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巫行027 湖面

 神聖なる山々からの(ナミダ)を受け続けた巨大な皿。

 小舟浮き魚獲る者あれば、魚狙う鳥追う者あり。

 水鏡映す、緑の裾のが波紋で揺らめいた。


 二人の水分(ミクマリ)は、湖面を沈むことなく歩んで行く。


 力の最大の発揮と、里への最大の配慮。


 果し合いは水神(ミズガミ)の擁する湖の上にて行われる。


「私、貴女とは戦いたくない」

 此方(コナタ)愛憐(アイレン)の巫女ミクマリ。水面に映るその顔が震える。


「背を向けぬのは意外だったな」

 彼方(カナタ)欺瞞(ギマン)の巫女トウロウ。見据えるのは敵か、里に残した娘の未来か。


「貴女なら地の果てまででも追って来るでしょう」


(ヨウヤ)く一つ理解して貰えたか。為らば、この戦いの決着がお前の死を意味する事は分かるな?」

 先を切って霊気(タマケ)を練り始めたのはトウロウ。

 波紋揺れ、飛沫(シブキ)が術者を中心に舞い上がる。


「私も、未だ死ぬ訳にはいかないの。もう少しで答えが見つかりそうだから」

 相手の練気(レンキ)に呼応し、霊力を高めるミクマリ。瞬く間に相手よりも大きな渦を作り出す。


「昨日は力を隠していたか。だが、それは私も同じ事だ」

 トウロウは掌を広げ湖面を叩く。人の頭程の水球が(トオ)浮き上がり、次々にミクマリへと迫る。


 村中での戦いと同じ様に大袖を振るって弾く。

 腕が軋んで苦悶の表情を浮かべるミクマリ。昨日とは全く重さが違う。

 調和(ノドミ)の力に依り、迫り来る水球を回避する。

 前に飛び、後ろに飛び、空で身を(ヨジ)り、湖面に手を衝き宙返る。


「避けてばかりでは(ナブ)り殺しだぞ!」

 再度水球を(コシラ)えるトウロウ。


 ミクマリが回避の際に着水した水面にて上げられた水飛沫。

 それには彼女の霊気が籠っていた。

 無数の水滴が水面へ帰らず静止、トウロウへ向かって横殴りに叩きつけられた。


 トウロウは霊気の護りを張ったが全身を打つ痛みに(ウメ)いた。

 彼女の仕度した水球はミクマリの作った横雨に打たれて弾けて消えた。


「矢張り恐ろしい霊気の量だ」

 敵方の唸り。反面、ミクマリは「もっと強く撃つべきか」、「どうすれば殺さずに無力化できるか」を探る。


 迷いの差は直に反射と速度に影響する。

 ミクマリは次の試みに移る前に、敵の背後に立ち上る巨大な水の蛇を見た。


 これまでに向けられた事のない水圧と霊気が経験不足の巫女を襲う。

 回避、回避、回避。下がれど下がれど水牙(スイガ)は追い縋る。


 氷上でする様に湖面を滑り、巫女の(クツ)航跡波(コウセキハ)を描く。

 引き波に宿った霊気の残滓(ザンシ)が波を縄とし、大蛇を掴み水中へ引きずり込んだ。


 トウロウは続けて水面を叩き、招かれるは二匹目の大蛇。

 ミクマリも模倣し、相対する蛇を一皮上回る水蛇(スイジャ)を召喚する。


