巫行022 迷娘
霊気も気力も感ぜられぬ足取り。
爽籟に混じって耳に届く虫の音と紅葉の寝息。
それに似つかわしくない娘の心中。
ミクマリは己の失態と、村人達への過剰評価の現実を突き付けられ、酷く落ち込み悲しんでいた。
『ミクマリよ。一体どうしたと言うのだ。少々手際が怪しかったとは言え、お前は確かに神の誕生を助け、村を導いたのだぞ』
「過ちを犯す処でした。狸を殺し掛け、騒がし巫女への暴行も止められませんでした」
『狸は死ななかったし、婆も毛剃りで見逃されただろう。呪術を見破れなかったのは確かに失態だが、あの場では様々な思念と気が渦巻いておったし、お前はまだ経験も浅い』
早足の巫女を追う霊魂は優しく揺らめく。
『神の産婆を務めた巫女を弟子に持つ等、俺は鼻が高くて仕方が無いぞ』
「ゲキ様。どうか慰めないで下さい。私は、自分の甘さと訣別する為に狸を殺めようとしました。村人を想ってでもなく、竹の神への奉仕でもなく、です」
振り返れば振り返る程に穏やかでは居られない。
力に感けて増長している。私は一体何様のつもりだ。巫女だ何だと言っても、復讐を企む流れ者では無いか。
『甘さは統治者や復讐者としては欠点ではあるが、人としての美点でもあるのだ』
「らしくありません。私達は統治者であり、復讐者です。そしてもう、只の人ではありません」
『叱られたかったのか?』
師の問い。
図星だった。“マヌケ娘”と言って欲しかった。
『お前は珍しい気質ではあるが、間違いなく人だ。人の性質は移ろい変わるもの、そして間違いを犯すものだ。お前は過ちを赦す主義なのではなかったのか』
「……取り返しの付かない過ちもあります。それに、狸と騒がし巫女で二つの過ちです」
『そう意固地になるな』
「意地になるが遅すぎた位です。意地等、本当は里が泯びた時に固まって居なければならなかったのです」
『ずっと迷いがあったのか?』
「私は復讐は望んでいませんでした。里の者の無念は晴らしたく思いますが、彼等だって相手を殺める事での解決なんて望んではいません」
『何故そう言い切れる? 先の村の変わり様を目にしただろうに』
「幾ら騒がし巫女が悪事を働いたからと言っても、余りにも惨い仕打ちです。あれだけ痛めつけられた上に剃髪と集落での村八分は、殆ど死刑と変わりがありません。私の里では絶対あの様な事、許さなかった、起こらなかった」
提髪を激しく振るミクマリ。
守護霊は巫女を追うのを止めた。巫女もそれに気付き、足を止め振り返った。
『ミクマリよ。あれが普通なのだ。俺も長く旅をしていたから良く知っておる。村落と云うものは、助け合い、護り合うのが当たり前だ。だがそれは悪迄、村という区切りであり、外部の者には適用されぬ。お前は人間の善性というものを信じ切っているが、それらは元々全て条件付きの物なのだ。仮に助け合う村であっても、何かから害為されば、他所へ当たるものだ。それは部外だけでなく、部内でも行われる。喩えれば、畑から芋が持ち去られれば、腹いせに誰かの畑を踏み付ける。喩えれば、誰かに手酷く殴られれば、誰かに当たり散らしたくなる。それが普通だ。そう言った気を起こさない程に、そう言った悪事を働く必要のない程に俺達の里は豊かだった。それだけなのだ』
「私達の里が特異だったと仰るのですか?」
『違う。誰しもが持つ悪性が隠されていただけだ』
「出さずに済むのならそれで好いでしょう。理想ではないのですか?」
