巫行028 火雷
気付けばミクマリは湖面の上に両足を立たせて居た。
『隙は作ってやった。お前の招命ノ霊性の成長、今こそ見せ貰おう』
「ゲキ様!」
見上げれば翡翠の守護神。
『躊躇している暇は無いぞ。之より御神胎ノ術に依り神代と成りし処女の身体を神に捧げる!』
「この辺りに神様が?」
『この雷雲はあの水神の呼んだものではない。覡國に遊ぶ古ノ大御神の一端だ。炎と雷を司る雷神が、都合良く来てくれたわ』
「そうなのですか。それで、私はどうすれば神様を……」
『贄を捧げよ』
「贄……?」
ふと、ミクマリは自身が何か“重たいもの”を持っているのに気付いた。
――血塗れの腕。
水神は依り代の腕を奪われ、貌を炎の様にしながら呻いていた。憐れな蛙の死骸は粉々になって辺りに散っている。
「ゲキ様、一体何を為さったのですか!?」
『腕を切り、蛙共を潰しただけだ。水神なら再生位は出来るだろう。依り代の身体まで再生できる程強い神では無いかも知れぬが。まあ、そんな女共の片腕でも、神に捧げる供物には充分だろう』
「そ、そんな。だって、この腕は……」
藍の包みに抱かれた赤ん坊の夜泣きが蘇る。片腕では抱けても護れない。護れても抱けないのだ。
『お前は何もせんでいい、神に心身の全てを許せ。肉という肉から力を抜け。穴という穴から霊気を捨てろ』
脱力の指示、だが巫女の身体は恐怖と悲しみに震えるのに尽力した。
「マヌケめ! お前は温良なる里の再興を誓ったのではないのか? 目の前の過ちの神を討ち、その女の娘の未来を護りたくはないのか!?」
師の叱咤。
ミクマリは髪に挿した妹や祖霊との繋がりである霊簪を外し懐へとしまう。
それから全身の力を抜き、湖へと身体を沈めた。
濁り行く意識の中には真のまほろばを描いて。
『國津覡より、天津高天へと願い申す。ここに捧げたるは処女の身体と贄の腕。招きに応ぜられるのならば、その胎を御槍で貫きませい!』
遠くで祝詞が上げられる。
――玉響の光。
天に叢生する黒雲から一本の御雷が降りた。
湖面突き抜け、神の御槍が巫女の身体を貫く。
「……子に続いて腕までを奪いよって。水分の巫女め、さっきの気配は何なの? ほんの一瞬だけど、夜黒を感じた。お前は一体、何者なの!?」
水神は顔を上げ、正面を睨む。
その先には、同じくカミ解き放ちたる巫女の姿。
「吾は火と雷を司りし古ノ大神也。其処の小娘よ。神を捕まえて夜黒とは随分な挨拶であるな?」
ミクマリの喉から発せられるは太く腹に響く壮年の男の声。
「神気!? ……抜かったわ。真逆、専属じゃない神和の巫女が居るなんて。売笑よりも質が悪いわ」
水神は神気を膨れ上がらせ、一瞬にして湖面から湖底までの水を支配下に置く。
水神は神気を含ませた水柱で姿を隠し、己の傷口を摩った。
「嘘、腕が再生しない……!?」
出血は止まったものの、あるべきものは戻らず。
『当たり前だ。千切れたのとは訳が違う。神の供物に為ったのだからな。火雷の大神相手に何処までやれるか、見せて貰おうか』
愉し気に声を響かせるゲキ。
「そこな霊魂よ。吾と何処かで逢ったか? 吾を招ける力の主はそう多くあるまい。いや然し、黄泉の者に知人は……」
女の首を傾げる雷神。
轟音が響いた。迫るは大津波。
「火雷の神が余裕振っちゃって! 火は水に弱く、雷孕む嵐は妾の味方でもある! そしてここは妾の領地!」
大波が雷神の姿を掻き消した。
直後爆発。大量の水蒸気と共に巨大な火球。
片腕の水神は水面を踏み鳴らし、高圧の気を孕んだ水の龍を生やした。
龍は火球に当たると霧になり消えた。
「水で消えない火があって堪るもんですか!」
歯噛みする水神。
「これが水神の力であると? 何の過ちか。国津の力はその程度のものか? どれ、少し神遊びとゆこうぞ」
