巫行024 村長
群衆や戦士が道を空けた。人の谷間を抜けて現れたのは一人の若い女性。
鋭いが麗しい目鼻。整えられた眉は一層その顔を強かに見せる。
両の方には鎌の様な藍色の入れ墨が施され、口に差した紅はやや白く、婀娜めきを放っていた。
衣は幾重にも重ねられ、先の巫女と同じく白を基調とし、帯は藍染め。
肩には膝を越える大きな千早が掛けられており、虫の糸特有の凄艶な白い輝きを放っている。
こちらも留め紐と飾りの紐は藍色で誂えられていた。
「呆れたものだな。大方、仲間の消息を追ってこの里に来たのだろうが、それでやるのが子供を泣かせる事とは」
女は部外者の巫女へ鏃よりも尖った視線を向ける。
「トウロウ様、あたし、叩かれた!」
ベニが女へ駆け寄り抱き着いた。
「おうおう、可哀想なベニ。悪い巫女はまた私が叱っておいてやろう」
トウロウは童女の頭を優しく撫でる。
「あの私、叩いてません。打ったのはこっちの子で」
ミクマリは弁解する。
「打った? そんな事はどうでも良い。大方、ベニに仕手やられたのが面白くなくて何か仕掛けたのだろう?」
「仕掛けたって。その子は不正をしたのを遠回しに窘めただけです。……私は部外者で、そんな権利が無いのは分かってはいますが」
「村内でもその様な事をする者は居らんわ」
トウロウは溜め息を吐き、未だ抱き着くベニを優しく離すと「次はもっと良うやれよ」と言った。
童女は快活に返事をし、他の子供達と連れ立って駆けて行った。
「射れ」
子供が去ると同時に、トウロウは手を上げ命じた。
石の尖矢が風を切る。
ミクマリは高く跳躍し身を躱す。
「ほう、先に来た社の巫女は体術はから切りの様子だったぞ。どの程度頑張れるか見てやろう。斬れ!」
藍の巫女が命じると戦士達は武器を手にミクマリに飛び掛かった。
ミクマリは大きく飛び退き、視野に戦士達を納める。
見物していた群衆からは「殺せ」の声。
繰り返される攻撃を距離の余裕を持たせ回避する。危険は冒さない。
ミクマリは額に汗が浮かぶのを感じた。
――どうしよう。人間を相手に戦う事に為るなんて。
逃げる算段はしていたものの、思い描いていた程には余裕は無かった。
石槍が追い縋り、距離を取れば矢や投弾。
娘は統率された戦士を相手取る事は疎か、存在を耳にした事があるのみで見た事すらもなかったのだ。
だが、反撃に転ずれば勝機を見出すのに苦労はしないだろう。
割れた水瓶の水気、中身があるであろう水桶、額の汗。
水分の巫女には幾らでも打てる手があった。
しかし、いざ足止め程度に水術を行使しようと企むと、何時か盗人の脚を勢い良く穿った事を思い出してしまう。
加えて、戦士達の戦い振りを見物する群衆には父への声援や夫への心配が混じっていた。
「どうした、社の巫女よ。何故反撃しない?」
頭首が些か疑問を込めて訊ねると、戦士達の攻撃の手が緩まった。
「私は、社の巫女ではありません!」
舞う様に戦士達を摺り抜けながら叫ぶミクマリ。
「その白衣と緋袴は社の巫女の流派の物だろうが。先にここを訊ねた“王の御使い”の一派ではないのか?」
「衣は諸事情で譲り受けた物です。私は、王の御使いでも無ければ、王に会った事もありません!」
桶が足に当たり、水が撒き散らされる。
「では、何者だ?」
「私は、旅の水分の巫女ですっ!」
濡れた地面に手を翳し、水気を吸い上げ水球を拵える。
「水術だ!」
戦士は身を引き武器を護りに構える。
ミクマリは辺りから有りっ丈の水を集め大きな水球を捏ね上げるとそれを霧散させ、辺りを涼やかな霧で覆った。
群衆からは悲鳴や不安の声が上がる。
「皆の者、落ち着け、慌てるな。霧中で逃げると却って怪我をするぞ」
澄ました女の声。
――今が好機だ、逃げよう。
ミクマリは息を整え霊気を調和せる。
間良くばこの里の気質ややり口について里長に問うて見ようと考えていたが、矢張り悪人と云われるだけあって話は通じそうもない。
危険を冒してまでここへ来たというのに、ゲキとのやり取りの答えに至らなかった事に唇を噛んだ。
「そうか、お前も水分の巫女か」
