巫行002 説教
『マヌケ! 浅墓! 未熟者!』
夜明けになり、川辺では少女へ罵詈雑言が降り注いでいた。
巫女の娘“ミクマリ”は未だ身体を地に伏したままだったが、実は意識が戻っており、霊声にも感付いてはいたが、狸寝入りを決め込んでいた。
『霊気の流れでお前が起きている事など承知してるわ。俺が手を貸さなかったらお前は今頃、狐に喰われて黄泉に道連れだったぞ』
怒りの霊声。
ミクマリは観念して身を起こした。濡れたままの身体が朝の空気に割られるようだ。
「寒い」
『精神修行に為って丁度良いだろう。お前は霊気の磨き以前に、その樹の蜜の様な気質を何とかしなければ為らん!』
朝日により照らされる川辺。
そこには巫女独り。叱り手の姿は無し。
……かと思えば、宙には翡翠色の炎の様なものが浮遊している。霊感無き者には察知できぬ霊魂の類である。
「水分の巫女は水垢離を重視せよと仰ったのは貴方様ではありませんか」
鼻で嗤う娘。
『皮肉を皮肉で返すな。気も漫ろに修行が出来る訳なかろう。それよりも、昨晩の初仕事で何故手心を加えようとしたか、申し開きをしてみよ』
「此度の仕事は私の領分外かと思います。水に関わる事案ではありませんでした」
娘は更に口を尖らせた。
『水分の巫女とは云え、一般的な巫行は一通り熟すものだ。卜占や祈祷、御祓いもできずに何が巫女か。巫娼でも真似事程度はやるわ。零落した神や霊魂を祓うのは基本中の基本。取り掛かりこそは不作の根を水かと疑った故にだが、職務を全うするのは何者でも当然の事だ』
「はあい。申し訳ありません」
ミクマリは散ったままになっていた髪を結い直しながら返事をした。
大切な霊簪が無くなっていないか確認する。安堵。
『申し開けと云っておるのだ。どうせまた、可哀想だの赦してあげたいだの情を働かせたのだろうが、敵への情けは己の命に関わる大事だぞ。お前は最早、一個の人間ではないのだと何度言い聞かせた事か』
霊声の嘆息に不貞腐れていた娘は正座し直し、表情を落とした。
――一個の人間ではない。
ミクマリは巫女である。巫女は神に仕えるものであり、その所有物だ。
そして彼女のその“ミクマリ”という名も、本来のものとは別のものであった。
巫女は、神そのものと同じく真名を呼ぶ事を禁忌とされる。生きる者の地である覡國で名を濫りに使えばその霊性を穢すとされるからだ。
依って、巫覡の徒はその役に就く際に親に付けられた名前を捨て、通り名か役目を捩った名で呼ばれるようにするのが約束であった。
ミクマリの場合は、その名の通り水分の巫女が由来であり、水に関わる難事を治めることを専門とした巫女である。
『こんな事では仇討ちは疎か、高天に昇った時に妹へ顔向けも出来んだろうに』
「分かっています……」
妹。思い出すだけで涙が出る。ミクマリは手の甲で目じりを拭った。
彼女は嘗て、とある山中に隠された里に暮らす里長の家系の長女であった。
当時はまだ両親も健在で、里を継ぐにしても当分の先の事かと思われ、頭数多い里の子供達を始め、妹や弟達の面倒を見て、余暇に野良仕事の手伝いや鳥や獣と遊ぶ気楽な日々を送っていたのだ。
しかし、二年程前に流行り病が山の麓にまで達し、巫覡を兼ねていた両親が近隣の助力の要請に応じた処、感染。床に伏した二人は間も無く病没してしまう。
ミクマリは成人の儀を前にして急遽、里長へ就任する事となったのであった。
覡國に於いて、巫女が部落の長を務めるのは珍しくなく、また神がその地を治める事が多い為に、人間の酋長へ霊性や神性が求められるのも常であった。
だが、彼女は月水を見てから数年が経っていたにも関わらず、前述の通り特段巫女の修行はしておらず、また慣れぬ取り纏め役の仕事に追われていた為、巫行には就かないでいた。
そこで代役として巫女の座に就いたのが、長女ミクマリの次に齢を経ていた次女であった。
次女は予てから両親の巫覡の仕事に憧れを抱いており、修行にも積極的であった。
更には歴代巫覡の血脈も手伝い、まだ邪気無さを残した表情とは裏腹に、熟練の老巫女も平伏す程の巫力と霊気を短期間に身に着けた。
優秀な妹との分業。里そのものは元より裕福で、山に隠され世俗の争い事とも無縁であり、再び安定した暮らしに戻るのはそう難しくはなく思われた。
