巫行029 朝焼
ミクマリは鼻腔に漂う黒煙の薫りを受けて、咽ながら意識を取り戻した。
身体は奇妙な脱力感に包まれ、村からは幾つかの火の手、自身の上に覆い被さるのは気を失った隻腕の里長の姿。
最後に見た光景が脳裏に過ぎる。
人の片腕の重み。重量以上のそれ。
だが今はそれ処ではないとトウロウを担ぎ、湖の水を大量に宙に浮かべ、村へと急ぎ運んだ。
思いの外身体は軽く、抱く女の身体も軽く、また持ち上げる水も軽かった。
――私は勝ったのだ。何が起こったのか、全く記憶にないのだけれど。
湖にも、里にも、水神の神気は欠片程も見当たらない。あの神はどうなってしまったのだろう。
ミクマリが村へ到達すると、驚くべき光景があった。
あの村民達が協力し合って消火活動をしている。
火事場泥棒だらけだろうと想像していた分、かなりの拍子抜けであった。
ミクマリは、矢張り彼らも人間なのだ、情を持ち合わせているのだ、と嬉しくなった。
水分の巫女は、消えた水神の代わりに、湖の水を使って雨を降らせた。
嘗て神の所有物だった水は、沛然と燃え盛る家々へと降り注ぎ、瞬く間に煙と共に炎を鎮圧する。
「ミクマリ様! ミクマリ様!」
あれだけ余所者を搾取しようとしていた村民が彼女を称賛し、欽仰し始めた。
そして、それを怠る者が打ち込んだのは、火事の家の住人を叩きのめし里から追い出す事だった。
ミクマリは悟った。
己が神に等しい巫女を打ち倒し、それを担ぎ、村の混乱を神に代わって鎮圧する。
それがこの里の者にどう映るか。今の彼女には容易く理解が出来た。
形だけ炎を消してやると、何者の声にも耳を貸さず、元の里長の館へと急いだ。
「トウロウ様!? 水分の巫女……! 矢張りそうですか、そう言う事ですか」
迎え出たのはトウロウの配下の巫女。腕には藍の包み。
ミクマリがトウロウを寝かせてやると、その横に赤ん坊が置かれた。
それから御付きの巫女は、二人に何も言わずに屋敷から去って行った。
「トウロウ、トウロウ、確りして」
呼吸はある。霊気も弱いがまだまだ巫女のそれである。
ミクマリは彼女の残った腕に赤子を抱かせてやると、いつか屋敷の主がやった様に、水術で屋敷を囲い結界を張った。
「ミクマリ」
背後で声。
「トウロウ、起きたの?」
「蒙昧だったが、ずっと意識は在った。だが、とても疲れていた。神和がこれ程疲れるものとは、知らなかった。最初で最後になってしまったが」
「水神は消えたの?」
「そうだ。最早彼女の神気は感じない。お前にも分かるだろう?」
「神様はまた、生まれて来るわ。人々が自然への感謝を忘れなければ」
ミクマリは竹林の童子を思い出す。彼は真直ぐに育っているだろうか。
願わくば、今度ここへ訪うのも優しい神様でありますように。
「ふふっ、そうだと良いがな」
自嘲気味に笑う、騙しと利己の里の長。
「水神は消えてしまったけれど、貴女と貴女の娘は生き残りました」
これに関してはミクマリも声が僅かに弾んだ。
「そうだな、良かった」
彼女も同意の様だった。もう一度繰り返される「良かった」。
ミクマリはトウロウが甘美な笑みを浮かべる様を眺めた。
彼女は仰向けのまま、片腕で胸の上の娘を静かに撫でている。
「……静かだ」
「結界を張りました。今夜ばかりは音も通さないでしょう」
「そうか、済まぬな」
礼を言う母親は窓の外を見つめている。その先では、水の結界に揺らぐ朧月が昇り始めていた。
勝利者と敗北者、二人はそれ切り言葉を交わさなかった。
そしてその晩ばかりは母子は静かに寝息を立て、誰の手も必要としなかった。
秋の長夜。
ミクマリは揺らぐ月が窓の外をゆっくりと進むのを眺める。
遮蔽された世界には虫達の声すら届かない。唯々月だけが和煦なる光を届け続けた。
眠りに落ちる前に、余分と悟りながらも結界に通わせた霊気を確かめる。
