巫行020 告白
巫女は気を失った強盗少年を背に負い、水術を以て山を駆けた。
村長の青年は黙って彼女に付き従い、自慢の脚力を披露した。
夕陽を拝む前に竹林の村へと到着。
多くの村民達は大してを心配していなかったが、舞茸の件を聞くと若き村長の迂闊さに呆れ、巫女へ感謝を示した。
村長は旅で足腰を萎えさせていたものの、幣帛と、それを添える為の自慢の一品を披露し、村の者と完成した竹林の祠を見物しに出掛けて行った。
『元気な若者だな。少々油断が多いが。今回の件を村を支える糧にすれば好いのだが……』
青年は他の若者と肩を叩き合い、若年代同士の燥ぎを披露しながら遠ざかって行く。
一方、竹林の方からは、竹材を肩に担いだ大女が村へと引き返して来ていた。
両者が挨拶をする事は無かったが、女の方の視線が安堵と優しさを帯びたものであったのをミクマリは見逃さなかった。
「良かった。オタケさん、少し元気になったみたいね」
『良かった、ではないわ。もう一人の童男はどうするんだ』
集落で強盗を犯した少年は村長の家に寝かされたままだ。
「目が醒めたら話をしようと思います。もう少し、水神に関する話を詳しく聞きたいので」
『目が醒めたら? 彼奴は帰りの途中で既に目を醒ましておったぞ。霊気を読めば意識の有無程度は確認出来るだろうに』
ミクマリが精進の足りなさを叱られたその時、件の少年が村長の家を狐鼠狐鼠と抜け出して行くのが見えた。
「待って。何処に行くの?」
急ぎ駆け付けるミクマリ。
「げ、見つかったか。巫女の姉ちゃん、悪い事は言わないぜ。俺に関わらない方が良いよ」
「どうして? 貴方、困ってるでしょう?」
「近寄らない方が良いぜ。呪術が掛けられているんだ。水神を裏切ろうとする心が強くなると、“使い”が腹から出て周りの者を攻撃するんだ」
「それなら退治したわ」
ミクマリは微笑んでみせる。
「……本当? 俺はもう、水神や“トウロウ”の奴に従わなくても平気なのか?」
出会いから険のある表情を崩してこなかった少年が、頬を綻ばせた。
「そうよ。……貴方、随分と酷い目に遭って来たのでしょう?」
少年を抱き竦める。彼は抵抗しなかった。
「うん。巫女の姉ちゃん、ありがとう御座いました。……だけど、矢張り関わっちゃいけないんだ」
少年は娘の手から逃れ、涙に濡れた頬を遠ざけた。
「どうして? もう悪さをしなければ、必ず普通に暮らせるわ。私が村長にお願いして、この村に置いて貰える様にして上げるから」
ミクマリは少年の肩に手を伸ばす。少年は嗚咽を漏らしながら、その手から逃れた。
「俺、“蟲”の出なんだ」
蟲。蟲とは云っても、山や藪から這い出る虫や、呪術に依って使役されるそれではない。人間である。
蟲とは、何らかの理由で忌み嫌われる者達を指す。
凶悪な悪事を繰り返し働いた者、穢れた血筋を持っていたり、生きながらにして夜黒ノ気に冒された者、理由は様々であるが、村落全てを蟲として扱う場合も珍しくはないと云う。
そう云った村落からの出身者は、個人の性質に関わらず、蟲として扱われるのである。
「貴方はやらされていたのでしょう? 集落での偸みだって」
「ううん。普通に暮らして行けなかったから、偸みをしたんだ。俺の村では、誰もが当たり前に物を奪い合うんだ。勿論、取り返しもする。だけれど、皆が皆、取り返すだけの気概を持ってるとは限らない」
「酷い。人の物を奪うのは良くないわ。誰だって知っている事よ」
「そうだよな。村の外の人達は、皆そう考える。そうじゃない人も偶にいるみたいだけれど、殆どは偸みを悪事とする。でも、俺の居た処では逆だったんだ。生まれながらにして、人を殴ったり、物を盗ったりするのが当たり前で、それを気に掛ける奴の方が少ないんだ」
少年は皮肉な笑みを浮かべる。
「そんな……」
『それが蟲と呼ばれる所以か』
