巫行023 悪意
集落に於いては、水分の巫女を邪険に扱う者は一人も居なかった。
件の呪術師が頭を丸めて、胃袋に舞茸を詰め込んで、生きながらにして忘却の國へと旅立ったとの噂を小耳に挟む。
努めてそれに責を感じぬ様に心を閉ざし、困り事を抱える人々に声を掛けず、自身の望む品や情報との交換だけにその巫力を使った。
集落の者もその辺りは弁えている様で、交換の品が用意出来ない者は不用意に巫女へ話し掛ける事はしなかった。
これもまた一つの掟であり、生きる為の術か。
ミクマリは少し寂しくも思いながら、有難くも思った。
蟷螂衆はここから二つ山を越えた先にある処に里を構える集団である。
普段は多くの村と同じく、農耕や狩猟に依り生計を立てており、里に無い特殊な品を求める際にのみ里から出て来ると云う。
性質惨忍で、村の中でも争いが絶えず、何も知らずに訪れる旅人を追い剥ぎ、慰み物にするか暴力で繋ぎ止め田畠の仕事を押し付ける。
外界に現れた際には必ず他人を騙し、搾取しようとし、他人の損を祝い、他人の得を呪う。
そして正当なる怒りをぶつけられた際には相手を嘲笑い、自身を蟷螂衆の出だと言って憚らないのである。
地理以外には必要で目新しい情報は無かった。
だがミクマリは、蟷螂衆の逸話を語る住民に一人として、連中のやり方を褒める者が居ないのに気付くと、それを繰り返し自身への慰めにしたのであった。
集落で一晩明かし、陽が昇ると共に起床。旅立ちの際には近隣の村に新しい神と巫女が生まれたと云う話を耳にした。
その噂から逃げる様に、早足で一つ目の山を踏破。
調和の術を使えば一足飛びで蟷螂衆の里を拝めたかも知れなかったが、敢えて自身の脚力のみで山を越え、清流を見つけるまでは身体を癒そうともしなかった。
語らう相手の居ない旅は心許無いものではあったが、人目を気にせず所用を足せ、気紛れに鳥獣に足を止められる事は幸いだった。
蜜を喜ぶ蝶の様に自身の手を舐める獣達は癒しであり、それと同時に己の本質を再確認させるものであった。
久方振りに狐の親子に宿を借り、鼻は曲がるが心を曲げずに済む一夜を明かす。
――もう一山越えれば、蟷螂衆の里が見えて来る筈だ。
山の頂に近付くと、樹木の種類の変化に気付く。
それはある種の結界や境界線に思えた。
霊気があるとか呪力を感じるという訳ではないが、その境へ沓先を踏み入れる前に足を止め、大きく深呼吸をした。
「あ、痛てててて。腹が痛てえ!」
息を吸い終わらない内に、悲鳴が耳へ飛び込み、ミクマリは咽返った。
呼吸を整え振り返ると、木陰に蹲る男性の姿。
「大丈夫ですか?」
駆け寄るミクマリ。
「おお、その姿は、名高き社の巫女様か? 俺、腹が痛いんだ。拾い食いに中ったか、誰かに蠱られたに違いねえ。た、助けてくれ!」
男は額に脂汗を浮かべながら苦悶の表情を浮かべている。
ミクマリは思案し、心の中である“賭け”をし、男を助ける事にした。
「診て差し上げましょう。手持ちの薬草でどうにか出来る代物であれば良いのですが」
「有難え。有難え」
男は大仰な笑顔を見せる。
先ずは素手で男の腹を探り、何ヶ所か押す。痛がる様子はない。
もう一つの法を用いて視る。気の霊視。
腹腔内に呪力の点が見つかった。
詳しく見ると、丸に僅かな尾の様なものと小さな足があるように思えた。何かの蟲だ。
巫女は霊気を二本の指に通し、軽く突いてやった。
すると男は一瞬苦悶の表情を浮かべたが、首を傾げて腹を摩った。
「何をしたんだ? 腹が急に軽くなったが」
「腹に蟲を仕込まれていた様です。滅しておきました」
ミクマリが澄まし応えると、男は見る見る内に貌を歪め、またも脂汗を掻き始めた。
「手前! それはトウロウ様への忠義の証だったのに! 蟲が消えた事に感付かれれば、俺は何をされるか!」
怒りか恐怖か、男は声と身体を震わせ、巫女を睨んだ。
「小遣い稼ぎに来たのに飛んだ大損を扱いたぞ。……巫女とはいえど、所詮は女だ。取り敢えず損は返させて貰うぜ!」
男は太い腕で娘の細い手首を掴んだ。
下品な笑いと共に緋色の帯に手が伸ばされる。
