巫行003 清水
旅路へと戻った巫女ミクマリは、野原を進んでいた。
当初は村から伸びた路を辿り、その先に別の村落が無いかと期待をしていたが、旅人の獣道は草の叢生に呑まれて消えてしまっていた。
始めの内は背丈の低い草が群がる程度であったが、その内に視界を枝が占め、大地の傾斜も強くなり始めた。
麻の衣が草の汁で汚れ、何となく手足に痒みを憶える。
掻き毟る訳にもいかず、次第に彼女の心は逆立っていた。
この分だとまた野宿だろう。ミクマリは溜め息を吐く。
野宿自体は毎晩の事であったが、いつも眠るに我慢が出来る場所を見つけられるとは限らない。
硬い岩の上で夜を明かす時もあれば、風雨に震えて眠りを諦め歩き続ける時もある。
それでも、ミクマリは亡き故郷と妹達の無念を想い、耐え忍び続けたのであった。
尋常ならば、女が唯の一人で旅を続けるのは至難の業である。体力が持とうとも、賊や獣の類に悩まされなければならないからだ。
しかし、ミクマリは二つの点に於いて常人を超越していた。
まず一点は巫女であること。
彼女は水分と呼ばれる巫女で、“憑ルベノ水”と呼ばれる水術を操る事が出来た。
これは守護霊ゲキに依って彼女の中に見出された才能で、水に霊気を通して操作する事の出来る術である。
水から穢れを取り除く事も、水を濃い霧へ変えたり、反対に空気の水気から清い水を作りだしたり、水を操作し圧力による破壊を起す事も出来る。
空腹に困る事はあっても、命の要である水に困ることはまず有り得なかった。
更には、身体を構成するものの多くが水気を含む故に、武芸は持たぬものの、術に依りそれなりの身体能力を有することも可能である。
ミクマリが幾ら痩せた子女であろうとも、有象無象が相手であれば、力比べで打ち負かす事も、逃げる事も容易いのだ。
もう一点。
ミクマリは“甘手”と呼ばれる体質であった。天性である過剰なまでの慈愛が成せる業か、それは“多くの鳥獣が彼女に対して懐く”というものである。
獣達は彼女の嫋やかな手が伸ばされれば、舌で擽らずにいることは難しい。
故に野犬や狼、熊に悩まされる事はない。
寧ろ、冷え込む夜は寝座を共にし暖を取るのを求められる程である。
稀に空腹や何らかの怒りで我を忘れた獣に遭遇する事態もあったが、そこは水術で水を顔に浴びせ、後は抱擁するだけで無用の争いを治める事が出来たのであった。
これには熟練の巫覡であるゲキですら驚いた業であった。
これらの技に頼り、ミクマリは故郷を離れてから僅かにして、遥か遠方へと歩を進めていた。
彼女の大願は黒衣の術師共に泯滅せしめられた里の者達の敵討ちである。
同じ人間へ手を下す事への迷いは未だに強くあったが、絶望した心へ生の活力を与えた祖霊への返礼を欠く気も毛頭無い。
ミクマリには敵の正体を掴むよりも先に、すべき事があった。故に宛てない流離いを行っている。
宛てないの漂泊の理由は、大願成就の為に“巫力”を高める事。
巫力とは巫覡としての能力全般を指す。巫覡は人の暮らす覡國に於いて万能の職者である。
祈祷、卜占のみならず、産褥の立ち合い、死の弔い等の生死に通ずる役を代表し、治療や調薬にも手に染め、舞踊や詩歌、機織り、集団の長としての政治、徴税等多岐に渡る。
果ては國に依っては王よりも上に位置し、助言諫言までも行っていると聞く。
巫力を高める事とは、単純に霊気を磨くだけではなく、巫女としての経験を積み、様々な業を求める事。その為の旅である。