今のミクマリならば過去に盗人を縛った縄の様な失態は犯さないであろう。
巫女は慈愛を燈した瞳で母子を見守り、胸に哀しみを抱き眠った。
翌朝、ミクマリは“雀の鳴く声”で目を醒ました。
音をも遮る結界の中、身体よりも早く焦燥が起床した。
窓を見ると薄っすらと白む空が未だ水壁に依り揺らめいている。
一方、入り口の結界は内から喰い破られる様に破壊されていた。
「二人が居ない!」
慌てて屋敷の外へと飛び出すミクマリ。未明の冷たき空気が肌を震わす。
間も無く耳へ飛び込んで来たのは罵声と嘲笑の声。
胸騒ぎと共に不安の根源へと急ぐ。
そこに在ったのは、巫女や戦士達の姿。
――彼等に囲まれて蹲るのは嘗ての長。
彼女は在った筈の残りの一腕も奪われ、虚ろな目で空を見上げていた。
「お前は負けた。お前はもう俺達の長ではない」
髪を掴み、石の刃を手にする戦士。
ミクマリは激しい霊気を練り上げ、雷神の残り香と共に、放たれたままの髪を逆立てた。
蜘蛛の子を散らす様に逃げる反逆者達。
「トウロウ、確りして!」
抱き上げる藍と血染めの巫女装束。
「……」
何事か譫言を漏らすトウロウ。掠れて聞こえない。
ミクマリは取り急ぎ辺りを見回す。どうにかして腕を繋ぎ治してやりたかったが、それに必要な躰が見当たらない。
代わりに彼女が見つけたのは、こちらの様子を見てほくそ笑む嘗ての従者の姿。
女は見覚えのある布を握っていた。
それは、藍から黒へと変じ、赤いものを滴らせていた。
「ミクマリ様」
御付きの巫女は包みを投げ捨てると、薄っぺらい服従の笑顔を見せた。
「私達の新たな里長に。水神の気配は消えましたが、代わりに抑えられていた稲霊がお目覚めになりました」
「……!」
戸惑うミクマリ。腕の中の女が小さく笑った。
ミクマリは新たな里長の座を拒み、古き里長を抱き疾った。
彼女に悲しみが悟られない様に、憎しみが届かない様に、遠くへ、遠くへ。
「ミクマリよ」
掠れた呼び声。
脚を止め、声の主を見つめる。
ミクマリには彼女の問い掛けが恐ろしかった。
「里の火災はどうなった?」
「え? 火事?」
想定と違う質問に僅かに動揺する。
「火事は、村の人が協力して消していたわ。私も手伝った」
「そうか。火災というものは、燃え広がるものだからな。里の何処が燃えようとも他人事ではないのだ。あいつ等、火が消えたら急に争い始めただろう?」
何が可笑しいのか、トウロウは笑いを漏らす。
その頬は血の気を失い、藍の入れ墨に負けず劣らずの青さを放っていた。
「そうね。あれでは心配です」
「そうか? 私は頼もしく思うが。心配する事は無い。私がこうなった以上、誰かが私に取って代わるだろう。私が里長に就いたもこの様な形であった。神は居らずとも、里が己の物と為れば、責と富からは逃れる事は出来ぬ。誰かが任に就き、その呪いに囚われるだろう。それがこの里の伝統であり、生き方なのだ。繰り返すのだ。泯びる事もなく、永遠にな」
「永遠……貴女もまだ生きましょう。傷を癒します」
失われた腕は繋ぐ事を諦め、治療を促すミクマリ。
だが、トウロウの僅かな霊気がミクマリの招命の操作を拒んだ。
「もう、子を抱く事も叶わぬ体だ。生きとう無い。勝ったお前が生きよ」
「貴女達のやり方ならば、勝った方が自由に決めても良いのではありませんか?」
ミクマリは僅かに皮肉な笑みを浮かべる。
「ははは、残酷な女め。拒むのも自由だ。拒めぬから不幸になる。……人の死が辛いものなのは分かる。里を失ったお前にとっては、特にそうだろう」
「里は神よりも貴女を失った事の方が大きいわ。貴女は厳しくも優しい人なのだから」
目頭が熱くなるのを感じる。
「里を非難しに現れたかと思ったら、今度は里の為に泣くと言うのか。本当に変わった奴だ。私が心配なのは、お前の行く末だ」