ミクマリは溜め息を吐くと、霊気を込めた腕を「えい」と持ち上げ、男を宙へ放り投げた。
前情報無しでは、予め術で肉体の強化もせず近寄り、裏切りに心乱したかも知れない。
“賭け”に勝つには勝ったが、余り好い気はしなかった。
後方で蛙の潰れた様な声を聞き、気を取り直して山の頂へ向かう。
「痛ててっ! 衣が似てるだけで旅の巫娼かと期待したが、あの巫女共の仲間だったか。だけどな、何人来ても同じだぞ」
男は聞えよがしに呟き、ミクマリを追い抜き一目散に掛けて行った。
男を無みとし、頂から里を見下ろす。
なだらかな森の先に広がるのは、収穫の終わった禿げた田園風景。
計画的に土地を利用しているのか、東の方から順に土地は耕し直されている最中らしく、湿った土色を覗かせている。
灌漑も整備され、太い川から水が取り入れられている。
その川の先には、大きな湖が輝きを放っている。
目を凝らせば湖面に浮かぶあれは釣り舟だろうか。
勿論、それぞれの水場から遠からず近からずの位置に家屋が密集し村を形成している。
一つ、目を惹く白い建物。
家々がその大きな白木造りの神殿を囲む様に立ち並んでいた。
火を扱う役目を持つと思われる小屋からは穏やかに煙が立ち上り、村へ近づけば畠に汗拭く男や、野原で草花摘みに勤しむ子供達の姿も見られた。
屋根は樹皮葺きで、村内には若木の姿も見られる。
広く組まれた柵には兎が数匹閉じ込められており、珍しい長啼き鳥の姿までもが見つかった。
「……信じられない」
ミクマリは感嘆の息を漏らし、それから目を擦ったり、頬を揉んだりしてみた。
だが、長閑で豊かなそれは醒める事がなかった。
「おや、旅の巫女さんかい? こんにちは」
農夫が鍬と桶を担いで現れた。
彼の身に着ける毛皮の服は染料で染められ模様も描かれている。
「こ、こんにちは」
ミクマリは挨拶を返した。
農夫の表情は穏やかで、油断と言っても良い程である。
「驚かせたかね? 旅人には挨拶をする様に躾けられててな。余所者は歓迎しろと言われとるんだ。山越えは厳しかったろう? 良ければ宿を貸すが」
ミクマリは親切な進言に頬が緩むのを感じる。無論、嬉しいからではない。
「い、いえ、結構です」
「はっはっは。そう警戒なさるな。おらが怖いんだったら、嬶持ちの家を紹介してやるか?」
「そう言う訳では。……ここに、私と似た様な衣装を纏った巫女が来ませんでしたか?」
話題を逸らす為に“王の御使い”の事を訊ねる。
この里には荒れた様子はない。服従したのか、将又追い返したのか。
「巫女? 旅の巫女何て知らんのう。この里には、里長でもある巫女頭様と、その御付きの方々が居らっしゃるが、お前さんみたいに目立つ衣は身に着けとらんよ」
「そうですか」
「ほれ、あれがうちの巫女様じゃ」
農夫の指さす先には、小屋から出て来る年増の女の姿があった。
丈の長い麻の衣に藍染めの帯。同じく藍の布で提げた髪を纏めている。
巫女は侵入者に気付くと、慌てる事なく、一礼をし、ゆっくりとした足取りで去って行った。
「……あの方が“トウロウ”様ですか?」
ミクマリは少し思案し、農夫に訊ねる。
「いや、違うぞ。彼女は薬師の巫女じゃな。ここでは巫行の担い手に不足しとらんからな。お前さんの出番はないじゃろうて。さ、うちへ来ると良い」
そう言うと農夫はミクマリの白衣の袖を掴み引いた。
「結構です!」払い除け、身を引くミクマリ。
すると農夫は舌を打ち、「何じゃあ。折角、今晩は小豆飯を炊けると思ったのに」と言い、小走りに離れて行った。
「矢張り、何だか変だわ。油断出来ない」
蟷螂衆の悪名は知れ渡っている。里の者達もその事実を知らぬ筈はない。
その長であり集団の名を冠する巫女の名を出しても顔色一つ変えなかった。
その上、ミクマリの衣装を見てそれが巫女だと見抜いたにも関わらず、旅の巫女等は知らないと言った。
旅人を連れ込んだ後に企んでいたのは良からぬ事であろうが、いかにも胃の腑に落ちぬ対応だ。
仮に村民の多くが悪意を持って騙し奪うのを生業とするのならば、もう少し隠し立てをするとか、誤魔化しの様なものがあっても良い気がした。
