巫行025 慈愛
食事を済まし、トウロウが娘と遊ぶ姿を眺める。
――遣り方が違うだけで、彼女も真摯に里長を務めているのだわ。そして母親としても。
でも、これじゃその子もベニの様になって、里長の娘である事を鼻に掛ける大人に為って仕舞う。
永く続けて来たのなら、里の地下には怨みの根が張り巡らされている筈だわ。
外敵に強くたって、隣人に怯えて暮らさなきゃならないのなら、正しいとは言えないじゃない。
「来たか」
トウロウが視線を上げる。引き摺る様な足音。
「連れて来ました」
男の声。先程出て行った御付きの巫女が先に入殿し、トウロウの横に坐した。
「手間取りました。男共が中々手放したがらなかったもので」
「人の所為にするんじゃねえよ。お前だって腹癒せに遊んだだろうが」
先程の戦士の一人。彼の足元、入り口の陰には見覚えのある緋の袴が覗いている。
「戯言です」
若い巫女は戦士を睨む。
「恐いね。あんたは何かに付けて毒を盛るからな。お前は毒や拝みは得意だろうが、荒事はトウロウ様と俺達頼みだろう。毒で武器が握れなくなった者が増えると困るぜ」
遣り返す戦士。
「出来ぬと遣らぬは違います」
若い巫女がそう言うと、風も無いのに彼女の前髪が揺らいだ。
「ちっ。トウロウ様のお気に入りだからと言って調子に乗るなよ。幾ら巫女が偉かろうと男無しじゃ……」
「二人とも止せ。私はミクマリにお前達の争いを見せたかった訳ではない」
頭首が窘めると二人は揃って謝罪した。
戦士は入り口の外へ屈み込み、緋色の袴とその持ち主を引っ張り込んだ。
青竹の様な臭気が漂う。
ミクマリの前に転がされる若い巫女。
黒髪は艶を残しているものの酷く乱れている。
それは絵元が解けたからだけでなく、所々で長さが歪になっていた。
両手は後ろ手で縛られ、白衣は土で汚れ、緋袴は破れ摺り切れ、帯は妙な位置で結ばれている。
「……」
ミクマリはこれ以上に凄惨な状態で社の巫女が前へ出されるのを覚悟していた為、少し安堵した。
彼女には女の纏う竹香は、唯単に青臭いばかり。
「一応気を利かせて衣を着せて遣ったんだ。そうでなきゃ、何の女か分からなくなるからな」
戦士は得意げに笑った。
「術師の髪は剃れと言っておいただろう」
トウロウが睨む。
「禿げ頭じゃ、老人を相手にしてる様な気がして萎えちまいますよ。偶に頭に刃を入れてりゃ、霊気も上手く練れないでしょう? ま、そうでなくとも何処も彼処も穢し切っちまいましたけどね」
そう言うと戦士は自身の股の辺りを拳で擦った。
「……口惜しや。その霊気は蟲の長か」
巫女が顔を上げ、トウロウの方を見遣る。だが、その瞼は閉ざされたまま であった。
「そうだ。今日はお前に客がある。盲て見えぬのだろうが、霊気に覚えは無いか?」
「客? ……神聖な気だ。まるで山から湧き出る清流の様な。それに、途轍も無い底力を感じる」
盲の巫女は芋虫がする様にミクマリへと顔を伸ばす。
「王からの使いか?」眉間にシワを寄せる社の巫女。
「違います。私は……」
ミクマリが何遍も繰り返した口上を述べようとすると、社の巫女は瞼を見開いた。
濁った光の無い眼は微妙に外れた位置で焦点を結んでいた。
「為らば、本殿からの派遣ですね。……あゝ、御赦しを! 王の國へ神の御教えを広める任は、初めの内は全う出来ていたのです。ですが、あの豺狼なる王が巫力と武力を用いて、私達を従わせたのです。表向きは社の巫女として村々を歩かされ、併合に応じなかった村を滅ぼしました。何の悪意も持ち得ない人々を、私は……」
ミクマリに縋り依り、涙を流す女。
青臭い臭気が濃くなり鼻を衝く。
彼女の言う事が真為らば、何と憐れで恐ろしい話か。