「蟷螂衆。俺達はそう呼ばれている。始めは優しい顔をして、旅人を迎え入れて持て成すんだ。そして、油断した処を捕らえたり、荷物を奪ったり、連れを人質に取ったりして、遊ぶのさ」
「酷い……」
「そこじゃ、当たり前なんだよ。それが当たり前だと思えない奴は、無理矢理従わさせられて、田圃で陽が沈んでも働かされるんだぜ」
「長や神様はどうしているの? 巫女や水神様がいるのでしょう?」
ミクマリは疑問を投げた。
統括者の務めや、神の信徒たる村民の導きはどうなっているのか。
「矢張り、俺の処が間違っているんだな。蟷螂衆の巫女頭、トウロウと呼ばれる巫女と水神も同じさ。止める処か、奴が一番酷い。巫女と神の力を使って、力付くで蟷螂衆全員を従わせている。殆どは他人を食い物にするのが生き甲斐の悪人だけれど、連中でさえトウロウには逆らえないのさ」
「そんなの間違ってるわ」
「俺もそう思ったから、逃げ出したんだ。だけれど、真面な奴や裏切りそうな奴にはトウロウが蟲を呑ませるのさ。その呪術に掛かると、裏切った時に宿主の腹を喰い破ったり、口から飛び出して助けようとした相手を殺すのさ」
「呪術は祓ったわ。貴方はもう自由なのよ」
「それは感謝してるよ。だけど言ったろう、俺は蟷螂衆なんだぞ。幾ら俺が苛められてきた側だからって、ずっとあの中で暮らして来て、泥棒だって当たり前にやったんだ。あの集落でだって目を付けられている。他所で真面に暮らせる訳がないだろう。……それに、血が穢れてるんだ。姉ちゃんは巫女なんだ分かるだろう? 俺は生まれからして汚い人間なんだよ!」
激情を打ち撒ける少年。
彼の目はミクマリを睨んでいたが、彼女はその憎しみは遥か遠くへと注がれているのだと悟った。
『ミクマリよ。お前は此奴の考えが正しいと思うか?』
嘗て男覡を務めた守護霊が問うた。
「いいえ」
ミクマリの返事は、少年へも向けられたものである。
『そうだな、巫覡故に分かる事だ。蟷螂衆は物ノ怪や黄泉に魅入られた者ではなく、只の人間に過ぎない。性根が曲がっておるだけだ』
拳を握り地面を睨む少年は、もう一度抱き寄せられた。
「貴方は穢れていません。確かに、世の中には生まれながらにして夜黒ノ気を孕んだ一族もあるでしょう。そう云う者は気で分かります。ですが、貴方からはそう云った穢れを感じないのです。蟷螂衆の穢れは血の穢れではなく、心の穢れです。貴方は彼等を間違っていると考えました。貴方の心は穢れてはいないのです。それでも、貴方を忌避する者があるの為らば、それは忌避する者の心こそが穢れに冒されているのです」
そう少年に囁き掛け、静かに身を離す。
「……信じて良いんだな。俺は穢れてなんかいないって、信じて良いんだな?」
悪童のこれまで積み重ねられたものと共に、潤んだ瞳が揺らいだ。
「明日の朝、この村では新たに降誕される神様を迎える事になっています。私と村の方達は、その為にこの一帯を清めています。もしも貴方が穢れであるの為らば、神様はいらっしゃらないか、悪心を抱いたものに成るでしょう」
ミクマリは少年の瞳を真直ぐに見る。
逸らされる視線。
「……出て行けって言ってるようなものじゃないかよ」
少年は歯を噛み締め、貌を歪めたかと思うと背を向け駆け出した。
だが、水分の巫女は手を伸ばす事すらせず、そのまま小さな背中を見送った。
『追わぬのか。俺もあれから穢れは感じないぞ。神の降誕に差支えはない。立ち会えば、意固地な童男であっても納得するだろうに』
「それでは意味がない様な気がするのです。無理矢理立ち会わせるのではなく、彼が自ら確かめなければ。……彼はきっと、また来るだろうと思います」
――私は彼を信じる。
咎人になる理由だって色々あるのだ。
根っからの悪が殆どを占める集落なんて間違っている。その巫女と水神さえどうにか……。
『ま、お前がそれで良いと言うのなら気にせんが』
ゲキは興味の糸を切らした様だ。
一転。
