巫行026 水神
翌朝。
ミクマリはトウロウと朝餉を共にし、立て続けての精の付く料理に胃を摩りながら村を歩いた。
加えて穀物の粉を焼いて固めたものまで持たされている。
トウロウはそれに甘い樹液を掛けて食べるのが好きらしく「権力者の特権さ」と笑っていた。
天気も良く、村は賑やかだ。
朝の野良仕事に向かう農夫、粘土を捏ねる細工師、毛皮を干す女。
良くある村の風景。だがその足元には怨みと妬み嫉みの根が張っている。
「なあ、巫女様。ちょいと頼みがあんだが」
大の男が若気た笑みを浮かべて擦り寄って来た。
「何でしょうか」
何処か身を固くしてしまうミクマリ。
「“これ”、やられるか?」
そう言って男は盃を呷る仕草をした。
「お酒ですか? 私は呑みません」
ミクマリは冷たく言った。
彼女の飲酒の経験は、直会にて里長として唇を濡らした程度である。
隠れ里の数少ない困り者に、酒を呑むと何処にでも湯放り、糞放る男が居たので無用の飲酒は避けていた。
彼女はそうは為った事は無いが、何にせよ、酔わせようとする事に悪意を感じる。
「そうか、残念だあ。俺はここで酒刀禰をやっててな。米が醸せたもんだから、巫女様に試して貰おうと思ったんだがな。外から来た巫女様の感想も聞いてみたかったしなあ」
「お米のお酒ですか」
ミクマリは物珍しく思った。酒と言えば木苺や桑の実を醸すものだからだ。
「そうさ。醸しの業は刀禰である俺しか知らねえからな。この村じゃ巫女と戦士の間位に偉い。食いもんと水から酒を造る法は殆ど巫覡の扱いさ。だけどよ、呪術の類は使えねえから腹の立つ奴を蠱れねえ。そこで、酒と交換で蟲をやって貰いたかったんだが」
結局は碌でもない目的だ。
ミクマリは湧きかけた興味を枯らせて「自分は蟲の使役は疎か、他人を蠱る術は何も持っていない」と説明した。
「へえ、詰まりは直接叩く方が好みなんだな。昔はトウロウ様に良く御願いしていたんだが、身籠った子供を流してから酒を嫌う様になってしまってな。最近では俺の顔を見るのすら嫌うもんで、少し寂しい位だ」
「お酒は妊婦の身体に悪いのですか?」
「迷信だと思うがね。上客の山名人は夫婦揃って蟒蛇だが、童は腕っぷしも欺きも中々に育ってるしなあ」
「ふうん……」
今度妊婦を助ける機会があったら気を付けてみよう。
「あーあ。そろそろ、積もり積もった怨みで酒が醸せそうだぜ。あいつにくれてやる分に尿か屎でも混ぜてやるかなあ」
男は下品な話を独り言ちながら去って行った。
男から解放され、暫く村を低徊していると、今度は子供の泣き声が聞こえた。
反射的に駆け寄るミクマリ。
本来の気質の事もあったが、昨日の深夜にトウロウと一緒になって、彼女の娘へ世話を焼いた癖が残っていた。
「どうしたの?」
畦道にしゃがみ込む童男に声を掛ける。
「おっ父が面白くない事があって、おっ母を打って、おっ母が俺を打ったんだ! 瘤が出来ちまった!」
苦笑するミクマリ。この程度の事なら、これまで来た穏やかな村でも耳にした話だ。
「じゃあ、私が治してあげるね」
ミクマリは手を差し伸べた。
すると、子供は急にミクマリの衣の胸に手を突っ込んだ。
「外の巫女の術なんざ要らねえや! トウロウ様に治して貰うもんね!」
駆けて行く童男。
ミクマリは衣の内側で蠢ものに頬染め悲鳴を上げた。
引っ張り出すと蛙。
悪童の背を見送りながら溜め息を吐いた。
昨日同様に小さな騒ぎに事欠かない村だったが、今度は村の外れに人集りと怒号を発見した。
ミクマリは不安と共に霊気を弄びながら近づいた。
「手前! 足抜けしようったってそうはいかねえぞ!」
「お前が畠に糞を撒かなきゃ、誰がやるってんだよ。それしか能がない癖にさ!」
老若男女が一人の痩せた男を取り囲んでいる。
「何で俺ばっかりがそんな仕事しなきゃなんねえんだ。糞集めなんざ辞めてえよ」