ゲキ曰く、『黒衣の術師に抗するには己を欠けの無い神代とし、偉大な神を降ろしその力を借用せねばならぬ』。
神に認められる器と成るには、単なる霊気の高まりだけでなく、純潔を維持し、万事に於ける巫力も高めねばならない。
特に立ち振る舞いを表す舞踊の習得と、神の器を飾るに相応しい衣を身に着ける必要があった。
依って、ミクマリは単なる飯の種としてだけでなく、“舞”と“織物”の技術の師の探求も兼ねて集落を巡れと指示されている。
しかし、先の農村の態度から鑑みるに、部外の者は対価や義理を立てずには歓迎されない模様で、行き先には暗雲が立ち込めている気がしてならなかった。
加えてこの悪路。人里から遠ざかっている様にしか思えない。
『詰まらぬ景色だな。追い剥ぎの一人や二人でも出てくれば面白いのに』
退屈した霊声が耳に届く。
「面白くありません」
『術を験す良い機会になるだろう。昨夜の様に、本番で仕挫ると難儀するだろうからな』
「無闇に人を傷付けるのは厭です」
『マヌケめ。巫女を蹂躙せしめようとする輩を討つのを“無闇”とするなら、何事も全て無闇だ。なあに、良くすれば飯や服を献上して貰えるかもしれんぞ』
「どっちが追い剥ぎですか!」
ミクマリは頭上に向かって声を上げた。
『念の為に言っておくが、人の肉は喰らうなよ。穢れて黄泉に引かれるからな。そうでなくとも、お前の場合は巫力が落ちて神代から遠ざかる』
「食べません! 殺しません! ゲキ様は冗談が過ぎます!」
霊魂を見上げ喧々とやるミクマリ。
『強ち冗談でもないのだ。飢えて邪に転ずる者も珍しくない。國や村から出れば身を守る規律は消える。頼れるのは力のみだ。そう云った界隈に慣れ親しんだ連中の心根は信ずるに値しないものだ。情けを掛けるだけ危険が増すのだと肝に銘じておけ』
「お説教は充分です。村人や旅人にだって色々あるでしょう。貴方だってご存じの筈です、私の里に暮らす者は優しい方達ばかりでした」
『そうだな。里長であったお前は舌が捻じれる程に甘かったからな。加えて、里は山神の庇護も受けて非常に豊かだった。俺が生きていた頃は其処までではなかったぞ。富めた点に関しては評価してやりたい処ではあるが、もう俺達の里は亡いのだ』
――亡くなってしまったのだ。
「……」
『良いかミクマリ。いくら善人であっても、気を許すべき範疇と云うものがある。賊を殺さぬと言ったが、お前の愛する子供達は理由も分からず殺害されたし、妹巫女は里を守る為にと殺し返しもしていたぞ。それだけは、努々忘れるな』
ミクマリは沈黙を続けた。ゲキも、それ以上は何も言わなかった。
しばらく歩き続けると、清水の音が耳に届いた。
いくら身体や水気の操作が得意なミクマリであっても、歪んだ地面や阻む草木を払いながら身を清める術を行使する程の器用には達していない。
心身を落ち着かせる為に十分な量の水を欲するのは常人と同じである。
加えて水分の巫女の場合は、身を清める水場は気の流れの滞らない川や滝である必要があった。
「お水の音がします!」
尤も、彼女の耳が近くの清流の声を拾ったのは巫女としての素養曰くと云うよりは、若い娘としての側面が大きかった様であるが。
ミクマリは川の付近に誰も居ない事を深く調べ尽くすと、まずはその身に絡まった不機嫌を流して、こう言った。
「ゲキ様は向こうで漂って居らしてください」
笑顔で遠くを指差す娘。
『目を離すのは不安だ』
不満気なゲキ。