『……それよりもミクマリよ。俺に話したい事があると言っていたな? 一体何なのだ?』
「それは……月が出てからお話いたします」
ミクマリは唐突に御印の打ち明けに話を変えられたので戸惑った。
彼が何を言うか、これからどうなるのか。
加えて細やかな話ではあるが、自ら肌を晒さねば為らない事へも心の準備が要った。
『何を勿体振っているのやら』
守護霊は不満を漏らした。
宣言通り、夜の食む時分に巫女の為に供された小屋にて師弟は相対した。
『見せたいものとは何だ?』
祖先の霊は薄暗い小屋の中、差し込む月明かりに溶ける。
「はい、ゲキ様」
ミクマリは深く息を吸い、それから吐いた。
「これを、見て下さい」
巫女は帯を解き、緋色の袴を床板へと落とす。
白衣も同じくして、解かれた衣は自身の重さに引かれて、前を開けさせた。
青白く照らされる玉肌。滑らかな砂丘の様なそれには、一つの窪みと、その下に赤黒き印が見留められた。
「数日前に水垢離をしている時に気が付きました」
巫女はまるでこれが過ちかの様に、瞳伏せ告白した。
『神代の印だ。ここへ来る前に顕れたのならば、何故もっと早くに言わなかったのだ』
咎め。
「……恐ろしかったのです。印は、特定の神との約束事だと教わりました。私自身、神代と成る事は承知しておりましたが、それが何の神かも知らされておりません。何者かの呪いを疑う程に、印が私の心を蝕んだのです」
『言葉足らずであったな。その印は一つの神に仕える巫女のものとは違う。古ノ大御神を含めた八百万の神を迎え入れる為の特殊な印なのだ。と言っても、お前の身体では男神か極一部の若い女神に限られるが。印は神和を繰り返す度に広がり、男神達の力の一端をより大きく引き出せる様になるのだ』
「そう、ですか……」
それの意味する処を深く探ると、神事が異様に淫らな事に感ぜられた。
娘は前を隠し、衣を纏い始める。
『不安なのは分かる。身体にも変調を来しているのだろう?』
「はい、食事の好みが変わったのはそれが原因でしょうか?」
桑の実や兎の肉。体調不良や食物自体の味の問題の可能性をまだ信じている。
『そうだ。寂しい事かも知れぬ。だが、味が感ぜられなくなる訳ではない。好きが消える事があれば、生ずる事もある。神とて食事を楽しむのだ。お前もまた、新たな好みを見つけるだろう』
師よりの励まし。
だが、好む理由は味だけではない、それに纏わる挿話も含めての事だ。ミクマリは温かな思い出達との離縁を感じた。
「では、時折自身の信念や方針に揺らぎを感じるのは?」
『それは神代に成る事と直接の関係はない。人は、多くの物事との関わり合いで己を成すのだ。昔のお前は、変わらぬまほろばの里に赤子の様に揺蕩っておったのだ。敢えて何かに因を求むのなら、旅に出た事が原因だ。以前の価値観で己を測れば浅ましく為った様に思う事もあるやも知れぬ。だが、それを含めて成長と捉えよ』
先達の言。
娘は呑み込み切れなかった。
当人でなければ何が分かると言うのだろう。
幾ら守護霊だとは云え、里の長を務める最中に一族郎党を鏖殺せしめられた覚え等ないだろうに。
自身を頼る弱き者を、愛する家族を掌から零した事等ありはしないだろうに。
「簡単に割り切れるものではありません。これまでやって来た手で良いとは思えないのです、優しさだけで救えない世がある事を思い知らされたのです。食べ物にしたってそうです、桑の実は妹や弟達との思い出でもありました。私はこれ以上、独りではやってゆく事等、出来はしません!」
ミクマリは自分自身の吐き出した言葉に動揺した。苛立ちが手伝った事もあったが、旅を諦める様な事はこれまで強いて思いもしなかったからである。
だが、言葉に偽りは混じってはいなかった。
『寂しい事を申すな。独りではなかろう』
祖霊の炎が暖かく揺らめく。
『俺とて、今や肉を失い、霊魂は本来の人間とは違う性質のものと為った。だが、生前には男覡を務めただけでなく、お前と同じく短い間ではあったが里の長も経験しておる』