 爆流と爆流の押し合い、弾ける水滴が雨の様に降り注ぐ。

 高位の水術師達に雨は届かず。二人はまるで日向に居続けたかの如く、乾いていた。


「霊気の“量”では歯が立たんな」

 トウロウの口元が不敵に歪む。


 気配を察知した時には背中から全身を抜ける衝撃。

 背後より現れた更に別の水流がミクマリを空へと運んだ。


 木の葉舞う様に放り投げられた娘は、余りの速度に呼吸を忘れる。宙で速度を失った時、遥か下方に固き水面を想像した。

 太陽の眩しさに瞳を閉じれば、方々に幾つも自由な水気があるのを感じ取る。

 霊気の膜を広げ、水気を掻き集め、数多の水の布を展開。それを順々に踏みながら下へ引き寄せられる力を緩衝した。


「着地した!? やるではないか」

 称賛と共に水蛇の群れが迫る。


 息付く(イトマ)もない攻防に、ミクマリは思考を抜かして応対した。


 何の変哲も無い水球が浮き上がる。ちらりほらりと覚束ぬ。


愈々(イヨイヨ)息切れか。思いの外早かったな」


 勝利の気配を感じたか、トウロウは僅かばかり気を抜いた。


――瞬間。


 そこに在った筈の小さな水球達は消え失せ、唐突に水蛇が裂けて力を失う。

 トウロウの頬を掠めて蜂の唸る様な音が過ぎ去った。


 藍色の鎌を(カタド)った入れ墨に一筋の(アカ)


 超高圧の水撃。(アタ)れば死あるのみ。


 頬を撫ぜ、震えるトウロウ。


「私はお前が恐い。ミクマリ!」


 叫び。初に相対した時と同様の手が打たれる。

 彼女を中心とした広範囲の水源が支配下に置かれた。


「これならば何も術は使えまい」


 いかに湖と暮らす水術師とて、湖面広くを制するだけの余力はないのか、肩で息をするばかりで追撃は来ない。


 波打っていた湖面は次第に平穏を取り戻して行く。



 湖面で向かい合う二人。



「トウロウ。私は貴女が本当は優しい人だって、分かってる」

 ミクマリは呟く。彼女色に塗り替えられてゆく湖。加えて懐には肌身離さず持ち歩いている竹の水筒も温存してある。


 トウロウは水面に座り込み、(ウツム)いた。


「慈愛なんぞあっても、奪われるだけだ。だが言ったろう。私達は必要以上に外へは干渉せぬと。それなのに、何故お前は干渉しようとするのだ」


「赦して。来るまでは知らなかったの。貴女達には貴女達の理由があるって事を。皆、あの水神がいけないのです」

 歩み寄るミクマリ。


「……」

 トウロウの垂れた前髪の隙間から、一滴の雫が落ちた。


「本当に、ごめんなさい。私は貴女に勝たなければならないの。腿を穿(ウガ)たせて貰います。傷は治せても、血を失えば動けないでしょう。貴女はその腕で娘を抱いて下さい。私は水神の目の届かない遠くへと、貴女達を(サラ)います」 


 ミクマリの掌には重く鋭い水の粒が浮く。


「水神様が仰ったからだ。だから、騙した。だから、殺した。だから、恨まれた。いつぞ寝首を掻かれるかと怯える夜は、もう厭だ。私は、月夜に娘と二人で心置きなく眠りたい」