事実、“あの様な出来事”が起こるまでは彼女たちは忙しくも幸せな日々を送っていた。
『慈しむ心は先祖や身内の為に取っておけ。お前は復讐を果たさねば為らん』
「私は復讐なんて……」
まほろばの地であった彼女の里は、泯滅せしめられていた。
それはまだ思い出色濃く、鼠が代を一つ重ねる程度の直近の出来事である。
里の安寧を破ったのは正体不明の黒衣の術師の集団。
近隣の部落にも秘密にされていた筈の里への路は踏破され、村民達が怪しむ暇もなく村々は炎に包まれた。
暁に沈む村。害為す術と血液が飛び交い、老人は枯れ木の如く裂かれ、幼い子供達は力なく頬を床に伏した。
残った村民達は欽慕の念に篤く、里長であるミクマリを邪教の魔の手から逃がそうとした。その一団の先頭に立ったのは他でもない妹巫女であった。
有無を言わさず妹の術式により昏倒させられたミクマリ。彼女が神木の洞で目覚めた時、既に里は灰燼と化し、黒き柱と僅かばかりの骨が残るだけであった。
里長に遺されたのは、目覚めた時に握っていた妹の“霊簪”だけであった。
それは里の巫女の代表の証であり、あしらわれた翡翠の勾玉は祖霊との繋がりを表すと云う。
ミクマリはそれを握りしめ、灰の上で泣き崩れた。泣き通して夜を明かした。寝食も忘れ、涙に溺れ後を追う心算であった。
そんな折、彼女の耳に男の声が響いたのだ。それがこの霊声の主である。
『お前には憎しみはないのか。お前を慕いお前が愛した者達を殺した凶賊共が』
語り掛ける霊声。その揺らめきは焔の如く強く、氷の様に冷たい。
「憎くないと言えば、嘘になります」
少女は唇を噛み締め答える。
だが、仕返すことは黒衣の術師と同じく手を血に染める事に他ならない。自身の里を泯ぼされた事は憎かったが、気乗りは今一であった。
旅への誘いに乗ったのは、この声の主への礼や妹に習った信仰の意味合いも込められていた。
『お前には長としての責もある。憎悪を差し引いても復讐は避けて通れぬ。それでなくとも若い女が村の庇護も無しに外界へ出るのだ。武術や巫術の類も持たずに生き抜くのは厳しい。お前の生存は里の者達の総意であり、願いなのだぞ』
「知った様な事を仰らないでください」
口を曲げるミクマリ。師の言わんとする事は分かったが、矢張り気に入らない。本当ならばその様な苦行等は行わず、里の面倒を見ながら女としての“次”に悩むべき年頃であったのに。
『“様な事”ではない。俺はお前の祖先であり、お前の妹の仕える里の守護神でもあった。お前は俺の声を聞いたのはあの時が初めてであったろうが、俺は予てから妹巫女の心と通じていたのだ。そうでなくとも、お前達の暮らし振りを見ていて分からぬ筈がなかろう。里の者は誰しもがお前を敬い、愛しておったのだろうが』
「……」
守護神の言葉がミクマリの心に深く突き刺さる。
『今は一途に霊気を磨き、巫力を高めよ。昨晩の失敗から学べ。お前もあの妹巫女と血を同じくする者なのだ。前途は明るい』
「……はい。分かりました、“覡”様」
励ましに顔を上げる娘。
ミクマリに“ゲキ”と呼ばれた霊声の主。彼女の祖先であり、妹巫女の仕えた里の守護霊である。
当然、その呼び名の通り、生前は巫覡の類であり、里の歴史屈指の男覡であった。
その立場上、ミクマリに生存の術を教え込む役を買っている。
普段は霊魂として彼女の辺りを漂い見守っており、霊気の足りない者には姿を見ることは疎か、声を聞く事も出来ない。
有事の際には生前から有していた卓越した巫力と経験に依り助言を授けたり、結界の術式に依る支援を行う頼れる道連れである。
先に述べた通り、ミクマリに復讐を唆したのも彼であり、この男の言が無ければ彼女は今頃、灰の里でその身と霊魂を腐らせ黄泉に引きずり込まれていたに違いなかった。
若き娘が折れずにやっていけているのも、若しかしたら本来自分が在るべき暮らしが取り戻させてくれるかも知れないと、心の何処かでこの霊魂に期待を抱いていたからだ。
但し、神とはいえ元は人間。長所を持てば短所も持つのが道理である。
『良いかミクマリ、昨晩に使った水撃の術だが……』
再び説教が始まった。