「それは問題ではありません。あっちに行って下さい」
山中の小川。ミクマリは再びどことも知れぬ森を指さし言った。
『肉体も無しに欲情できるか。そもそも、お前の身体は俺が生前であっても悦ばんわ』
「祓いますよ!」
ミクマリは腕を振り上げた。
『やって見せい。霊魂であっても今のお前を屠るのは十も数えんぞ』
それはミクマリも承知の事であったが、彼女は腕を下ろさない。
『願わくば早い内にそれが冗談で無くなれば良いのだが。お前は年頃の癖に身持ちが堅すぎる。見られたからどうと言うことはも無いだろうに。それよりも、マヌケのお前から目を離す方が不安でならんわ……』
「神和の巫女なら身持ちが堅すぎても悪い事はないでしょう!? 落ち着かないのであっちに行って下さい!!」
ミクマリは再三の警告を発する。
漸く、彼女の頭上に聞こえていた霊声は遠ざかって行った。
ミクマリは余計者を追っ払うと早速に麻の衣を纏ったまま水流へと身を沈めた。
晩夏の山はそれ程身体に厳しくは無かったが、山から湧き出る爽涼な流れは彼女の心身に快楽を授けた。
加えて、水の中に何かの神の残した僅かな神気を感じた。巫女に成るまでは気に掛けもせず、感じもせぬ事であった。
暫くは衣を洗う序でと考えて着衣の身を浸していたが、神へ敬意を表する為に汚れた着物を脱ぎ去ってしまった。
嫋やかな肢体。食事を後輩へ分け与えて来た為に、余り脂肪は見当たらず、必要最低限の機能としての肉が張りのある弧を描いている。
細い首、肩幅はやや貧弱であったが、水桶や村の幼子を抱き抱えた二の腕や、忙しなく働き回った脹脛に弛みは見えない。
母の象徴こそは足らぬが、骨格は女子。広い腰に、どこか邪気無い膨らみを残した腹部。臀部も肥えた女共には負けるものの、大地の引力には見事に打ち勝っていた。
水を掬い肌に這わせる手先もまた、見る者の睫毛を擽る。
しかし、その年齢に相応しく無く、彼女の腋や股座には揃毛が見当たらなかった。
これは発育不良ではなく、“巫女の霊気は毛に宿る”為に、気を散らさぬよういっその事、剃り落としてしまえと師に命じられての事であった。
巫女の頭髪は揃毛は呪術の代や厄除けの守りとして効力を発揮する。
その為、敢えて頭部の毛のみを残し他を削ぐことで霊気の集まりを操作するのだ。
頭の全ての毛を落とし禿頭にする法もあるらしかったが、その場合の霊気の制御は独特であり難しいらしい。
ミクマリの場合は、特に頭髪の霊的な質に優れる為に長く伸ばす方がより有利であった。
尤も、至宝の髪を持たずとも、剃髪の命等下されれば泣いて許しを乞うたであろう。彼女にとって髪の毛は幼少よりの自慢である。
処で、巫覡の師であるゲキがその助言が出来たと云う事は、若い娘の行水が検閲されていたという事である。
それに気付いた時、彼女は胸隠し髪を逆立て激怒した。守護霊は嗤った。
ミクマリは毛を失ったばかりで擽ったい部分を撫ぜ清めながら、無礼な祖霊の気配を探った。
――ゲキ様は肉体が無ければ欲情をしないと言いましたが、彼の問題ではなく、私の内の問題なのです。
彼女は少々人より恥じ入る質の強い娘であった。他者に肌を晒したり、個人的な穢れや清めに関わる事を覗かれるのは堪え難い。
また、権力を披露したり、公に出過ぎた真似をするのも苦手であった。
この気質は無理に里長と巫女とを兼ねる事をせず、妹に巫女業を任せる要因の一つとなった。
――もしも私が初めから巫女であれば、里を守る事が出来たかしら?