火球が消え、中から黒髪振り乱した巫女が現れる。火袴揺らし、雷衣翻し、その貌に男の笑いを張り付かせて。
水神は数多の水球を呼び出し、水面に無数の光の蛙を走らせた。
雷神は小さな火の粉で応じ相殺し、蛙は彼に近付くだけで霧散した。
「は、は、は。水神と言うからあの女の娘か将又、大陸の龍神か何かかと期待したが、蛙と来たか! これは面白い!」
大口を開けて笑う雷神。
「何が可笑しいの!? 妾は聖なる湖に暮らす蛙ノ比売神よ! 季節知らせ、雨招き、多産を象徴する命の母! この國の主だと言うのに!」
力量差に加えての侮辱。水神は小娘の如く嘆いた。
「蛙の癖して國等とは烏滸がましい。神ならば己の意志のままに只、在れ。人間の伺いや祈り等に意味等無い。下らぬ執着と流れ滞る水溜まりが貴様を堕落させたのだ」
雷神は娘の細い指を村の方角へ向かって差した。
「この遥か先には、海があったな」
指先へと空間が吸い寄せられる。指先が電撃を纏い始めた。
「この巫女の身体は大変具合が良い。吾の伏雷迅が地を勃ち湖を海へと放つ河を創れるか、験してみようぞ」
「止しなさい!」
水神は片腕の女の身体を駆り、放たれようとする雷へと立ち開かった。
「愉快。神が人の壁に為ろうと言うのか。受けて立とう。吾が八つの雷の術。耐えられる数は如何程か」
雷神が笑う。
水神は御霊を削り神気を絞り出す。
「一ノ迅雷、火雷迅」
詠唱と共に指先と水神が雷で結ばれる。
水神の身体が燃え上がった。
悲鳴上げるも水柱に依り消火。神気の加護か、依り代の身体には傷一つ見当たらない。
「無傷か? いや、今ので神気はニ分は滅したな」
水神は肩で息をしていたが、その場を動こうとしない。
「ニノ迅雷、咲雷迅」
小さな雷球が水神の前で爆ぜる。咲き乱れる雷の花。それは依り代の身体を切り裂いた。上がる血飛沫。
「ふむ、再生を司る神だけはあるか」
裂けた身体を瞬時に繋ぐ水神。彼女の顔には最早、余裕も嘲笑もない。
「為らばこれはどうか? 三ノ迅雷、大雷迅」
雷神が巫女装束の袖を振り上げると、里を覆う黒雲が発光した。
山を、湖を、里全体を数多もの稲妻が降りた。
家々の何軒かから濛々とした黒煙と火の手が上がり始める。
水神は振り返り、頭を振り、己の里を害したのと同じ雲を拝んだ。
神力の差か、片腕の祈り故か、雨は降らず村の炎を見逃した。
「ふむ。器の女を壊すかも知れぬが、もう少し遊んでみるか。四ノ迅雷……」
振り上げられる左腕。その手の中には小さな雷槍。
「もう、止めて頂戴! どうしてこんな事をするの!? 同じ神なのに、妾も、妾の民も貴方には何もしていないのに!」
祈りの先を破壊の雷神へと切り替える水神。
「意味が分からぬ。吾は天津者で、貴様は国津者だろうが。仮令、神だろうと人だろうと、誰しもが破壊し、侵略するものだろう。壊れればまた作ればよい、奪われれば奪い返せばよい」
「それはそうだけど!」
水神は借り物の身体で泣いた。
「貴様は、海の向こうに就いて考えた事があるか?」
雷神が問う。
「海の向こう? 海にすら繋がってないのに、考える必要はないわ。妾は妾の里の事で手一杯よ」
「そうか。吾には、一つだけ愁事がある。近い将来、海の向こうより訪れる人間達が、新たな教えを持ち込むと卜に出た」
「そんなの、これまでもあったし、今日だってあった。だから妾は、里の人間に外敵を排除する法を授けるの」
「……小さき事よ。里や國等ではなく、もっと大きな話だ。信仰の意味すら揺るがす事変。幾万年の均衡を破る大事変だ。やがて人々は大自然ではなく、矮小な人間の起こす善行や奇跡を崇め始め、自らに破滅の種を植え付ける事に為ろう。山河と巫覡の時代は幕を閉じ、知識と虚言の時代が始まる」
