巫覡030 疼痛
血濡れの朝焼けから数日。トウロウの里を去り、再び漂泊の旅へ。
水分の巫女は身体の変調に悩まされていた。
月水の消滅、異様に高まる霊気の制御、腹の御印の拡大。
印は臍を下り、番登へと寝食していた。
師へは相談をしなかったが、どれも神代としての成長が原因であると見当がつく。
食事も火を通した物を好む様になり、生の血肉は決して受け付けなく為った。
果実も若いものよりも、熟したものや、自然に醸されたものに目がなくなった。
獣も相変わらず彼女の甘手を舐めていたが、時折、余所余所しく感じる事がある。
そして何よりも、火雷神を降ろしてから、毎晩の様に腹部に疼きと僅かな痛みを覚える様に為っていた。
今宵もまた、身体から湧き上がる熱に眠りを阻害され、巫女は立ち上がった。
山の清流の傍での野宿。ここ最近の習わし通りに晩秋の風で身体を慰める。
だが、これまでとは違い余熱は消える処か、一層熱く燃え上がった。
川の囁きに誘われ、娘は衣を脱ぎ捨てる。
黒く艶やかな糸束が背を滑る。
地に落ちた白衣は嘗ての清純さを失い、穢れと赤褐色の悲しき斑模様に染まっている。
――何処かで新しいものを調達しなければ。
今の彼女にとって、人目に触れるならば、着衣よりも素肌の方がましかも知れなかった。
浅瀬に足先浸し、その冬の魁に痛みを覚える。
身を浸す代わりに、凍える清水を掌に掬い、身体の疼く部分へと擦り付けた。
目を閉じて触れれば、他の肌との違いも分からぬ印。
印を追って下へ下へと指を這わす。
奇妙な事に、自身の胎内に霊気ではなく神気を感じた。
胎の下に握られる様な痺れを感じ、思わず吐息を漏らす。
――熱い。
苦痛の波に身を弓にし、弓端折れんばかりに弦を震わせる。
哀しむ様に眉を歪め、眼は雫を零させる。
無知に依る慰めがしほたり止めず、見えぬ矢を貫き昇らせ、小さな叫びと共に意識に高天を感じた。
引き波に僅かな未練を覚える自分に頬を染めていると、滑りと共に何かが川へと落ちた。
水に沈む小石とは異なるそれを摘み上げる。
「……珠?」
上気終わらぬ湿った頬を傾け、未だ靄掛かった満月の横に珠を並べ眺める。
身体から産まれ落ちた何かの宝玉。
夜空を透通す何処か歪なそれは涙に似て、空を漂う霊魂にも似ていた。
そして宝玉は、僅かに覚えのある神気を纏っていた。
翌朝、ミクマリは昨晩の奇妙の一時を反芻しながら山道を鈍行していた。
『どうした? 調子が悪いのか?』
守護霊が心配を投げ掛ける。
「いえ、ええとその……」
不調処か、珠が出てからは身体は頗る快調であった。
『隠し事はせん方が良いぞ。何でも相談に乗ってやる』
師匠の優し気な霊声に歩みを止めるミクマリ。
暫く考え、頬を染め、整った黒髪を自身の爪で掻き乱した後に、荷物を纏めた襷の袋から昨晩の珠を取り出して見せた。
「……これを見て頂けますか。」
『おお、そうか。それは先にお前が神和いだ時に神が遺した置き土産だ』
「神様の御土産?」
『そうだ。神がお前の身体を使った際に残留した神気が珠に変じて排出されたのだ。その珠を握り念じれば、元の神気の主である火雷神の力の一端を借りる事が出来るだろう。恐らくは、一度か二度の使用で砕けてしまうがな。一種の“神器”に属するものだ。御神胎ノ術の効力の一つでもある。降ろした神の力を余す事無く使う為のな』
「神器……」
そう言えば、王の豺狼も神器を求めていると小耳に挟んだ。
『古ノ大御神である火雷神の珠であれば、具体的には火を熾したり、雷を落としたり、嵐を呼んだり出来るだろう』
「凄い。サイロウはそんな恐ろしい者を欲しがっているのね。きっと碌な使い道ではないわ」