ミクマリは心身共に穢されて仕舞った巫女へと、恐る恐る両腕を伸ばした。
「触れるなよ。傷を癒されては堪らん。水分の巫女の術は厄介だからな」
霊気を練り上げ手で制するトウロウ。ミクマリは素直に腕を下げた。
「……水分の巫女? 本殿に水術の使い手は居らしただろうか? だがこの、古の神代の気配は、我が社の流派にも伝わる御神胎ノ術」
首を捻る社の巫女。
「この反応では仲間か如何かは分からぬな。まあ、五分五分と言った処か」
緋袴の巫女達を見比べていたトウロウが言う。
――瞬間。
社の巫女から禍々しい気が沸き上がった。
「五分五分ならば賭けてくれる!!」
辱められた女に残っていた気が膨張し、瞬時に練り上げられると同時に夜色の気へと変ずる。
縄を引き千切り、腕も袖も夜黒に染め、怨恨の爪を振るった。
その先には憎き蟲の頭首……の腕に抱かれし赤ん坊。
御付きの巫女は動かなかった。眉一つさえも。
戦士は口元を卑しく歪めた。
直後、ミクマリは悲鳴を上げた。己の腕に焼け爆ぜる様な痛み。
「力を隠し持って居たか!」
トウロウは飛び退き、懐から小瓶を取り出し投げた。
小瓶は社の巫女の額で砕け、水を散らす。
母は娘を片手で搔き抱き、余った腕を敵へと突き出し霊気を込めて掌を強く握った。
夜黒ノ気に呑まれ掛かった社の巫女は頭部を爆ぜさせ、濡れた音と共に息の根を止められた。
一瞬の静寂の後、赤ん坊の泣き声が上がり始める。
「驚いた」
次に声を上げたのは戦士だ。不遜な笑みは消え、目を丸くしている。
「まさか、この女がトウロウ様を庇う何てなあ」
「トウロウ様、好機です」
御付きの巫女は未だその姿勢を崩さずに進言する。
ミクマリは熱を帯びた腕を押さえ蹲っていた。
骨が焼け軋む様な痛み。娘は平和な村に暮らしていた上に、大病や大怪我の経験も無かった。
霊気を練る事も、状況を把握する事も忘れ、只々腕を押さえ続けた。
無論、自身へ向けられた他者の霊気に気付く事もない。
ミクマリは怪我を押さえる腕を強引に引き剥がされ悲痛な叫びを上げた。
術師に組み敷かれ、怪我の箇所が押さえ込まれる。
「動くな。癒し辛い」
涙で歪む視界に浮かぶは不敵に笑う藍色の入れ墨。
「力を抜け、私を受け入れろ」
覚えのある霊気の働き。ミクマリは脱力し、為されるがままとなった。
折れた腕は熱の残滓を残し、痛みを消した。
「トウロウ様!」
漸く御付きの女は顔色を変える。
「魂消たなあ」
戦士は頭を掻きながら言葉を漏らす。
「私も魂消たよ。まさか千載一遇の好機を逃してまで、敵を癒してしまうなんてな」
トウロウはミクマリを組み敷いたままで言った。
「何が、あったの?」
ミクマリは混乱の中、鼻声で言った。
「無自覚か? 本当に魂消た女だ。社の巫女は私への憎しみで黄泉より夜黒ノ気を引き寄せた。その力を以て、我が娘へ毒爪を向けたのだ。私は子を想い、一瞬身が堅くなった。そこへお前が自身の身体を捩じり込んで来たのだ」
トウロウはミクマリの間の抜けた瞳を見て笑い、身を起こした。
「死して早くも怨念が高まっておるわ」
顔の無い死体からは黒々とした気が上がっている。
戦士ですらその黒い靄に気付き、館から飛び出して行った。
「それは、社の巫女……?」
ミクマリは原型を留めていない頭部を直視し、胃を弾ませた。
「何だ? 巫女だろうに、死体を見るのが初めてとは言わんよな? まあ良い、取り急ぎ祓う」
トウロウは片腕に藍の包みを抱いた侭、死体に掌を向け、気を高めて祓えを行った。
霧散する夜黒ノ気。
「高天に還りし命を寿がん」
黄泉色は漂白され、天井へと立ち上り消えていく。
――直後、魂の抜け殻が泡の様な音を立て始めた。
「えっ」
そこには目を疑う光景があった。