『理想郷だった。故に、泯びた』
故に。
「どう云う事なのですか?」
ミクマリは守護霊を睨む。
『里が黒衣の術師共に襲撃された時、戦えぬ者がどうして居たか知っておるか? 逃げ惑い、手近な者や己の命を案じた』
「当たり前でしょう。それの何がいけなかったのですか。私だって、その一人でした」
『多く場合は、その結束故に女子供も武器を取る。力量差がある場合は早くに見切りをつけ、年寄りや怪我人は保護を後回しにされるものだ』
「それでは見棄てられた者が死にます」
『俺達の里に、真に戦える者がどれだけ居たか分かるか?』
「私の妹と、男の人達と……それにゲキ様も居らしたでしょう?」
『そうだな。だが、相手は総員術師であり武芸者でもあった。平和な里の男手等、赤子同然だ。妹巫女も男共の事を共に肩を並べる戦士としてではなく、護るべき村民として扱った。単騎同士で見れば巫力も術力も妹巫女が多少は上だった。俺も滅される覚悟で手を貸せば、連中を殺すだけならば出来たかもしれん。だが、大勢の逃げ惑う民を護りながら戦うのは到底無理な話だった。男共の威勢も初めだけだ。劣勢を悟ると、敵に背を向け、巫女に助けを求め始めた。そこで、妹巫女は俺に“里の為に必要な人間”を保護する事を頼んだ』
「……それで私を?」
あの時、ミクマリは妹巫女の術に依り昏倒させられていた。
『そうだ。妹巫女直々の考案だ。彼女は逃げる男達へ言った。他を切り捨ててでもお前を護れと』
「……あの子がそんな事言う筈がない」
『お前の妹はいつも言っておった。姉様は自分の物を分け与えてしまわれる、自分の事は常に後回しだ、と。お前が報われぬのに納得がいかなかったのだ。故に他を後回しにして助けろと言ったのだ。完全なる贔屓ではあったが、俺はお前を死守する事に異論はなかった。遺されても生き延びれるだけ身体が成長しており、老い過ぎず、巫女の才覚もあり、女としての機能もあり、そして里の長だ。反対する理由はなかろう』
確かにミクマリには、妹に自身の甘さについて窘められた記憶があった。
ゲキの話す選定の理屈も理解できた。
『俺がお前を任され、逃がされた男共を追うと、連中はお前を捨て、任を投げ出し、無闇無残に術師共に追われておった。女子供や年寄りも死して居たか、散り散りで手の打ち用がない。肉の無い身体でお前を隠すのは苦労したが、何とかお前を安全な木の洞へ移し、結界を張った。里へ戻ると、残っておったのは灰だけだった』
「そんな話、聞きたくありませんでした。男の人達は勇敢に武器を取っていたと思っていたのに。皆、互いに気遣っていたと思っていたのに」
『平和に慣れ過ぎていたのだ。里は満たされ、苦労少なく、争いと無縁だった。そして、困り事があればお前や巫女が身を割いて助けた。だが、度が過ぎていたのだ。行き過ぎた豊かさと保護が、里の者の心に助けられて当然という毒を生んだ。本来は助け合わなければならないのに』
「私達の所為だって仰りたいのですか?」
棘立った問いが闇に溶ける。
『所為でなければ、何も問題は無いか?』
無感情な返答。
「その様な事……」
『お前には信念が足らぬ。迷いが多すぎる。唯、我武者羅に目の前の凶事に反発し慈愛を振り撒くだけでは、多くを救う事は出来ん。もしも、里の者が只逃げるだけでなく、里の為に非情に為る事が出来れば、何処かへ落ち延び、傷を抱えながらも新たな生に臨めたやも知れぬ』
――里の人達を甘やかしたのは誰?