村々を力に依り服従させんとする男。まだ力を欲すると言うのか。
『サイロウ?』
「はい。蟷螂衆の里で、社の巫女に会いました。彼女達はサイロウと呼ばれる王に依って各地の制圧を強いられていた様です。王の御使いはトウロウに斃されました」
社の巫女の無残な最期。あの夜黒に染まった腕は、本当であれば元凶である王へ向けられるべきであった。
『……』
守護霊は僅かに色を変えながら揺らめいた。
「どう為さいました?」
『いや。話は変わるのだが、社の巫女と言えば、お前の衣は早くどうにかした方が良いだろうな』
ゲキの指摘。ミクマリが借用している巫女装束は二人の巫女の血で穢れてしまっていた。
「私も考えていた処です。巫女の血痕とは言え、神代に相応しい衣ではありませんよね」
『そうだ。今のその衣ならば裸体の方がましな程だ』
「脱ぎませんよ」
『言うとらんわ。神和の巫女に相応しい衣を纏うべきだろう。その為には織物の技術を何処かで得なければならん。衣が悪くなる度に新しい品を探す訳にもいかんからな。自身で織れる様に為るべきだ』
「それは分かりますが、材料の調達の方で結局困ってしまう様な?」
ミクマリは首を傾げる。
『そこはそれ。憑ルべノ水を使うのだ』
「水術を?」
『そうだ。お前はこれまで、草の水気に霊気を通して硬化させたり、水そのものを岩の様に成す術を学んで来たであろう? それらと同じ様に、水を糸とし布として衣を織る事も可能なのだ。水ならば調達も容易い』
「水の衣……素敵……」
息を漏らすミクマリ。
山を流れる清流を思い描く。涼し気で趣のある流れは一点の穢れも無く遠くまで透き通って……。
「待って? 水で衣を編んだら肌が透けてしまうじゃない!」
娘は悲鳴を上げた。
『大声を上げるな。そんな事は俺にも分かっとるわ。だがそれは水を一固まりとして使った場合だ。霧や水滴を糸と成し、その糸を水術で操作し、本来の織物の製法で織る事に依り、白い衣が出来上がる筈だ。その為に織物の師を探すのだ』
「よ、良かった。てっきり私、素肌を透けさせて歩かなければ為らないのかと……」
『巫娼でもせんわ。俺もそんな頭の狂った様な奴を守護するのは辞退する。高天に帰るわ』
「で、ですよね。でも、それなら私も簡単なお裁縫は出来るので、今からでも拵えれるんじゃないかしら?」
針を通す仕草をするミクマリ。彼女の荷物にも獣の骨の針が備えられている。
里で暮らして居た頃は、子供達が破いた服を縫い付けたものであった。
『材質が相応しくとも、仕立てが雑であったり、村娘の様な野暮な意匠では神代には相応しくないだろう。責めて、その社の巫女装束程度には凝ったものでないとな』
手に入れたばかりの白衣と緋袴は娘の心を鷲掴みにしていた。
若しも、近しい意匠の物を自分で誂える事が出来れば、どんなに素敵だろう。
「社の巫女に作り方を教われないかしら……」
『本気で言ってるのかお前は。何が哀しくて他流派の者に神の使いの証である衣の秘密を話さねばならぬのだ』
「でも、機織りの技や衣の誂え方を知っていそうですね。巫行には織物を熟す事も含まれるのではありませんか?」
『流派に依るな。社の巫女がどうだかは知らぬ。他所から取り寄せているかも知れぬ』
ミクマリは社の巫女が言っていた言葉を思い出した。師に訪ねようと思っていた疑問。
「ゲキ様、私に施されたこの御神胎ノ術は社の巫女の流派にも伝わると聞きました。私達の流派は、社の巫女の流派と何らか関わりがあるのでしょうか?」
『ほう? だが分からぬ。俺は当時の守護神から術を教わっただけだ。守護神からは社の巫女に就いての話は出た記憶は無い。遠い祖先が流れを分けたり、術がどちらからか流出した可能性もあるが、巫術にしろ呪術にしろ、各地で必要に迫られて興るものだからな。偶然に同じものが出来ただけかも知れん。術に限らず、生活に関わる全ての技や、動植物の分布にしても似た事が言える』