「知識と虚言? 願ったり叶ったりじゃない。妾の里が、妾の教えが正しい事が証明されるだけ。尤も、他所の事何て関係ないけれど」
口を歪ます水神。
「矢張り蛙、大海を知らぬか。もう、遊び飽いたわ」
雷神は瞳を閉じ宣った。
水神は残りの生命を全て削る心算か、髪を逆巻き広げ、湖面を引き上げ一枚の岩壁とした。
……しかし、予測は外れ、火雷神を宿していた筈の神和の巫女の身体が崩れ落ちる。
傾き沈み始めた太陽。
ミクマリの身体からは霊気も神気も感ぜられない。
「僥倖! 何だか知らないけれど、好機だわ!」
予想外の展開にも油断無い欺瞞の神。
片腕に水の螺旋を纏わせ、沈みゆく巫女の心の臓へと突き立てる。
「……全く、天津の神と云うものは身勝手な者しか居らぬのだな。付いてゆけぬわ」
巫女の貌が嘆息と共に再び男へと戻った。
巫女の手は水神の穿孔を食い止め、掴んだそれをそのまま圧し折る。
「余所の神が入った直後に使うというのは余り良い心地ではないな。気が立ってしまう」
「貴様。古の神が出たと思えばまた夜黒か。妙だとは思っていたのよ。ここ数日、厭に蛙達が騒いでて」
顔を歪ます水神。
「お前の顔は見飽きたわ」
男覡は腕を振り上げ、敵の神代を空高く投げ上げた。
「夜黒が気に召さないのであれば、地の霊気で祓ってやろう」
見上げ笑う。
「呪きなさい。古の神の力を失った抜け殻に勝ち目等無いわ!」
嘲笑を取り戻し、雷撃への防御に充てていた神気を攻撃へと転ずる。
「妾の胎に呑まれるが良いわ!!」
水神が宙で両腕を開く。
主に呼応し湖が開く。巫女の身体は湖底へと落ちてゆき、気に依って硬化した水壁がその身体を挟み込んだ。
「干物みたいに潰れなさい!」
念じ、割れ目を閉じる湖の主。
しかし湖は巫女を挟み込む寸前で停止した。
「この程度の神気等、裂くに易いわ」
大禍時、死にゆく太陽に照らされた巫女が嗤った。
整った男の貌を宿していた彼女は何処か?
そこに立つ者の貌は一層に別人。
黒髪棚引き、口大きく歪み犬歯覗かせ、黄金の瞳を爛々と燃やす。
……そして額からは、黒々とした二本の突起物。
「そうれ」
両手が振り上げられた。大袖からは異様な長さの爪が覗く。
爪の一撃に依り、岩盤の様な湖が左右六つづつに割け砕けた。
剥き出しの湖底より跳躍する異形の巫女。
その貌、水神の目前へと迫る。
「若しや、オニ――」
節くれ立った掌が神へと向けられ、神気でも夜黒でもない男覡の霊気が発せられる。
「か、神を祓うって言うの?」
依り代より神気を漏らし、天へと立ち昇らせていく水神。
「火雷神の言葉に耳を貸さなかった愚かな神には、学びが必要だ。覡國生まれの無知なる神よ。神の海である高天で学んで来るが良い!」
「い、厭よ。妾は里の子達を見届け……」
閃光一閃。
器たる藍の巫女装束が光に包まれる。
「高天に還りし命を寿ごう」
宙にて上げられる祝詞。
その湖の神の有する神気は祓われ、覡國より残らず消滅した。
それから角の生えた巫女は、落下して来た隻腕の巫女を抱き止めると湖畔へと飛び、崩れ落ちる様に倒れ伏した。
眠る二人は、神でもなく、鬼でもなく、只の娘であった。
『何処までやれるかと見物していたが、まさか古ノ大御神の力をあれだけ使い熟すとはな。……この娘は、俺の想像以上に素晴らしい器に育って来た様だ』
娘達の上で揺らめく霊魂は、妖し気な光を放っていた。
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国津神……地上生まれの神。当作では人間の暮らす世界=覡國。
天津神……神の国生まれの神。当作では神の暮らす世界=高天國。
大禍時……逢魔が時。夕暮れ時。古来より昼から夜へと転じるその時には禍が生じるとされた。