辺りを強烈な霊気が走ったかと思うと、ミクマリの仕掛けた霧が一瞬にして晴れた。
業の使い手は蟷螂衆が頭首、藍と白の衣を纏った女トウロウ。
彼女が笑みを浮かべ、光る千早が揺らめいたかと思うと、宙に一つの水球が生じた。
高速で飛来する水球。
「貴女も水術使いですか」
ミクマリは霊気を込めた大袖を払い水球を弾く。
「そう言う事だ。水分の巫女が操る憑ルべノ水の早駆けは知っておるだろう? 逃げるだけ無駄だ」
トウロウが一歩踏み出すと、男達は武器を降ろし下がった。
ミクマリは霊気の膜を張り辺りに広げる。
辺りの桶や水瓶には早くもトウロウの霊気と思われるものが通っていた。
だが霊気の総量からして押し切れると判断し、気を練り続け水場に居座った霊気を全て追い払った。
「……驚いたな。何という霊気の量。それに練りも早い」
敵の水術師の整った眉が上げられる。彼女も負けじと霊気を練り、制水権が奪い返される。
巫女同士でしか分からぬ水面下での争いに、多くの者がどよめきを漏らす。
互いの霊気へ上書きを繰り返す。水は震え桶が分解し、水瓶が粉々に砕け散る。
破壊音を合図にミクマリは本気で霊気を練り、辺りの水分を次々と水球に変えた。
群衆から恐怖と怯えの叫びが上がる。
「本気で殺り合っても負けるとは言わぬが……場所が場所だ。お前の話を聞いてやろう」
トウロウの表情が昏くなる。
「私は社の巫女でもなければ、誰かを傷付けに来た訳でもありません」
「では、何をしに来たというのだ? 子供と角力を取りに来た等と言いはしまいな?」
「私は、里長に御話を伺いに来たのです」
ちらと見物人達を見やると、押し合い圧し合い我先にと逃げ帰っている最中であった。
「この里のやり方や教えは正しいと思えません。それに就いての御考えを御聞かせ願いたいのです。何故、他人を騙す様にするのですか? 何故、他人を傷つけ、物を壊させるのですか?」
ミクマリは水球の数を増やしながら問う。
「これだけの“脅し”を用意しながら何を訊ねるかと思えば。全く訳の分らん女だな」
「そんな、私、別に脅してる心算じゃ……」
ミクマリは敵対者に指摘されて漸く気付いた。
その気に為れば自分には、十を数える前に辺りの住人を小屋毎打ち抜き、蜂の巣にする事が出来る。
襲撃者の娘は肩を落とし、水を元の形に還した。
「今度は全くの無防備と来たか。この様な形で困らされたのは二十三年生きて来て初めてだ」
トウロウは声を立てて笑った。
それから藍の絵元で纏めた艶やかな提髪を翻して、同じく無防備に背を向けた。
「付いて来い。我が屋敷に招いてやる。戦士共よ、この巫女は客ではなく客人だからな。手出しをするなよ」
鋭い霊気が戦士達の頬を撫ぜるのが見えた。武器握り樹皮で鎧った屈強な男達が身震いをした。
ミクマリは、一瞬の間忘我に囚われたが気を取り直し、堂々と村を歩く巫女の背を追い掛けたのであった。
「背を撃たぬとは面白い女だ。私の呼び名はトウロウ。巫女を使役し、戦士共を纏め上げるこの里の長だ。知っておると思うが、この里の者は蟷螂衆と呼ばれておる」
女は振り返らずに自己紹介をする。垂れた黒髪と絹の千早が斜陽に輝く。
「私の呼び名はミクマリです。名の通り、水分の巫女です。故在って漂泊の身で、行く先々で難事に手を貸しその返礼で食べ繋いでいます」
ミクマリも応じ返す。
「漂泊者か。視線で尻が痒いだろうが許せよ。奴等は懲りぬ性分なのだ。罰されるに辛抱強く、得を取り上げられるのに弱い」
「変わった人達……」
聞こえぬ様に小声で呟く。
先程まで逃げ惑ったり、檄や野次を飛ばしていた住人達は再び集まり、興味深そうに二人を眺めていた。
「込み入った話に為るだろう? 日も暮れる。夕餉も出すし、屋根も貸してやる。村落で眠れば男女問わず一晩で股が血濡れるだろうが、私の館では許可無しに暴れられぬ様に躾けてあるから安心しろ」
里長が愉し気に言う。
「御気遣いありがとう御座います。トウロウ様」
相手の背で頭を下げるミクマリ。
「“様”は止せ、白々しい。従いに来た訳でもないのだろう? そうでも無くとも力量差は大きくないのだ」