ミクマリは農夫の背を目で追う。鍬の石の刃は鋭さで濡れており、足元は真新しい草鞋だ。
彼は村内に溶け込むまでに、何度もこちらを振り返っていた。
彼の現れた方、畠を見ると、別の農夫が野良仕事に精を出していた。
こちらは膝下まで土と同化し、額の汗を拭った痕が黒く汚れている。
服も汚れた襤褸で、何で編まれた物か見当がつかない。
「あの、旅の者ですが」
農夫は目の周りが落ち窪み、眼光ばかりが鋭い顔をこちらに向けた。
だが直ぐに視線を戻し、何も言わずに古びた鍬を振るった。
「貴方、無理矢理働かされているの?」
ミクマリはこの質問が畠に踏み入るのと大差無い程に挑発的だとは分かってはいたが、訊ねずにはいられなかった。
農夫はやはり何も声を発さなかったが、痩せこけた頬を噛み、より一層表情を貧相にした。
噂や、少年の言っていた事は本当らしい。
この村では、一部の人間が面倒を押し付けられ、時間や労働力を奪われるのだ。
ミクマリは身体に霊気を漲らせて何時でも逃げられる様に仕度をすると、村内に立ち入る事にした。
「……不気味だわ」
村人達は来訪者に挨拶をした。和やかに、親し気に。
これまで多くの村々を通過して来たミクマリであったが、殆どの村では部外者への挨拶は警戒と共に始まるものであった。
この衣装を借りてからは、社の巫女の威光を実感する反応を得る事も珍しくはなかった。
それが、まるで見知った隣人に声を掛ける様に挨拶をされるのだ。
更に、遠目で見た時には気が付かなかったが、村の家々には格差があった。
樹皮葺きの屋根が剥がれたままだったり、薪の備蓄や、肉や魚を干しているかどうかにも違いがある。
不自然に野良道具が複数置いてある家もあった。
続けて観察していると、驚く出来事が起った。
とある家から住人が現れ、外に置いてあった水瓶が割れている事に気付いた。
彼は太い木の棒を手にすると、それを使い隣の家の水瓶を打ち壊し、素知らぬ顔で家に帰った。
それは怒りも何も特に表さず、蓆に入り込んだ虫を手で払うかの様に行われた。
剰え、他の住人が野外で革を弄っていても、部外者であるミクマリと目を合わせても中断される事はなかった。
そして、被害者は外から帰り、水瓶の無残な姿に気付き、八つ当たりをした男と同じく棒を引っ張り出したのであった。
この一連の事件を熱心に眺めていたのは、ミクマリだけではなかった。
女達の集団。彼女達は泥か何かで汚れた腕を組みずっと報復を観察していたが、それが連鎖を起こすのを見届けると満足気に笑い合い、野外に釜土を備えた建物へと戻り、土器を捏ね始めたのだった。
――もしかして……。いえ、偶然よね。只の八つ当たり……。
「巫女さんだあ」
唖然とするミクマリの元に、揃々と子供達が駆けて来た。
身体に草花で作った装飾品を身に着け愛らしい姿を彩っている。
手伝いを兼ねていたのだろう、蔓で編んだ籠には口にする事の出来る野草が納められていた。
「こんにちは」
ミクマリが挨拶をすると、子供達も御多分に漏れず挨拶をした。
明るく元気な声。
傍の窯付きの家で土器を拵えている女が一瞥した。
「巫女さん、巫女さん、遊びをしましょ」
紅い頬の童女が歌う様に言った。邪気ない笑顔。
ミクマリの頬も自然と緩む。
「良いわよ。何して遊ぶの?」
「草角力しましょう。そいで、あたしが勝ったら、何か頂戴」
物を乞うのは少し気になる言動ではあったが、子供故の無邪気さかも知れないと思い直した。
「草角力? 良いわよ。お姉ちゃんに勝ったら、胡桃を上げる」
昨日、山道で見かけた鬼胡桃を幾つか確保し、包んでおいたのを思い出し言った。
鬼胡桃は非常に硬く、時間を掛けて割れる機会が無く食べずに置いていたが、ここならば敲石や磨石もあるだろう。
ミクマリは身体に巡らせていた霊気を大人しくさせ、袴の帯を直した。
「そいじゃあ、巫女さんにはこれ」
渡されたのは大葉子の茎。
「えっ!? ……ああ。そっちの角力ね」
ミクマリは頬を赤くした。“草角力”は草の茎同士を引っ掛けて引っ張り合い、茎が切れた方を負けとする遊びである。
「そいじゃあ、引っ張り合いましょ」
「“ベニ”は草角力強いかんな」
