巫行019 童男
翌朝は森の囁きに揺り起こされた。
身体を伸ばし、早くも囀り羽搏く鷦鷯や、木を忙しなく叩き鳴らす小啄木鳥を見上げる。
天然の霊気を含んだ緑色の空気を胸一杯に吸い込んだ。
後は小川の一つでもあれば、秋の景色の冷ややかさに素肌を挑ませた処だが、それは叶わなかった。
水術を編み、辺りの水気を掌に借りて、手早く顔だけ洗い清める。
巫女は昨日の不快感を悉皆洗い清めて、薄汚れた気の溜まる盆地の方へと足を向けた。
朝日と共に村長と落ち合い、執拗な程に朝餉を勧める村長の友人の厄介となり、漸くの帰路へと着く。
集落の端が見えた時、ミクマリと村長は“厄介な奴”に捕まった。
「おやおやおやおやおや!? 主、舞茸の効き目がもう切れたのか!? 偶に効き目の短い不幸者が居るんじゃが、主は別格じゃなあ! どうじゃ? 神の国は見えたか? 幽世は? 高天は? 黄泉は見えたか?」
騒がし巫女が土鈴を鈴々と鳴らしながら駆け寄って来た。
「舞茸の毒はミクマリ様に消して頂きました」
青年は板を突き立てる様に言った。
「……ミクマリ。水分。巫女? 巫女か?」
口の中で巫女巫女と繰り返すと、騒がし巫女は漸くミクマリに気付いた。
「ひええええ!? 紅白の衣装!! あれは、盗難に遭い紛失致しましたのじゃ!! 決して先の忠義の誓いを破った訳ではあああ!!」
騒音女は這いつくばり、今朝見かけた啄木鳥の様に地面を叩いた。
「私、社の巫女や王の御使いとは無関係です」
ミクマリは気を立てぬ様に努めて言った。
「……? なあんじゃ。ま、あんな汚らわしい衣なんぞ適当に売っ払ってやったわい。袴が赤いだけで飾り気のない詰まらんもんじゃったが、精の付く飯と取り換えられたのはまあ良しじゃな。社の巫女も飛んだ田分けたもんじゃ。無料で品を寄越すんじゃからな」
騒がし巫女は膝の土を払うと、地面に唾を吐いた。
「それは良しとして、じゃ」
懐から真っ黒に焼けた守宮を取り出して口に咥えた。
「主がこの騒がし巫女の調合した“舞の粉”を解毒したと言うのかえ? 全く詰まらん事をする女じゃ。巫女ならもっと巫力を生かして奢侈の限りを尽くせば良いものを」
大年増の巫女は腰を曲げ、ミクマリの顔を下から舐める様に覗き込んだ。守宮の焦げた臭いと年寄りの死臭とが混じり、鼻を衝く。
「失礼ですよ。この方は貴女とは違って、本式の巫女様なのです。巫力も霊気も比較にはなりません。人を騙して喜んでいる貴女とは違うのです」
青年が苦言を呈する。
「ふん! 見りゃ分かるわ。昨日にこの女が集落に侵入した時には霊気が敏々と伝わって来とった。じゃが、これが良性の巫女だと言うのなら、この“騒がし”も詐欺だ騙りだと言われる筋はないわ」
そう言って騒がし巫女はミクマリの頭上を見上げ、眉を顰めた。
『何だこの女は。俺の巫女と巫力比べでもする心算か?』
守護神は嗤う様に言った。
ミクマリは彼の言に対して僅かな反発を覚えた。
「良かろう悪霊め。この舞茸巫女の秘伝を見せてくれようぞ!」
舞茸巫女は大股になり、右手を突き出し左手を上げた。鈴が鳴る。
「私、乗りませんから」
ミクマリは外方を向いた。
「為らば一方的にやるまでよ! さあ、その両の眼を穿り観るのじゃあ! これが必殺の舞踊“無我の舞い”であるううう!!」
絶叫と共に激しく鈴を打ち鳴らし、頭を上下に耳輪を揺らす。
「おほおおお!!」
化粧塗りたくった顔を、奇声を上げて泣かせたり、大笑いさせたりして変化を繰り返した。
「ぬおおおお!!」
足を高く上げ、両手天を衝き、或いはどちらも地に付けて、兎も角忙しく騒がし巫女は鈴々と動き続けた。
「恐ろしい踊りだ。ミクマリ様を呪う気か!」
青年は苦々しく言った。
『霊気を微塵も感じんな。これが此奴のやり方なのだろう。王の御使いが此奴を放置したのも、呆れたからじゃないのか?』
ゲキの言う通り、踊る女からは警戒する程の邪気も、巫女らしい気も感じられない。
「行きましょう」
ミクマリは騒がしい女を放って村の外へと歩き始めた。
「うひょおおおお!! ほおおおお!! ……何じゃ? 恐れを生して逃げるのかえ? 騒がし巫女の伝説がまた一つ!」
後方で柏手と共に鈴が鳴らされた。
ミクマリは溜め息を吐いた。
直後、横の青年が呻き声を上げた。
――実は呪術だったの!?