「厭なら誰かに押し付けりゃ良いだろうが。それが出来ねえから手前はいつも厭な臭いをさせなきゃならねえんだ」
「お前が外に出た処で食べてけやしないよ。臭過ぎて獣は逃げるし、木苺だって枯れちまうさ」
罵倒に押されてか痩せた男は立ち上がり、人集りを掻き分け逃げようとした。
「足抜けは赦さんぞ!」「触るな穢れる!」「蟷螂衆の恥め!」
痩せた男は鋤で行く手を阻まれ、農具や棒切れで突き回され、殴打された。
「止めなさい!」
慈愛の巫女が割って入る。
私刑を行っていた群衆は昨日の巫女同士の攻防を見ていたか、手を止め響いた。
「よ、余所者が口出しするんじゃねえ!」
それでも気丈にやり返す男。
「そうよそうよ! それに、足抜けしようとしたこいつが悪いんじゃないの!」
女はそう言って再び棒を振るった。呻く脱走者。
「貴方達は間違ってるわ。辛い仕事なのだから、誰かが手伝うか、変わって上げたら良いでしょう」
ミクマリは村民達を睨む。
「手伝うだ? 厭なら押し付ければええ。仕事で向かっ腹が立ったんなら、嫌いな奴の家に糞でも投げればええ! それが出来ない奴は十人に一人二人だ。数を数えて見ろや、どっちが変わってるんだ!?」
男が言い放つと、他の者が「そうだそうだ」と声を揃える。
部外の巫女は相手にされなくなり、その内に脱走者は手足を痣だらけにして村の方へと引き摺られて行った。
ミクマリは心の中で哀れな肥料やりの為に泣くと、村の観察に戻った。
見れば見る程、知れば知る程、この里の異様さに気付く。
時折、その理由や筋に成程と頷かさせられる事もあったが、それが戒律なのか呪いなのかは区別が付かなかった。
だが、間違いなく誰しもがこれを信じていたし、里全体で見れば豊かであった。
太陽が天を叩く頃。ミクマリは頭首に声を掛けられた。
「こんな処におったか。ミクマリ、少し時間をくれ」
「どうしました?」
「どうしたも斯うしたも無いわ。前代未聞だ」
溜め息を吐くトウロウ。
「何か難事でも?」
「難しい話ではない。今朝方、私は秋冬の作付けに就いて占っておった。芳しくない結果が出たから、水神様に御伺いを立てに行ったんだ。序でに、お前の事を話した訳なんだが……」
頭首が頬を掻く。
――追い出されるのかしら?
「会いたいと仰るのだ。部外の者を神殿に上げろとは、水神様は何を考えて居られるのやら」
「水神様が……」
ここの神はどの様な神だろうか。ミクマリがこれまでに邂逅して来た神々はどれも幼い者ばかりであった。
水の神と言えば浜辺の村の海神を思い出す。彼女は信仰を好く受け、村の意志を汲みたがる善神であった。
「神殿を血で穢す様な真似は為さらないだろうが……どちらにせよ、お前にも私にも拒否権は無い」
トウロウはそう言うと口元を引き締めた。
「大丈夫、貴女に苦労は掛けさせないわ。御目通りが叶うのなら願ってもない事です」
湖の里の守護者たる水神。その真意が知りたい。
ミクマリもトウロウと同じ様に口元を引き締め、里長へと視線を真直ぐに合わせた。
神殿。
高床に上がる階段。両脇に燃える浄火。
樹皮を剥いた白木の丸太で組まれた本殿。
天地二つの炎を反射するそれは、神の威光を表す。
トウロウの指示に従い、入殿前に沓や手の汚れを洗い清める。
神前に上がる際には一礼。
内部には大きな水瓶。
二人はそれに向かって正座をする。
――背筋が凍る様だわ。
ミクマリは神殿を視界に収めた辺りから、持ち主の苛立った神気の圧を感じていた。
まるで寒垢離をしているかの様な寒さに震えを堪える。
「御指示通り、来訪者を連れて参りました」
『ふふ。貴女の言う通り、相当な巫力の持ち主ね』
妙齢の女の声が響く。冷たく棘立った神気とは違い、声には享楽の色が感ぜられた。
「喰われる側の性質である為、里に害は及ぼしませぬでしょう」
