どではありますが、流派に伝わる神楽や術の類も殆ど失われております。社の巫女の多くもこの地で育った者よりも、他の集落で余った巫女を御借りしている場合が殆どです」
「……術と言えば、あの」
「御神胎ノ術ですね?」
社の巫女の視線が鋭くなる。
自分は気を失っていて覚えはないが、彼女達は神が自分の身体を使って何をしたのか知っているのだろうか。
「貴女の胎に刻まれた御印。八百万の神代の証。蟷螂の里での一件も使いの目を通して視させて頂きました。貴女の疑問の答えになるかは分かりませんが、確かにそれは私達の流派のものと同一です。術体系に於いては流派を問わないものもありますから、珍しい話ではないのかもしれません。その術に就いて分かっている事は太古よりの術と云う事。私達の中にも使い手は居りますが、降ろすべき神も、使うべき時も持たないので、持ち腐れているのが現状です」
そう言って彼女は自身の袴の帯の下辺りに手をやった。
「そうですか……」
娘は少々萎れた。彼女は現実的な問題の答えではなく、心理的な面での共感を求めていた。
「兎も角、これも何かの縁でしょう。聞く処によると、貴女は目的があって漂泊の旅をしているとの事。辛い理由が御有りになるのでしょう。
私達は許される範囲で貴女の旅の助けに為ろうと考えています」
「ありがとう御座います!」
意外な返答に声を弾ませるミクマリ。それでも相手は姿勢を崩さない。
「御質問があればどうぞ。物的な支援は大して御役には立てないかと思いますが……」
何処となく冷淡な態度。ミクマリは姿勢を正した。
――矢張り神代に就いての悩みを訊ねるのは止そう。
「では、衣の製法に就いて御訊ねしても宜しいでしょうか?」
「衣? 私達も自身の手で織っている訳ではなく、伝わるものを大切に使っているだけなので。御貸しするにも、私達も全員がこの衣を纏っている訳ではありませんから。先程御話しした通り、二柱の信仰を加えさせて貰って、巫女を御借りしている場合が殆どなので、手元には予備も御座いません。サイロウは教えを広め服従させる際に、巫女装束や珍品を配らせている様ですが、あれ等の多くは彼の国で仕立てられた物でしょう」
「そうですか。私は巫力の練達の為に織物の師を探していまして」
「里の者を当たれば織物が出来る女を探すのは難しくないでしょうが、巫力と言える程の腕前の者が居るかどうかは分かりません」
「そうですか……」
結局、何も無しか。ミクマリは落胆する。
「ですが、この石社の里は交易の里でもあります。品も集まれば噂も集まる……。毛皮や織物の技術に長けた村の事なら存じております」
「本当ですか? ありがとう御座います!」
「唯、その村の神が少々厄介で……。ここより僅か南方の村であるにも関わらず、万年雪に閉ざされているのです。貴女が入った村から南下すれば寒気で厭でも分かるでしょう。衣類の業が発展したのも、その御蔭やもしれませんが、足を向けられるのなら充分ご注意ください」
「御心配、ありがとう御座います。あの、もう一つだけ宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「……私の暮らしていた里は、黒衣を纏った術師集団に泯滅させられたのです。黒衣の術師に関する噂等は、何かご存じありませんか?」
交易の里であり、多くの流派の巫女を抱えるここならば、何か情報があるかもしれない。
「……さあ? 存じ上げませんね」
社の巫女は目を伏せて言った。
「そうですか。私の旅は、里の者の無念を晴らす為の旅なのです」
「御辛いでしょう。こちらの無念を晴らして貰いながら申し訳ないのですが、こればかりは私共は助けられそうもありません。手掛かりの一つでもあれば良いのですが」
「御気に為さらず。質問に御答え頂き、ありがとう御座いました。では、私はこれで失礼させて頂きます」
ミクマリは立ち上がった。
不作気味ではあったが、次の進路は決まった。一つ肩の荷も下りた。先ず先ずであろう。
もう少し深く聞き込むべきかとも思ったが、何よりも長居をすべきでないと感じた。
「ミクマリ様」
呼び止められる。
「何でしょうか?」
「一つだけ、御忠告させて頂きたい事が御座います。実の処を言うと、今回貴女を御待ちしていたのは、これを伝える為でもあります」
睨みにも似た眼差し。
ミクマリは、相手が僅かに胎で霊気を練っている気配に気づいた。
「……どうぞ」
「はっきりと申し上げましょう。貴女の連れている“守護霊”ですが、あれは夜黒ノ気に冒されています。どう云う訳か、貴女や貴女の行く先の民に害を為してはいないようですが」
「彼は里の守護霊です。里の者の無念の所為でしょう」
「貴女がここへ訪れる前に幾つか占いを験したのですが、どれも凶兆を示していました。あの霊魂が災厄の種になる気がしてならないのです。守護神とは言え、夜黒を纏う者は疑って掛かるべきでしょう。貴女の敵やサイロウに関しても言える事ですが、旅路に立ち塞がれば戦いは避けられないでしょう。敵は強大です。器として今後も神の御手を借りる事もあるのでしょうが、その力の使い道を間違わぬ様に願います」
「御忠告、ありがとう御座います。では、これで」
ミクマリは背を見せ、小屋を出た。
――御節介よ。里の仇は兎も角、サイロウの王に態々ちょっかいを出す気はない。彼は間違っているとは思うけれど。
去り際、後方で社の巫女が呟いた。
「願わくば、貴女と霊気を向け合う事に為らぬ様に」と。
「ゲキ様……」
ミクマリは紅葉の山道を下りながら呟く。今更社の巫女に言われるまでも無かった。疑いの種は既に萌芽している。
これまでの旅で幾度も浮き上がった彼への不審。他の“神の気配”との相違。
先の老婆の霊の言に加えての先程の忠告。
愈々これらが茎を伸ばし、娘の胸へと蔓を絡ませる事と為った。
果たしてこれが付けるは蜜の花か、毒の果実か。
******
甍覆……神社の建築に於いて、棟の上端を覆う水平の細長い板を指す。
生剥……神道で定められた天津罪の一つ。馬の皮を生きたまま剥ぐ行為。