「そうですか……」
名残惜しそうに言うミクマリ。
『宗旨替えでも考えてるんじゃないだろうな? 社の流派は規模が大きく、組織として厳粛な運営がされている。巫覡を律する法も厳しく、儀式も形式が固く覚える事が多いと聞く。お前には務まらんだろうな』
「何故ですか。私にだってその位は出来ますよ!」
ミクマリは口を尖らせた。
『毎朝、朝陽よりも先に目覚めて寒垢離を行うと聞くぞ。別に社の巫女に限った話ではないがな。寝穢ないお前には無理だ』
「……」
ミクマリは黙った。
「……でも、他の社の巫女の方には会っておきたい気がします。御存知かも知れませんが、王の國の分社は力に依る支配に屈して、神の名を穢す悪行の片棒を担がされているのです。その事だけでも御知らせしておきたいです」
死んだ社の巫女はサイロウに屈した事を後悔をしていた。この一帯には既に王の御使いとしての行為は知れ渡っている。
社の本部が把握しているかどうかは不明であったが、誤認があるならばそれを解いてやれれば誰にとっても好い筈だ。
『行ってみるか? 社の流派はここからそう遠くない処に本部を構えると聞く。無闇な殺生はせん連中だから、追い返されることはあっても流血事に発展する心配はないだろう』
「社の流派の本部……。行ってみましょう」
『為らば、ここから東北東の方角だ。海に程近い場所にあると云う。俺は足を踏み入れた事がないから委細は分からん』
「では、村落や旅人を見つけたら訊ねてみる事にしましょう」
二人は社の流派の本部を求めて進路を変えた。
死んだ社の巫女の無念を和らげ、間が良ければ贔屓の衣の秘術の手掛かりを得る。
神代の術が同じく伝わるのなら、自身と同じ苦悩を持つ者も居るやも知れない。加えて師匠の反対も無く、行く先に血が流れぬと言うのならば娘の足取りは自然と軽くなった。
『処でミクマリよ』
「何ですか、ゲキ様?」
ミクマリは和やかに答える。
『先程の“珠”だが、あれはどの様にして産まれ出たのだ?』
唐突な質問。術に関わる話か、単なる悪趣味か。
「ど、どうって、ぽろりと出ました」
頬染め顔を前へ向けるミクマリ。
『女だとそうなのか。羨ましい話だな。男だと、あの珠の産みの苦しみは女の出産に匹敵するのではないかと云われておるのだ。俺も火雷神を宿した事があったが、力の代償に竿裂け玉爆ぜる痛みを味わったからな……。あれはどうにも為らない苦しみであった……』
霊声は震えていた。
「そ、そうですか」
『男は体質的に神気が残留し難くなっておるが、男神を降ろすと珠が残るのだ。余りの痛みにそのまま、絶命するものも少なくはないと云われておる。男覡に神和の任を持つ者が少ないのは、それが理由だそうだ』
「男性でも男神が降ろせるのですか?」
『そうだ。男神の趣味に依るがな。男にしか憑依しない男神も居ると聞く。……まあ、今の話は男の問題だ。お前は忘れてくれ。俺も忘れておく』
元男覡の守護霊は肉の無い身体で溜め息を吐いた。
『お前の身体に大事が無く、珠も産ぜられるのならば、今後は事に付けて神和をする事にしよう。身体を慣らした方が、お前の器としての大きさも、巫力も伸びていくだろうからな』
「……ぅ、はい」
娘は消え入りそうな声で返事をした。
――これからも、“あれ”が繰り返されるのね。
下腹が擽られる感じがして、ほんの僅かに歩調を落とすミクマリであった。
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