床から赤黒い無数の蟲が湧き出て、巫女の遺体を覆い隠そうとしている。
巫女の死体は血の色をした無数の蠢きに奪われていき、蟲達は跡も残さずに再び床や地面へ沈んで行った。
残されたのは清き骨と、穢れた巫女装束のみ。まるで幾季節も野風に晒されたかの如く。
「消えた……?」
ミクマリは口の中に酸味を感じながら眉を顰めた。
「“黄泉の蟲”を見るのは初めてか? 元がそれなりの巫女だった事もあり、“欲深い母”が早くに欲した様だな。それにしても、生き乍らにして黄泉に引かれる程の憎しみを生じさせるとは恐れ入った。危うい処だった。肉と霊魂の両方が黄泉國に持ち去られれば鬼と為り、この里を末代まで祟ったであろう」
祓で発した霊気は僅かなものだった筈だが、トウロウの額には汗が浮いていた。
「衣装を焼いて骨と共に山へ埋めておけ。私はミクマリと館に籠る。お前はもう下がれ」
頭首が命じると巫女は先ずは散らかった膳を片付けを始めた。
「ミクマリよ。今宵は私の館で寝ろ。互いに寝首を掻く様な真似はせんだろう。私はお前が気に入った」
――私も、貴女がそこまで悪い人には思えない。でも、残酷な人でもあるわ。
ミクマリは先程の赤い頭を反芻する。
あの人は無理矢理従わされてていただけで、トウロウはあの人に村を攻撃された。悪いのは王……。
「……なあ、私の片腕に為らんか?」
「へっ!?」
ミクマリは声を上ずらせた。
御付きの者に片付けられようとしていた膳も床に取り落とされる。
「本気だ。水神様に伺いを立てて、御許しさえ頂ければ良い。お前は喰われる側の気質が強過ぎるが、それだけの巫力と利用価値があればこの里でも命の危険はないだろう。それとも、漂泊の旅に譲れぬは事情があるのか?」
ミクマリは僅かに思案するが、大人しく打ち明ける事にする。
「……私は里を黒衣の術師集団に泯ぼされました。旅にて修練を重ね、仇を見つけ出すのが目的です」
「里が泯滅したのか。しかし、お前程の巫女の暮らす里を」
「今から数月前の話です。当時の私には巫力は備わっていませんでした」
ミクマリの言葉を聞き、トウロウは頭を掻いた。
「とすると、その短い期間で無からここまで錬磨したと言うのか。末恐ろしい娘だな」
言葉とは裏腹に、含みのない笑みを浮かべる。
「自分では良く分からなくって」
ミクマリの力は血筋と優秀な師の御蔭であったが、里の守護神に就いては伏せる事にした。
彼の気配は別れてからは一度も感じていない。
「そうか。里を失ったのであれば、私がお前を恐れていたのも理解出来て良さそうなものだが。まあ、今更言っても仕方が無いか」
トウロウが入り口を見遣る。荷物を抱え、頭を下げ退室して行く御付きの巫女。
ミクマリは一瞬、恨みがましい視線を感じた気がした。
「……先程の件に就いては礼を言おう。無意識ながらも私と吾が娘の命を身を挺して護ってくれたのだからな」
母は恩人の前に坐し、深く頭を下げた。
「い、いえ。頭を上げて下さい。私も夢中で」
慌て両手を振るミクマリ。
「霊気も練らずにあの動きは神掛かっていたぞ。お前の里では地母神でも祀っていたのか?」
「一応、山の神様の恩寵には与っていました」
「そうか。山もまた愛と恐怖が雑駁した母の様なものだからな」
藍の巫女は頷くと、暫し考え込み、口を開いた。
「ミクマリよ、お前の旅の足しには為らぬかも知れぬが聞くが良い。これまでに私が殺した術師達には黒衣の者は居なかった。先の王の御使いの一派にもだ」
「そうですか。ありがとう御座います」
「王の御使いは、遥か遠方にある國より訪れている。知っての通り、各地を行脚し、教えや統治を拒む者を次々と滅しておるのだ。そして、社の巫女から聞いた話では、王の國はたった一人の男覡であり武人である男に依って統治されていると聞く。ここと同じく力に依る統治だ。王は常に餓えており、様々な術を偸み、配下を増やし、神器を懐に収めんとしている」