『そうかしら。トウロウ、貴女にはそう見えるのね』
「は、はい。事実、昨晩は社の巫女の奇襲から私を庇いました故」
僅かに震える巫女頭の声。
『変なの』
「確かに変わった女で御座います。力を持ちながらに利他的。この女の里はその様な者が多く住まうと聞きました」
『余所は余所。此処は此処よ。トウロウ、妾が変だと言ったのは、そこの水分の巫女の事じゃないの』
不機嫌そうな返答。
「では、何が異様なので御座いましょうか?」
『貴女よ。あ、な、た。今までなら、“毒の考え”を持った害虫をこの村に置く様な事はしなかったでしょう? 社の巫女にしても、生かせて孕ませようとしていたし』
「誤解です。社の巫女を生かしたのは男共が切望したからです。このミクマリは私と巫力は互角、故に里内で力をぶつけ合うのは危険だと判断したのです。欺き、乗せ、懐柔する。それが水神様が吾ら蟷螂衆へ御教え下さった法では御座いませぬか」
『物は言い様ね。妾を欺くつもりかしら? 貴女、赤子を抱いてからすっかり甘くなったわね。以前の真夏の太陽の様な貴女の瞳は失われてしまったわ。即疑い、即殺す。即騙し、即奪う。蟷螂衆の手本の様な女だったのに』
――そっか。あの赤ん坊が彼女を変えたのだわ。竹林の村に留まったあの子だって変われたのだもの。この里の人達もきっと……。
『妾の器に相応しい巫力を身に着けるまではと思って“流し続けてやった”けど、神和の資格を得た代わりに腑抜けてしまうなんて。残念だわ』
悩まし気な溜め息。
「“流し続けてやった”ですと? 私はてっきり自身が石女なのだと……」
トウロウの声が震える。
『そうよ。妾が石女に変えていたの。大体、人間は子が出来ると甘くなるんだから。そう言うのは妾の里には不要。数さえ増えれば後は一緒よ。卵で纏めて百匹づつとかで産めないのかしらね? 神和だって、産道を生きた子が通れば認める事にしてたから、別に赤ん坊がその後にどうなろうと、構わないのよ?』
冷たく笑う女の声。
――飛んだ悪神だ。
ミクマリは叫び出しそうになるのを堪えた。それに従わない自身の霊気が震える。
『取り上げちゃおっか?』
神気から滲み出る、殺意。
「あの子だけは! 水神様の御心に適う様、より一層錬磨に努めます故、何卒御目溢しを!!」
立ち上がり、両腕を開き懇願するトウロウ。
願いが神殿内を反響する。
『じゃ、分かってるわよね』
絶叫の残響を水神の霊声が切り裂く。
トウロウは腕を下ろし。深く、深く息を吐き。ミクマリに向き直った。
こちらに向けられる頬の入れ墨。同じ様に尖る眉。
急速に練り上げられる霊気。
ふわり、揺れる千早。
「止めましょうトウロウ! 殺し合う事は無いわ! 私、この里から出て行きます。遠くへ離れます! だから、赤ちゃんも殺さないで上げて下さい!」
懇願する慈愛の巫女。その叫びは母の叫びにも負けず劣らず。
トウロウの霊気が僅かばかり弱まる。
『……虫唾が走るわ。妾の巫女を唆かすな! この毒婦め!!』
強烈な圧が天井から降って来る。二人の巫女は床に伏せった。
『ふん、小娘共が。ここは妾の神殿。トウロウの手に余ると里の危機故に、予め結界を張っておったのだ。ここでは貴様には万に一つも勝ち目はないだろう』
妙齢の女らしかった声が、峻厳な神のものへと転じる。
『……だが、それではトウロウの忠義と巫力の験しには為らぬ。見立て通り両者の巫力は互角。トウロウよ、この水分の巫女と果し合いをし、里長と母親の地位を護り抜いて見せよ!!』
再び圧。それから解放。
二人は鈍々と起き上がった。
「……ミクマリよ。神の御意思だ。湖で果たし合おう」
******
直会……御供えした物を食べる神事。
酒刀禰……酒を造る職人。酒蔵の管理者。
山名人……山に詳しい人。
蟒蛇……大蛇。丸呑みにする様から転じて酒に強い人を表す。
浄火……聖なる炎、浄化の炎。