「矢張り、私の所為なのね……」
嘗ての里長は非情なる事実を突き付けられ、愈々気丈な心を崩し、両手で顔を覆い、声を立てて泣き始めた。
「だったらどうして、もっと早くに間違っている事を教えてくれなかったの? これまでの旅だって、ずっとずっと、人に優しく努めて来たのに」
『何度も言ったが応じなかったろうが。だが、それも妹巫女からの頼みだったのだ。心配はしていたが、お前のその優しさは愛されていた。妹にも、全ての里の者にも。窘める程度にして、芽を摘んでしまわないでくれと言われた。本当であれば、救出時の詳細も知らせるなと口止めされていた』
「だったら知りたくなかった!」
手で覆った顔を厭々と振るミクマリ。
『駄々を捏ねるな! 妹巫女は巫女としての務めを果たした。俺も守護神として里の存続の為、民の無念を晴らす為の最良の一手を打った。お前は里長だ。たった一人の里長だ。民の総意がどう程であろうと、復讐をするか否かの決定権はお前にあるだろう。だが、するにせよしないにせよ、迷いを抱えたままの結論では、誰一人の魂も救えはせん! ……お前がこれまで、見聞きして来た事、里で暮らして来た事を踏まえて、信じたい方を信ぜよ』
「何が最良の一手よ!? 今更そんな事言わないでよ。復讐しなくても構わないのなら、神代に何て成りたくなかった! 余計な事何て聞かせずに、単に選ばせてくれれば良かったのに!」
黒髪掻き毟り、宙に浮く霊魂を睨む。
その瞳には黒き憎悪の念。守護神との繋がりを示す霊簪が乱れている。
「返してよ、私の身体を! 返してよ、私の信条を! 返してよ、私の里を!」
声震わせ力無い叫び。
崩れ落ちる娘。
――本当なら、何者にも侵されぬ里で優しさ振り撒き、民に支えられ、妹と手を取り合って暮らして居た筈なのに。
本当なら、私が悩むべきは命の在り方や自身の存在の揺らぎなんかではなく、里の小さな困り事や夕餉の献立であった筈なのに。
『……』
宙に浮かぶ霊魂は唯静かに揺らめいている。
胎が疼く。煮え滾る。
――若しかすれば、私だって今頃は結婚の儀で柱を周っていたのかも知れなかったのに。
在りもしない運命の糸を手繰る。里の祝いの場は神殿。
その奥を覗き込めば矢張り、“こいつ”だ!
「ゲキ……貴方、一体何なの? ……思えない。私には貴方が正しい者だなんて。皆言ってたわ、悪霊だ、気味の悪いものだって」
見上げる娘の目には恐怖の色が宿っていた。
『為らば、俺は悪鬼悪霊なのだろう。人里に居つく神は人の心を映す水鏡だ。俺が復讐を推すのは個人的な感情だけではない。黄泉へ引かれて行った魂達の願いでもある』
「……」
ミクマリは立ち上がり、まるで濡れて重くなった衣を引き摺る様に歩き始めた。
『ミクマリよ、これから何を成すにしても、迷いだけは……』
「話し掛けないで。消えて頂戴」
早口に呟き、巫女は森の奥へと踏み入って行った。
『……』
里長の願いを受け、守護神は彼女から離れ、姿を消した。
娘は一人歩く。
先日に世話に為った大樹の洞へと漂う様に辿り着き、潜り込み、その身を丸めた。
湿った大地の胎の香りが、草臥れ棘立った心を優しく撫ぜる。
心は冷え切っていると言うのに、自身の体温が洞の中を暖めた。
――このまま、目覚めなければ好いのに。目覚めれば、何も知らずに子供達の世話をしていたあの頃に戻れれば好いのに。
巫女は弱々しい霊気を使い、真心を込めて何かに祈った。
願い娘の祈りは届き、微睡みの先に何時かのまほろばの里を浮かび上がらせる。
血や火の臭いの無い風景。
巫力を目出度い事に傾け奔走する妹と、子供らに手を引かれ、年寄りの話に耳を傾ける姉。
里の者は交換条件も無しに誰かを手伝い、怪我人を見舞い、病人の世話をする。
山では野兎が跳ね、山菜が伸び、実が落ちる。
川では鹿が水を飲み、枝から飛び立つ鳥は木漏れ日に尾を奔らせた。
そして、“ミクマリ”は涙を流し、それらを空から見つめていた。
遠ざかる里。望郷との訣別。まほろばの夢は暗がりへと還るも、未だ答えは出ず。
娘は目覚めると洞から抜け出し、大樹に一礼をした。
清流を見つけ、禊ぎ、髪と身体の手入れをし、水を霊気で遊び、舞った。
舞はまだ固かったが、身体を動かすにつれて、四肢に気力を満たしていった。
赤黒い印の刻まれた器を優しく撫ぜ、借り物の衣で丁寧に包み込む。
獣の命を頂いた沓に再び足を通すと、集落のある方角へと足を向けた。
――確かめに行こう。私の旅が何だったのか。私の里が本当はどうだったのか。
私の信じ願う里とは真逆の所業が行われていると云う、蟷螂衆の里を探してみよう。
迷娘の巫女は歩き始めた。
その小さな胸に秘めたる迷いの答えを求め、孤独で。
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