頭一つ高い男児が言った。
彼の言う通り、鬼胡桃はベニの手に渡る事となった。
ミクマリが素直に胡桃を一つ手渡すと、もう一度やろうと他の子供に声を掛けられる。
洟を垂らして不敵な笑みを浮かべる童男。
またもミクマリは子供の手渡す茎を受け取り、鬼胡桃を取られた。
子供達は次から次に角力を挑み、その都度胡桃を掠め取った。
「今度はお姉ちゃんにも、茎を選ばせて欲しいな」
子供達から手渡され続けていた茎は、細く弱々しいものが選ばれていた。
「何でじゃあ? そいな事したら、負けてしまうわ」
ベニが不満を漏らす。彼女は他の子を押し退けてまでも、胡桃を賭けた勝負にのめり込んでいた。
――そうか、矢張りここは、そう云う村なのだ。
狡い大人達を見て育ったから、彼等はこうする事を当然だと考えているんだ。
嘗ての村長は酷く悲しい気持ちに為った。
しかし、己のやり方を思い出し、里で子供が狡を覚えようとした時と同じ対処をする事にした。
「分かったわ。でも、胡桃はこれで最後だからね」
不承不承という感じを醸しながら、渡される茎で勝負に挑む。
ミクマリは茎に霊気を通し、頑丈にした。
里に居た頃には術は使えなかったが、何かしら子供を“教育”する為に、“大人の力”を見せるというのは彼女の得意分野であった。
「あれえ。負けちゃった!?」
ベニが目を丸くし、声を上げる。
「もう一回、もう一回」
真剣な目つきで頼み込む童女。
――こんな事、里の外じゃ通じないのに。
「そっか……里の外では通じない、か」
独り言ちるミクマリ。
ベニが不満気に睨み、「早くしろ」と騒ぐ。
次にミクマリが手渡されたのは元々細い茎を更に縦に割いたものだった。
童女はその仕込みを対戦者の目の前で堂々と行い、汁気で緑に汚れた指のまま手渡して来た。
ミクマリは内心で溜め息を吐き受け取る。
「こいで勝ったらあたし、胡桃は要らないから、その赤い袴を頂戴」
不正に躍起になる童女には悲しみを覚えたが、正直それを捩じ伏せるのは薄気味が良かった。
ミクマリは茎の切れ端に霊気を込める。
それから「えいっ」と大人らしからぬ掛け声と共に子供の太い茎を打ち破った。
「えー!? どうして!?」
涙目で切れた茎を見つめるベニ。
「下手糞っ!」
鉄拳制裁。大将格の男児が童女の頭を打つ。
「こら! 乱暴は止めなさい」
つい反射的に叱ってしまう。部外者が里の子を叱りつける、拙い構図だ。ミクマリは慌てて口を塞いだ。
「うえええーん!!」
ベニが大粒の涙と共に号泣を始める。
ふと、ミクマリの胸を不安が過ぎった。
態々大将が手を出したのだ。
実はベニは彼に従わさせられていただけで、立場を先程の痩せた農夫と同じにする子供だったのではないか?
自分は、そんな虐げられた子供を負かして教えた気になっていたのではないのか?
――私はまた、間違ったんじゃ?
「痛いよお」
ベニは泣き止まない。
子供の泣き声を聞き付け、「どうしたどうした」と彼方此方から住人が現れる。
視線は自分ではなく子供に注がれていたが、これでは誤解を受けかねない。
「どうしたんやあ、ベニ?」
年増の女が訊ねる。
「あたしは何もしてないのに、巫女さんが打ったああ!!」
「へっ!?」
唖然。ミクマリの唇が半開きになった。
ベニを見やると、その前に両手を広げて立ち開かるのは殴った当人。
口を強く結び、眉間に皺を寄せ部外者を睨み付けている。
「子供が襲われたぞーっ!」
何処からともなく声。
ミクマリは霊気を練り直す間もなく、村民達に囲まれた。
もっと悪い事に、神殿の方角からは樹皮と皮で身体を鎧い、石槍を携え顔に戦化粧をした……戦士達が現れた。
背後からは弓を引き絞る音。
――嵌められた。まさかこんな子供達まで、包に為って企てをするなんて。
歯噛みするミクマリ。
その時、戦士達の向こうから、凛と響く若い女の声が届いた。
「やれやれ、社の巫女は仕返しに童を虐めるのか」
******
嬶……嫁さん、奥さん。
敲石……固い実を割るのに使用された石。実を置くのに相応しい凹みのある石と、叩き付ける石の二つ。
磨石……実や穀物を粉にするのに使用された石。