このゲキなる男の霊、巫女道や術に関する蘊蓄を垂れるのを娯楽とし、しかも姑の様に小煩かった。
その上、日がな一日頭上を飛び回るものであったから、ミクマリにとって師匠や恩人で最後の血縁者であるのと同時に、頭痛の種でもあった。
ミクマリは襷に掛けていた袋状の布から骨の針と真麻の糸を取り出し、知らぬ間に破れていた衣の胸の部分を縫い始めた。
「戦っている内に破れてしまったのかしら。全く、どうしてこんな処が……」
面倒見の良い里長は裁縫事は慣れっこであった。
想定外の不幸が無ければ、織物の業にも手を出して里の子供に自作の衣を着せてやりたい等と考えていた。
『川原では足を止める必要は無かった。術で飛び越えれば……』
ミクマリが服を縫い終わってもまだ説教は続いている。
……なので仕方なく、彼女は遠くの景色を眺める事にした。
暫くぼんやりしていると、視界の奥から誰かが駆けて来るのが見えた。
やって来たのはミクマリに邪霊の祓いを依頼した村長の使いの男であった。
「やや、巫女様。こんな処にいらっしゃいましたか。今朝は畠を荒らされなかったのですが、御祓いの方は無事に済んだと見て宜しいでしょうか?」
男は笑みを浮かべて言った。
ミクマリは当初、この男に会った時分には「愛想の良い男だ」と好い印象を持ったが、稲霊の言い分を聞き齧った今では、不遜で卑しい笑いにしか見えなかった。
「はい。最早、霊が村へ害することは無いでしょう」
――そして、助けることも無いでしょう。
『代わりの霊が居らねば、次の実りも期待できぬがな』
ゲキが嗤った。彼は趣味の妨害をされて少し不機嫌な様だ。
「それは良かった。では、お約束通り御調を捧げます故、村長の家までお連れ致します」
男は大手を振って歩き出した。
「……気分の悪い村」
呟きを漏らす少女。古い神への感謝を捨て、剰え不作の責を転嫁した。そんな人達の持て成しを受けるなんて。
『仕方無かろう。用が済んだらさっさと出立すると良い』
宥める守護霊。
ミクマリは漂泊の身分である以上、行く先で依頼を熟し、その対価として食物や屋根を分け与えて貰う必要があった。
今回が初めての試みであったが、予想外にも不快な村に当たったとミクマリは肩を落としていた。
「何か仰いました?」
男が振り返る。
「いえ、何も」
「畠は不作だったとはいえ、魚獣の類は獲れます。巫女様の胃の神にも満足して頂けるでしょう。お勤めの後であるなら、獣断ちということも御座いませんでしょう?」
これまでは山菜や木の実に頼って歩いていたが、当然それでは腹は長くは持たない。
今回、村へ用訊きをしに訊ねたのは胃の音に修行を妨害されかねなかったからであった。巫女もまた人間である。
男に連れられ村へと戻ると、村民総出での感謝と祝いの宴が行われた。
『不作に悩んでいたとは思えない大盛りの器だな。これらを出し渋らずに稲霊に捧げていれば、それ以上の加護を受けられたものを』
人前であったためミクマリは返事をしなかったが、彼女もゲキと同じ事を思っていた。
焼き土の器に盛られたのは山独活を煮て乾燥した野蒜の粉を散らしたもの。
太った野兎の脚、川で獲れたばかりであろう山女魚を捌いたもの。それと、僅かばかりの米を炊いたものが添えられていた。
恩人である巫女を囲い、談笑せしめる村民達。
ゲキは『神に等しい巫女を相手にするのならば、もっと粛々とすべきだ』と愚痴を零していた。
尤も、彼の言葉は霊感のない者の耳へは届かないのであるが。
一方、ミクマリは供された山女魚の刺身に手を付けながら、亡き里の思い出を振り返った。
山女魚は妹や弟達の好物であった。
「姉様、姉様」とせがまれて、山の恵みで拵えた竿で良く魚釣りをしたものだ。
子供の好物であったため、つい分け与えてしまい、彼女自身は余り口にする機会は無かった。
尤も、彼女は誰かの好物に限らず自分の分は後回しにして、子供や老人、果ては野良の獣にまで食事をくれてやるという異常な心構えのある娘であった。
「どんどん食べてください。失礼ながら、巫女様は少々痩せて居られますからな」
村長が手で扇ぎ促す。
『ははは、此奴の言う通りだ。巫女は霊気で神霊と契りを結ぶ身分だが、神の多くも肉付きが良い方を好むらしいぞ』
ゲキが乗っかり茶化した。