 震える母親の声。


「この里はやり方は悲しいけれど、学ぶべき処もあった。貴女の生きて来たこれまでだって、きっと意味のあるものなのでしょう」

 ミクマリは術を解き女へ手を差し伸べた。



 握られる手。



 しかし。



「……甘いぞ、私は蟷螂(トウロウ)衆の頭首だ!」



 トウロウのもう一方の手には砕けた小さな水瓶。


 ミクマリの胸から背に掛けて鈍い痛みが貫き、肺から息が漏れる。


「ちっ、心の臓は外したか。お前が学んだ様に、私もお前の術を真似させて貰った」

 飛び退くトウロウ。その貌は頭首の名に恥じない笑いを浮かべていた。


 ミクマリは痛みを堪えて傷を癒し、痛みに依り手放した制水権を慌てて取り戻そうと気を練り直す。


「お前の様に手早くは出来んが、これだけあれば充分だろう!」

 トウロウの周囲に無数に浮かぶ水の粒。


 それが一発、また一発とミクマリに放たれる。

 済んでの処で逸らし、(カワ)し、白衣(ハクエ)(アカ)に染め、致命の一撃を何とか逃れる。


 繰り広げられる水と血の乱舞。

 ミクマリは傷を負う度にそれを塞ぎ、隙を突こうと水球を拵える度に穿たれ続けた。


 血に塗れ湖面へ(ウズクマ)る娘。

 彼女の流す血液が徐々に湖面を穢してゆく。


「傷を治す力も失ったか。最期だから言う。お前は変わった奴だが、嫌いではなかった。……娘を救ってくれて、ありがとう」


 蟷螂衆の長は娘の頭に手を(カザ)した。



 沈黙。放たれぬ(トド)めの一撃。



「水が、重い……?」


 勝利者の顔が焦りを滲ませる。



「……私も、貴女の事が好き。色々教えてくれてありがとう」

 ミクマリは立ち上がる。


「お前、水に何をした?」


「私の霊気で血を薄めて湖面全体に張り巡らせました。最早、この水は貴女の命を聞かないでしょう」


「湖全体をか? ば、化け物め……」

 トウロウは血の気が引かせ、後退る。


「化け物ではありません。私も、貴女達も。乱暴な事はしたくない。里は誰かに任せて、私と一緒に」

 再び伸ばされる手。


 これは優しさか。或いは力に依る脅しか。

 更にその先を見据えて、慈愛の巫女は冷徹なる救いの手を差し伸べた。



『そうは行かないわねえ』

 湖面を声帯にしたかの様に霊声(タマゴエ)が響き渡った。


 妙齢の女の声。


 天を覆う黒雲。


 霹靂(カミトキ)の音が響き渡り、濛雨(モウウ)が立ち込め始める。


「水神様!」

 仕える巫女は絶望と共に天を見上げた。


『トウロウ。負けたのね』

 嘲笑う水神の声。


「まだやれます!」


『無理よ。あの小娘は戦いながらずっと、霊気を込めた血と汗を湖に散らし続けていたの。水神から湖を(ヌス)むなんて、畏れ入ったわ。霊気で負けて、術を偸み合っても負けて、化かしでも負けたのよ。その上水を押さえられていて、どうしてまだやれるなんて言えて?』


「待って、水神様! トウロウを赦して! 赤ちゃんを殺さないであげて!」

 ミクマリは天に向かって敵の娘の命を乞う。


 返事は嘲笑。


『あはははは! マヌケ娘! 死ぬのはお前よ! ……トウロウ、貴女の覚悟と里長としての矜持、(シカ)と見せて貰ったわ! 霊気(タマケ)調和(ノドミ)探求(モトメ)。これら全てで小娘に負けていても、貴女には神が居る。湖の神であるこの妾がね!!』


――その身に神を宿したるは招命ノ霊性(マネキノタマサガ)


 トウロウは身を弓形(ユミナリ)に仰け反らせ、肺の空気を全て吐き出す。

 白唇(ハクシン)から漏れる吐息と共に弾けるは(アイ)絵元(エモト)