「神器……?」
「神気を纏う道具や武器だと聞く。術も何か目的があって探しているのやも知れぬ。その欲深さから王は“豺狼”と綽名されておるのだ」
「サイロウ……」
「吾が里の者達も貪欲ではあるが、好んで里の外へ足を延ばす事は珍しい。里の者同士で組めぬから、然程に外界を害する力は持ち得ないのだ。湖と山河は恵みを齎すが、その地に甘んじて生を紡いで来た我らは他に頼る術を知らぬ。水神の管轄する限りある豊かな土地を奪い合い、切磋琢磨し暮らしておるのだ。この目に見えぬ結界が破られれば、欲は果てしなく外へと広がり、分不相応な野望に依り己を泯ぼす事に為るだろう。吾らの血にはそれへの戒めが脈々と流れておる。故に、外界の者に蔑まれようとも、大した事とは思えぬのだ」
「でも、疑問を持って逃げ出す者も居るのではありませんか?」
集落で出会った少年を思い出す。
「そうだな。日常事だ。だが、避けられぬ奪い合いには必ず、行き着く先が必要なのだ。気の弱い一握りの民が喰い物にされる事は、この里にとっては田畠を耕し、獣を獲る以上に必要な事なのだ」
「それは、余りにも悲しいわ」
ミクマリは目を伏せる。
「矢張り、説明して遣ってもお前の目にはそう映るか」
寂し気な微笑を浮かべるトウロウ。
「たり方を変えようと考えた事は無いのですか? 私の里も、暮らしの多くは山神の御手の内で完結していました」
「それは外敵が少なかったからであろう? 普段から外敵に備えていれば、お前の里が失われる運命は避けられたかも知れん。他所事で善後策ではあるが、私にはそう思えて仕方がない」
里の守護神と似た意見。ミクマリは沈黙する。
「それに、この法を貫いて来たのは、何も成り行きばかりではないのだ。吾々が信奉する水神様の御意思でもあるのだよ」
「神様が?」
「そうだ。山々より流れる清流が集まる湖に宿る水神でな。絶え間なく注ぐ川は他の多くとは違い、海へは行かず湖にて流れを止める。その後は何処ともなく水は消え、湖が溢れる事もない。水神はその水の流れと同じく、民にも里内に留まる事を望まれるのだ。外の者から見て正しいかどうかは問題ではない。神が御教授為されたから正しいのだ。多くの者が非難しようとも、吾々は今日まで血を絶やさず千秋千歳の時を生きて来たのだからな」
ミクマリは反論出来なかった。どんなに自身の正しさを貫き、慈愛育む里を論じても、焦土の記憶が初めから答えとしてそこにあるのだ。
「ミクマリよ、暫しこの里を良く見つめてから旅立つが良い。水神様へは御断りを入れて置く。腹心の腹黒共や民にも説明して置く」
「有難う御座います」
「すっかり陽も暮れた。私は明日も明朝から神事や政で多忙なのだ。先に休ませて貰うよ」
「では、私も」
ミクマリが追従すると、トウロウは入り口の篝火に蓋を被せる。
闇の中、少しの霊気が発せられた。
「入り口に私の霊気を通した水の膜を張った。用足しの際は私に声を掛けてくれ。お前なら破るのも造作ないかも知れんが、寝惚けてお前に霊気をぶつけるかも知れん」
「はい……」
――矢張り、悲しいわ。里の事をこんなに想って、子供も愛しているのに、自分の里の屋敷で眠る時には結界を張らなければならないなんて。
娘と共に静かな寝息を立てる女を見つめ、ミクマリは胸を切なくした。
遠く、何処からか季節外れの蛙の合唱が聞こえる。
――ゲキ様、矢張り私は間違っていないのだと思います。
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