人の間でも女は太っている方が受けが良い。健康な身体と巌の様で好い子供を産みそうな腰骨、同じく子の吸い付きの良さそうな乳房が持て囃されるものだ。
ミクマリも子を持っても可笑しくない歳ではあったが、尻乳ともに物足らず、精々健康なのが取柄と云う程度の肉体であった。
加えて、忙しさに感けて、男と見つめ合う様な淡い秘め事すら経験が無い。
男共が彼女の心を射止めんと狙ってるという噂を耳に挟んだ事はあったが、貧相の癖に里の子供達から母の様に慕われるのが虫除けに為ってしまった。
『まあ、お前が男に好かれぬお陰で俺の霊声も聞こえた訳だが。男神は処女でなくては降ろせん』
肉体も無い癖に鼻息まで聞こえて来そうなお言葉。
ミクマリは折角の魚肉の旨味を損なった気分になった。
「こ、こら! 巫女様に失礼をするな!」
村長の口から慌ただしい声が飛び出した。
捧げ物を食んでいたミクマリの頭が唐突に引っ張られる。引く力は弱い。
何事かと思い振り返ると、女児が彼女の髪の毛を手に取り眺めていた。
ミクマリの貧相な身体でも、他者に誇れる処が一つあった。それは長く美しい黒髪である。
撫でれば指先に恍惚を呼び起こし、眺めれば星空を思い起こさせる程。これは至宝と言っても過言ではない。
彼女はその黒髪を腰まで伸ばし、一つに結わえ下げている。多くの者は髪を登頂で纏める事が多かったが、“神を降ろす”娘は師の指示に依り提髪を結っていた。
「姉やの髪、綺麗」
そういう童女の纏め上げられた髪も豊かに光っている。
ミクマリは微笑と共に女児に声を掛けようとした。
だが、それよりも早く村長の拳が飛来、無垢な女児は床板に身体を跳ねさせ、頭を抱え号泣する羽目となった。
「子供は大切になさい!」
巫女は片膝を立て村長を叱った。
「……失礼致しました」
頭頂部を見せ額を床に付ける村長。
一方で、村民からは「子供なんぞ次から次へ産まれて来るもんだろうに」と言う囁きが交わされた。
餓える村からすれば、余分な事をする女児等は鋤や鍬以下の存在である。
巫女は囁く連中にも一言をくれて、生利きな連中も黙らせてやった。
救われた村に於いて、巫女の言霊は絶対である。
もとより神の代理人である巫女の言だ。巫力示して霊験灼然なる今は神をも越える。
依って、村長が平伏したのも無理の無からぬことであるし、それ故に無礼を働いた女児が殴打される原因とも言えた。
尤も、ミクマリが村から一歩でも足を踏み出せば、ここの連中は信心など畠の肥料以下にしか思わないのだろうが。
すっかり気分を害したミクマリは、その晩は屋根を借りる予定であったのを変更し、村を後にすることにした。
亡き故郷を出て以来、一度も床の上で眠っていなかったが、微塵も惜しく感じなかった。
早々の立ち去りに対して村人は淡白であり、村長が自身の家からお付きの男と共に形ばかりの拝みをしたのみであった。
それどころか、この村に元より居た“役立たずの老巫女”に追い回される始末である。
老巫女は入れ墨も皺も区別の付かなくなった顔を拉げさせながら、霊気の感じられない呪言と共に砂を投げて来たのだった。
それを戒める者も無し。
守護霊は終始『不遜な連中よ』とミクマリの耳を煩わせていた。
だが、村民の彼女への関心の薄さはミクマリにとって僥倖であった。
何故ならば、土産に持たされた旅の食料を例の女児へ密かに分け与え、甚振られた頭を撫でてやる事が出来たからである。
憐れな神へあんまりな仕打ちをしたのは大人達であり、子供に罪はない。それが彼女の考えであった。
女児は歓び、巫女へ無垢なる抱擁を返し、「将来は自分も巫女を目指す」と誓った。
ミクマリは女児ともう一度別れの抱擁を交わし合うと、足取り軽く提髪を振りながら村を後にしたのだった。
ゲキは彼女の情緒的な行為の一部始終を見ていたが、その際だけは口を挟まなかった。
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簪……カンザシは髪飾りの一種。
漂泊……流れ漂う事、さすらう事。放浪。
巫覡……巫女や男覡。
月水……月経の血。
御調……貢物。この場合は神ではなく巫女への持て成しとなる。
霊験灼然……霊的な効果がはっきりと顕れている。