非情の里の女はミクマリを見て悲し気に笑った。
「あゝ、お前の頭を撫でてやる腕があれば良かったのに。両腕を欠いても、容易く朽ちぬ命が恨めしい」
深い溜め息。
ミクマリは唯、彼女へと涙を注ぎ続けている。
「ミクマリよ。一つ訊ねても良いか?」
「何……?」
胸が早鐘を打つ。トウロウから身体を自然と離してしまう。
「私の娘。あの子はどう為った……? 愚図るものでな、それで外へ出たらこの様だ」
反逆者の握っていた血塗れの包みが脳裏にはらり。
残酷な問いが若い娘の胸を鷲掴みにした。
「どう為った?」
繰り返される問い。
「……あの子は、貴女の御付きの巫女が抱いていたわ。里と共に引き継いで育てるって、言っていたわ」
喉を絞り、胸を圧し潰し、涙零しながら答える。
「そうか。それは良かった」
母親の笑み。
ミクマリは嗚咽を漏らす。
「なあ、ミクマリ。嘘や欺きも、満更捨てたものじゃないだろう?」
トウロウは降り注ぐ涙に加勢を加え、声を震わせながら呟いた。
「……そうね」
「最期に一つ、頼みがある。私には生きる希望は最早遺されてはない。だがまだ鼓動は身体を生かしておる」
トウロウは憎々し気に言葉を吐いた。
ミクマリは聞き終わらない内に「厭です」と言った。
「全く、羨ましいものだな。生娘なだけでなく、“こっち”の方も童貞なのか?」
薄い嘲笑。
ミクマリの腕が意志とは無関係に持ち上がった。
「どうして!? 手が勝手に!?」
焦燥するミクマリ。
血濡れの巫女を抱いた大袖は赤褐色に染まり、その手もまた、他者の霊気の根源で包まれていた。
「お前が私から技を学んだように、私もお前から学んだ。お前の血操ノ術は見事なものだった。私を殺し、寿いでくれ。私に里の者を恨ませないでくれよ」
腕を滑らす彼女の体液が、生娘の伸びきった掌を命の上に導く。
娘は弱々しく抵抗し、首を振った。
「いかに心身の純潔を誓おうとも、“母”が何かを抱き護るには、その掌を汚さぬ事は叶わぬ。私がお前の姫飯を炊いてやる。だから、安心しろ」
ミクマリの腕は静かに胸を貫き、肉と肋骨を掻き分け、心の臓へと伊邪那岐われた。
迚も暖かな滑りと鼓動。娘は自身の爪先が膜を破るのを確かに感じた。
もう一人の水分の巫女は最後の役目を果たすと息を吐き、永遠の眠りへと就いた。
娘は血塗られた御手を引き抜き、未だ汚れぬ手と握り合わせ、天を拝む。
別れた支流が一つに戻るかのような祈りの腕。
逝った御霊と、これからの旅に願うのは慈雨のだた一つ。
「高天に、還る命を、寿ぎます」
空に立ち上る静かな光。還る霊魂を見送る巫女。空への光は消え、地平線の向こうから新たな輝きの足音。
暁天、燃える朝焼けが里を、湖を、娘の血染めの掌を唯一色に塗り潰してゆく。
ミクマリは、静かに始まりの太陽を見つめ続けた。
ふと、足元に気配。哀しき母巫女の亡骸を、黄泉の蟲が引き受ける音。
世の理とは云え、無常なる肉の末路。水分の巫女は努めて足元の蠢きを無視し立ち上がった。
「……ゲキ様。傍にいらっしゃるのでしょう?」
問うミクマリ。彼女の頬は既に乾いていた。
『ああ。ずっと見守っていた』
背後に霊声。
「私、復讐を果たそうと思います。私の為でなく、黄泉や高天に去った里の者の心の為に」
『そうか』
「それからもう一度、一から里を興してみようとも。今度は決して間違いません」
『信じているぞ』
「だから、私の行末を見守って居て下さい」
振り返るミクマリ。整い、そして芯の通った顔立ち。
これまで、彼女の面に纏わり付いていた春の如き邪気無さは過ぎ去っていた。
『……ああ、お前の行末を見守り続けよう』
彼女の守護霊が優しく揺らめいた。
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姫飯……精製し柔らかく炊いた飯。