慌てて青年の方を見やる。が、今度は自身の胸……乳房に押される様な感触を受けた。
そして、自分達の間を掛けて行く童が一人。その手には見覚えのある荷物。
「ああっ!! 神様への品を奪われた!!」
青年が声を上げ、少年の背を追い掛ける。
『手癖の悪い童男だな。擦れ違いざまに胸まで弄って行きおった。尤も、こっちは掴むものが無くて透かした様だが』
ゲキの無礼も右から左、ミクマリは両腕で身体を掻き抱いた。赤い頬と震え。
「糞っ。何て素早い子供だ。僕の脚だって村一番だと言うのに」
盗人を追い掛けて全力疾走する村長。
息は切れては居ない様であったが、焦りの目と脂汗が光る。
瞬く間。紅白の颯が青年を追い越して行った。
「ミクマリ様っ!?」
村長が目を見開いたときには、巫女の拳骨が少年の脳天に降り注いでいた。
「痛ってえ!!」
少年は転倒し、尻や頭を交互に押さえて沼田打ち回る。
「何て脚力だ。僕より素早い盗人をいとも簡単に伸してしまった」
村長は呻き転がる少年を横目に、盗まれた樅の食器の入った包みを取り返した。
「良かった、傷付いてない」
中身を検め、胸を撫で下ろす村長。
「良くねえ! 俺の頭が割れた! お前のその怪力、矢張り男だったな! 触ったら変だと思ったんだ! 社の女みたいな恰好して騙しよって!」
泥棒は片目固く閉じ涙浮かべながら抗議した。
「人の物を偸み取ろうとするからです。それに何ですか、私は女ですよ!」
ミクマリは両腰に手を当て、未だ立ち上がれない少年の前に立ち開かった。
「お前の様な怪力で乳の無い女がいるかっ!」
「術で力を増したのです。叩く時は加減をして上げたのですから、感謝しなさい!」
「糞……此処でも術師か。おい、これで加減したのかよう。頭が歪んでるじゃねえか!」
少年の頭頂部には、見事な小山が出来ていた。
「子供に暴力振るいやがって! 治せ治せ! 治せないなら薬と交換出来る品を寄越せ! 寄越せい!」
猛々しく吠える盗人。瘤を突き出し指を指し指し囃し立てる。
ミクマリは溜め息を吐くと、霊気を練り、少年の瘤へ強引に気を通した。
少年は大絶叫。間近の小屋の住民が何事かと顔を出す。
「殺す気か!」
大粒の涙を零して少年が抗議する。
「治しました。気を許さない内に体液に霊気を通したので、貴方の気と衝突して痛みを生んだだけです。頭を触って見なさい」
言われて頭を摩る少年。瘤は見当たらない。
すると何やら顔を土色に変え、尻を地に着けたままで後退り始めた。
それから顔を酷く顰めると、仰向けに両手を広げ転がった。
「……殺せよ。“水術師”だろ。霊気で治療が出来るのはそれしか知らねえ。まさか追手が来てるなんてよ。水神様からは逃げられねえってのが良おく分かった。雌が雄をそうするように、頭からやってくれ。死ぬ時は何も見聞きしたくはない」
急な態度の変容。ミクマリと村長は顔を見合わせる。
「何を言ってるの? 盗みの罪位で殺したりはしないわ。一度の過ちは赦すのが私の流儀なの」
『思い切り殴っとったろうが』
「あれは胸を触った分」
守護霊の茶々入れを流し、寝転んだ少年に手を差し伸べる。
「ほら、立ちなさい。皆が見ているわよ」
「見ている前で嬲り殺すのが水神の流儀だろうが」
「殺しません。何か事情があるなら話しなさい」
再度手を差し伸べるが少年は外方を向く。
「その手には乗るか。そうやって俺を騙して扱き使って来た癖に!」
「何の話をしているの? 私は王の御使いでも社の巫女でも無いのよ?」
「王の御使い? 社の巫女? ……へっ!」
少年は鼻で嗤った。それから洟を一啜りすると、疳高に笑い始めた。
「どうしたのでしょう? 彼も舞茸を?」
村長が首を傾げる。
『ミクマリ。邪気だ。呪術』
短い警告。
少年の口から黒い物体が飛び出す。
透かさず巫女は大袖を振るい、小さいながらも強烈な気を含んだ“それ”を弾き飛ばした。
地面へ濡れた音が叩く。潰れた黒丸の滑った物体が見えた気がしたが、邪気と共に霧散して行った。