トウロウに案内され、村の中心にある神殿に辿り着く。
樹皮を剥き磨かれた白木の柱で組まれたそれは黄昏に染まり闇を待ち佇む。
神殿の横には屋敷。造りは他の家々と同じだが、規模は五倍も十倍もある様に思われる。
先を尖らせた乱杭で壁が設けられ、門には武器を携えた男が左右に佇む。
ミクマリは門を潜る際に、門番の男が密かに震えているのに気付いた。
――寒い訳じゃないのでしょうね。彼らも立たされているのね。
頭首の指示に依り、ミクマリは広い座敷へ案内された。トウロウは何処かへと消えた。
暫く待って居ると、膳が運ばれ、石器や木器に盛られた食事が鼻腔を擽った。
「待たせたな。神への御伺いを済ませたばかりで、着替えが要ったのだ」
トウロウは白衣と藍帯の緩やかな衣装に着替え、独りの若い巫女を従えて現れた。
巫女の腕には藍の布で包まれた赤ん坊の姿。
「里の危機に腹を見せるのは好かぬが、手放せないものでな」
トウロウは正座し息を吐く。
「里の危機? 何か難事ですか? 私で宜しければ、御手伝い致しますが」
ミクマリは“里の危機”という言葉に考えも無しに口を動かした。
「何を言っておるのだ。危機とはお前の事だろうが」
呆れ声。
「私がですか? 誰かを傷付けたりなんてしません!」
両手を振り否定する娘。
「若い女が漂泊の身分で、これまでどうやって来たと言うのだ? 難事荒事もその憑ルべノ水を以って解決したのだろう?」
「それはそうですが、私、力付くで解決するのが厭で。巫力は奉仕と、邪気や夜黒の者を相手にしか行使して来ていないのです」
「信じられんな。異端にも程がある。力が無ければ従わさせられ、力があれば他者を従わせるのが道理だろうに」
「私の里では、仰るようなやり方ではありませんでしたので」
ミクマリが視線を落とすと、トウロウは顎に手を当て一唸りした。
「信用は出来んが、若しもそうなら……こう言えば良いのか? 私はこの里の所有者である故、民や建造物等を破壊されるのを嫌う」
それから横に座らせてある別の若い巫女を指さし、
「個人としても、これが抱く吾が娘の命が惜しい故に、私に勝るとも劣らないその霊気に恐怖しておる」と続けた。
「私は子供に手出し何て、絶対にしません」
ミクマリは御付きの巫女が抱くトウロウの娘を見た。静かに寝息を立てているその顔は、見ているだけで蕩けそうになる。
「それも分からん。叩いただろうに」
「あの子に手を上げたりなんてしていません。草角力で不正をするので、茎に霊気を通して打ち破ったのです」
ミクマリが弁解すると、御付きの巫女が噴き出した。赤ん坊が僅かに声を漏らし、御付きは慌てて小声で謝罪する。
「この里ではそれを“叩く”と言うのだよ。子供は無防備だ。余所者や魔性の類に拐かされるのは常だ。幼い内から他者を騙し、先ずは知恵で勝つ事を教え込むのは大人の務めだろうに」
首を捻る里長。
「自衛の力は確かに必要ですけれど……」
「お前の里ではどうしておったのだ?」
「何も。獣からは大人が護って居ましたし、他所から悪意のある者が来る事は稀有な事でしたから。この里の様に騙し合ったり押し付け合ったり等せず、皆協力し合って生きて来ました」
「はええ……」
大口開けて目を丸くするトウロウ。御付きの巫女がまた笑った。
今度は赤ん坊の眠りが妨げられ、泣き声を上げ始めた。
「も、申し訳ございません!」
巫女は慌てて腕を揺り動かし赤子を宥めようとする。
「寄越せ、丁度抱きたいと思っていた処だ」
トウロウは娘を腕に抱き、口の中で何かを囁きながら揺った。
赤ん坊は次第に静かになる。
「可愛い……」
思わず呟くミクマリ。
「だろう? だから正直、お前の来訪には焦っておる。先の王の御使いの一団程度ならば遇うのも容易いのだがな」
「王の御使いは服従を強要し、伝統の術を集めていると聞きました。この里にも訪れたのですか?」
「そうだ。お前と同じ緋色の袴を纏った巫女を筆頭とし、呪術師や戦士達を引き連れてな。水神を捨て従え等と間の抜けた事を宣うから、片してやったわ。この里は湖に住まう水神を祀っておるのだ。水は全ての母であり、命の源だ。その信仰を捨てろと言うのは、死ねと言われるのと同じ事だ」