「短い間?」
『そうだ。就任して半年足らずで里を飛び出したからな』
何処か含羞む様に震える守護霊。
「里を追い出されたのですか?」
この方なら無きにしも非ず。若き巫女の気が僅かながら和らぐ。
『無礼な。自分から飛び出したのだ。前も言ったが、当時は血気盛んな若輩者でな。自身の力を験したくて疼々しておった。お前とは少々やり方は違ったが、多くの地を踏み、村々の難事を解決し、邪なるものを滅し寿ぐ旅をしたのだ』
「そうでした。……ごめんなさい。ゲキ様は厳しい御方ですし、守護神ですから」
『立場の切り分けの問題だ。只の人としての意見であるならば、お前の行動の多くに理解も出来る。だが、俺は里の守護神であり、お前以上に里への責が強く……また、仇への恨みも強い。故に、非情を以てでも里の者の無念を晴らしてやりたい。その為には、割り切り順序立てなければ為らない事が余りにも多いのだ』
「はい」
『それとだな、序でだから告白しておくが、その当時の未熟さ故に、力量を測り違えて格上に挑み、肉果て魂のみでの里の帰還と相成った。俺もまたマヌケであったのだ。だから、俺は師としてもお前に同じ轍を踏んで欲しくは無い。故に蟷螂の里を避けよと言った』
「ふふっ」
氷解する彼の厳しさへの疑念。時折見せる残酷さの答え。思わぬ幼稚さと、自身との重なりに、娘は祖霊を愛おしく思った。
『こら、笑う処ではなかったであろう?』
咎める彼もまた霊声を弾ませている。
「ごめんなさい」
親しみは疑念を打ち払い、代わりに輩を呼び寄せる。真の意味で旅の路連れを得た心持。
『まあ、そう言う訳だ。分からぬ事があれば相談するが良い。艱難を共にしようぞ。神代としての力が芽生えたのであれば、悪逆の神とそれに仕える女を調伏に挑むのも止めぬ。たといお前の招命ノ霊性が未熟でも、俺がお前を依り代に神和を行い、力を貸す。案ずるに及ばない』
「はい。宜しくお願いいたします。……でも、矢張り神を招くのはまだ少し怖いです」
頬染め、微笑むミクマリ。
『神代に成るのも悪い事ばかりではない。好みが変わろうとて、思い出は消えぬ。旅には出会いも多いのだ、また新たな思い出を作る事も出来よう』
「そうですね」
既に、幾つもの村を経て、出会いと別れを味わって来た。賑やかな巫女の母子、同じく代替わりを経た巫女とは友人と為った。
あの山で出会った盗人はどうしているだろうか? きっと、この地でもまた思い出を重ねる事となるだろう。
『それに、器としての完成が近づけば、女の悩まされる“穢れ時”も消えてなくなるだろう。月水に悩まされる事もなければ、気怠さが旅を邪魔する事もなくなる』
ミクマリは言葉を失った。突然の宣告。
『まあ、俺は男だからこの苦労を語るのも表向きだけだが、お前が無闇に気が立つ事も減るのは俺にとっても良い事だから赦せ』
愉し気に話すゲキ。
「……」
『どうした? 扱い辛い話題だからな。今言って置かねば。どの道、神にその身を捧げる神和の巫女である以上、人間の男と契りを交わす事も、子を成す事もないのだ。一度死んだ様な身である上に、鍛錬の序でとは言え、既に多くの不幸を救っておるのだ。人としての責は果たして居る。為らば、本懐を遂げる為の障害は少ない方が良かろう?』
「そ、そうですね」
男の霊魂に押し付けられた“理屈”は、全くの正論であった。
娘は近付いたと思った祖霊から再び心が離れるのを感じ、更には自身の身体をも離れて眺めている様な心持になった。
愉し気に理屈を並べ続ける男の言葉は耳を摺り抜け、密に震える胸と虚の様な胎に悲しみを覚える。
娘は誰に見られる事もなく、唯々独り、心の中で泣き明かした。
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八百万……沢山、無数の。具体的な数値ではない。