“憑ルベノ水”は万能の術である。だが、自分の場合は洗濯や壁の土塗に活用するのが関の山だった様な気がしてならない。
――里の子供の世話に明け暮れていた私。甘い過去。
ゲキ様の忠告も尤もかもしれない。やはり私は甘いのだ。
もっと心・身・霊を磨かなくては。
ミクマリは肢体を隠すこともせず、川の中で立ち尽くした。
師に教わった三つの霊気の性質を思い出し反芻する。
一つ、意志弱き植物や命無きものへと働き掛ける“探求ノ霊性”。
裸身の巫女は屈むと掌を水中へ沈めた。それから兎の首根っこを掴む様に水を引き摺り出し、水に霊気を通して見事な球体へと変じ、誰へと無く球遊びを披露した。
一つ、自身の霊気の流れや錬磨を担う“調和ノ霊性”。
巫女は水面を蹴り一回転、空中に提髪の真円を描いた。その瞬く間に、濡れて重くなっていた筈の黒髪は適度な湿り気へと早変わりした。
長い提髪を払い、辺りへ娘の香りを薄霧と共に散らす。
一つ、神や霊魂、生命の通った物に働きかける“招命ノ霊性”。
ミクマリはこれに関しては余り得意ではなかった。
他者の体や霊気に直接働き掛ける系統であり、憑ルべノ水の治療術もこれに含まれる。
他人の怪我の動的な修復。それは慈愛の極みである。故に早く習得をしたいと願ってはいるが、どうも他者を操作するという行為に大きな抵抗を感じる質が妨げていた。
加えて、不謹慎な考えではあるが、怪我人でも居なければ験す機会も得られない。
招魂の術にしても、この辺りで気取れる人魂はゲキ位しか居ない。今呼べばまた何らか辱められそうな気がする。
――ふと、何者かの視線を気取った。
鍛錬に集中し過ぎたか。肝を冷やし気配を感じた木立へ顔を向ける。
「あら?」
ミクマリの撒いた霧の中に鹿が立ち尽くしていた。
彼女は微笑を洩らし、川へ招いて遊ぼうかととも思案したが、何と無しに彼の立派な角に怖気づいて見つめ返すだけに留めて置く。
暫し視線を交わし合っていると、少し面白い事が起きた。
名も知れぬ小鳥が鹿の角を止まり木に羽を休め始めたのだ。
鹿がいつまで辛抱するかと見守ろうとしたが、霧の霊気が鼻を擽ったか、間もなく彼は盛大な“くさめ”を披露した。
驚いた小鳥は森の広げる手の中へと逃げ去る。
娘の瞳は鳥を追う。先には太陽。
陽は僅かに傾き始めていた。眩しさの余り眉を顰めてしまう。表情とは裏腹に、斜陽を受ける身体は満足気に陰影を作る。
彼女は太陽が大好きだった。
気の高まりを感じ、何となく先程の小鳥を真似て舞ってみる。
静かに腕を伸ばし、指先で夕陽を指し示し、腰を引き、足裏を川底に摺る。
ゲキは神前に捧げる舞も習得せよと指示していた。
娘は舞の稽古に興味はあったが、師事する相手の気性や踊りの種類に不安を感じていた。
踊りにも様々なものがある。
静寂に融ける動きを神髄とするもの、天変地異や荒魂の如くを狂った様に表現するもの、局部を晒し笑いを売るもの。
成るべくなら最初の一つ以外の流派は断りたい処だ。稽古を見られるのも恥ずかしいので、我がままを言うと人に師事するよりも山や川、鳥や大地に教わりたい。
気の向くままに肢体を操り、川の一部になった心持ちで髪を宙に流す。
すっかり乾いた脛を水と空気の境界が擽り、胎内にも僅かな昂ぶりを感じる。
――どうせ陽が沈めば歩は鈍る。このまま満たされるまで舞い続けよう。修行も兼ねて、今晩はこの辺りを宿としましょう。
とは言え、ずっと肌を晒すのも端ないので、好い加減に衣を着よう。
ミクマリは枝に干して置いた麻の衣に手を伸ばした。
しかし、彼女へ災難が降り掛かった。
見知らぬ手が茂みから伸びて来て、娘の衣へ手を掛けたのだ。
******
卜占……占い。
神代……神を乗り移らせる為の器。
神和……神をその身に降ろす儀式。
揃毛……陰毛の事。
荒魂……荒ぶる霊魂や神の荒々しい側面を指す。