「片したとは?」
トウロウの力量を振り返れば答えは出たも同然である。
だがミクマリは、これまで幾つかの村を泯ぼし恐怖に陥れ、自身に衣装の威光を貸した相手の最期は確りと聞いて置きたかった。
「戦士は殺した。雑魚の術師は剃って捨てた。若い巫女は殺さずに男共の慰み物にくれてやった。怨みが募っても死んだら祓い寿ぐ心算だから問題ない」
「人非人だわ」
眉を顰めるミクマリ。
「人非人? そう言えば、吾々蟷螂衆は外では“蟲”と呼ばれておるそうだな。ずけずけと里に踏み入り、武器を振りかざし、神を否定し、従わねば死だと宣う連中の方が害虫だろうが。矢張りお前、あの巫女の仲間ではないのか? 確かめるのは食事の後にして置こうかと思ったが、今直ぐ連れて来させよう」
頭首が決定すると、命令よりも早く御付きの巫女は立ち上がり退席した。
「その前に、我が娘の食事は済ませて置くか」
トウロウは客人の視線も気にせず、衣の袷を開き、非常に豊かな乳房を零した。
「おっきい……」
突然視界に飛び込んだ小山に目を丸くするミクマリ。
「? 何か申したか? 乳をやってる最中に霊気を立てるのは止してくれよな? ……全く、これまでは産まれた子が形を成さず死ぬばかりで苛立っていたと言うのに、親になった途端にこれだ。私は今、子への愛とお前への恐怖で気が狂いそうになっておる」
――矢張り、あの少年が穢れた血で無かった様に、彼女もまた人間だ。
「この子はどちらに育つだろうか? 喰う方か、喰われる方か。雌の蟷螂に相応しい女に成って欲しいものだな」
トウロウは乳に吸い付く娘に微笑み掛ける。
「死んだ水子の霊魂は何処かへ飛んで行ってしまうが、あれは何処へ向かっているのだろうなあ……」
敵客の存在を忘れたかの様な呟き。
ミクマリは目を伏せ、息を吐く。
「呼びにはやらせたが、男共から緋袴の女を引き離すには手間が掛かるだろう。お前も先に食事を済ませろ」
授乳を終え、雑に前を合わせるトウロウ。
ミクマリの目線が再び谷間に縛り付けられる。
「何を見とるのだ。お前の飯はそっちだ。熟々変な奴だが、お前は出出虫か何かか?」
「出出虫?」
ミクマリは頬染め視線を戻すと首を傾げた。
「忙しい奴だな。分からんなら良い。早う食え。女が来ると臭気で飯が不味くなる」
そう言うとトウロウは娘を抱いたまま、木彫りの匙を握った。
食事は丁寧に籾殻を取り除かれた春米を炊いたもの、何かの小魚を煮干したもの。
骨の付いた猪の炙り、鰻を開いて焼いたものに、野蒜の汁であった。
豪勢で力の付く品々であり、ミクマリの胃も急かしていたが、里の性質を考えると手が伸びなかった。
「どうした? 毒を疑っておるのか? 膳を取り換えてやろう。品は同じだ」
悪人の里の党首が膳を交換する。
ミクマリはそれでも手が伸びなかった。子供の手口が思い出される。
「仕方の無い奴だな」
煮干しを咥えながら笑う女。
トウロウは子を抱いたまま膝立ち、そのまま蓙の床の上を摺り歩き、年下の巫女へ顔を近づけた。
――潮と乳の香り。
感じた時には娘の顎は押し開かれ、相手の咥える煮干しの頭が挿入されていた。
ミクマリは余りの出来事に口移された煮干しを唇に引っ掛けながら、首から上を真っ赤に発火させた。
「ははは、面白い奴だな。本当に蝸牛じゃなかろうな? 戯れだ、許せ。私には女と目合う趣味は無い」
独り愉し気に笑うトウロウ。赤子も母親に共鳴して耳に気持ちの良い声を立てる。
「……」
若い娘は何が何だか分からないまま、諦めて食事に手を付け始めた。
毒は入って居なかったが、ミクマリは何だか心の臓を急かす様な味だと思った。
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絵元……巫女の提髪を纏める紙や布。
投弾……狩りや攻撃に用いられた石や土、粘土製の手投げ弾。
乱杭……長さや向きにばらつきのある杭。敵の進行を食い止める柵とする。
出出虫……カタツムリ。カタツムリは雌雄同体である。