 カミ解き放ち、その身に宿すは湖の御霊。


 長髪振り乱す女は大きく息を吸い、天より降る雨に喉鳴らし、神に相応しき無邪気な微笑みを浮かべた。


神代(カミシロ)に降りるのは何代振りかしらね? 子を流し続けた割には、良い身体してるじゃない」

 愉し気に自身の胸に触れたり、身を捩ったりをするトウロウの身体。


「水神を宿した……」

 ミクマリは人型から発せられる神気に(アテ)てられ、流れ出る汗が止まらない。


「そうよ。妾はトウロウじゃなくって、水神様よ」

 袖振り上げる水神。


 神と異流の巫女を繋ぐ湖面が緩慢に持ち上がる。


「あら? 水が重たいわね。じゃあ、こっちね」

 水神は喉を鳴らし奇妙な音を立てた。


 すると、彼女の足元の水が大きく盛り上がり、湖底より稜威(イツ)なる生物が姿を現した。


 その体躯は小屋程もあり、横に広い顔には相応しく長く裂けた口。

 (イボ)に覆われた肌には、汚水で満たした器の様な二つの目玉が飛び出していた。


「おっきな、(カワズ)?」

 不気味な神気を纏った化生を前に、鳥肌立たせるミクマリ。


「妾の子。さあ、ご飯よ。あの巫女を丸呑みになさい」

 盟神探湯(クカタチ)不要。神の審判と共に(ヌメ)り尖った大蛙(オオカワズ)の舌先が伸びる。


 命の危険よりも先に生理的嫌悪感に突き動かされ、巫女の娘は飛び退いた。


「逃げても無駄よ」

 舌が巫女を欲して何度も突き出される。


 (カワ)すミクマリ。

「人で無いなら!」


 大袖を湖に浸し、迫り来る桃色の器官に向かって振り上げる。


 蛙の悲鳴。斬られた舌先が水中へ沈む。


「よくも妾の子の舌を。妾の加護を破り、精霊を傷付ける力を持ち得るなんて……お前も人ではない!」

 水神の顔が怒りに燃える。

 辺りの水が泡立ち、中から光り輝く蟾蜍(ヒキガエル)達が現れた。


「きゃっ」

 無数の蛙が娘の身体を覆い隠していく。

 どんなに霊気を込めても、子蛙達は(シカ)としがみ付いたまま。


「水神とは再生を司る神でもあるのよ」

 いつの間にか生え変わった舌がミクマリを巻き取る。


「只では死なさないから。妾の里を荒し、妾の巫女を騙し、妾の子の舌をちょん切った憎いお前!」


 舌に依り締め付けられる身体が悲鳴を上げる。


「先ずは神のやり方を否定した事を謝って貰おうかしら。それから舌を引っこ抜いて、蛙の子を孕ませてやるわ!」


「どれも結構です。幾ら神様だからって、やって良い事と悪い事があるでしょう!?」

 時間を掛け練った霊気を膂力(リョリョク)に回す。今度は舌が軋み始める。


「良いも悪いも決めるが神よ! 妾はこの湖に宿り、近隣で暮らす民の為に考え、決め、そして今日まで繁栄させて来たの! 巫女達だってずっと苦労をして来た。今更、何処の誰とも知れぬ小娘一人に引っ掻き回されて堪るもんですか! 外敵は排除する! 湖と里は妾が護るわ!」

 大蛙の舌が神の叫びに応じて娘の身体を締め上げる。


「……子を成し、只生きて来れたからって、それだけでは護ったとは言えないわ。貴女は皆の性根を曲がったものにした! 心を穢し続けて来たのよ!」


「神の行いを穢れと言うか! 矢張り、淫祠邪教(インシジャキョウ)の魔物は貴様だ!」

 舌に禍々しくも逞しい筋が浮かび上がる。


「はっ!!」ミクマリは発気の掛け声と共に蛙の舌を爆ぜ拘束を脱する。立て続けに水面に拳を突き立てた。


 湖面より天を貫く水槍(スイソウ)が、蛙の顎から脳天に柱を通す。


「貴様あ! よくも妾の子を! 育てるのに何百年も費やしたのに。もう許さない、使えるかと思って手を抜いてたけど、それももう終わり。里を泯滅(ビンメツ)へと導く、毒をばら撒く拝み蟲め! 神術の神髄をその身に味わうが良いわ!!」


 音が消える。

 神殿で体験した以上の圧力。


 岩に閉じ込められたかの様に身体が動かない。

 血汗で制御していた筈の水も応答を返さない。

 霊気を幾ら練ろうとも振り解けない(オモリ)に、巫女は湖面へ潰れた蛙の様に押し付けられた。


 皮肉か偶然か、動くのは舌先だけ。


 身体伏せて屈しようとも、見つけた答えは手放さない。

 神の心に一矢報いようと苦し気に言葉を発する。


「……貴女は初めから何一つ護れていなかったのよ。私と同じ。この里は何れ必ず(ホロビ)るでしょう」

 死を目前とした言葉であったが、込められたのは呪いではなく、憐れみであった。


「あははははは! そうか、お前の里は泯びたんだったわね! 残念ねえ! 折角、妾の里で多くを学んだと言うのに、それを活かす機会も無いなんて!」

 大蛙の死骸の傍で、女が河鹿河鹿(コロコロ)と嗤う。


 ミクマリは暗がりに落ちる景色を眺めながら、口の中で呟いた。



――若しも、若しももう一度機会があったら、私は里を再建したい。

 今度は間違えず、甘いだけでなく、本当の意味で人々の為になる優しさで溢れる里を。



『その言葉に嘘偽りはないな?』



 圧し潰されそうな神気を掻い潜り、男の霊声が届いた。


******

稜威(イツ)……超自然的な生物や現象を指す。太古の日本人は神聖な霊や神等を稜威と呼んだ。


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