ミクマリは呪術への対応に肝を冷やす以上に、その小さな何かに込められた重たい気に驚いていた。
巫女の持つ霊気に加えて夜黒ノ気一歩手前の邪気。
手応えからして、呪いの主の力量は自分と同等か、それ以上。
今朝方、森から集落へ走り霊気を醒ましていなければ、手痛い一撃となっただろう。
「彼は呪術使いですか?」
村長は数歩引いた位置で気を失った少年を見ている。
「ううん。霊気は消えた。彼じゃない。呪術は、この子に仕込まれていたんだわ」
『蟲使いだ』
「蟲使い……。ゲキ様。彼は他にも気に掛かる事を言っていました」
『水術師と水神。この童男は何処から来たのだろうな。これまでにこれ程の使い手の霊気や神気は感じて居らぬ』
ミクマリは恐らく次の放浪の先になるであろう方角を見やった。
『次の壁は避けて通れ』
避けて通れ。
力量に自信があり、多少の困難は弟子に任せ切りにする守護神の言とは思われない。
少年が咳いた。口から土気混じりの汚水を吐いた。
「畔の水か何かを飲んだのだろうか?」
村長が首を傾げる。
「吐いた物で喉を詰まらせるといけません」
ミクマリは少年を抱きかかえ、横を向かせる。
まだ大人に成り切っていない邪気ない表情。この年端ならば、漸く仕事場では大人扱い、両親の前では子供に還る、そんな頃合いだ。
――「そうやって俺を騙して扱き使って来た癖に!」……。
子供を窃盗に向かわせ、生を諦めさせる程の体験。
目的は知れぬが、呪術を仕込むなんて。
「その子、もう悪さしませんかね? 親や兄弟は居ないのでしょうか?」
村長が覗き込む。不安げな瞳。
集落の人々は、一部始終を目撃していたというのに、気を失った少年へ心配を投げる者は現れない。
品の交換に現れていた住人に至っては厳しい視線を送っている。
『この童男を看病するのは止めんが、ここでは止した方が良いだろうな。この者はここではもう盗人として見られておるぞ』
「村長さん。お願いがあります」
「何でしょう?」
「この子を村に連れて行きたいのです。彼はもう、ここでは暮らせません」
「でも……」
「悪事を行う様でしたら、私が責任を取りますから!」
ミクマリは青年の顔に迫った。真剣な視線。村長は勢いに負けて思案する暇も無く顎を上下させる。
『また厄介事を抱え込みおって。言っておくが、呪術師だの水神だのに手を出そうという考えは捨てるのだぞ。今のお前ではまず太刀打ち出来まい。蟲であるならば一派全てが仲間であろう。実力は知らぬが、心構えの問題だ。敵対すれば泯滅せしめるしか戦いを終わらせる法はない』
ミクマリは少年を背負った。
――見かけ以上に軽い身体。背丈は自分寄り僅かに低い位だ。私なんて、もっと太れと言われるのに……。
「私が巫力を磨いても、敵わぬ相手でしょうか?」
ミクマリは守護霊に訊ねた。焦点は彼方に結ばれたままである。
『子供が死んだ訳でもないのに、仇討ちにでも乗り出す気か?』
「そう言う訳では。何時か対峙する里の仇の事もありますから、巫力の磨きを怠りたくないだけです」
『殊勝な心掛けだな。だが、殺さず懲らしめようと思ってるのだろう?』
ミクマリは返事をしなかった。
『水神にも様々な格があるが、蟲を従え蟲に祀られる神が半端なものではないのは確かだ。それも、先程の術の性質からして悪性の気が強い。……そうだな、仮にお前が大地に広く分布する古ノ大御神を神和事が出来れば勝機はあるやも知れん』
胎が疼く。
ミクマリは唇を噛み、少年を背負い歩きながら沈黙する。
『言っておくが、お前が水術師を修行がてらに懲らしめるのは止めんが、手助けはせんぞ』
「分かっています」
――でも、彼等は“間違っている”。
『本当に分かっておるのか? 顔が既に戦いに赴いておる様に見えるが。何度でも言うぞ、今のお前では返り討ちに遭う』
――矢張り、ゲキ様は知らないのだ。私の身体に神代としての御印が浮んだという事を。
ミクマリは暫し思案し、守護神を見上げると口を開いた。
「ゲキ様。今晩、御話があります。見て頂きたいものがあるのです」
******